運命の帰結
2021.03.10 投稿
重く垂れこめた雲が一散に雨粒を吐き出し、灰色の海が大きく身を翻してうなる。天と海が袂を分かとうとするような、鴉坂の浜。
昨日までの凪は、見る影もない。二人は強い雨に打たれ、海に臨んでいた。
「大しけだ。海に出るような日じゃない」
晴瀬が海鳴りに負けぬよう声を張る。
「波の届かん場所におれば、いいだろう」
二人は、二日ほど前に鴉坂に行き着いた。手形や宿は一切使わず、独り身の家を転々とし夜をしのいだ。驚き恐縮しきった家人に「内密に」と念を押し、起き出す前に家を出る。その際必ず、王から賜った高価な品を枕元に置いた。
鴉坂には、当然化物を倒しに訪れたことがある。あの時は、海を見に行く余裕もなかった。晴瀬の故郷だということをマキも知ってはいたが、彼はあまり多くを語りたがらなかったのだ。
「……なんでここに来たいと思ったんだ」
「お前の故郷が、見たかったからだ」
「楽しいもんじゃねえだろ、何も」
「楽しむために、見たいと思ったのではない」
身を躍らせた波が、砂浜に己が身を叩きつける。石のように砕け、白い飛沫は余波に身をうずめた。
「知りたかっただけだ。どのような所なのか」
晴瀬は彼女に覚られぬよう、溜息を零す。雨の中に、白い息が溶けて流れた。
「故郷、だけど。あんまり、ここにはいたくはない」
「私も古里に立てば、同じことを言うだろう」
「……じゃあ、帰ろうぜ」
「どこにだ」
背を向け立ち去ろうとする彼に問う。
「私たちに帰る場所など、ない」
「でもここも、いるべき場所じゃねえ」
「いいや。冬至にここへ来いと呼ばれただろう」
「マキ一人が、いれば十分だろ」
「そんなこと、あの者は言わなかった。勝手に判断するな」
雨に打たれる彼は、背を向けたまま俯く。墨を垂らしたような雲に、白い衣が非現実さえ纏って映える。
巨大な生き物のような波濤が、手招くように沈黙の間を埋める。マキが口を開いて詰め寄ろうとしたとき、彼が振り返った。
「俺さ、分かんなくなっちまったんだ」
彼女を見据えたはずの片目が、すぐに足元に下る。
「お前が好きなのに、どうしたって、気になっちまう……」
この五日の、彼の変化。
彼特有の真っ直ぐな表情に生まれた、誤魔化しようのない曇り。
遠くを見て、溜息を吐くことも増えた。
その先にいるのは、言うまでも無くあの娘だった。
「ごめんな……うまく言えない」
マキはそっと、首の横に闇の槍をあてがう。
晴瀬は、驚きもせずに息を詰めた。
彼女は無言で、彼の向きを海の方へと反転させる。穂先を喉元に突きつけ、後ろ向きに海へと押しやる。
「言ってみろ。どういうことなのか」
しかし彼は黙ったままだった。漁師も恐れる大荒れの海に、一歩ずつ近づいていく。片目は、表情のないマキを見ている。空の色に暗く陰った、淵の色。その目もまた、揺らぐことなく黒い目を捉えている。風にあおられ、海が千切れて襲来する。それでも、一瞬たりとも視線を乱すことはなかった。
とうとう、彼の足が瀬に触れる。
「まだ、言えんのか」
マキは槍を砂浜に突き立てた。彼と隔てた一歩を詰める。
雨か海かに濡れた髪をかき分け、隠れた白濁の眼玉を、親指の腹でそっと撫でた。
「お前はほんとうに、いつまでも鈍いな」
脳裏に去来する、ここまで彼と重ねてきた足跡。禰々島でもらった真珠、紫の花畑で慰められた孤独、旅の中での何気ない会話、戦闘の間に交わした言葉のいらぬ言葉。
化物を倒す度ごとにのぞかせた、あの寂寥。
「気づいたのだろう。月の女への恋情と、そうでないものへの恋慕との違いに」
晴瀬は返事をしなかった。
「この軟弱者が」
彼女は槍の石突で、彼を汀に突き倒す。笠を脱ぎ捨て、驚いた顔で見上げる彼に唇を重ねる。晴瀬は押され気味になるが、片手で彼女の頭を手の平で包む。潮と体液にむせかえりそうになりながら、互いの口腔を探り合った。
マキは赤くなった唇をそっと離す。ぼうっとした眼で彼を見下ろし、凄絶に笑んで槍を構える。
「私は、お前が憎い」
闇の穂先が、彼の額を貫いた。
頭蓋の砕けた音が、絶え間ない波の中に落ちる。晴瀬はゆっくりと力を失い、背中から波の中へと倒れた。
彼の死体は、波に洗われるうちにするすると解けていく。淵色の瞳は、その様子を刻み込む。髪が、皮膚が、肉が、骨が、海になる。赤い血が白く泡立つ海に溶け、晴瀬の形は見る間になくなってしまう。最後には、暴力的な海鳴だけが残った。
マキは雨に押し流されていく返り血を舐め、沖を見据える。視線の先、雨の帳から黒い影。それは見る間に近づいて、舟とそれを漕ぐ老人の姿が明瞭になる。荒波は舟の周囲には届かず、まるで鏡の上を滑るように、舟は浜に滑り込んだ。
背の低い老人は舟をおり、一礼する。
「私は、潮の翁と申します。あなたを禰々島へお連れするよう言いつけられております」
「誰にだ」
「あなたをここに呼びましたお方です」
「名を、問うている」
「私めなどには、到底知ることなどできないことです。さあ、お乗りください」
マキが舟へ乗り込む時、老人は、小さな目で血に染まった衣を一瞥した。
老人が櫂を手にすると、舟は一人でに進み始める。瀬を越えたところで老人がひと漕ぎすると、荒波を斬り裂くように加速した。雨や飛沫が二人にかかることはなく、穏やかに舟が滑っているようでさえあった。
「潮の翁は、神なのか」
老人は振り返らず、首を横に振る。
「私は普段、海の底で潮の流れを整えています。一人で寂しく、辛い仕事です」
「お前が今日は仕事をしていないから、こんなに荒れているのか。
「いいえ。天候故です。私は冬至の日だけ、自由が許されています。私は毎年この辺りの海を彷徨い、この役目を交代する人間を探しているのです」
もうひとつ、翁は舟を漕ぐ。
「海に入った人間がいることを感じ、やってきたら、あなたが殺してしまっていました」
「しかしあいつは海に溶けた。探せば会えるかもしれんぞ」
彼女は灰色の海を目に映す。
「晴瀬は、ただの人ではないのです」
「……知っているのか」
のそり、と翁が振り返る。
「育ての、親です」
マキは両目を見開いた。
「それが、どうして」
「禁を破り、冬至の日に海へ出てしまったのです。私は漁が下手でした。だから誰も海に出ないこの日に、あの子に良い貝を食べさせてやりたかったんです。でも、それがいけなかった。私は潮の翁に取って代わってしまったのです」
船底が一度、海を跳ねる。
「あの子は私がいなくなった後、大変な思いをしたのでしょう。だから、こんなにも長い間を生き、そして……」
笠の下、血走った小さな目が爛々と彼女を射る。
「よくも、殺してくれおったな」
地底の底から這いあがったような声にも、マキはひるまない。
「お前の窺い知らぬ、大きな運命がある。その波に乗ったまでだ」
へりに凭れかかり、果てで空と溶ける灰色を見やる。
「それでも文句があるというならここで殺せ」
「それは、困った提案よの」
痺れが走るほどの、存在感。マキは弾かれたように顔を上げる。
鴉坂へ来い。そう命じた貴人が、舟の中心に立っていた。
辛い話が続きますが(今更)、あと2万字ほどすればなんとかなり始めます
もう少しお付き合いくださいませ




