兄妹
2021.03.02 投稿
「ほれ、もう起きんかね」
凌光の声に、青颯はハッと飛び起きる。
「こんな所で寝て。風邪引かんようにって言っただろ」
彼は地下の上の部屋で、冷たくなった暖房の傍らにいた。周囲には何冊かの本が散乱している。
「もしかしてもう昼?」
「それどころじゃない。夕方だよ」
「うそだ」
と彼は立ち上がった。
「嘘を言うもんかね」
「でも、朝のご飯は」
「冬至の三日前からは、一日一食になるんだよ」
開け放たれた裏口の戸を見ると、光は翳りを纏っている。
「どうせ遅くまで本読んでたんだろ」
その通りだった。
暖房の火は、一人でに減光していった。火が消える前に、沖だけで移動する蠱術を見つけなければと、ひたすら本をめくっていた。真っ暗な地下で手探りをし本をかき集め、上で探してはまた下る、というのを何度も繰り返した。文字が見えなくなるギリギリのところで、なんとか目当ての本を見つけたのだった。
「でも、見つけたんだよ。沖だけで移動できる……」
「鼻声じゃないか!言わんこっちゃない……熱まである」
青颯の額に手を当て、顔を顰める。
「ほれ、これを着な」
と彼女は丹前を被せてくれた。
「またアマトに暖房をつけに来てもらうから、よくあったまるんだよ」
「あの、すぐ来てほしいんだけど」
「今忙しいんだ。祭の準備で。広場の真ん中に櫓を建ててるんだよ。今年は満月だから、いつもより高いのをね」
「でも、禁術だって阻止しなきゃ。本読みたいから灯が欲しいんだよ。アマトに説得はできたの?」
「帰ったら寝てたし、朝も早くに出ていったからまだだ」
「でも、じゃあ、どうすんの」
「これから、どうにかするしかない」
凌光も忙しいのだろう。暖房の上に置いてあった鍋を手に、戸から出ようとしていた。
「飯はそこに置いてあるから食べなよ。あ、昨日の飯ほったらかしだったから片付けといた」
「ねえ、ほんとに灯がいるんだけど」
「ついてるじゃないか。地下は」
言われて始めて気づいた。ハマが目覚めているのだ。
「誰か他にもいるのかい」
「いないよ。そういえば時間になったら自動でつくようにしてもらったんだよ最近」
早口で言うと、凌光は目を細める。彼女に嘘を吐くのは難しい。おそらくはバレているが、忙しいのだろう。「なるべくすぐ来てもらうようには、アマトに言っとくよ」と残して出ていった。
青颯は溜息を吐き、本を拾いあげる。実質あと二日だ。具体的な進展は何もない。すぐにでも本を読み、故郷に戻らなければならないのに頭が痛い。鼻をすすって梯子を下りる。地下はひどい有様で、床に本が散乱していた。足の踏み場が無いとはこのことだ。
本を乱暴に寄せて道を作りながら、たどり着いた水瓶の蓋を開ける。柄杓からそのまま何杯かの水を飲み、重くだるい身体を引き摺って梯子を上る。
ハマにも飯を食わせねばと思いながら、薄暗い部屋でぼそぼそ飯を食んでいると、正面の戸が開く。
「暖房、つけに来たぞ」
汗のにおいが鼻をつく。彼が水の入った鍋を暖房の上に置くと、同時に穴から温かな色が洩れる。彼は術ができる方なのかもしれない。
「風邪引いてるんだってな。無理すんなよ」
とだけ言うと、出ていった。
凌光から話を聞くように、と一言言いたかったが、まるで言葉が出てこなかった。
食欲は無いが、食べなければ治らないことは身に染みている。無理やり腹に押し込んで、問題の本を開く。
が、やはり一向に読み進められない。茶碗でそのまま湯を掬い、何度かすする。「読めない」で止まっていてはならないのだ。
なんとか読み終えた蠱術は、単純なものではあった。
それは嘉杖土型の蠱術だった。したがって生贄が必要になるが、書によると人ではなく鳥だった。「飛ぶ」という連想から、鳥が適切なのだろう。自分と鳥を囲んで結界を作り、行きたい場所の名前を唱えながら鳥を殺し、そこの情景を鮮明に思い描けば、沖だけで飛んでいけるということだった。
これだけならば、今すぐにでも実行できる。しかし問題なのが、鳥の生贄だった。単なる鳥ではなく、鳥同士を殺し合わせて生き残った最後の一羽が必要なのだ。蠱術の形はもともとこうだ。嘉杖土には御妣と御子がいるため、単に生贄を捧げるだけでよかった。代わりに生贄の数や質を吟味する必要はあったが、多数を殺し合わせるよりはマシだ。
今から鳥を捕まえ、殺し合わせていては間に合わない。また殺し合わせるだけではなく、その後も月光を浴びせるなどやることがあったはずだ。
青颯は咳き込みながら立ち上がる。別の方法か、代替できる生贄の方法がないかを調べなければならない。白湯を一杯飲みこみ、梯子を下って途方に暮れる。あらかじめ整理された本棚からではなく、雑然と散らばった本の中から探さなければならないのだ。
自分で招いた事態だが、後悔している暇はない。手にした本は机の上に置き、手近な本からめくりはじめる。しかし十冊ほど読んだ時点で、キリの無さが実感され本を放り投げた。
気づけば、無力感が胸を占めている。
あがいても果たせる見込みがないのなら、やるだけ無駄ではないか。
彼がぼんやりと空になった本棚を眺めていると、ずず、と戸が開く。青颯はゆっくりと音の方を見た。
「帰って来てたのね!」
笑顔で駆け寄ってくるハマの姿が、瞠目した彼の目に映る。
青颯が硬直していると、彼女はしゃがんで彼の腕にふわりと抱き着く。
「待ってたよ、兄さん」
「………………兄さん?」
辛うじて、聞き返す。
「いなくならないって言ったのに、ずっとどこ行ってたの?心配したよ」
突然目に溜まった涙に、青颯は理解する。
ナダの消えた衝撃に耐え切れず、自分を兄と誤認することでなんとか心を保っているのだ。
兄ではないと突っぱねたら、どうなるだろう。数々の発狂現象を思い出し、青颯は生唾を飲み込む。
「……急用ができたんだよ。悪かったね」
と棒読みに言ったが、それでも彼女は騙される。
「じゃあ今日は、一緒に寝て。ずっと一人で、寒かったのよ」
「嫌だ。……って言ったらどうする?」
今にも泣き出しそうな顔に、ひやりとしながら誤魔化しを付け足した。
「いいよ、って言ってくれるまでお願いする」
ただ自分をナダだと誤認しているだけではなく、精神も幼い頃に戻っているのかもしれない。
「でも俺……僕は風邪をひいているんだ。うつすと悪いから、それはできないよ」
「私にうつしちゃえばいいじゃない。そしたら兄さん、風邪治るよ」
彼女は無邪気に笑う。
「そんなことはできないよ」
「優しいものね、兄さんは」
「いやちっとも優しくなんかないよほんとに」
「兄さんはいつもそう言うけど、そんなことは無いわ」
と立ち上がると、青颯の手を引いて自分の部屋に入る。狭い部屋には、準備の良いことに筵が二つ並べられていた。
「ねえ、俺……僕は忙しいから、まだ寝られないんだよ」
「私をずっと一人にしていたのに、まだお仕事があるの?」
と涙目で見上げられると、さすがの青颯も閉口した。彼女をとっとと寝かせて抜け出せば良いだろう、と彼女に手を引かれるまま筵に転がる。
「久しぶりだね」
とハマは布団を肩まで引き上げて、青颯の腕に抱き着いた。
思いのほか、彼女は温かかった。自分の腕に絡みつく両腕は松の木の肌のように固かったが、その手の平は春の土のように柔らかい。
「あったかいね」
彼女は目を瞑り、穏やかに息を吐く。見たこともない安らかな顔。死への恐怖を忘れた彼女が、人間なのだということを思い出す。
裏を返せば、これまで彼女を人間でないと思っていたということだ。
罪悪を感じるが、一方で当たり前だという気もしている。彼女は、今まで会ってきた人間とはまるで違う存在だった。地底の存在と繋がり、三年も腹に子を宿し、誰より鋭く沖を読む。さして美しく無い顔に、他の誰もが手にできない美しさを浮かべる。そういえば、月の下で初めて彼女を見たときも、人とも神ともつかない何かを感じた。
彼女をただ人間でないと思っていた、のではない。格別さから、人間に見えていなかったのだ。
というのは言い訳か。青颯は頭の中で延々と己を追い回す。
「ねえ、兄さん」
返事をしなければならないのは自分だと、しばらく経ってから気づく。
「……うん。ごめん。何」
「お母さんやお父さんが、兄さんにひどくしても、出ていっちゃ嫌だよ」
「そんなことで、出ていかないよ」
ナダの過去を知ることができるかもしれない。青颯は瞑目した彼女に問う。
「どうして、そんな風に思ったの」
「だって、お母さんもお父さんも、ひどいよ。兄さんは、村で一番頭がいいのに、お父さんは兄さんのことすぐに馬鹿って叩くじゃない。それが嫌になって、出ていっちゃったのかと思って、怖かったの」
彼らの両親は、この兄妹をどのように見ていたのだろう。人を難なく欺くほど賢い息子と、人間とは思えぬ力を有した娘を。
「私はね、お父さんなんかより兄さんの方がかしこいって、知ってるよ。兄さんがすごくたくさん勉強してるのも、知ってる。知ってるから、どこかへいってしまわないで」
「どうしてそんなに、離れてほしくないの」
「私には兄さんしかいないもん」
この頃から、ずっとそうだったのだ。
「……だから、私お嫁さんになるんなら、兄さんがいいの。他の人だと、きっと私のことをおかしい奴だっていじめる」
現実とは残酷なものだ。「その兄さんが今君を最も苛める存在なんだよ」と言いたいのをこらえる。
「兄妹で結婚することはできないんだよ」
「そうなの……?」
見開かれた瞳は不気味なほどに無垢で、思わず目を逸らす。
「そうさ。だから僕じゃない人を、きちんと見つけないといけないよ」
「いないよ。男の子は皆、私をぶつもの」
「なぜ君をぶつの」
「変だから、って言ってくれたのは兄さんじゃない。忘れたの?」
「そんな、ひどいこと、言ったっけ」
「ううん、ひどいことじゃないわ。他と違うって、意味。私には見えるもの、皆はそんなもの無いってぶつ。私は馬鹿だからそんなもの見るんだって。外に出るだけで、変な奴が来たってぶたれる」
彼女は生まれた時から孤独だったのだ。両親はどうだったのだろうか。家筋が家筋だから、彼女を特異と疎むこともなかったかもしれない。しかし兄だけだと頼っているところをみると、どうも怪しい。
ぐす、と鼻をすすった彼女を見ると、目に涙を溜めている。ゆっくりと、兄と勘違いしている青颯の胸に顔をうずめて、しくしくと泣き始める。
「ぶたない人もいるかもしれない」
「ううん。いない。だって、母さんも、父さんも、私のこと怖がってる。私分かるのよ。本当は家にいてほしくないって、思ってるの……。私がぶたれて可哀想って思う人は、きっと兄さんだけなの。誰も、ふつうって思ってくれない……」
嗚咽が床に響いて、彼の皮膚を震わせる。彼女の泣く声を聞いていると、なぜか頭が冷えてくる。
彼女は、自分を兄だと思っている。
茶番の代役を演じさせられているのだ。
ナダが妹を抱きしめ上辺だけの言葉を吐き、彼女の悲しみを適当に慰撫する光景が目に浮かぶ。彼女の態度を見ていれば、それが分かる。華奢な身体を寄せ、慰めを引き出させようとする言葉を吐く。どちらがそれを先に始めたのかは分からないが、これがお決まりの流れだっただろうと青颯は踏む。
青颯は、自分がナダに見られていることに耐え難くなった。
スッと立ち上がり、驚きに目を見開く彼女を一睨みして戸を閉める。勢いがよすぎたのか、乱雑に積み上げた書物が二、三冊床に落ちた。
「ごめんなさい」
扉越しに背後から、くぐもった声が聞こえる。彼女は泣いていた。
「ごめんなさい、ほんとうに……いかないで……」
彼女の必死に嫌悪が沸くが、同時に憐みが胸を悩ませる。この狭い村の全員から人として扱われず、両親からも子供として愛されない。そんな中唯一縋れる兄に、こうした形でもたれかかっているのだろう。それを見放される苦痛を思うとやり切れない。
「ごめんなさい……もう言いませんから……」
戸をずずずと伝い、彼女が床にへたりこんだ音。青颯はたまらず戸を開ける。
涙でいっぱいになった目を見開いた彼女。あからさまに憐れな表情に湧く苛立ちを、頬をつねってこらえる。
「俺はナダじゃないんだよ」
「兄さん……?」
「そう。兄さんじゃない。青颯だよ。ほら呼んでみな」
彼女は首を横に振る。彼は諦めなかった。
「事実を認めろ。兄さんは消えた。一昨日ね。君を置いていなくなった。禁術の実行のため、君に死が迫っているにもかかわらず」
「言わないで!」
彼女は耳を塞ぐ。青颯はそれを容赦なく剥がした。
「俺が兄さんに見えているのは、君がそう思いたいからだ。それはナダが消えた事実を直視したくないから。兄さんに捨てられたのが」
「兄さんはそんなことしない!」
「そう、思い込みたいだけだ!現実を見て。今ワタドにナダはいないんだよ!」
彼女は静かに涙を流す。掴んだ両腕が力を無くしてくのを感じ、青颯はそっと床に下ろした。
「分かった。ごめんなさい。兄さんはいなくなってしまった……」
青颯は、自分の声が届いたのだと、肩の力を抜く。入れ替わるように、頭痛やだるさを思い出す。
「でも、寂しいから、一緒に寝て……」
「風邪、うつすよ」
「いいの……」
だらりと黒い腕を上げ、彼を筵に引っ張る。ここで揉めたら、また時間がかかってしまう。青颯が素直に寝転んだのを見届けると、彼女はそっと尋ねる。
「ねえ、なんでいつも、優しい兄さんに戻ってくれるのに、あんなにひどいことを言うの」
青颯は愕然とした。
彼女は結局、自分を兄だと思ったままだ。
自分の最初の推測が間違っていた。ナダは慰めを吐くのではなく、一度は彼女に手酷いことを言う茶番を演じていたのではないのか。
その後に再び共に寝ることで、彼女を安心させる。そうすれば、ひどいことをされてもその後優しくしてくれるのだと、彼女に覚え込ませることができる。その限り、彼女はどこまでも兄に付き従うだろう。
青颯にハマを苦しめる気はない。しかし受け手の彼女からしたら、苦しみを向けられるのならどちらであろうと同じことだ。それが結果として、ナダと同じ行動に繋がってしまったのだ。
「ねえ、なんで」
「今はもう、眠りな」
「どこにも行かない?」
「行かないから」
彼女は不安気にこちらを見つめていたが、青颯が見つめ返すとやがて目を閉じ寝息を立て始める。乾燥した左頬に走る、雷電のような黒い筋。近くでよく見ると、毛細血管のように微細な筋が、小さな流れへ合流し、またそれが太い流れに合流し、全てが集まり一本となって耳の裏に流れている。
村人の命のために、文字通り身を削っている彼女を、誰も労うことはない。あろうことか暴力や侮蔑を向け、彼女を孤独に追い込んだ。そして唯一の光である兄すらも、彼女を利用価値の高い道具としか見ていない。
自分が同じ立場であれば、耐え切れないだろう。
彼女が深い寝息を立てるまで、彼はずっと傍らにいた。




