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そしてまた月は満ちる  作者: 春日野霞
十 愛着<下>
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生活

2021.02.27 投稿

 眠りから脱した瞳に、地下の闇が粘つく。

 青颯は薄い筵の上で、寝返りをうった。頭が重く、その上痛む。彼は三年分伸びた髪の間に指を入れ、頭を抱えた。頭の中から頭蓋骨を殴られているようだった。

「いった……」

 黒の中に小さく言葉を吐く。起き抜けの頭痛はもう何ヶ月と続いていたが、一向に慣れることはない。眩暈がするような痛みが過ぎ去るのをこらえてから、ようやっと起き上がるのがいつもの「朝」だった。

 しかし突然天井の蓋が開き、眩しい光が舞い込む。光が目から脳の奥を突き刺した痛みに、思わず呻く。

「まだ、寝ているのかい。もう夕方になるよ」

 彼の苦しみを察しないナダの声がした後、縄を下ろす音がする。食事を下ろしに来たのだ。ハマが上にあがれなくなってから、大抵ナダが食事を下ろすようになった。寝起きざまに食事の時間が来ることは、これまでほとんどなかった。

「もう起きて。今日は話がある。早くご飯を食べて。ハマも起こして」

 彼は言いながら、部屋中の四隅に光の玉を灯す。青颯はゆっくりと身を起こし、光に目を馴染ませながら彼を睨み上げる。すっかり白くなった彼の髪が腰の辺りで揺れる。長い地下での生活に顔は疲れを刻み込み、三年どころか十年分は歳を取ったように見える。

「話って何」

 少し低くなった声で問う。

「知りたかったら早くご飯を食べてしまって。終わったら綱を引いて呼んでね」

 と彼は音を立てて蓋を閉める。

 青颯はしばらく天井を睨み、溜息を吐きながら立ち上がる。

 禁書の読解は数ヶ月前には完了していた。しかし彼は地下に入れられたままで、頭痛が始まったのも読めてしまった直後だった。また禁術の実行も、これまで保留にされていた。

話というのは、きっと九の禁術のことだろう。そう考えながら、青颯は食事のための机に、下ろされた食事の盆を二つ置く。

「起きて」

 あまり自室で寝なくなったハマは、その日も青颯の生活する書庫の隅で眠っていた。背中を向けて寝息を立てる彼女はピクリとも動かない。

「ねえ起きて」

 青颯は声を鋭くするが、それでもダメだった。彼は口をへの字に曲げていたが、やがて彼女の細い肩を揺すり「ハマ」と名前を呼ぶ。

 彼女はゆっくりと目を開け、淀んだ瞳で彼を見上げる。

「起きて。ご飯」

 しかし彼女は再び目を閉じてしまう。

「起きてってば」

 ハマは首をかすかに横に振る。

「ナダが早く食べろって言ってんの」

 兄の名前を聞いた途端、彼女は目を開き小さな口で「兄さんが」と呟く。

「そう。だから早く起きて」

 彼がそう手を差し出すと、彼女はゆっくりと彼の手を掴み、大きな腹を気遣いながら立ち上がる。細い足が、極端に重たくなった身体を少しずつ前に進ませる。

 青颯は構わずさっさと自分の分を食べ始める。相変わらず、飯の味など分からない。作業のように食べながら、彼女の様子をうかがっている。ハマは食卓の前に座っているが、溜息をつくばかりで箸を取らない。淀んだ目で食べ物を見つめるだけで、しまいには舟さえ漕いでいた。

「ほら、食べなって」

 彼女は、名前を呼ばないと反応を示さない。それでも青颯はまず名前を使わず呼びかけてしまう。最初から彼女の名を口にするのが、なんとなく嫌だった。

「ハマ。食べなってば」

 ゆっくりと開眼した彼女は、僅かに首を横に振る。

「食べたら、いけない」

「またそんなことを言う」

「死なないと、いけないから」

「だからさ、ナダが早く食べろって言ってるんだよ」

「兄さんが……」

 と零して匙を取るが、二、三口食べるとまた虚空を見つめ、口の中で「兄さんが……兄さんが……」と繰り返す。小刻みに震え始めた匙を口に運ぼうとするが、口元まできたところで諦めたように下ろしてしまう。

「兄さんが、私に食べろって、言ったの」

ナダは「ハマを起こせ」としか言わなかったのだ。しかし「そうだ」と答えなければ彼女はいよいよ飯を食わないだろう。

「……言ったよ」

「じゃあ、私に、ほんとは、生きててほしいのかな」

 青颯は閉口する。

彼女は度々このようなことを口にする。彼女はナダに盲従している。いずれ殺される役回りになることも、二つ返事で了承した。しかし一方で、兄が躊躇なく自分を殺そうとしている事実を受け入れられていない。兄は仕方がなく自分を犠牲にするのだと思いたいのだ。

「……それは、ナダに聞いてみないと分からない」

 青颯はそれだけなんとか言う。すると彼女はがっかりしたように肩を落とす。匙を置き、背を丸めて手元に目を落とす。青颯はしばらく放っておこうかとも思ったが、昨日は一口も物を食べていなかったのを思い出した。

「ねえ、食べなってば。ハマ」

 名を呼ばれると、彼女は身体をびくつかせた。

「ごめんなさい」

「なんで謝るの」

「……ごめんなさい」 

「ご飯を食べなって言ってるの」

「いらない」

 こうなると、もう何を言ってもダメだった。

 青颯は自分の飯をかきこんでしまい、バチンと箸を盆に置く。肩をすぼませこちらを見る彼女の横に腰を下ろし、盆の上の匙を手に取る。

「また食べさせてほしいわけ?」

「だから、いらない」

「そう言って昨日も食べてないじゃん」

「いらないから。どこかへ行ってよ」

 青颯は舌打ちをして、一口大にすくった食べ物を彼女の口の前まで持っていく。

「ほら」

 そこまですると、彼女は拒否ができない。おずおずと開いた口に食べ物を入れてやると、もぞもぞとやる気なく咀嚼をし、すぐに飲み込む。

「よく噛めって言ってるだろ」

 と次の一口を運ぶ。やる気なく、それでも今度は何度も何度も顎を動かす。嚥下したのを見て次を食わせ、彼女に覚られぬよう小さく溜息を吐いた。

 彼女は九の禁書の読解が終わった直後から、食事を拒否するようになった。

 吐き気を催す神話的相姦の後、ハマの腹は順調に膨らんでいった。それから伝説を忠実に守り、ちょうど三年が経つ。

 子を孕んだことが分かる前まで、彼女は平素と変わらないようだった。しかし腹が大きくなるにつれ挙動がおかしくなり、夜中に泣き叫んだり壁に頭を何度も何度も打ち付けたりした。虚妄を吐いて、最後には青颯に殺してくれと請う。最初は「やめろ」と止めていた。すると素直にやめて、表情の無い青い顔で「ごめんなさい」を口から滑り落とす。

そのように一時的に止めたところで、彼女の発狂は終わらない。それは回を重ねる度に悪化していき、ついには箸で喉の奥を突こうとすることさえあった。青颯は慌てて箸を取り上げ、なぜそのようなことをするのかと思わず怒鳴ったが、彼女は例によって謝罪を繰り返すばかりだった。

 彼女は自分でも訳が分からず狂っているのだろう。盲従癖のために、やめろと言われればすぐ大人しくなる。しかし奔流が堰を切るように、暴虐なものは何度でも身の内から溢れ出る。

 やめろ、と止めるのはかえって毒なのだ。しかしこの狭い地下で、正気の飛んだ女と二人でいれば、いつか自分の方がおかしくなる。

 加えてナダの態度が、青颯の感情を一層荒立たせた。時折下りてくるナダは、彼女の様子を全く意に介さない。ハマが彼の前で発狂することはなく、むしろ昔と同じように振る舞う。だから青颯の口からハマの様子を説明するのだが、そうすると彼女は大丈夫だと首を横に振るのだ。彼はそれを鵜呑みにして「息抜きのための嘘なら、もっと面白い話を考えなね」と嘲笑を向けてくる。

彼が、気づいていないわけがない。心の動きを機敏に覚り、それにつけこんで人を傀儡となす彼が。徹底的に、どこまでも、妹を道具としか見ていないのだ。だから面倒ごとは知らぬ振りを貫く。青颯には、それが腹立たしくて仕方なかった。

だから、せめて彼女の気狂いがどうにかなるようにと頭を捻った。しかし狂ったことのない自分には分かりようがない。

それでも彼女は待ったなしに、発狂を繰り返す。

「無が一に、一が二に、二が四に、四が八に、八が十六に、十六が三二に、三二が六四に、六四が一二八に……ほんとはなかったのになかったのに夢中で走ったら穴に落ちるから……落ちたらだめ!落ちたら!生まれてしまうから!」

蹲って泣きながら意味の分からない言葉を吐き続け、しまいに腹を殴り始める。青颯はそれを止めようとしたが、巻き込まれて頬を殴られた。

「あ……」

 痛みに頬をおさえる彼を見上げ、彼女は白い顔を青くする。

「ごめんなさい……」

 青颯は淀んだ色の瞳を見下ろす。その怯えの中に、自分の姿が映っていた。

 彼は口をへの字に曲げて、彼女と目線を合わせる。

「ハマが辛いと俺も辛いんだよ。だからもう、自分を殴るくらいなら俺を殴れば」

 青颯は、自分の口から出た言葉に自分で驚いていた。

 彼女はしばらく意味を解しかねたように茫然とし、じわりじわりと泣き始めた。しまいには顔を覆い、声を殺して泣きじゃくった。それを放ってはおけず、彼女が泣き止むまで背中をさすり続けた。

それが、一年と半年ほど前の出来事だろうか。彼女の発狂は徐々におさまり、入れ替わるように一日のほとんどを寝て過ごすようになっていった。覚醒時も朦朧とするようになる。うわごとを繰り返し、ぼそぼそ自責を述べて殺せと請う。

 そして禁書の読解により死期が眼前に迫ったのを覚ってからは、食を拒否し自ら死に向かおうとするようになった。

「もう、いらない」

 最後の一口をすくおうとする彼に、彼女は小さな声で言う。

「これで終わりだから」

 有無を言わせず食べさせて、青颯は俯けた彼女の視界に入るように「ごちそうさま」と手を合わせる。彼女はほとんど真っ黒になってしまった両腕をゆっくりと動かし、両手を合わせて「ごちそうさま」と零す。

 青颯は空になった食器を重ねて机ごと部屋の隅にやり、蓋から下がる綱を二度、乱暴に引っ張った。溜息を落として振り返ると、彼女は既に、仰向けに倒れて眠っていた。こうなっては、眠るというより気絶に近い。

 薄暗い地下に浮かび上がる、膨らんだ腹と真っ黒になった腕。いつまで経っても見慣れない。青颯は彼女の部屋から麻布を引っ掴んできて覆い隠す。

 青颯は文机の前に座り、上下する彼女の背中を見る。ハマの両腕が真っ黒になってしまったのは、発狂が収まり始めた頃だった。腹が膨らんでいくのに伴って、「死にきれない生」を一度壺に落とすことができなくなったのだ。彼女の引力が強くなったのか、全て直接ハマに落ちてしまう。ナダにも対処のしようがなかった。

そうしてたちまちひどい穢れに覆われてしまうのかと危ぶんだが、睡眠時間が増えると共に穢れが出なくなった。彼女自身が、地底の母に近づいている証拠なのだろうか。

 頬杖をついていると、ぎいと天井の蓋が開く。そこからナダが顔を出し空になった食器を指さす。青颯は下ろされた板の上に盆を二つ置く。それを回収したナダは、音も無く梯子をつたって下りてきた。

「ハマは寝ているのかい」

 彼は彼女の背中を二度叩く。彼女は飛び起きて、胡坐をかいたナダのすぐ横に座った。

「話って、九の禁術のこと?」

 文机の手前に座った青颯は彼を睨む。ナダの容姿は、三年前のそれと少しも変わっていなかった。

「そうさ。方法も場所も材料も整ったから、そろそろ九の禁術を実行しようと思ってね」

 ハマの顔がみるみる強張る。彼女には酷だと思いながら、青颯は聞かざるを得ないことをナダに問う。

「いつ、やるの」

「五日後の冬至だ」

「いつかご」

 ハマはそう目を見開く。身体が小さく震え始めているのを、隣のナダは全く意に介さない。青颯は苛立ちながら「なんで冬至にやるの」と彼に問う。

「理由は二つある」

 彼は左右の指を一本ずつ立てる。

「一つは天の条件で、もう一つは人の条件。天の条件から説明するよ」

 左の手を下ろし、右の一本だけを残す。 

「冬至の日がね、ちょうど一番近い満月の日なんだ。禁術の流れとしては、犠牲を擬似地底の母へ捧げ、彼女を眼玉の力を含ませた短剣で殺した後、降り注ぐ満月の光が願いをもたらすという風になる」

「そんなことを急に説明されてもハマには分からないよ。なんで満月の日なのかちゃんと教えてやったら」

「なぜ満月の日なのか、理由を知りたいかい?」

 ナダは顔から血の気の引いたハマに聞くが、彼女は「いいえ」と首を横に振る。

「いいや。知っておくべきだよ」

「それじゃあ、君が説明してくれよ」

 青颯は平然としているナダを睨んで、ハマに向かって説明を始める。

「前に九の禁書に何が書かれているかって話はしたよね」

 彼女は上の空で頷く。

「そこで主人公が旅人たちから得た宝は、短剣と眼玉の飾りと金環だった。眼玉の飾りは神である蛇を殺すために、短剣もまあ、蛇を殺すための道具だと考えられる。禁書では、眼玉で神を殺した後、蛇の身体を切り分ける道具として短剣が使われているんだ。これはおそらく、神性を剥ぎ取る眼玉の力で神としての力を殺した後、ただの蛇としての身体も殺すために短剣を使うってことなんだろうって判断になった」

「じゃあ私は、何で殺されるの?」

「霊力ある人間の眼玉の力を含ませた短剣だよ」

 質問に辟易する青颯をよそにナダが答える。

「眼力で神を殺すことを再現するのは不可能だから、二つを一つにしたんだ」

 ハマは自らの肩を抱いている。細い目をあらん限りに見開いて、床の一点を凝視する。このまま説明を続けても無駄だろうと青颯は思ったが、それでも伝えるべきことはきちんと伝えなければならないだろうと再び口を開く。

「それで、「金環」は大地に豊穣をもたらしたわけだけど、これは主人公の「国を得たい」という願いを叶えるものだった。でも、現実世界ではただ単に眼玉で神を殺せないのと同じように、金環を放るだけで願いを叶えることはできない。だからワタドでは金環がどんな力を持つと考えられているのかを調べた。でも、何を読んでも引っかからないんだ」

「ハマはもう聞いていないよ」

 ちらりと横を見たナダが言う。青颯は彼を一瞥するだけで、ハマに向かって説明を続ける。

「だから、金環は何かの比喩なんじゃないかって考えた。旅人の内、金環の所有者だけが女だったのも変だったし。ここに残ってる昔話の内、主人公が三人の人間に遭遇する話は他にもあったけど、その三人は全員男であって女が混ざっている話はひとつもなかったんだ」

 ナダは退屈そうに溜息を吐く。

「だから、金環の所有者が女であることに意味があるんだ。金環に付随する要素はあと二つあって、女の瞳が金色であることと、金環がもたらしたのは豊穣であったこと。これらの円、女、金、豊穣四つの要素を全て持つのが、ワタドに残る月への古い観念だったんだ。つまり……」

「金環は「満月が願いを叶えること」を暗示してるんだって分かったんだ。もうこれでいいでしょう」

 結論をナダがかっさらう。青颯が文句を言おうとするのを制し「だから満月の夜に決行するんだ。分かったね」とハマの顔を覗き込む。彼女は弾かれたように顔を上げ、何度もうなずいた。

「で、わざわざ「冬至」にやる理由は?直近の満月ってことは分かったけど、冬至にやる理由は分からない」

「それは、短剣っていう材料が揃ったのがつい先月だって理由もあるけど。もっと本質的な理由が、人の条件の方にある」

 それまで皆無だった表情がわずかに歪んで、口端に笑みが乗る。

「冬至は、ここでも下界でも祭をやる。ここでは、冬至は月から死者の沖が帰ってくる日とされてるんだ。死者は大地に豊かさをもたらすから、それを祝う祭をする。加えて、あの世と繋がる穴だと考えられている月が、一番大きく口を開く。どの年にも増してあの世とこの世が最も密接に繋がるってことになるから、より盛大に祭をやる」

「その日シアラは攻めてこないの?」

「まだ話は終わってないよ」と彼の質問には答えず、説明を続ける。

「下界でも、いつもの冬至よりも大きな祭をやるそうだ。下界で月は死の神とされている。太陽の神の力が最も弱くなる中、月の力が最も強くなるわけだからね。死神の力を追い返し、太陽の復活を願う祭を、並大抵じゃない熱量でやる。つまり冬至の日、この国は平常とは違う力に満たされるということだ。これが禁術の後押しになるだろうから、冬至の日にやるんだよ」

 青颯は内心首を傾げる。「後押しになる「だろう」から」など、彼がそんな不確定な要素を大きな決め手にするはずがないのだ。

「犠牲はどうするつもりなの。大きな願いだから、たくさん必要になるはずだけど」

「それは考えてあるから、君は心配しなくていいよ」

「教えてくれないの」

「その必要がないからね」

「あんたの想定が間違ってたらどうすんの?教えてよ」

「しつこいね。僕は忙しいから戻るよ」

 怪しい。

 冬至にやる本当の理由がきっと他にあるのだろう。それを聞き出さなければならない。無論、彼に気づかれないように。

「ちょっと待って」

 聞かずに梯子に手をかける彼の背中に、青颯は「沖術は蠱術によって得られたものだってことが分かったんだ」と言い放つ。

 少し間をおいて、「それは本当なのかい」と彼が振り返る。

 青颯はとっておきの切り札を使ったことに緊張を覚えながら、ゆっくりと頷く。

「いつのまにそんなことを調べていたの」

「禁書が終わってから、ずっと。暇だったから。昨日やっと結論に辿り着いた。これから禁術の準備で忙しくなるなら、説明するのは今しかない」

 言いながら、青颯は書物や巻物の散乱した文机の周りを漁る。その中から、自ら文字の書いた紙を引っ張り出した。再び腰を下ろしたナダの前にそれを置く。

「ここにある日記や伝承の類全部の中から、沖術は何何によってもたらされたものである、っていうのを全て取り出した。その何何が、ここに書いたように、一時代の中では統一されているけどこんな風に別の時代を比べてみると全然違うことが分かる」

 青颯は上の時代から下の時代に向かって、指を滑らせる。

「あとこんな風に、時代が下るにつれ、沖術が何によってもたらされたのかは関心が払われなくなっていく。この地に渡ってきてからの書物が一番多いのに、沖術の起源への言及は一つもなかった」

「それで?」

 早く結論を寄越せ、という視線を受け流す。

「ワタドの、大元の祖先はある場所に定住していたらしい。蠱術はその時から持っていたというよ。でも祖先が各地を転々とし始めたのは、どうやら蠱術の使い方を過ったことがきっかけだったらしくて、流浪の中で沖術を得た。沖術の力は絶大だから、どんな民族だってこの力には敵わない。他の民族から土地を奪うことも容易いはずだった。でも敗北を重ねて各地を転々としたのは、敵方にいる神縣に攻撃をされて負けていったからなんだ。昔の人の方が多く記述を残しているのは、沖術に対する負い目があるからだと思う。このように強大な力なんかを得てしまったから、どの土地でも手酷い仕打ちを受けるんだ、っていう」

 ナダは紙の上に目を落とす。

「だから、人々は物語を求めた。自分たちを苦しみへと追いやる沖術が、本当は素晴らしいものをもたらしてくれるものだという共通認識を持つために」

「それは、どんな物語なんだい」

 彼は紙から目を上げずに聞いた。

「沖術をどのように得たのか、という物語。事実をもとにしているのかもしれない。沖術を得るのは素晴らしい目的のためだったのだから、自分たちも沖術によって素晴らしいものを得られるのだ、と思える物語をね。それが、九の禁書の物語なんだ」

 ナダは顔を上げた。

「沖術を得るために使った蠱術。それが九の禁術」

 彼は表情のない顔で青颯に眼差しを注ぐ。

「でも、九の禁術に沖術の記述は出てこないよ」

「いつの時代かに、欠落したのかもしれない」

「それなら、九の禁術によって沖術を得たなんていうことは言えないだろう」

「根拠が、二つある」

 青颯は指を二本立て、一本をすぐに折る。

「一つは、沖術がもたらされた時のことと、かつて栄華を極めたという祖先の国を回顧することが同時に語られる場合が多い点」

 青颯は重ねられた書物をひっくり返し、目当ての書物の頁を開いてナダに手渡す。

「それは日記だ。沖術を得たばかりのときの美しい国に帰っていきたいということが書いてある。こういうことを書いている手記の類はたくさんある」

「なるほどね。もう一つは?」

「九の禁術の性質が、沖術をもたらす必然性をもっているということだ」

 青颯は、もう片方の指を立てた。

「沖術が使えることは、この民族の性質にまでなっている。ふつうに考えれば、一回限りの効果だけをもたらす蠱術に、そんなことはできないはずだ。それを克服したのが、九の禁術における神殺しと月光の利用だ」

 ナダは表情を変えずに聞いている。

「どうも、蛇も月も地底の母の表象らしい。地底の母っていうのは、要は神でしょう。それを殺せば、神は当然怨念を発する。強力なものを、際限なく。そんな風にいつまでも自分たちに向かう怨念を、昔の人は能源と捉え一般化した。その能源の名前を沖術に書き換え、願望を永続させるように施したんだ」

 静かに聞いているナダに、表情は無いように思えた。それでも瞳は、冴え冴えとした色に変化している。何かを考えているのだろう。そう思いながらも、青颯は怯まず続ける。

「ワタドの考えでは、地底の母はいくつもの分身を持つけど、月がその主幹らしい。分身を殺すことで地底の母の内に呪いを起こさせ、分身の主幹である月がそれを永久に行為者へと向ける。月は空から人を照らすから、その役割を担うにはうってつけだったんだろう」

「要するに、沖術は九の禁術によってもたらされた、地底の母の祟りなんだね」

 青颯が重く頷くと、ナダは固かった口元を解いて「ふふ」と笑う。

「神縣、昔は意味が違ったの?祀られなくなった神が人に憑くだけのものじゃないんだ」

「おそらく。神縣というのはそもそも、地底の母の怨念が正しく現れたものだったんじゃないかと思う。それが時代が下るに従って性質を変え、弱い神と繋がるって側面が強くなり今のようになった」

「よく調べたねえ。本当にありがとう」

 と彼はにっこり笑い、立ち上がる。

 青颯は焦って腰を浮かす。冬至に禁術を実行する本当の理由が聞けていない。どのように引き留めるのが適切か考えようとするが、いざその段になるとどのような聞き方をしてもバレるような気がしてくる。たちまちの内に膨れ上がった無力感が、彼の腰をゆっくりと床に戻してしまった。

 ナダは梯子を上りきると、上からこちらを覗き込んだ。

「最後に面白い話ができてよかったよ」

「……最後?」

「明日、僕はここからいなくなるから」

「は?それどういうこと?」と問う声をぶった切るように、音を立てて蓋を閉めた。

 青颯はしばらく、茫然と蓋を見つめていた。胸を覆うのは敗北感だ。全ては彼の手中にある。自分が抗ったとて無駄であるような気がした。何かの駆け引きに使おうと仕込んでいた沖術が蠱術起源であるという話も、結局は彼に情報を与えるだけで終わったのだ。

 このまま九の禁術の実行に雪崩れ込んでしまうのだろうか。それは何としても阻止しなければならなかった。

「でも、どうやって?」

 ナダが去ったからか、四隅の光が静かに消える。たちまち落ちた暗闇の中、「いつかご……たんけんで……いつかご……たんけんで……」とぶつぶつ呟く声に気づく。

「ハマ」

 呼びかけると、彼女は静かになる。

「灯点けて」

 彼女は兄と同じ場所に光の玉を灯す。しかし彼のよりもずっと弱々しい光だった。

「五日後、短剣で、殺されるのね」

彼女は絶望しきった瞳で青颯の方を見る。

「……そうじゃなくなる道を探したい」

「無理よ。兄さんがやるといったら、そうなるの」

 青颯は言い返せない。なんとか言葉を探そうとするが、同調ばかりが浮かぶ。やっと言えたのは「でも、なんとか見つかるかもしれない」という強がりのような言葉だった。

「いいえ。あと五日だもの」

と彼女は床に目を落とす。

ハマの面立ちも三年分大人びていた。灯が影を落とすその顔には、奈落の嘆息にも似た愁いが刻まれている。それが不意に底知れぬ美しさを醸すことがあり、青颯はその度ゾッとする。

 今がまさに、その瞬間だった。

「私、誰に殺されるのかしら。兄さんかしら。あなたかしら」

 薄明かりに消え入りそうな声で零す。

「死なないようになんとかしようって思ってるから、そんなこと言わないでよ」

「無理よ。もう。私は、ようやっと、死ぬんだわ……」

 溜息と共に言い落とすと、同時に部屋の灯が消えた。部屋の灯は、彼女の気まぐれで操作されるようことが多くなっていた。まるで呼吸のような自然さで、所定の場所に適切な大きさの光を灯し、消す。人並み外れた沖術だった。もっとも、意識をして行っていることではないのだろう。彼女の感情次第で、朝が来たり夜が来たりする。

 彼女が真っ暗な部屋で立ち上がり、床を踏みしめ自室に入った音。静寂(しじま)の闇に、彼女の押し殺した泣き声が鳴り渡る。

 青颯は溜息を吐いて、立ち上がる。筵の上で身を横たえて、脱いだ上着と麻布の中に身をまるくする。余りにかなしい泣き声が、さざ波のように彼の耳元へ寄せる。ハマが美しく見えた後、彼女は大抵自室で泣く。

命の刻限を眼前に控えた哀切の涕泣すらも、美しいものに聞こえてしまう。

 己の美観に罪悪を感じながら、いつしか夢へと溺れていった。

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