海
2021.03.15 投稿
恒暗が目指す先、塔の上まで躍り出た神は、腕を真っ直ぐに突き上げた。未だ黒い雲の下、拳を爪が食い込むほど強く握る。
空をぎゅうぎゅうに埋め尽くした雲が、低く咽を鳴らす。四方八方から、彼女を目指し雲が集まっていく。塔の真上で雲が衝突し、凝縮し、穴と見紛うほどの黒さを呈す。
寄せた波は、返る。マキは五指で空を弾くように手を広げた。闇の一点が爆発するように、朝から垂れこめていた雲が空の彼方へ退いた。
雨で塵の払われた、雲一つない空。マキは風に髪をはためかせ、西の空を目に映す。決して欠けることない真円が、血の凝る水平へと降りて行く。鉛色に凍てついた海に、太陽の残滓で道ができる。力なき冬至の日輪が、赤黒さへの水没を恨むような様に、マキは鼻を鳴す。
夜の迫る東から、清澄な音を聞く。彼女はゆっくりと、風の吹く方を見た。
そこには、思い描いた通りの黄金がある。
海が脈打つように、さざめく。マキは胸に手をあてた。大波のように、全身に寄せる光。金の姿が露わになるにつれ、細胞の一つ一つが金の粒をとらえていくような。彼女の身体は空に透け、両目の淵色は金に塗り替えられる。やがて、彼女の輪郭が鮮烈な光を纏った。
無欠の月が、そっと水平線を離れる。
瞬間、彼女の衣の下が輝きを放った。彼女は静かな瞳で正体を知る。首から下げた袋を丁寧に引き出し、手の平に小さな玉を転がした。
たった一粒の真珠が、満月のような光を放っていた。
マキは水中に沈んでいくように、ゆっくりと降下する。破壊した塔の縁に、そっと降り立った。
「ご苦労であった」
凰燈は、目を細めて彼女を見上げる。
「間もなく、月光が海へ道を落とす。それを辿れば、難なく月へ着く」
マキは力の満ちた真珠を、宙に転がす。玉は迷わず、寝台の代わりに露わになった穴の上で浮いた。
「新たな、生命の玉だ。渡しておけ」
「ぬしが渡せばよかろ」
彼女は答えず、ふわりと塔を離れる。
「どこへ行く」
「母に、自由になれと命じられた」
そうか、と彼はあっさり頷く。
西の果て、太陽が没したのを見届ける。マキは宙に倒れ込むように、消えていった。
「月の神である時点で、真の自由など得られまいがな」
凰燈はいなくなった彼女に呟き、穴に琥珀の目を注ぐ。
瞳孔のように真黒い穴が、月白に解けていく。凰燈は跪き、頭を下げる。薄い金属がこすれるような音と共に、まずはゆすらが顔を出す。
「あら」
宙に浮いた、白い光を見上げ微笑む。
「嬉しい。私のね」
答えるように、真珠が弾む。真っ直ぐゆすらのもとへ降り、彼女の眉間にゆっくりと吸い込まれていった。
「さ、いらっしゃるぞ」
彼女が凰燈の横で膝を突いたとき、幽寂の光をまとったみちが、姿を露わにする。
絨毯に足をついた瞬間、彼女は身を二つに曲げる。
「母様」
凰燈が慌てて駆け寄る。
「ここの空気は、母様にとっては毒なのよ」
ゆすらは、ひとつ手を叩く。穴の上に、あの寝台が現れた。苦し気に胸をおさえたみちの手をとり、彼女は共に寝台に腰掛ける。
首を締められたような苦しみから徐々に解放され、みちは息を吐く。嬉しそうな四つの眼玉を交互に見て、ひとつ頭を下げる。
「これまでの働き、感謝する」
「母様も、よう耐えられました」
「多難でございましたが、ご無事で何よりです」
みちの中で、乙女だった者たちが歓喜する。月へ行けば、これまでのように苦しみながら生きることもない。
「ようやく母様が解き放たれ、嬉しゅうございます」
くるよ
くる
はっきりとした声に、みちは顔を上げる。
くる
くる くる
くる
くる
くる
くる
くる くる
くる
くるくるくる
くるくる
くるくるくるくるくる
くるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくる
くるくるくるくるくるくる来る
来る!
強い力に抱えられ、激しく風を切る。気づけばゆすらに抱えられ、日没後の中空。
「なに」
「死にきれない生です」
黄昏に、天高く突き上がる黒き蛇。
顔に当たる場所、見覚えのある顔にみちは身を乗り出す。
「恒暗」
気づけば口が呟いていた。
「名を呼んではなりませぬ!」
時すでに遅し。死にきれない生の集合体は、身をくねらせ殺到する。
ゆすらは寒空を切り逃げる。凰燈が頭を狙い術を放つ。過たず命中し、数千の人間の断末魔が月夜を引き裂いた。
とても、耐えられるものではなかった。みちは手の平を耳に押し付ける。それでも、音は容易に消えない。それは決して一塊の悲鳴ではなかった。一つ一つの声が異なる言葉を持ち、苦しみをみちに伝える。
母はそれを無視できないようにできていた。
構わず再び攻撃を向けようとする凰燈に、離れた場所から「やめて」と命じる。彼は大人しく、腕を下ろした。
「しかし」
死にきれない生は、未だに穴から溢れ出る。
「はやく、助けてあげなきゃ」
「母様」
凰燈の声が耳に届く。
「間もなく、月の道が現れます。逃せば再び地下へ赴く破目となりますぞ」
低い月に、海はまだ答えていない。
「くれぐれもご注意を」
「母様。あれに食われれば終いです」
「ごめんなさい。わたし、あの人たちを助ける方法が、分からない」
「ここが地上だからです。月へ行けばいくらでも救いようがありましょう。今はご自身のことを!」
鋭く切る風の合間に、海鳴りが触れる。
それだけで、大きな一つの生命。初めて海を見たときの恐怖を思い出す。
今はもう、愛しい生命として目に映る。
「海に、逃げましょう」
「わかりました」
方向を転換し、真下に突っ込む。既に夜を湛えた海の中、みちは青い光を見た。
「みち」
懐かしい、囁き。
「晴瀬」
名を呼んだその時、彼女は橋の前に立っていた。
もうそこは、海の中ではなかった。橋の下では、砂のような星々が光っている。
いつかもここに、来たことがある。
あの時、橋を造りながら渡った。愛しい人を期待した先、待っていたのは苦痛を受けた竜宮の主。
手癖で走る怯えを、溜息にして吐き出す。いかなる宝石も及ばぬ橋を、みちは渡った。
天の川の周りで瞬く星々は、夥しい数の物語を越えてきた男女を見守る。音も無く歩み寄る二人は、橋の真ん中で立ち止まる。
「やっと、会えた」
感極まるでもなく、晴瀬は静かに笑った。
「前と、変わっちまったみたいだけどな」
みちは彼の白い目を見上げる。それが恒暗の目だということが、すぐに分かった。周りに広がった傷跡に、胸が切なく痛む。
自ずと、手が伸びる。驚く晴瀬を無視して、優しく撫でた。
びり、と一瞬指が痺れる。片腕の無い子を産ませる呪いと、同じものがつけた傷。仄かに煙る怒りは無視して、その奥にある傷に耳を澄ませる。噛みつかれた痕が、死に際に残した言葉が万物の母に流れ込む。
「……わたしと竜宮の主の子供を、焼き尽くしたのは、あなただったのね……」
みちは目を瞑る。たった一匹が、命を振り絞って彼に噛みついた。その時の傷なのだ。
「そして、わたしのお腹から出たのは、蛇じゃなくて、あなただった」
みちはそっと、晴瀬を抱き寄せる。
「わたしが産んだのは、晴瀬だったのね」
蛇の子を産むでもなく、堕ろすでもなく。あの時ゆすらが言ったことは、嘘でなかったのだ。
「よかった……」
「でも……みちが母さんには、見えないよ」
胸から伝わる低い声。
「変わったのは、分かる。地底の母ってやつなんだろ。でも俺には、みちを幸せにできなかった後悔がまだ、残ってるんだ……」
彼女はそっと、彼の胸を離れる。
「今度こそ、お前を幸せにしたい」
みちの瞳から、光が消える。地底へ続く穴のような闇で、彼を映す。ざわめく元乙女たちの声に残らず同意し、母は子を見上げた。
「乙女たちはね、春の里から水底に落とされて、優しい時間をもらう。でもそれは、黄泉へ赴かせるための口実。朙滅する記憶に散々踊らされて、乙女は化物の母になる。恐ろしい呪いのために片腕の子を産まされることでね。強烈だったはずの故郷への愛着さえ忘れて、大人しく地下へくだる。昨日も明日も分からない、深い闇の中で、万物の母の一部として息を続ける。これが、母の養分にされる娘たちの旅路……村人を旱魃から救ってもなお、人々に恵を与え続ける「わたし」に組み込まれる」
てんでばらばらに呟いていた声が、次第に集まっていく。
みちの内部の乙女たちは、晴瀬に問うた。
「そんな私たちの幸せが何か、分かるつもりでいたの」
みちの瞳に、星屑の光が戻る。
「ただ、あなたはわたしの子供。いてくれるだけで、十分よ……」
「俺はそんなの、嫌だ」
晴瀬はきっぱりと、首を横に振る。
「無理かもしれねえ。俺には想像つかねえよ、そんな辛い人生。でも、みちの幸せを、見せてやる。だから、」
言いさして、彼は片目を抑える。晴瀬は、自分の目で川下を睨む。
「来る……」
遠く、恒暗の顔。「殺せ」と光の川を闇の川が覆いつくしていく。
晴瀬の皮が解け、一塊の海となりみちを抱く。橋を飛び降り、星々の上を遡上する。
「前にも、あなたが……天の川から海へ逃がしてくれたことが、あった」
みちは、座り込んだ海をそっと撫でる。
「でもわたしの幸せは、これじゃない。天の川の両岸に隔てられた男女のように、離れていた方が幸せよ、きっと」
振り返ると、黒い蛇は見る間に近づいてくる。このままでは、追いつかれてしまうだろう。
「晴瀬、ありがとう。わたしは、月に行かなければならないの。もう、地底には戻りたくない。だから……」
もぐれ。
海のあぶくが、そう言った。
「潜ればいいの?」
もぐれ。
みちは、星々の光を借りて輝く、小さな海を見下ろす。
「でも」
はやく。
突然、海が止まる。勢い余って、みちは晴瀬の中へと飛び込んだ。
身体がゆっくりと、一回転する。ぎゅっと閉じた目蓋を強い光が真っ赤に染めた。
恐る恐る目を開くと、いつか来た海の中にいた。
海面から顔を出す。天の川は遠く頭上にさんざめき、月は海中に没している。
子を産んだ、目も眩むような痛みの後、佇んでいた死の海。
「やめろ」
晴瀬は海のまま、人型になっていた。左目だけ、あの白い眼球が嵌まっている。それに手を伸ばす恒暗は、腰からしたが蛇のようになっていた。死にきれない生たちが、一斉にみちを見る。
みちは、そっと息を吐く。死の海の上にそっと立ち上がり、恒暗の名を呼ぶ。
「殺してくれ……母さん……」
伸びる手が、矛先を変える。
「まだ、待って。月までいけば、あなたを助けられるはず」
「これだけ待たせておいて、まだ待てというのか!」
彼の声に合わせ、落剝の生が金切り声を上げる。みちは一瞬意識を失い、あえなく死の海へと倒れようとする。受け止めようと手を伸ばした恒暗よりも、晴瀬の方が速かった。彼はそのまま、絶息の海を月へ向かって突き進む。
「待て!」
黒い蛇は、一瞬で生の海に肉薄する。前だけ見る彼に、その手を振り払うことはできなかった。恒暗が他者のものとなった己の眼球を掴んだ瞬間、晴瀬は死にきれない生に満たされてしまう。それでもなお、変わらず海を目指す。ただ、みちを害そうとする黒を残らず身の内から弾き出すために、速度が落ちる。
「母さん」
生の海を通して、腕が伸びてくる。
「ごめんなさい。まだ、救えないの。月まで、待って!」
聞き分けの無い子供ように、恒暗は首を振る。みちがその手を跳ねのけると、彼は簡単に腕を引く。ただ片目でじっとりと、母を睨む。
見かねた恒暗の「尾」が、二人の前に回り込む。白骨のような光に満たされた海を叩き、分解した刹那、みちへと殺到した。
鋭い刺の襲来に怯えた彼女を、生の海が守る。死の海に躍り込んで、鮪のような速さで泳いでいく。死にきれない生たちが、小魚のようにそれを追った。
水晶のような泡がいくつも踊る先、万物の母の瞳は月の眩さを直視する。海中に没した月の半身に、黒い影。
それは地上で見上げる月の顔とは異なっていた。
近づくほどに明瞭になる、影の模様。濃い黒と薄い黒の間、幾条もの筋が光っている。加えて、二十八か所の光の点が見える。胸にわだかまる懐かしさ。それは、かつて自分が息をした場所であり、恵を与え続けた場所であった。
「故郷……」
声に出したその時、みちの身体が晴瀬を離れた。月が、どうしようもなく彼女を引っ張る。
人々の住まう、地上に呼ばれている。彼女はそう直感する。また地下へ戻れと言うのか。母が苦しみを脱出しようなどということが、そもそも許されぬのか。せっかく果たされようとする宿願があっという間に転落する未来を描いても、みちは動揺しなかった。
「嫌、だけど」
真夏の太陽をも凌ぐ月影に呼応するよう、みちの身体が白く光る。
「人間たちの祈りには、逆らえないもの」




