母
2021.03.14 投稿
二人の目指す先、みちは白い身体で佇んでいる。
辿り着いた先にいたのは、醜い姿の女神だった。
横たわった女は、真黒い炭のようなもので覆われていた。木の肌のように亀裂が走り、その隙間からは人型の枯枝のようなものが噴き出している。あついくるしいつめたいいたいと、小さな人型がさざめく。女神の髪は真黒い大地にへばりつき、呪いの根を伸ばすように広がっている。みちはそれに触れた。
悍ましさを目の前に、みちの瞳には涙が溢れていた。
それは正に、自分だったのだ。
押し殺した言葉。
差し出した肉体。
生き殺した人生。
多数の幸福のために潰されたものたちが、ここに結集している。
これは報われないのか。
圧し潰されたらそれで終わりなのか。
女神の姿を見て、彼女の死した生命は音を立てる。
自分の嗚咽が耳の中でこだましている。熱いものが頬を滑っている。ありもしない心臓が高鳴っている。
地の底で地獄が渦を巻いている。その中心がここだった。それに飲み込まれることを恐れ人々は、地獄が満足するよう犠牲を放り込んでいく。しかしそれこそが、地獄を一層恐ろしいものにしているとも知らずに。
みちの涙は止まらない。それは女神を憐れんでいるようでありながら、自己を憐憫しているのが正体だった。
これまでくぐってきた物語が、身の内に反芻される。灼熱の地獄から落ちたときの、闇の冷たさ。麗らかな桜の里で出会った光も、邪悪な太陽と錯覚した。美しい水底の郷も、そんなものは虚像だと逃げ出した。残ったのは腹の中の子供。それを産み落としたような気もする。去来する過去の女たちの記憶。命を奪い、奪われた、悲劇。喜びはどこにある?苦渋をすすりながらも語り継がれた彼女たちの命運を背負わされ、耐えきれなかった自分は結局真っ二つに折れた。何からも逃げる自分を置き去りに、でくの坊のように落ちに落ちるしかなかった。
こんなにも悍ましいものに同情を抱くのは、その罰なのだろうか。
涙が、ぱらぱらと女神に落ちる。口らしき場所に吸い込まれたとき、顔が僅かに動いた。
罰なんかじゃ、なイわ。
一つになった見知らぬ神の、聲。
ねえ、母様。
答えるように、黒にまみれた唇が動いた。
あなタは、母様。母様は、あなタ。
最後の涙が、光って落ちる。
「はい」
みちは目を瞑る。
ちりちり、自分が千切れていく。雪のように輝く小さな欠片は、渦を巻いている、女神の腹へ。暗闇に明滅するのは、子産みの苦しみと光。それは言葉だった。同じであると、女神が自分に告げているのだ。
死の底の女神になり、わたしはとうとうわたしでないものになる。
自分なんて、最初からどこにもなかった。
母から生まれたわたしはとっくに死んでいた。
だからこうして母に還るのか。
最後に残った瞳が、ばらけ始める。今さら、もう戻れはしない地上の光を思い出す。目から入り、身体の中までも透明に照らすあの光。
太陽。
思い出は強引に奪われ、一変した身体感覚にみちは絶叫した。しかしそれが声に結ばることはない。がんじがらめにされ、水の底に沈められるような。苦しみを発散することもできず、またそれが終わることも無い。
鉄塊の内部のような、絶息の世界。春夏秋冬の底にある、神々の住まいの底にある、全てのものが行き着く場所の底にある、冥土。
永遠の幽寂。誰も立ち入れぬその場所に、遠くから火の光が近付いてくる。
は、は、は、という息と、二人分の確かな足音。
やがてその狭い狭い場所に、小さな灯りが満ちた。
「お母さん」
幼い子供の声。
闇に塗り込められた視界が、小さな光を見出す。それがかえってみちの首を締めた。ひとたび希望を思い出せば、手に入れずにはいられなくなる。
「はやく、たすけてあげて」
刹那、腹の底を震わせる、海鳴り。
満ち来れば引き行く、潮の音。
身体の奥にまで入り込んだ生の落剝が、波の腕に抱かれて去る。不当な刻苦が取り払われていき、水面に顔を出す瞬間の浮遊感に両目が開く。
突かれるように、空気が咽に襲来する。気道が貼りつくように乾き、涙が滲む。返す息に、声が混ざり、新たな地底の母は泣き声をあげた。
露わになった白い肉で、ゆっくりと身を起こす。みちはぼんやりと、頭で鳴り続ける声を聞く。これまで母の元に遣わされてきた、元乙女たちのものだとすぐに分かった。
そっと、こめかみをおさえる。うるさいが、心地よい。
「母様」
ふわりと被された衣が、身体に吸い付く。わずかに薄紅を含んだ、白い衣。
「肉が無事交代されましたこと、嬉しく思います」
嬉しそうに笑うのは、ゆすらだった。見た目こそは彼女のものだったが、おそらく前の彼女とは別のものだろう。特段不思議とも思わず、みちは「ありがとう」と俯く。
「お声に従い、母様を月へとお送りいたします」
手を取られるまま、立ち上がる。
「魁の神よ、仕度を」
呼びかけられた者を見て、みちは彼女の名を呟く。
マキはというと、あらぬ方向を凝視していた。
地底を埋め尽くした、死にきれない生。ぶるぶると、いくつかの粒が塊が震えて一つになる。二人が彼女と同じ方を向いた時、それはマキの耳に飛び込んだ。
鋭い痛みに、マキは右耳を抑える。虫に刺されたような痛みが広がる最中、鼓膜に貼りつけられる声に眉を解く。
「私私私。あなたの母。許して。あなたの母なの。ごめんなさい。ずっと言いたかった。ごめんなさい」
記憶に眠ったそれと、そっくり同じ声。
「かわいかった。ほんとは。でも、こわかった。私をゆるして、私を殺して、私を生かして、私に死を与えて。ごめんなさいごめんなさい」
「勝手な、奴だ」
彼女は片頬を歪める。
母は、自らの行いを心の底から悔やみながら死んだのかもしれない。自我すら纏う強烈な後悔が、死にきれない生となってここへ落ちたのだ。
「お前のような奴には、このような報いが似合いだ。自分で産んだ者を、徹底的に破壊する。無様な矛盾を犯した結果だ」
「信じて。かわいかった。だから分からなくなった。にくかった。姉さんのようにすきだった。だから分からなくなった。こわかった。にくくなった。行ってしまった姉さん。家が壊れた。私がちゃんと、姉さんの代わりできなかったから。がんばったけどだめだった。私は逃げた。あんなにしあわせだったのに。姉さんがいなくなっただけで。私じゃだめだった」
マキの顔から、嘲りが消え去る。
「あなたにおなじことをさせた。つらかったのに。くるしかったのに。ごめんなさいごめんなさい」
目を見開き闇を見つめていたが、「馬鹿め」と吐き捨てる。
「わかる。わかってる。わたし弱いの。おかあさんもおとうさんも、姉さんに似せたらよろこんでくれたから。でもちゃんとできなかった。だからあなたがやれたら許されると思った。ごめんなさいごめんなさい」
彼女は、右耳から腕を下ろす。
「……お前は、最低の母親だ」
刃物を首元に突きつける冷たさで、呟く。
「自らの不貞で産んだくせに、殺す決心すらつかず生き殺しにした。私の人生はお前のせいでこんなところに辿り着いたのだ。くだらぬ円環の中に閉じ込められ、惨めたらしく生き延びる定めを植えつけられた。死に値するほどの痛みを何度も味わい、幾人もの命を奪い、神の暴虐のために愛しさというものすら分からない」
気づけば、涙が溢れている。
「なぜ、私を産んだ!」
「ごめんなさい」
その声は、耳の中から聞こえてくるものではなかった。
新たな地底の母の、静かで奥の見えない瞳と向かい合う。
「許して、なんて言わない。ただ、家も、きっと苦しかった。選ぶ道を、間違えて、誰も正せなかった。それをあなたが、全て、背負うことになってしまった」
自分と少しも似ていない、母の姉の顔。
「私たちは、弱かった。あなたは、強かった。ごめんなさい」
マキは一歩、後ずさる。
「なぜ、謝る」
「私たちが、悪かった」
「……お前は悪くない。お前も、犠牲者だ」
気づいてはいた。
だからこそ、憎しみを彼女に向けていた。
弱い者が反抗することはないだろうから。
「私こそ、弱い」
みちは、首を横に振る。見開いた淵色の目から流れる涙をそっと拭ってやり、右耳に手を当てる。ぼろりと手に乗った、小さな人型に息を吹きかけた。するとたちまち、黒かった粒が光を纏って、真上に空いたは針の穴ほど穴に溶ける。
「これでもう、あなたは自由」
風の行く先を見送り、みちは神に告げる。
「道さえ拓いてくれれば、月へは自分で行ける。あとは、どこにでも、好きな所へ。いくらでも、好きなことを」
マキは乱暴に頬を擦った。
「何の情だ。私はお前の分身も殺しているのだぞ」
みちは、首を横に振る。
「あなた、私に似てる。助けてあげたい」
足から、力が抜ける。マキは膝を突いた。
なぜ何もかもが、ここに帰結するのだ。
なぜ!
「時間の感覚を、失してはなりませんよ。早くせねば、月が昇る時に間に合いません。さ、道を拓きなされ。あとは私に任せて」
ゆすらに水を向けられ、マキは神を思い出してしまう。紫電と化し、星のような光へ突き進んでいった。
「さ、我らはゆるりと参りましょうぞ」
ゆすらは羽毛に触れるように、みちの手を取る。死にきれない生が二人を睨み上げる中、悠々と地底を後にした。
誰もいなくなった冥土に、近づく騒擾。
たった一人の足音が、幾億もの声を引き連れている。
救われぬことの悲痛、非運に見舞われた怨嗟、口々に零す古い話。
やがて冥土に至った跫音は、がらんどうに立ち尽くした。
「母さん……?」
恒暗の声が、虚しく響く。
彼は死にきれない生を纏っていた。母に救われることを覚ったそれらが、攻撃をやめたからだった。
しかし、現実は真っ暗だ。
「どこへ、行った」
脳裏に閃く、あの光。あの音色。
「私を、救うと、約束したのでは、なかったのか」
ざら、と母の居場所に巣食った死にきれない生が、残らず鎌首をもたげる。母に裏切られた憤懣をぶつけるように、恒暗へと殺到した。
終わったはずの痛みに再び苛まれる。
恒暗は腹の底に溜まった悲しみを吐き出すように、長く長く絶叫した。
やっと、終われると思ったのに。
万死の痛みを越えても尚、生き続けよというのか。
死にきれない生さえも怯んで、彼の身体から退く。
「光を、見せた。はずだろ」
これほどの裏切りはない。
ゆっくりと、天を見上げる。遠く、小さな光。
それはまるで、月のような光。
「ゆる、さん」
死にきれない生たちの声と、彼の声が重なる。
「我らを捨て、月に逃げよう、などと」
死にきれない生が、積み重なって彼を押し上げていく。恒暗は、それらと己の境を失する。身体が、地下の最奥から地上へと伸びていくようだった。抱えたそれぞれの怒りは止まらず、地下中に乱反射する。
黒い天漢の、先端。恒暗は涙を流す。眼球の無い左目からは、赤い筋が滑り行く。
「殺してくれれば、それでいいのに。あなたはいつも、叶えてくれない……」
未だ遠い光に、手を伸ばした。




