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そしてまた月は満ちる  作者: 春日野霞
十一 宿願
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あなただけ

2021.03.16 投稿

 気味の悪いほど澄み渡った空に、月天心。地上の色は白光に殺され、いずれも幽鬼のような陰影を帯びる。血海すらも黒に染まり、落ちた月光が下品に笑う。

 ワタドに残る呼吸は、たった二つ。櫓の上、短剣を握り締めた青年が、静かに月を見る娘を見下ろしていた。

 血と雨でずぶ濡れになった全身は、死者のように凍えている。しかしそれすら気にならないほどに、青颯は生気を失っていた。静寂という静寂に、今日一日の内に聞いた声が爆発している。目を開きながら、悪夢を見ているようだった。

「あなた、兄さんなの、青颯なの」

 ハマの声が、真っ直ぐ耳に届く。青颯は一つ、息を吐いた。暴虐の雑音が遠ざかり、横たわった彼女に焦点が合う。

「……どっちでも、好きな方を選んだら」

大きな腹を抱えながら、仰向けに寝ている。もう人ではないことの証左なのだろう。

「そう言うのなら、青颯ね」

 彼女は兄と同じ色の瞳で、彼を見上げる。

「あなたは優しかったころの兄さんに、よく似ていた」

 青颯は満月に冷たく光るその瞳を、憎々し気に見下ろす。

「虚像だ。俺はあんたの兄さんには似てない。優しくした覚えもない」

「あなたらしい、意見ね」

 白い月下に彼女は目を瞑る。

「殺してくれるのがあなたで、良かったわ」

「殺さない」

「無理よ」

 彼女の言う通りだった。

 櫓の頂点に達した瞬間、身体の主導権が戻った。消滅してしまったかのように存在感が無く、声も聞こえない。

 しかし、肝心なところで彼が消えるはずがないのだ。

「……君を殺すとき、俺はナダになってる。だから君は俺じゃなくて兄に殺される」

「そう」

 彼女はそっけない。

「私のお願い、最後も聞いてくれないのね」

「聞いてやりたくもないよ。君のつまんない願いなんて」

 ハマの目が、ゆっくりと開く。

「私がもし、つまんない人じゃなかったら、聞いてくれたの」

「君がつまんない人だって、言ってるんじゃない。君の願いがつまんないって言ってるんだ」

 彼は彼女の喉元を見つめた。白く細い首に、しめられた痕が残っている。

「俺に何か願うんなら、もっと建設的じゃなきゃ叶えてやんない」

「そんな願い、無い」

「ほんとに?」

 次いで、彼の視線は心臓の蠢く胸元に移る。ナダに身体を奪われ始めているのだろう。しかし青颯は焦らなかった。

「兄に仕返ししたいから、死にたかったんでしょ?自分を犠牲にする方法が真っ先に思いつくなんて、君らしいよ。でも、復讐するならもっとやり方があるはずだ。それを一緒に考えてほしいって言うんなら、叶えてやる」

「復讐なんてそんな怖いことしたい、わけじゃない。私はただ……私が惨めで……」

「自分だけ綺麗でいたいわけ?兄の企みに荷担しながら土壇場でやめるなんていうのは、立派な裏切りだ。十分な復讐だよ。ほんとは分かってんでしょ。自分が死ねば、兄は相当悔しがるってことをさ。君ほど慎重な人が、そこを無視して殺せと請いやしない」

 短剣を握り締める手に、力がこもっていく。

「君にも立派に憎悪の心がある。今まで見えていなかっただけだ。同じように隠れてる感情が、ハマの中にはまだたくさんあるはずだよ。それを知らないまんま、死んでいいの?」

 ハマは小さく口を開ける。月光すらも侵入し得ないその暗闇から紡がれる言葉を、青颯はじっと待つ。

「……分からない」

 身体から、力が抜けていくのを感じた。

『残念だけど時間だよ』

 無情の声が、最後の惨劇開始を告げる。

 右手が勝手に、振り上げられていく。抗おうとするが、少しも自由にならなかった。

 見開いていたハマの目蓋は、諦念に力を失いするすると閉じていく。

 青颯は限界まで右手を上げさせられる。脳内に響くナダの声は、沖術の破滅を願っている。鋭利な短剣の切っ先を、ぎんと凍らせる月光。青颯は骸のように真っ白な彼女を見下ろす。

「消え去れ」

 非情な声と共に、彼の右腕は勢いよく振り下ろされた。

 青い夜に黒い血が迸る。

 叫び声をあげたのは、青颯自身だった。

 彼の左手に、高々と短剣が突き立っている。その左手はハマの心臓の上にあった。

「どうして……」

 彼女は顔を強張らせて青颯を見上げた。彼は歯を食いしばって痛みをこらえている。

『余計なこと、しないでくれる』

 痛みに震える右手が、短剣を引き抜く。彼は痛みに声を上げた。

 再び振り下ろされた短剣も、彼の左手が代わりに受ける。骨ばった手は血まみれになり、ぶるぶると痙攣している。彼は朦朧とした眼で荒く息を吐き、それを再び引き抜こうとする右手を床に叩きつけた。何度も何度も、操られては抵抗をする。

「もう……やめてよ。私を、殺して」

 彼は焦点の合わない眼で彼女を睨みつけ、小さく首を横に振った。

『いい加減にしろよ』

 初めて、彼の怒声を聞く。右手が素早く動いて柄を取り、三度目の正直を振り下ろす。

 しかし此度刃が貫いたのは、彼の細い手頸だった。

「青颯」

 ハマはぽつりと、彼の名を呼ぶ。

『死にたいのか』

 青颯に抵抗する力は残されていなかった。震える右手は柄を握ろうとするが、血で滑って取り損なう。混濁した青颯の意識の中で、ナダが舌打ちをする。右手が乱暴に短剣を掴み、彼の左手首を切り落とした。

 青颯は咽を引き絞って悲鳴を上げる。

『黙って従え』

 しかし操られる身体の方が、既に限界を超えていた。

 青颯は短剣を取り落とし、櫓の上にどっと倒れる。消えそうな意識の中、ナダが口を乗っ取ったのを感じる。

「ハマ……」

 ほとんど動かない唇が、くぐもった声を発する。

「沖術の破滅を、口に出して願え。そして、短剣を、心臓に、突き刺すんだ」

 彼女は、白く光る短剣を見下ろした。

「はやく」

 地獄の底から響くような声に、彼を見る。その瞳は、自分を射殺さんばかりに睨んでいた。ハマは恐怖に硬直し、同時にそれが青颯の言葉なのだと知る。

「ごめんなさい」

 彼女は短剣でなく、青颯の右手に触れる。

「私たちのせいで、こんな目に遭って。ほんとうにごめんなさい」

 ハマは短剣を手に取る。彼は睨む力も消えてしまったのか、目を半ば閉じていた。

「これで、あなたを生き返らせたい。きっとあなたは怒るけど、私は、私の感情に報いて、そうするから……許して」

 ハマは両手で短剣を持つ。柄にまとわりついた血は、まだ温かい。

 切っ先を己の胸に向け、静かに唱えた。

「青颯を生き返らせてください」

「本当に、いいの」

 月光の声。ハマはそう直感し、顔を上げる。

 白い衣を纏った女が、月を背後に立っていた。

 瞠目した彼女の手から、短剣が滑り落ちる。彼女が何なのか、ハマには分かっていた。

 腹の底で繋がり続けていた、地底の母。

「なぜ、あなたが、ここに……」

「生き返らせるの、彼だけでいいの」

 彼女の問いには答えず、みちは繰り返す。

 地上に降り立った瞬間、何に呼ばれたのかにわかに諒解していた。

 突然日常を奪われた彼らの悲憤と、その中心にいる、己の分身的存在。それらの発する声なき救助信号が、自分を強く引っ張ったのだ。

 いかにも分身らしい彼女は、弱々しくうなだれる。

「ごめんなさい……皆も、死んでしまったのに……」

「咎めているのでは、無いの。生き返らせるなら、あなたにはこちらに来てもらわなきゃならない。命をかけてまで、助けたい人は彼だけでいいのか、確かめているの」

 表情の無い顔に、かえって慈悲が満ちている。

「あなたとわたしは、深く繋がっている。今日ここで死んだ、彼以外の皆は、あなたのことを嫌っていたこと、知っているわ」

 ハマは、耐え切れずに目を逸らした。

「……私を、助けてくれようとしたの、青颯だけだった」

 しずしずと溜まる涙に、顔を覆う。

「それなのに、ひどいことをしてしまった……。青颯の、本当に大切な人だって死んでしまった。よろしくね、って、言われたのに。あんなに嬉しそうな顔、私されたことなかった……」

 青颯が高熱に倒れ、凌光が術のための鳥を持ってきた、あの時。本当は、彼女と話をしていた。

「彼が庇ってくれてたって、気づいた……兄さんとの子だなんてバレたらきっと大変だからって、自分との子だってことにしてくれてたの……こんな私との子だなんて、彼に、言わせてしまっていた!」

 彼女は懺悔に身を屈める。大粒の涙が、指の隙間から滲んで零れた。

「ごめんなさい……私なんか、殺せばよかったのに……」

 涙を握って、石のような彼の手を包み込む。じっと目を瞑って暫く息を止め、解き放つと同時に短剣を掴んだ。

 華奢な脚で立ち上がった彼女の瞳は、静かな決意で母を見据える。

「本当に、死んでいてほしくないのは、青颯だけ……です」

 みちは頷く。

「痛みは、一瞬よ。こちらも、悪くないわ」

 ハマは再び、短剣を構える。柄の血は既に冷たくなっていた。月光を湛えた切っ先に身震いし、彼の声を思い出す。

 鋭いようで、優しい声。最後の問いかけに、なぜきちんと答えられなかったのだろう。

「もっと、色んなものが、ほんとは見たい…………あなたと一緒なら、もっといい」

 新たな涙が、頬を伝っていた。

「あなたと、一緒なら……」

 口を吐いた本音を、改めて繰り返す。温かな雫が、次から次へと追いかける。

 これに気づけただけでも、幸せだろう。そう言い聞かせ、ハマは切っ先を凝視する。

彼女が腕に力を込めた、その時だった。

コォォォォォロォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェコォォォォォォォロォォォォォォセェェェェェェ

 ハマは短剣を取り落とし、耳を塞ぐ。内臓を抉られるような声は、それぐらいで消えてはくれない。音の淵源を辿り、闇に覆われた空を見上げる。

 真っ白な月から、黒い雨が降ってくる。ハマは尖った水に打たれながら、その次に至るものを目にして恐怖に引き攣る。

 自らの身体に巣食った穢れと同じものが、地上に降ろうとしていた。

 母に救いを求めようとしたその時には、彼女は中空に飛翔している。

 しかし、結果は変わらなかった。

 月の霜に凍てついていたはずの地上は、たちまち死でも生でもないものに覆われる。

生の世界は、有様を変じていく。大きな地鳴りと共に山が食われ、川が涸れ、ありとあらゆる緑が絶える。生者と死者の境が塗り込められ、命は苦しみさえも覚えず透けていく。死にきれない生たちの悍ましい勝鬨が響き渡り、連綿と紡がれてきた生命の常識は残らず圧伏された。

 激しい鳴動の果てにもたらされたのは、真っ平の荒野と、生命の注がぬ死の海。

 ハマは、月下に茫然と立ち尽くす。

「どうしたら、いいの」

 夢か。こめかみを小突くが、鋭い痛みが無情に走る。

「教えて……誰か」

 素月の下、寒風が吹きすさぶ。身を切るような音は洞窟の中のようにどこまでも尾を引く。

 風の行方を目で追いかける彼女の瞳は、慣れ切った絶望に淀んでいた。

次回から最終章に入ります

あと10話ほどで完結になります

ぜひ最後まで、お付き合いくださいませ

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