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そしてまた月は満ちる  作者: 春日野霞
三 水底
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月の女と海の男

※大変残酷な描写があります。苦手な方はご注意ください。また食前食後もおすすめしません

2021.01.03 投稿 

「わたしがあなたを殺したら、海の神の力を手に入れて、太陽の神を殺しに行くのだって」

 みちは頬杖をつき、焦点の合わない目で呟く。

「……そうしちゃったら、どうしよう」

 二人が再会したその日が、暮れようとしている。お互い、あれだけ焦がれた相手だったのに、感慨が不思議と薄かった。どちらが言うこともなく、西を目指し、並んで歩いていた。それは作業のようだった。どちらかの口が、別離から再会までの間に何があったかを、語ることもなかった。

 歩くのに飽きて、二人は腰を下ろしていた。みちはようやっと、月の女と海の男の話を彼に伝える。言おうか言わまいか、それまで散々逡巡していたのだが、座った途端に気が抜けた。

「ここは死の世界だ。本当に殺すことなんて、できねえよ」

 乾いた唇で、晴瀬は答えた。

「ほんとに?」

「ああ……」

 晴瀬の目は、枯れた地平を映している。

「俺が殺させないよ」

 黒い瞳の中に、みちが映る。その奥で、熟した太陽が没しようとしていた。地平線は真っ黒に焦げ、やがて至る夜を先駆ける。

 娘はそれを振り返り、溜息を吐いた。

 荒野の夜は、どんなだろう。みちは己の肩を抱く。こんなに寂しい天地の夜は、きっと胸が塞がるようなのだろう。真っ暗に圧し潰されるような。太陽の没する方へと歩いたことを悔やむ。微々たるものではあるだろうが、夜までの間を少しでも生き延ばせたのに。

 瞳を閉じた彼女の耳に「おい、見ろよ」と明るい声が割り込む。

「星が出てきた」

 星が水の底から浮き上がってくるように、ちらほらと輝き始めていた。日が駆け去るのに従い、星は強く煌めいていく。いくらもしない内に、空は砂袋を撒いたような光に彩られていた。

「こんな所なのに、綺麗だな」

 みちは何度も頷いた。浮世離れして乾いた天地に、地上と同じものがある。熱心に星空を眺めた記憶は無かったが、自然と懐かしさを誘うものだった。

「これは夏の空だな」

「そうなの」

「ああ。この帯みたいのが、天の川だ」

 そう言われてみれば、夏祭の夜に、見上げたような空だった。空の端から端までを、雲が淡く光ったような川が横断する空。胸の底に、記憶がざらつく。蓋を開け出て来ようとするそれを、そっと押し返した。

「みちは、星の話を聞いたことがあるか」

「ないわ」

「俺の住んでた所では、星の話がいっぱいあったんだ」

 空を見上げていると、首が痛くなってくる。どちらともなく、乾いた地面の上に寝転がった。満天に広がった輝きの空が、視界を占める。ささやかな光でもより集まれば、夜闇を忘れる輝きになる。みちの視線は、天の川の両岸に、青く強い光を放つ二つの星に注がれていた。左の星は川の際に、右の星はいささか距離を置いた所にある。

「あれ……、川の岸で向かい合ってる星には、どんな、話があるの」

空から目を離し、彼がこちらを向く。

「会えなくなった男と女の話があるんだ」

 静かに光るその瞳は天を見る。

「あの右のが男で、左のが女だ」

 どちらも青白く光っていたが、右よりも左の星の方が、少し明るくまた大きかった。

「男と女は夫婦だった。それも、近所でも評判のおしどり夫婦だ。でもな、二人は唯一、お互いの許せないところがあった。それは、女は男に出仕して家を豊かにしてほしいと思うが、男はそのまま素朴に暮らしたいと思うことだった。唯一っても、その食い違いって大きいよな」

 みちは頷く。が、彼は空を見ているのでそれが分からないことに気づき、「うん」と口に出して返事をする。

「二人は相手が大好きだからこそ、それぞれの暮らし方がお互いを幸せにするって、強く思ってた。何百回も喧嘩して、言葉では伝わらないって分かった二人は、それぞれの思う暮らしがどんなに良いか、実際に見せに行った。それでも駄目だった。次に、相手の思う生活がどんなに悪いかを、実際に見せに行った。それも駄目だった。どうしようもないから、女は、男がどうして素朴な生活を求めるのか聞いた。男は、人の心を忘れないためだと答えた。男も同じように、女がどうして金持ちになりたいか聞いた。女は、どんなときでも、隣人に心を配る余裕を忘れないためだと答えた。そのとき二人が思いついたのは、そう思うことそのものをくじいてやろうってことだった。だから、男は周りの人間を殺し始めた。女はそれを止めようとしたけど、やめた。それが、人の心を忘れさせることだって気付いたからだ。一冬の間に、男は村人を全て殺しちまった。それを天の神様が咎めて、二人を空に上げたんだ。大きな川の両岸に引き離してな」

 語る彼の声は、さんざめく星々を霞ませるような暗さを纏っていた。

「天の川が地面の下にある冬は、天の神様の目は届かないだろ。その間に、二人はそれぞれ橋をかけようとするんだ。でもいつも、あと一歩ってとこで夏が来て、ボロボロに崩されちまう。神様に見張られてる夏の間は、橋を作ることもできない。だから川のそばで、二人とも向かい合って、見てるしかない」

 みちは両岸の星を眺める。冬の間、その手を再び取り合う日を思い描きながら、橋を作るのだろう。果てることのない苦役の中でも、それを希望として走ることができる。そして幻想に突き放された夏に、己の罪を呪いながら、遠くの良人を望む。

「かなしい」

「ひどい、話だよな」

「もう、会えないのかな。二人は」

 みちが悲し気に言う。

「……出会わない方がいいって、この話を聞かせてくれた人が言ってた」

「どうして」

 みちは彼を見た。彼も、彼女を見た。星明りに白眼が冴え、真っ黒な真円が浮く。

「近づき過ぎたらまた、お互いを自分のものにしたくなっちまうからだって。あの二人は絶対に、一緒にはなれない。でも近寄らなければ、すれ違うこともないだろ。遠くから互いを眺めてればいいんだ。それで相手の言葉を好き勝手、考えられていた方が幸せだって、その人は言ってた」

「それは……誰が、言ってたの」

 晴瀬は、みちから目を逸らして空を見上げる。

「父さんだ」

「……かなしいことを、言うのね」

「父さんは、すごく、優しい人だった。だから、そう言うんだろうって俺は思う。悲しいけど、同じぐらいに優しい考え方だろ」

「それじゃあ、晴瀬も、出会わない方がいいって、思うの?」

「俺は……」

考えるような横顔を、みちはそっと見た。彫の深い眼窩から、星空を真っ直ぐに見ている。唇は僅かに開いて、やがて腹の底から湧き出る答えを待ち構えていた。

「……繰り返さないって約束できるんなら、出会った方がいい。このまま天地を回り続けてたって、お互いのことしか考えられないだろ。二人で、人を殺したんだ。一緒に、罪を償うために、繰り返さないって約束して、出会った方がいい」

 彼が顔を傾け、こちらを向く。みちは、彼の瞳の奥が一瞬、ささやかな色にかちりと光ったのを見る。それは、名前の通り、晴れた海のような光だった。

 みちは、それから目を逸らすように、空を見る。

 彼の抱えた光が、出会ったときのようにその身から溢れるときがきたら。今度こそ眩しさに耐えきれず、闇の一欠片になってしまうだろう。そんな気がした。今のまま、海中に没した太陽のような人でいてほしい。

 不意に浮かんだ願いに蓋をするように、みちは瞳を閉じる。


 足音を耳にし、目を開けた。光の中に人が立っている。

「具合はどうだ」

 薄闇の中で見とめても、分かった。晴瀬に似た顔の男だ。

また、海の男を殺す夢を見ている。

身体が重く、全身に力が入らない。仰向けに寝転がったまま、彼を待った。

「今日も滋養のあるものを持って来た」

 のびて響く声は、洞窟にいるためだった。彼は腰を下ろすと、荷物を開いて準備をする。

「もう産み月も近いだろうから、村に来ないか」

 うみづき?

 恐る恐る、腹を見た。悲鳴を上げる。見事に、膨らんでいた。

「……俺は子供を取り上げることはできん。村人に話は通してあるから、来い」

『わ、わ、わたしが、子どもを産んだり、し、し、したら、だめだから』

 うまく、言葉を発することができなかった。

「子供を産んではいけない女が、この世にあるわけがない」

 強い言葉に、彼を見る。

「お前の宿した命だ。産み、大切に育てろ。望まない子供で辛いかもしれないが、俺が力を貸してやる」

 それでも、人ではない自分が、子供を産んでいいわけがない。腹の中で、そう強く感じていた。

幼い頃から、人に見えないものが見えた。人に聞こえないものが聞こえた。月が見えると普通にしていられず、所かまわず走り回る。お前は人間ではない。とあちこちで何かが嘯く。やがて狭い部屋に閉じ込められ、苦行を強いられたが我慢ならなかった。逃げ出し、走って、山に登った。あてどなく彷徨っていたが身体が駄目になってしまい、洞窟を根城にした。食べてもないのに腹が膨らんだ。

人間でもないのに女ではあった自分を憎んだ。

人間でない自分が産むものは、人間でないものに違いなかった。そしてまた、自分が勝手に腹の中で造り出したものに違いなかった。何の怨念がここに結実したのだろう。自分はきっと化物を産むし、化物を産まなければならないのだった。

しかし駆け寄ってくるのは、

「かあさん」

 小さな、かわいい、男の子だった。何の邪気も無い笑顔。それに自然と笑いかけるが、彼がその下にどんな化物の姿を飼っているのだろうと思うと恐ろしくもなった。今は人間の姿をしている。自分もそうだ。昔は人間だと思われていたはずだった。それがいつの日にかおかしくなってしまったのだ。

「――俺も恐ろしいと、思ったんだ」

 強引に、場面が変わる。いかにも夢らしい。心臓が早鐘を打つ。晴瀬に似た男の、深刻そうな顔。今からこの手で、きっと、殺すのだろう。この男を。目の端が捉えた光に、目をやる。窓から、冴え冴えとした月光が部屋に注ぎ込まれていた。

「この家には恐ろしい因習がある……両親を殺して食べ、蠱術の力を受け継ぐんだ。しかし、それなら、殺す以外の方法を探すべきなんだ。血縁でしか受け継げないというのも、やめた方がいい。血縁に受け継ぎ続けていれば、蠱術の性質に則って、この家もじきに滅びてしまう。蠱術などという恐ろしい力に頼ることからやめなきゃいけないのは分かってるんだ。でも、村のためを考えれば、そうも言っていられない。だから、血縁以外に受け継ぐんだ。それも、今の術者の肉を食わずにな……お前がよければ、お前の子供に、その力を受け継ぎたいと、思っている」

 話の内容が、理解できなかった。

 それでも、男の真剣な顔を見るにつけ、自分が首を縦に振ることが、一番正しい選択であるように思われたのだった。

 頷いた彼女を見て、彼は顔を明るくした。

「そのための道具も、書物も、全て揃えたんだ。コウアンは覚えもいいし素直だから、きっとよく継いでくれるさ」

 彼は傍らに置いてある木の箱をいじる。がちゃんと音がして蓋が開く。彼が中から大事そうに、巾着袋をとり出した。それを開いて、中から何かを丁重にとり出す。

「これを身につけ、知識を習得すれば、誰でも蠱術を使うことができる」

 彼の手の平に置かれたものを見て、戦慄した。

 それは、乾涸びた小さな生き物だった。

 両手を握り、身を丸めた、頭のでかい、四肢のある、生き物。

『な、に』

「人の胎児だ。死んだ母親がから抜き取った」

 彼の言ったことが、信じられなかった。

『ど、どどどうしてそんなこと』

「蠱術を引き継ぐには、この方法しかないんだ」

 人間でなければ、道具になっていいのか。死の野で安住することもできないまま、乾涸びて、永遠にこの世で形を保っていなければならない。化物の姿をさらして生き続けなければならない。

「これがあれば、親を殺して食べなくても、また血縁でなくても、蠱術を使うことができる」

 彼の、全てを、否定したくなった。

『こ、こ、この』

 男は目を白黒させた。やがて眉を顰め「どうしたんだ」と呟く。

『お、お、おまえをころす』

 都合よく、鉈がすぐそばにある。手入れの行き届いた刃物は、男の腹を容易に裂いてしまった。裂け目を開き、内臓を引っ張り出す。コウアンが後ろで嘔吐する音。それをかき消す、血と肉が粘って立てる音。ひとしきり内臓を出してしまうが、そんなことをしても意味がないことに気が付く。腹の肉を切り分けて、血の滴るそれを頬張りながら、寝床で泣きじゃくる子供へと駆け寄る。

『食え』

「ぼく、父さんなんて、食べない」

 口中に広がる血の味を殺すように、五度ほど噛む。喉につっかかったが、無理やりに飲み込んだ。逃げまどうコウアンの口に、血と脂で光る肉をねじ込む。吐こうとするのを口を塞いでおさえる。

『お、おまえも、のめ、のめ、のみこめ』

 しかし手の平はコウアンの吐き出す力に抗えなかった。

 怒りがこみ上げた。

 子供を蹂躙するのは、簡単なことのように思えた。身の内に湧き上がった衝動のままに、小さな頬を何度も打った。

『だ、だ、だまれ』

 泣き叫ぶのを、殴って止めさせる。

 もう一度、男の腹から肉を切り取る。夕飯の残りが煮えた鍋に放り込んで、声を殺して泣くコウアンの髪の毛を掴み、顔を上げさせる。

『いいいいいいか。つぎは、絶対に、食べろ』

 涙目は頷かない。

『へ返事をしろ』

 怒鳴ると、やっとのことで頷く。

 素手で鍋から肉を掴み、小さな口に押し込んだ。コウアンは泣きながら、震える顎でそれを咀嚼し、飲み下した。

『そそそれでいい』

 血濡れた鉈を彼に握らせる。

『こここれでわたしを殺し、同じように、食べろ。必ず、食べろ』

「嫌だ!かあさんまで死んじゃったら、ぼくは」

『ひひひ一人で、生きろ』

 膝立ちになる。

『おおおお前は人じゃない。わたしから産まれたものは、人じゃない。人じゃないのは人と生きられない。お前は一人で生きる。お前は人じゃない。死ぬことができない。わたしの子どもは人になれない。お前は死ぬことができない。お前は人のかたちをしているだけで人じゃないわたしの子どもは人じゃないお前は死ぬことのできない化物に帰る場所はない。お前はえいえんのときを一人で生きる』

 言いながら、握らせた包丁を己の心臓にずぶずぶと突き刺していく。口はまだ言葉を吐いていたが、やがて溢れる血液に塞がれる。コウアンの泣き叫ぶ声が遠ざかり、身体が冷たく、重くなっていく。雨に打たれているように冷たくなっていく。流れ下る己の血さえも冷たいのだった。身を打つ雫の痛み。激しい雨音が耳に触れ、

 みちは目を覚ました。

 荒野に大雨が降っていた。

「晴瀬!」

 手探りで彼の身体を探すが、指先に触れるのはぬかるんだ大地。

「怖い!晴瀬!起きて!」

 暗闇を借りて、夢の光景が反芻される。

「見たくない!」

 目を瞑れど開けど、一面の黒。雨音の隙間から、子供の泣き声が聞こえてくるようだった。

「助けて!」

「だから、離れろって言ってあげたのに」

 空から、聞き覚えのある声が降ってくる。

「あなた……」

「春軌だよ。お久しぶりだねお嬢さん」

「晴瀬を、どこに、やったの!」

「どこにもやっちゃいないよ。ただ、あんたが探せないようにしてあるだけさ」

「どうして!」

「晴瀬が起きちゃうだろう。僕は今、わざわざ雨まで降らせて、夢の中で晴瀬を溺死させようとしているところなんだ。邪魔されたら困るからさ」

「そんなの、やめてよ!やだ。雨、やめて!」

「やめないよ。さっきも言ったけど、離れた方が身のためだって忠告してあったじゃないか」

「やだ!やめて!」

 何度も暗闇に声を放つが、もう返事は返ってこなかった。

「そんな……」

「また夢を見たのね」

 背中に貼りつく気配。声はケネカのものだった。必死に振り払おうとするが、彼女はヒヒヒと嘲笑うばかりだった。

「あんたが今見たのは、私の前の月の女さ。傑作だと思わないかい」

「う、る、さ、い!」

 口の中に蘇ろうとする、男の肉を吐き出すように、叫んだ。

「どっか、行って!」

「嫌だよう、怨霊同士気が合うもんで、この雨は大層心地がいいもの」

「あなたに恨まれる、筋合いは、ない!」

「そりゃそうさ。私が恨んでるのはあんたじゃなくて、太陽の神だからね。それを倒すまで、こうしてぶらつくのを止められないし、あんたをからかうのもやめられない」

 みちは、泣くしかなかった。耳を塞ぐのは無駄だと分かっていた。だからせめて、それよりも大きな声でかき消してやりたかった。

「そんなに泣いちゃ、つかれるよ……もうつかれているか」

 面白くもないのに、ケネカは一人で愉快そうに笑う。

「あんた、念願かなって海の男と一緒になれたじゃないか。なのに、なんだか虚しい感じがしてるんじゃないかい」

「虚しく、なんか、ない」

「いいや、心のどっかではあの竜宮を思い出してるだろう。あそこは美しかったねえ。まやかしだとはいえ、季節もあるし、穏やかな所だったし」

「思い出してなんか、いない!」

「直に、思い出し始めるさ。竜宮の主の穏やかな優しさをね」

「嘘だと、まやかしだと言ったのは、あなたじゃない」

「だけど離れろなんて言ってないよ。ましてや、消せだなんて」

「でも、だって、嘘が、怖かった!」

「それならあんたはよっぽど正直だってんだね。黙ってないで、ちゃんと、腹の中に子供がいますって言わなきゃねエ。蛇の子供がいますってさ」

「いな……」い、と言いかけて口をつぐむ。念と言葉で、腹の子供が堕りてしまう。

「ヒヒヒ。引っかからなかったかあ。そんなに化物の母ちゃんになりたいんかねえ。あんたがさっき、夢に見た月の女を思い出すよ」

「あの人が産んだのは、人間、だった!」

「いいや人間じゃあないよ。立派な化物さあ……あんたも知ってる奴だよ」

「しらない。もう、どこかへ行って」

 強い息と共に言葉を吐くと、ケネカは笑いながら去っていった。

 みちは一人、雨の中で立ち尽くす。身体が冷えているのに、腹だけは妙に熱い。何かが蠢くように、熱が対流している。

 雨の簾の向こうで、空が白む。雨雲は、天空を覆うほどではなかったのだ。みちは、自分が泣いているつもりでいた。しかし目を曇らせ頬を濡らすのが、己の涙なのか雨なのか、判然としない。ここは死後の世界だ。涙も冷たくなるのかもしれない。それなのに腹が燃えるようなのは、ここには新たな命がある証拠だった。

 銀色の空に滲んだ黄金が、雨雲を溶かしていく。真っ赤になった空から、光の円が昇ったとき、雨雲は完全に消えていた。何もなかったかのように、乾いた風が吹き渡る。ぬかるんだ大地も、ひび割れた肌を取り戻していた。身体を見ても雨の降った痕跡などなく、髪の毛は乾いた風になびいている。

「……みち」

 振り返ると、彼が疲れた顔で身を起こしていた。

「大丈夫?」

 駆け寄って、彼の向いに膝を突く。彼は、奈落を見つめるような瞳で頷いた。

「大丈夫じゃ、ないでしょう」

「……いや、大丈夫だ」

 と笑うが、瞳の色までは誤魔化せなかった。

「大丈夫じゃない……あの、怨霊に、苦しめられたんでしょ」

 彼は驚いて顔を上げた。

「わたし、聞いた。雨で、あなたを、溺れさせる夢を見せたって」

 彼はもう誤魔化せなくなった。「そうだ」と重苦しい声で頷く。

「あなたにそんなに、ひどいことするのが、わたしは嫌だ」

 彼の疲れた顔が、あんなに綺麗に光る瞳が、俯いているのが辛い。

「仕方ないんだ」

 彼は思いがけずも強い声で言った。

「俺が……殺したから」

 晴瀬まで、嘘を言うようになったのか。

「あなたは、本当に、人を殺したの?」

 すぐには答えず、拳を額にあてる。

「本当だ。人を殺すことが、絶対に嫌だった。だから、殺したんだ」

 彼も、矛盾と分かっていて口にしたのだろう。その背後に膨れあがった物語の渦に触れてしまえば、何かが崩れる。その予兆を、はっきりと、耳にしていた。

 しかしそれは幻聴だと、みちはなおも聞く。

「殺したくないなら、殺さなくよかったじゃない。だから、殺してなんかないのよ」

「そうじゃねえんだ」

 彼が額に当てた拳は、震えていた。目を固く閉じている。引き絞るように言葉を吐く。苦しそうな彼を、みちは茫然として見る。

「春軌さんを……止めないと、もっと大勢の人が死ぬと、思ったんだ。俺たちは、王様に対して反乱をしようとした。術士も人間だと、主張するために。その頭が春軌さんだったんだ。俺たちは王様に会うために、城に攻め入ろうとした……でも、俺は、そんなことをしたら、ものすごい数の人が犠牲になるって気づいたんだ。だから……」

「殺したの?」

 彼が震える唇を噛締めて、頷く。

 大勢の幸福のために、一人を殺す。

村人の幸福のために、一人孤独に生き、果てに殺された自分。

 曇った視界が晴れるようだった。彼は本当に、人を殺していたのだ。真実に頭を殴られ、身体からふらふらと力が抜ける。

「……俺だって、親に捨てられなきゃ、人なんて殺してない」

「でも、星の話教えてくれたの、父さんだって」

「……俺を拾ってくれたじいちゃんのことだ。父さん、って呼んでた。父さんに、命は簡単に奪っちゃいけないって、それだけは強く言われて、育った」

「それな、のに」

 声が震えていて、それ以上を言えない。

「それだから。一人だけ、の方がいいと……思っちまった」

 両膝の間に首を落とし、髪の毛を握る。

「親に捨てられなきゃ、人なんて殺さなかったはずだ。俺は……」

 血管の浮いた大きな手は、震えていた。

 人を殺していそうな手だな、と思った。

彼の一面だけを見て、何を勘違いしてたのだろう。彼が内側に秘めた明るい太陽は、濃い闇を作り出していたのだった。

「その手で、いつか、わたしも殺すの?」

「そんなわけねえだろ!」

 彼は顔を上げ、怒鳴る。

 みちは身体を竦めた。瞬間、す、と浮遊感に襲われ、柔らかな力が満ちていく。

 ――ことばでは何とでも言えるわ

 優しく囁く声に、両手を強く突き出し、彼を地面に倒した。

「お前」

 両肩に膝を突き、満身の力で壮健な首を絞める。

 晴瀬は彼女を振り払おうとする。その華奢な手はびくともしない。優しく楚々とした顔は、鬼のように歪んでいた。晴瀬は暴れたが、やがて口端に笑みを残して意識を失った。

 ぐったりと力を失った晴瀬を見て、みちは我に返る。

「は……るせ……」

 頬を叩く。返事はない。その胸に耳を当てる。鼓動はない。自分の胸に手を当てる。鼓動はない。

 死の世界に死は存在しない。

 だからわたしは彼を殺してはいない。

 それじゃあ晴瀬がぐったりと横たわっているのはどうして?

「晴瀬は寝ているだけ。寝ているだけ」

 言い聞かせようとする言葉は、乾いた風に遠く攫われる。

「殺してない、わたしは、殺してない」

 首を絞めたその時の、彼の表情が頭をよぎる。

「晴瀬起きて」

 見下ろす彼は答えない。

「わたしが殺した?」

 しかし自分も死んでいる。

 死の世界に死は存在しない。

 だからわたしは彼を殺していない。

 みちはゆっくり、乾涸びた大地に倒れ込む。

 視界は霞んだ青空で、いっぱいになる。震える両手で、頬に触れる。肉を指先でいじる。体温の存在も分からない。温かくも、冷たくもない。

 わたしは死んでいる。

 しかし腹に子供がいる。

 蛇の子供を、凹んだ腹の中に、たんまり溜め込んでいる。

 それを晴瀬にはまだ言っていない。

 どうする、晴瀬が目を覚ましたその瞬間に、生まれなどしたら。

「嫌だ」

 どんな冷たい顔をされるだろう。どんな言葉を吐かれるのだろう。

「いやだ」

 それなら目を覚まさなければいいし、死んだままでいいし、わたしは彼から離れればいいだけだし。

 みちはむくりと立ち上がり、荒野を一人で歩き始めた。

 いやだ、いやだ、と念仏のように唱える。

こんなことになると言われていたのに、なんで、竜宮を出たりしたんだろう。だってあそこは嘘ばっかりだ。嘘に巻き込まれて自分も嘘になっちゃうよ。生きながら死んでるみたいになっちゃうよ。

 みちは立ち止る。

 生きながら死んでる。

 今のわたし、これは何?

 回れ右をする。晴瀬がまだ横たわっている。

 駆け戻り、膝を突く。頬を叩く。返事はない。その胸に耳を当てる。鼓動はない。自分の胸に手を当てる。鼓動はない。

 死の世界に死は存在しない。

 だからわたしは彼を殺してはいない。

 それじゃあ晴瀬がぐったりと横たわっているのはどうして?

「晴瀬」

 彼がぱちり、と目を開けた。

「晴瀬!」

 抱き付こうとするが、やめた。

 背中にじっとり貼りつく、月神の気配。 

 顔を引き攣らせた彼女に、晴瀬は首を傾げる。

「どうした」

「なんでもないよ」

「ひどい、顔色だぞ」

「だって、もう、月神から、逃げられない」

「何、言ってるんだ」

「わたし、死んでるのに……」

 サアア……、と腰から下が冷たくなっていく。石のように硬直して立てなくなる。

「みち!しっかりしろ!」

 彼女の身体を支えるが、娘は目を合わせない。

「あなただってさっき死んでた。わたしが、絞め殺した、のに、生き返っちゃって……」

 ぎちぎち、身体が氷になっていく。

「ごめんね、駄目だった。月神に、結局、やられた」

「でもこうして、元に戻るんだ。しっかりしろ!」

 晴瀬は縋るような思いで、彼女の手を握った。

「ここはもう、死の世界だ。俺を殺したって殺せない。俺たちが辿り着くべきは、ここだったんだろ。今度こそ二人でいられる」

「運命はね、そんなに甘くない」

 そうであっても、絶対に、息の根を止める日が来る。自分を手渡してしまった今、みちはそれを確信していた。

「お前に何度殺されたって構わない。昔とは違う未来をつくってやる。今度こそ、お前を幸せにしてやる!」

 黒い瞳が、涙に光る。

「わたしのお腹にはたくさん蛇の子供がいるの。竜宮の主の子供がいるの。ね、おぞましくおもうでしょう」

 腰から上も、冷たくなり始める。

「そんなの、どうだっていいよ。お前が蛇の子供産んだって、どうだって!」

「ことばでは何とでも言えるわ」

 歪んだ笑顔を最後に、彼女は石のように堅くなる。白い皮膚の下から黒い染みが浮き上がり、やがて全身を染め彼女は真っ黒になった。

「おい……!」

 実体があったはずの彼女はボロボロと崩れ、指の間をすり抜ける。ひび割れた大地の隙間から、地の底へと流れ落ちていった。

「うそだろ……」

 晴瀬は彼女を追い地面を掘ろうとする。しかしその表面すら、めくることができなかった。術を使っても、闇の方が砕けてしまう。

「なんでだよ」

「ざまァみろ!」

 空から哄笑が降る。

 春軌の声だった。

「君が行くのは地底じゃない。地上だ!」

「いつまで、俺を追うんだ」

 晴瀬は悲痛を叩きつける。

「この憎しみが消えるまでさ」

 空の一点が歪み、真っ黒な穴が空く。穴に向かって風が抜けていったかと思うと、穴は景色の全てを吸い込もうとうなる。晴瀬は身を低くして耐えようとするが、嫌な浮遊感が内臓を襲う。

 身体が宙を舞い、彼は穴の中へと吸い込まれていった。

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