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そしてまた月は満ちる  作者: 春日野霞
十二 讃歌
78/89

分身

2021.03.17 投稿

 地平線に、地獄のような色が染みている。

 光の腕が、深い夜を西の彼方へおしやる。空は驚くほど滑らかに色を変えていく。赤が青に流れるまでの、あわいの黄色。これだけの色がひと時に同居していながら、頭が痛くなるような不調和は起こらない。膝を抱えた彼女の背後、ひび割れた大地に長い影がのびる。

初めて見る朝に、ハマは息を吐き零す。

 一日の始まりがこれほど鮮烈なのは、天地が変わり果ててしまったからなのだろうか。

 鋭い風に、膝を擦る。肩も脚も剥き出た服のままなのに、少しも寒くなかった。奇妙を飲み下せず、寒いフリをしてなんとなく安心する。

 痛みも同じだ。乾いた大地を踏んでも、床の上を歩いているのと相違ない。怖くなって足の裏を確認しても、傷跡ひとつないのだ。

 いやらしいほど清澄な朝を吸い込み、腹の底から吐き出す。

 跡形も無くなってしまった昨日までの日々。同じものを浴びたからなのか、身体中に巣食った穢れも消えていた。一晩中呆気にとられる内、むしろこれまでの世界が夢だったのではないかと思えるようになってきた。本当の現実は、まるで自分のように何もないもので、そこからやってきた自分はだからこそ空っぽだったのだ。

 昔のことを忘れようと努め、ぼんやり夜を越えたら朝が来た。

 明瞭になっていく視界に、膨らんだ腹の存在を知る。

「なに、これ……」

 立ち上がった瞬間、彼女は思い知る。

 わざとらしく驚いた自分が、誰に見られているわけでもないのに恥ずかしくなる。

 これまでの日々が現実でないというのは、逃げ。

 しかし、だから何なのだろう。ハマは爪先に目を落とす。

 この世界をどうにかできるわけでもないのに。逃げるも立ち向かうもない。

 溜息をついたとき、周囲の沖がざわりと歪む。同時に、騒がしい声が風の隙間に触れた。何かと思い西を見ると、何人もの人影がこちらに向かって走ってくる。

 ハマは反射的に逃げだした。しかし彼女の弱い脚はあっという間に追いつかれ、姦しい一団に捕まる。

「母神様!」

「ここにいなさったか!」

「肉を交代なさるとはお聞きしていたが、これは一体」

「私たちにできることは」

 女たちに囲まれて、ハマは耳を塞ぐ。小さくなって「ごめんなさい」と繰り返していると「あれ、母神様じゃない」と一人が気づく。

「百合や、ついにおぬし狂うたか」

「よく見てみなされや」

 女たちは一斉に黙る。ハマは恐る恐る、顔を上げた。

「あれま」

「ほんとや」

「母神様ではない」

「しかしあまりに似ておったな」

「どういうことじゃ」

「おぬし、なんという者か」

「尋ねるなら先に名乗る必要があろうぞ」

 一番年長らしい女が進み出る。

「私共は至と申します。西は槻白、明鳴神社の地下におりまして、母神様のお世話をしておりまする」

 地下にいる、ということは、自分と同じような境遇だったのだろうか。彼女は心臓の前で拳を固く握り、小さな声で名乗る。

「名を聞いているのではない。おぬしは、人なのか、神なのか」

「見たとこ妙なものを抱えておる」

「人ではないな」

 化物。そんなことは誰より自分が分かっている。

 しかしそれを口にするのが、辛かった。

 何度も口を開きかけては目に涙を溜める彼女に、至たちの方が狼狽え始める。

「悪かったの」

「何も泣かせようと思ったのではないのや」

「いじめとるのではないぞよ」

 ハマは首を横に振る。至たちがしんと黙ったところに「……ごめんなさい」と呟く。

「謝るのは我らの方じゃ」

「聞かずともなんとなく分かっとるのに」

「おぬし、母神様の分身で間違いないな」

 彼女は、おずおずと頷いた。

「となれば、おぬしもこれを戻せるのか?」

 ハマは、激しく首を横に振る。

「自分の力に気づいとらんのか」

「ありません……そんなの」

「そんな腹を抱えとって何をいうか」

「……言わないで」

 彼女は顔を覆う。

 至たちはそろって身を屈める。

「また泣かせてしもた」

「か弱い分身様じゃ」

「くれぐれも気を付けんとな」

「しかしご自身の力に気づいておられんとなれば、それは一大事ですぞ」

「母神様に何があったかも、知らんのかえ」

 ハマは顔を覆った手を下ろし、首を横に振る。

「……今、どうなっているのかも……分かりません」

「それすらも、か」

「しっ。また泣かれてしまうぞ」

「今は死の世界も生の世界も、その間の世界もすべてここに集まってきておる」

「普段は分かれてるものがひとつになっとる」

「それを母神様がお見過ごしになるとは思われん」

「それで聞きに行こうとしたら、おぬしやったということだ」

「そうだ、探しに行かねば」

「どこにおるか分かるか、百合」

「……ああ、北の果てにいらっしゃいます」

「よし行こう」

「しかしまだ話は終わっておらんし」

「半分だけ行こう」

「とても、遠いところにおられる」

「それじゃ菖蒲はそっちじゃ」

「伝家の宝刀の出番やぞ」

「これだけあれば助走も軽い」

「ひなには、瞬間移動を発揮する前に札を使われたでの」

「汚名返上してきますわい」

 話が早すぎて、ついていけない。ハマが目を回している内に、至たちの半分が走り去っていく。地平線に見えなくなる前に、全員が姿を消した。

「ひーっ、上手くやったな」

「菖蒲、相当悔しがっとったものな」

「おいおしゃべりしてる暇はなかろ」

「そうじゃ」

「ハマは、何も知らないのだな」

 彼女は素直に頷く「教えてください」

「母神様は我らに恵を与えてくださる。生の世界を上とし、死の世界を底とし、そのあわいの世が間にあるのは、恵を与えるためのつくりなのじゃ。母神様がおられるからこそ、大地がこのように形作られる」

「水の巡り、季節の巡りも同様」

「それらが全て止まってしまっておる。母神様はいらっしゃるのに」

「母神様は力を振るわずとも、おられるだけで世界がそのように巡るはずなのに」

「おかしな話じゃろ」

 彼女は、ゆっくり頷きながらたった今聞いたことを反芻する。母神……地底の母は、存在だけで世界の上と下をつくり、流れをつくり、恵を与えている。水や季節さえ、母神の恩恵。存在するだけでそれらを与えることができるのに、止まってしまっているのは妙だ。

 この解釈で正解なのか。不安になるが、尋ねる間もなく至たちは続ける。

「しかしこのたび、死の世界も生の世界もごちゃまぜになり、死者も生者も今この地上に混ざってしまったのじゃ」

「死者は海へ向かっとる」

「海は今、死だけの世界になっておる」

「生者は行き場がなく、彷徨っておる」

「ほとんど死んだような状態なのじゃ」

「荒野に放られて、何も考えられん」

「突然こんな風になったのだから、当たり前じゃの」

「おかしくなって、死者と共に海を目指す者もおる」

「皆困っておるのじゃ」

「その中で自由に動けるのは、分身様おひとり」

「母神様ほどじゃなかろうが、この世の構造を取り戻せるお力もあろう」

「ハマが願えば天地が戻るはずじゃ」

「いいや。願うだけでは足りん。そのように力を振るわねば」

「しかし、力の振るい方が分からねば」

 ハマを置き去りに言い合っていると、去ったばかりの至たちが戻ってくる。

「大変!」

「えらいことやった!」

「落ち着け、何があったのじゃ」

 十数人の顔は、皆一様に張りつめていた。

「穢れに捕らわれておりますのや!」

「地下におったときよりひどい」

「私たちの声にも答えてくださらない」

「穢れの中心に男がおりまして」

「そいつが厄介じゃ」

「母神様は殺せ殺せと言われ続け、為す術なくぐったりされておりまする」

「なんと。退治したか」

「あんなの、無理です」

「分身様がおらねばと、すぐに帰ってきました」

「いかねば」

「分身様のお子を差出せば、どうにかなるかもしれん」

「……これが、何の役に立つんですか」

「ただのお子ではなかろう。新たな一族をたてるほどの力を持ったお子じゃ」

「そりゃ、きちんと産まれた場合の話であろ。こんな天地やったら、直接力のみを送ることもできようぞ」

「お子を殺すというのかえ」

「私の見立てでは、子は入っとらん」

「じゃあ何がおるというのじゃ。化物か?」

「いいや力じゃ。亡者を生き返らすほどのな」

「母神様にお送りすれば、きっとお喜びになる」

「そんなことここで考えずともよい。とにかく行かねば!」

 至の一人がハマの手首を掴み、走り出した。あっという間に捕まえられた彼女らに、ハマの足がついていけるはずがなかった。見かねた至が彼女を抱え上げ「とぶぞ!」の声に一瞬視界が黒に落ちる。

 ハマは目に飛び込んだものに震えあがった。

 青い空を覆うよう聳え立つ、真っ黒の巨木。あの穢れでできていることは言うまでも無い。曲がりくねった枝の果ては、髪の毛のように垂れ下がっている。それが、風になのかゆらりと揺れ、ハマには手招いているように見えた。

 一番上にある枝の股に座る、白い影。

 あの夜に下りてきた、地底の母だった。

 その横に立つ、黒い男。彼の内に充満した沖は、この世界を象徴するように歪んでいた。接触がなくとも、存在への恐怖に泣き出したくなる。

「大丈夫かえ」

 問われると、なぜか首を縦に振ってしまう。ハマはそっと下ろされたが、両足は震えていた。

「母神様!」

 年長の至が大声で呼ばう。

「いかがなされた!」

 しばし間があり、「ごめんなさい」という小さな声が届く。初めて母神を目にした至たちは顔を見合わせる。

「あのようなお気遣いをなさるのか」

「それに、まるで母神様ではない者のようじゃ」

「おかしい」

「母神様!何があったのか、我らに話してくださいませ!」

 至たちが口々に母へ声をかけた。余韻が去った後、風に吹き飛ばされそうな声が返る。

「わたしには、殺せないから……子供を、殺せない。ここじゃ、死にきれない生たちを、救ってあげることも、できない」

「だから、まずは世の仕組みを元にお戻しください」

「……できない」

「母神様」

「わたし、そんなんじゃない……もう帰って……」

「いかんな」

 年長の至が腕を組む。

「交代したばかりというのが祟っとる。世がこんなになってしまったのは、自分のせいだと勘違いされておるのではなかろうかの」

「それゆえじゃ。母神様は、己が神というのを忘れておるのや」

「加えてあの男に穢れの存在。かつての母神様が弱った理由と同じじゃ」

「さ、分身様。お子の力をぶつけるのじゃ」

「黒い木に注げばよい」

「さすれば穢れは生に帰し、母神様も神であることを思い出す」

「さ、はやく!」

 ハマは、答えられない。

 子に感覚を忍ばせるほどに、蘇る。子を結ぶための穢れた行為、腹の子が見せる幻影、罪悪に破綻する精神。

 しかし至たちの声はただ、解を急かす。

「何を、ぼうっとしておるのや!答えよ!」

「……分からない」

「そんなことを、言うておる場合かえ!」

「おぬししかおらんと言うておろ!」

「本当に、分からないの」

 静かな声に、至たちはしんと黙る。ハマは集まる視線の痛みに「ごめんなさい」と俯く。

「折角分身がおるというのに」

「何の役にも立たんのか」

「すぐ泣くしの」

「頼るべきものを間違えたのじゃ」

「何も分身である必要はない」

「時間もない。次を探そう」

 至たちは、風のように駆け去っていく。

 ハマには、それを見送ることもできなかった。

 身体が、芯からぐらぐら震えていた。膝だけはつくまいとなんとか堪え、両腕をかき抱く。

 役に立たない。

 今の自分に特別な力があると、暴かれることによって気づき始めていたのに。足が竦んで何もできなくなってしまう。果てに、無力だった昔と同じ言葉をかけられ、捨てられる。

 ハマは、禍々しい大樹を見上げる。顔まで見えないのに、彼女が自分を見ていることが分かった。至たちがいた時とは違う、透明な眼差し。弱々しさも、強さもない。まるで薄い闇のような存在に、ハマは彼女の側にいたくなる。

 足が、思わず近づく。

「くるな」

 降った声に、見ないようにしていた男を視界に映してしまう。

「それとも、我らになるか」

 ザアッ、枝垂れが唸る。

 つい昨日まで、自分の一部だったもの。全く同じ沖に、懐かしささえ感じる。あれがもう、自分にはなくなってしまった。

 もう一歩を、踏み出す。

 私は、役に立たなく、ない。

「きれい、だもの」

 今は滑らかな腕に、穢れを探して何度も引っ掻く。

「きれい、なのが。ない。きれいなのに。きれいきれいきれい」

 地底の母と繋がり、痛みの果てにきれいになる。ワタドを救うだけでない。自分がきれいになるために、ああして地下で生きていた……。

 がり、と痛みが走る。爪の間が、血で染まる。白い腕に、一本の赤い線。

「きれいなの、ない……」

 ハマは躓きかけながら、大木に駆け寄る。

「分けて、私に……」

 差し伸べた手を、枝が振り払う。勢いに負けて転げ、ハマは頭をおさえる。見上げる枝垂れの切っ先は、残らず自分に向いていた。

 よろよろと立ち上がり、音も無く逃げる。気づけば泣いていた。逃げる内に、胸の荒立ちが静かになっていく。淀んだ瞳は泣くのを止めて、空疎に青を映した。

 何もない、誰もいない、荒野。

 彼女は立ち止まる。

 沖のざわめき。

 無視してしまおうとするが、彼女の足は沖が騒ぐ方へと赴いている。こうなってしまった世界においても異質な、無視のできない沖。新たに得ていた力が、ぞわりと奮い立つ。いつしか、その沖を正さねばならないと勝手な使命感が芽生えている。

しかし沖の像が明確になって、足を止めた。

 見事に陥る、過呼吸。戻ったばかりの空虚が再び奪われる。

 間違いなく、あの二人の沖だ。

 月下に冷たくなった彼の身体。それに乗り移っていた兄。沖が異物と化すのも分かる。近づかなければ分からなかったのは、二人の沖が混同してしまっているからだった。兄は妙な殺され方をしたため、他の死者のよう単に海へ向かうことができないのだ。

 姿が明瞭になっていないうちから、頭を抱える。

 沖を正すこと。それは混同した沖を分かち、彼らに死者だと思い出させること。

 つまりは、二人を殺すこと。

「できない」

 二人の元に行けば、きっと使命の通りに動いてしまう。自分の意志など関係なしに。逃げようと目を瞑って逃げるが、沖がぐんぐん近づいてくる。背を向けても、なぜか近づいてしまうのだった。

 遂に、彼の姿が小さく見える。

ナダが乗り移ったままなのだろう、影は一人分だった。

ハマは立ち止まり、胸を抑える。

もう二度とは会えないのだろうと、諦めた彼が、今そこにいる。

 逸る心を押しとどめた。行けば、死を与えてしまう。

「嫌……」

 その時、腹の中で何かがざわりと動く。

 それが何なのか直感して、彼を見た。

「この力があれば」

 あの夜に諦めた夢を、叶えることができるかもしれない。

 彼女は期待に息を吐き、小さな影へと歩みだした。

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