表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
そしてまた月は満ちる  作者: 春日野霞
十一 宿願
75/89

2021.03.14 投稿

 二人の目指す先、みちは白い身体で佇んでいる。

辿り着いた先にいたのは、醜い姿の女神だった。

 横たわった女は、真黒い炭のようなもので覆われていた。木の肌のように亀裂が走り、その隙間からは人型の枯枝のようなものが噴き出している。あついくるしいつめたいいたいと、小さな人型がさざめく。女神の髪は真黒い大地にへばりつき、呪いの根を伸ばすように広がっている。みちはそれに触れた。

悍ましさを目の前に、みちの瞳には涙が溢れていた。

 それは正に、自分だったのだ。

 押し殺した言葉。

 差し出した肉体。

 生き殺した人生。

 多数の幸福のために潰されたものたちが、ここに結集している。

 これは報われないのか。

 圧し潰されたらそれで終わりなのか。

 女神の姿を見て、彼女の死した生命は音を立てる。

 自分の嗚咽が耳の中でこだましている。熱いものが頬を滑っている。ありもしない心臓が高鳴っている。

 地の底で地獄が渦を巻いている。その中心がここだった。それに飲み込まれることを恐れ人々は、地獄が満足するよう犠牲を放り込んでいく。しかしそれこそが、地獄を一層恐ろしいものにしているとも知らずに。

 みちの涙は止まらない。それは女神を憐れんでいるようでありながら、自己を憐憫しているのが正体だった。

 これまでくぐってきた物語が、身の内に反芻される。灼熱の地獄から落ちたときの、闇の冷たさ。麗らかな桜の里で出会った光も、邪悪な太陽と錯覚した。美しい水底の郷も、そんなものは虚像だと逃げ出した。残ったのは腹の中の子供。それを産み落としたような気もする。去来する過去の女たちの記憶。命を奪い、奪われた、悲劇。喜びはどこにある?苦渋をすすりながらも語り継がれた彼女たちの命運を背負わされ、耐えきれなかった自分は結局真っ二つに折れた。何からも逃げる自分を置き去りに、でくの坊のように落ちに落ちるしかなかった。

 こんなにも悍ましいものに同情を抱くのは、その罰なのだろうか。

 涙が、ぱらぱらと女神に落ちる。口らしき場所に吸い込まれたとき、顔が僅かに動いた。

 罰なんかじゃ、なイわ。

 一つになった見知らぬ神の、聲。

 ねえ、母様。

 答えるように、黒にまみれた唇が動いた。

 あなタは、母様。母様は、あなタ。

 最後の涙が、光って落ちる。

「はい」

 みちは目を瞑る。

 ちりちり、自分が千切れていく。雪のように輝く小さな欠片は、渦を巻いている、女神の腹へ。暗闇に明滅するのは、子産みの苦しみと光。それは言葉だった。同じであると、女神が自分に告げているのだ。

死の底の女神になり、わたしはとうとうわたしでないものになる。

 自分なんて、最初からどこにもなかった。

 母から生まれたわたしはとっくに死んでいた。

 だからこうして母に還るのか。

 最後に残った瞳が、ばらけ始める。今さら、もう戻れはしない地上の光を思い出す。目から入り、身体の中までも透明に照らすあの光。

 太陽。

 思い出は強引に奪われ、一変した身体感覚にみちは絶叫した。しかしそれが声に結ばることはない。がんじがらめにされ、水の底に沈められるような。苦しみを発散することもできず、またそれが終わることも無い。

 鉄塊の内部のような、絶息の世界。春夏秋冬の底にある、神々の住まいの底にある、全てのものが行き着く場所の底にある、冥土。

 永遠の幽寂。誰も立ち入れぬその場所に、遠くから火の光が近付いてくる。

 は、は、は、という息と、二人分の確かな足音。

 やがてその狭い狭い場所に、小さな灯りが満ちた。

「お母さん」

 幼い子供の声。

 闇に塗り込められた視界が、小さな光を見出す。それがかえってみちの首を締めた。ひとたび希望を思い出せば、手に入れずにはいられなくなる。

「はやく、たすけてあげて」

 刹那、腹の底を震わせる、海鳴り。

 満ち来れば引き行く、潮の音。

 身体の奥にまで入り込んだ生の落剝が、波の腕に抱かれて去る。不当な刻苦が取り払われていき、水面に顔を出す瞬間の浮遊感に両目が開く。

 突かれるように、空気が咽に襲来する。気道が貼りつくように乾き、涙が滲む。返す息に、声が混ざり、新たな地底の母は泣き声をあげた。

 露わになった白い肉で、ゆっくりと身を起こす。みちはぼんやりと、頭で鳴り続ける声を聞く。これまで母の元に遣わされてきた、元乙女たちのものだとすぐに分かった。

 そっと、こめかみをおさえる。うるさいが、心地よい。

「母様」

 ふわりと被された衣が、身体に吸い付く。わずかに薄紅を含んだ、白い衣。

「肉が無事交代されましたこと、嬉しく思います」

 嬉しそうに笑うのは、ゆすらだった。見た目こそは彼女のものだったが、おそらく前の彼女とは別のものだろう。特段不思議とも思わず、みちは「ありがとう」と俯く。

「お声に従い、母様を月へとお送りいたします」

 手を取られるまま、立ち上がる。

「魁の神よ、仕度を」

 呼びかけられた者を見て、みちは彼女の名を呟く。

 マキはというと、あらぬ方向を凝視していた。

 地底を埋め尽くした、死にきれない生。ぶるぶると、いくつかの粒が塊が震えて一つになる。二人が彼女と同じ方を向いた時、それはマキの耳に飛び込んだ。

 鋭い痛みに、マキは右耳を抑える。虫に刺されたような痛みが広がる最中、鼓膜に貼りつけられる声に眉を解く。

「私私私。あなたの母。許して。あなたの母なの。ごめんなさい。ずっと言いたかった。ごめんなさい」

 記憶に眠ったそれと、そっくり同じ声。

「かわいかった。ほんとは。でも、こわかった。私をゆるして、私を殺して、私を生かして、私に死を与えて。ごめんなさいごめんなさい」

「勝手な、奴だ」

 彼女は片頬を歪める。

母は、自らの行いを心の底から悔やみながら死んだのかもしれない。自我すら纏う強烈な後悔が、死にきれない生となってここへ落ちたのだ。

「お前のような奴には、このような報いが似合いだ。自分で産んだ者を、徹底的に破壊する。無様な矛盾を犯した結果だ」

「信じて。かわいかった。だから分からなくなった。にくかった。姉さんのようにすきだった。だから分からなくなった。こわかった。にくくなった。行ってしまった姉さん。家が壊れた。私がちゃんと、姉さんの代わりできなかったから。がんばったけどだめだった。私は逃げた。あんなにしあわせだったのに。姉さんがいなくなっただけで。私じゃだめだった」

 マキの顔から、嘲りが消え去る。

「あなたにおなじことをさせた。つらかったのに。くるしかったのに。ごめんなさいごめんなさい」

 目を見開き闇を見つめていたが、「馬鹿め」と吐き捨てる。

「わかる。わかってる。わたし弱いの。おかあさんもおとうさんも、姉さんに似せたらよろこんでくれたから。でもちゃんとできなかった。だからあなたがやれたら許されると思った。ごめんなさいごめんなさい」

 彼女は、右耳から腕を下ろす。

「……お前は、最低の母親だ」

 刃物を首元に突きつける冷たさで、呟く。

「自らの不貞で産んだくせに、殺す決心すらつかず生き殺しにした。私の人生はお前のせいでこんなところに辿り着いたのだ。くだらぬ円環の中に閉じ込められ、惨めたらしく生き延びる定めを植えつけられた。死に値するほどの痛みを何度も味わい、幾人もの命を奪い、神の暴虐のために愛しさというものすら分からない」

 気づけば、涙が溢れている。

「なぜ、私を産んだ!」

「ごめんなさい」

 その声は、耳の中から聞こえてくるものではなかった。

 新たな地底の母の、静かで奥の見えない瞳と向かい合う。

「許して、なんて言わない。ただ、家も、きっと苦しかった。選ぶ道を、間違えて、誰も正せなかった。それをあなたが、全て、背負うことになってしまった」

 自分と少しも似ていない、母の姉の顔。

「私たちは、弱かった。あなたは、強かった。ごめんなさい」

 マキは一歩、後ずさる。

「なぜ、謝る」

「私たちが、悪かった」

「……お前は悪くない。お前も、犠牲者だ」

 気づいてはいた。

 だからこそ、憎しみを彼女に向けていた。

 弱い者が反抗することはないだろうから。

「私こそ、弱い」

 みちは、首を横に振る。見開いた淵色の目から流れる涙をそっと拭ってやり、右耳に手を当てる。ぼろりと手に乗った、小さな人型に息を吹きかけた。するとたちまち、黒かった粒が光を纏って、真上に空いたは針の穴ほど穴に溶ける。

「これでもう、あなたは自由」

 風の行く先を見送り、みちは神に告げる。

「道さえ拓いてくれれば、月へは自分で行ける。あとは、どこにでも、好きな所へ。いくらでも、好きなことを」

 マキは乱暴に頬を擦った。

「何の情だ。私はお前の分身も殺しているのだぞ」

 みちは、首を横に振る。

「あなた、私に似てる。助けてあげたい」

 足から、力が抜ける。マキは膝を突いた。

 なぜ何もかもが、ここに帰結するのだ。

 なぜ!

「時間の感覚を、失してはなりませんよ。早くせねば、月が昇る時に間に合いません。さ、道を拓きなされ。あとは私に任せて」

 ゆすらに水を向けられ、マキは神を思い出してしまう。紫電と化し、星のような光へ突き進んでいった。

「さ、我らはゆるりと参りましょうぞ」

 ゆすらは羽毛に触れるように、みちの手を取る。死にきれない生が二人を睨み上げる中、悠々と地底を後にした。


 誰もいなくなった冥土に、近づく騒擾。

 たった一人の足音が、幾億もの声を引き連れている。

 救われぬことの悲痛、非運に見舞われた怨嗟、口々に零す古い話。

 やがて冥土に至った跫音は、がらんどうに立ち尽くした。

「母さん……?」

 恒暗の声が、虚しく響く。

 彼は死にきれない生を纏っていた。母に救われることを覚ったそれらが、攻撃をやめたからだった。

 しかし、現実は真っ暗だ。

「どこへ、行った」

 脳裏に閃く、あの光。あの音色。

「私を、救うと、約束したのでは、なかったのか」

 ざら、と母の居場所に巣食った死にきれない生が、残らず鎌首をもたげる。母に裏切られた憤懣をぶつけるように、恒暗へと殺到した。

 終わったはずの痛みに再び苛まれる。

 恒暗は腹の底に溜まった悲しみを吐き出すように、長く長く絶叫した。

 やっと、終われると思ったのに。

 万死の痛みを越えても尚、生き続けよというのか。

 死にきれない生さえも怯んで、彼の身体から退く。

「光を、見せた。はずだろ」

 これほどの裏切りはない。

 ゆっくりと、天を見上げる。遠く、小さな光。

それはまるで、月のような光。

「ゆる、さん」

 死にきれない生たちの声と、彼の声が重なる。

「我らを捨て、月に逃げよう、などと」

 死にきれない生が、積み重なって彼を押し上げていく。恒暗は、それらと己の境を失する。身体が、地下の最奥から地上へと伸びていくようだった。抱えたそれぞれの怒りは止まらず、地下中に乱反射する。

黒い天漢の、先端。恒暗は涙を流す。眼球の無い左目からは、赤い筋が滑り行く。

「殺してくれれば、それでいいのに。あなたはいつも、叶えてくれない……」

 未だ遠い光に、手を伸ばした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ