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そしてまた月は満ちる  作者: 春日野霞
九 愛着<上>
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あの日見た海

2021.02.27 投稿

 穏やかな波音に、晴瀬はゆっくりと目を開けた。

目に映ったのは、薄雲に霞んだ空の青。

 身を起こした彼の背中から、ぱらぱらと肌色の砂が落ちる。黒い瞳が、しばらく茫然と海を見つめた。

 冬の海ではない。暖かく呆けた日差しに誘われて立ち上がる。

 振り返ると、そこには春色に煙る山がある。

「ああ……」

 みちに出会ったあの異界。

 己の罪過に苦しんだ異界。

 階段で彼女に誘われ、ここに連れてこられたのだ。

 あの時は倦んでしまって張りぼてのように見えていた春の景色が、今は目に染みてくる。死の季節を越えた、純な喜びに満ちた色。鼻腔から脳天に抜ける再生の香り。身を切るようだった風は頬を撫ぜ、穏やかな波音に混ざり己が名を呼ぶ声を聞く。

 振り返ると、そこにみちが立っていた。

花も恥じらう笑顔を咲かせ、ゆっくりと晴瀬に抱き着く。

「やっと会えたわ!」

 みちとも思えない彼女の黒目は、血のような色をしていた。

「ねえ、晴瀬は、どう。会いたかった?」

「……会いたかったさ」

 晴瀬は震える手で、彼女を抱きしめる。この時を待つ間、何度日月が交代したことだろう。

「ずっと、化物の底にお前を見ていたのに。出てこない」

「やっぱり、分かったのね!」

 彼女は顔を上げ、弾けるように笑う。

「もちろんだ」

「でも、いっぱい邪魔があってね、ああしてあなたに会いに行くのはやめたの。ずっと、ずうっと会いたくて、今日やっと、あなたの方から来てくれた!」

 みちは彼から離れてそっと手をとる。それを嬉しそうに揺らしながら、波打ち際を歩き始める。

 春風に踊る毛先を見ながら、晴瀬の胸に不安がよぎる。みちは、自分から人の手を引けるような人ではない。姿形は彼女そのものなのに、中に違う人が入り込んでいるような。

「お前……本当にみちなのか」

「ええ。そうよ」

 振り返ったその目の、赤。

「目、赤くなかっただろ」

「わたし、目が赤くなっちゃってるのね」

 とおかしそうに笑った。

「ケネカって、知ってる?いくらか前の月の女。ケネカをね、わたしの中に取り込んでいるの。だからなのよきっと」

「そのせいなのか」

「何が?」

 顔を覗き込んでくるその表情も、とてもみちのものとは思えなかった。

「お前、変わっただろ」

 晴瀬は歩みを止めた。二人の手が、離れる。

「ええ、だから、ケネカを取り込んだから、目が」

「そうじゃない……人が、変わった」

 彼女は、きょとんとして見つめ返してくる。

「前は、そうじゃなかった。もっと……そうだ、こんなに目を見て話なんかできなかったよ。自分から手を繋いで歩くとか……」

「ああ、そのことね」

 彼女はふふふと口元を隠す。

「わたしはね、お母さんのところに行くわたしとわかれたの」

「お母さん?」

「地下にいるの。ずっとずっと底にいる」

「それは……みちを産んだお母さんのことか」

「ううん。もっと、皆のお母さん。お母さんのお母さんだし、お母さんのお母さんのお母さんだし。私たちが生きていけるのはね、お母さんが恵を与えてくれるからなのよ」

「なんで、みちは、そのお母さんのところに行ってるんだ」

「だってわたしは、そのために地下に呼ばれたのだから」

 みちは汀から離れて、砂浜の上に腰を下ろす。

 晴瀬は彼女の横に腰を下ろす。

「どういう、ことだ」

「お母さんはね、恵の力を保つために、娘を地下に呼ぶの。呼ばれた娘は、最初はここに来る。その次に竜宮に行って、子供を作って、母になる。それでお母さんに合流するのよ」

 みちは頬杖をついて溜息を吐く。

「そんなの、ひどいじゃない。わたしが死んだのはね、怖い人に殺されたからなの。お母さんに呼ばれた乙女は、皆あんなに怖い思いをしなきゃいけなのよ。蓑と笠を被った、でっかい男に殺される」

「じゃあ、みちも、お母さんと合流するために、行ってるのか」

 ううん、と本人が首を横に振る。

「わたしはね、竜宮の主との子供を産んでしまった。ほんとは片腕のない子供を産まないといけないのにね。それに、あなたが好きだったし」

 彼女は彼の肩に寄りかかる。

「そんな乙女、いないの。ちょうど、お母さんの肉もくたびれちゃってるし。今度はわたしがやることになるのよ」

「じゃあ、みちが今度は、その地下のお母さんっていうのになっちゃうのか」

 肩を震わす晴瀬に、彼女は不満気な顔を向ける。

「さっきから、みちは、みちは、っていうけど、私だってみちよ」

「でも……お前は違うじゃねえか」

「あなたの思うみちと違うだけ。わたしだってみちだもの」

 同じ顔がムッとするだけで、別人に見えてくる。

「幸せにするって約束した、地下に落ちてしまったあのみちは、お前じゃない」

 彼女は、スッと目を細める。

「そんなこと、してくれなくていいわ。あなたはここにいてくれたらいいの。一緒に生きていきましょう」

「それはできない」

 晴瀬は立ち上がった。

「俺、マキを救う方法を探しに来たんだ。本当は、至っていう人たちの所に行かなきゃいけない。ひなだって心配だ」

「あの女に、何かあったの」

「怨霊に苦しめられてるんだ……それこそ、ケネカのせいで死んだ人たちの怨霊だ」

 みちの赤い目に責める。

「ケネカの……?ああ、王に反逆した後の。神主の一族が殺されたんだっけ」

「そいつらが、月神が憑いてるってだけでマキをケネカと勘違いしてるんだ。それで、マキが死にそうな目に遭ってる。おかしいだろ」

「あなたも、十分おかしい」

 みちは立ち上がる。

「一族を殺したのはケネカじゃない。王よ」

「でも、王に反逆したのはケネカだろ」

 再び、彼女は口元をおさえる。

「あなたも神に憑かれているのに、分からないのね。自分を奪われているのに、自分自身が決めたように錯覚させられる、神に乗っ取られているあの感覚。あなたなら、月の女を好いてしまうこと」

 晴瀬は「俺は、自分が好きなだけだ」と強く突き込む。

「ね、分かっていない。それは自分が思っているわけではないの。ケネカだって同じだったはず。神の操り人形になっていただ……」

 言いかけ、彼女は何かを目にして眉を顰める。海とは反対方向に向けた視線の先、晴瀬は瞠目した。

「マキ!」

 晴瀬は彼女に駆け寄る。マキは浜に足をつくと共に、その場に崩れ落ちる。「大丈夫か!」と彼女を助け起こすと、やはり肌の下は怨霊の闇で満たされていた。白目すらも黒くなり、痛々しさに晴瀬は唇を噛んだ。

「お前が、私の名を言う声が、聞こえた……こんな忌々しい所に、出るとは」

「起きて、ここまで来たのか?」

 彼女は力なく首を横に振る。

「意識……沖なのか。分からんが、肉体からは離れている」

「なのに……」

 身体を離れた状態ですら、怨霊に苦しめられるのか。

 晴瀬は藁にも縋る思いで、ゆっくりと歩み寄ってくるみちに問う。

「マキが、助かる方法はないか!」

「懐かしいわね。今度はあなたが下りてきて、晴瀬に助けを求めるなんて。今のあなた、まるでわたしみたい」

 彼女は、いじわるい笑みを浮かべる。

 マキがその言を、許すはずがなかった。黒に侵された顔がたちまち憤怒の相を表す。

「助けを求めてなどいない。端から人を頼ることしか考えられないお前と一緒にするな!」

「強気ね。わたしなら、あなたを救ってあげられるのに」

「そんなこと言ってないで、教えてくれ!死ぬかもしれないんだぞ!」

「そんなこと?」

 みちの赤い瞳が陰る。

「あなたにとってはそんなことかもしれないけど、その人がわたしにしたことは「そんなこと」ではなかったわ。いきなり『お前のことを教えろ』なんて、辛くて忘れてた記憶をつつかれて」

「誰が、お前に頼るものか」

 マキは晴瀬の腕を支えに、立ち上がる。

「だめだ、落ち着いてくれ。みちに頼るしかない」

「私の人生を狂わせた女に頼れというのか!」

 波音すらかき消すほどの、怒声。

「そんな屈辱を被るぐらいなら、死んでいい」

「あなたも、おかしいわ。晴瀬と同じくらいに」

 漣のように、みちが言う。

「わたしはあなたに、何もしていない。あなたの人生を狂わせたのはあなたの母、わたしの妹よ」

 マキはくっきりと眉根を寄せ彼女を睨みながらも、何も言えない。

「みち、今はお願いだから教えてくれ。もう頼れるの、お前しかいないんだ」

「そんなに、その女を救いたいの?」

「ああ」

「じゃあ自分でなんとかしなさい。でもあなたにはわたしも救えなかったものねえ。人の眼玉なんか嵌めて、強くなったんでしょ」

 晴瀬は心臓を貫かれた心地で彼女を見る。

「お前、やっぱりみちじゃないだろ」

「みちだと、何度も言っているでしょ」

「いいや。みちはそんなんじゃなかった」

 目の赤い娘は、空を仰いで哄笑した。

「あんな短い間一緒にいただけで、わたしの何が分かるの」

「それでは、お前は」

 マキがうめく。

「どのような人間だというのだ」

 あの時の問いを繰り返す。

「まだそれが知りたいの?」

 化生のように、彼女は目を細める。

「わたしはね、空っぽな人間よ。あなたもそうでしょ」

「そんなわけ、ないだろう」

 マキの髪が風に膨らむ。

「私はあの頃とは違う。多くのものを見て、多くの過ちを犯した。私は私で人生を、掴んだ」

「でも、空っぽよ」

 真っ黒な白目に睨まれても、真っ赤な黒目は動じない。

「空っぽな人はね、生まれてから死ぬまで空っぽなのよ。生きていれば、色んなことがある。人はその度満たされていく。でも空っぽな人はずっと、足りない、足りない、足りない、って次を求めるの。満ちてるようでいても、ほんとは自分の空白を直視したくないから誤魔化してる」

 海を背後に、彼女は強い声で紡ぐ。

 マキは怒りで震えている。それでも睨むばかりの彼女を、みちは鼻で笑う。

「図星なんじゃないの」

 言いながら、彼女の黒い爪に目を落とす。近くで見ようと、それを手に取った。

 その時、怨霊がマキの中でぞろりと動く。痛みとも痒みともつかない不快に顔を顰めながら、彼女は冷静だった。

 みちの腰に腕を回し、彼女の親指を自分の口に突き入れた。

「何、何するの!」

 彼女は驚き暴れるが、マキの強い力から逃れることはできない。指を引き抜こうとした瞬間、彼女は強い力でそれを噛んだ。

「痛い!どうして!」

「お前、どういうことだ」

「晴瀬、やだ、助けて!」

 黙って見ていろ、とマキは晴瀬を睨む。彼はうろたえるばかりで、何もできない。その間に、マキの目論見は的中する。彼女が嚙みついた親指が、黒くなっていた。

「やだ、やだ。やだ!」

 怨霊が、マキの口から爪の間を通りみちへと移っているのだった。月を目指して這う蝸牛のように、ケネカの気配に吸い寄せられている。

彼ら彼女らは「本当の」敵を見つけたのだ。

 マキは身体中の怨霊が一斉に動く不快に耐えながら、暴れようとするみちを強く締める。怨霊に侵されていくみちは力を失くしていき、やがて支えていなければ立てないようになる。

 息が詰まるような時を超え、マキは彼女を砂浜に横たえる。白黒が自分と反転したみちが、瞬きもせずに空を仰いでいた。

「くるしい」

「だろうな」

 と吐き捨てる。

「怨霊はお前の方が好みだったらしいな」

「違うんだ。みちの中に、怨霊が本当に恨んでる、ケネカって奴がいるんだ」

 ああ、と彼女は軽く頷く。

「そもそもお前の罪ということか。ならばお前が被るのが道理だな。しかし、苦しかろう」

 とマキは眩いばかりの炎を宙に浮かべる。春の陽にすら負けない、眩しい光。

「いっそ殺してやるか」

 焔がぐらぐら揺れている。それを静観している晴瀬に「止めんでいいのか。相手はみちだぞ」と半笑いを交える。

「ここでは、死ねない」

「いいえ」

 みちは目を見開いたまま言う。

「わたしは、本体じゃない。かんたんに、消える」

「都合がいいじゃないか」

「くるしい。消して」

 マキは晴瀬を見る。彼は既に背を向けていた。

「お前、いいのか」

 彼はしばらく間をおき、頷く。

「みちじゃないから」

 その言葉を合図に、マキは彼女に火を放つ。

 春の平穏を搔き乱すように、絶叫が広がる。晴瀬は耳を塞ぎ、訳も分からず走っていく。周りを見ている余裕などなかった。風を切る内にいつしか辺りは暗くなり、あの階段へと戻っていた。

 ハッとして、晴瀬は耳から手を離す。

 夢から覚めたような心地に、頬をつねる。その時、りんと鳴った鈴に、彼は地上を思い出した。

 もしあれが本当なら、マキは治っている。

 晴瀬は、光のように階段を駆け上がり始めた。一段飛ばし、二段飛ばし、やがて至る目覚めた彼女を目指す。

 すぐ辿り着く気でいたが、階段は終わらない。夜明け前の闇は延々と続き、全身が重くなる。しかしマキのことを考える度に、身体に力が満ちた。彼女を看病していた、あの長い時間。もう二度と目覚めないことを、最悪の事態を思ったあの時間。それに比べれば、なんということはなかった。

 やがて、扉の隙間から漏れる光を捉える。真っ直ぐの線が近づいてくる。一層力のこもった足が、とうとう扉を蹴破った。

「マキ!」

 呼ばれた彼女は、目を開く。解き放たれたように身を起こした彼女を、晴瀬は勢いよく抱きすくめた。

「よかった……!」

 マキは一瞬苦し気に顔を歪めたが、彼を抱き返す。互いの鼓動の音に、二人は生を確かめ合った。

「どうなるかと、思ったんだ」

「……戻ってこれた」

「よかった。本当によかった」

 彼女の両肩に手を置いたまま、身を離す。灯火に照らされた夜闇に、あの白目が戻っている。唇はじっとり赤く、頬は上気していた。

「ああ、よかった……!」

 感情を言葉にできず、晴瀬は何度も彼女を抱き寄せる。

 その傍らに、静かに現れた足音。

 両目を真っ赤に腫らせた、ひなが立っていた。 

「ひな!やったぜ!」

 しかし彼女の顔に、笑顔はなかった。

「意味が……分からない」

 栗色の瞳には、何の光も映らない。

「あなたたちは、意味が分からない。どうして、あんな所に行ってちゃんと掴んで帰ってこれるの」

 部屋の空気が、シンと冷える。

「私が行っても、全然ダメだった。すごく怖いを思いしただけだった!」

 彼女の両目から、涙が零れだす。何度も何度も彼女は拭うが、止まらなかった。激しく息を継ぎ、嗚咽をもらす。

「もう、二人でやっていればいいじゃない!私を巻き添えにしないでよ!」

 腹の底から絞り出した声が、二人を打つ。

「村の人たちだって、あなたたちみたいのがいたら、混乱するに決まってる!おかしいのは、村の人たちじゃない。あなたたちなのよ!」

 独り言のように言って、彼女は上つ宮を飛び出す。二人は固まって、追うことができなかった。

「まだ、未熟者なのです。お許しください」

 そこにいた冬巫が、二人に手をつく。

 晴瀬は、返す言葉を持たなかった。

「これまでの旅のこと、怨霊騒ぎの後、お二人を追い出せという村人たちを説得できなかったこと、様々ひなから聞きました。事の大きさが過ぎて、彼女がまだ処理しきれないだけでございます。ですから……」

「気遣う必要はない」

 マキは静かに冬巫を制する。

「ひなには苦労をかけた。その自覚は、私にもある。ただ彼女は全てに答えようとしてくれた。つい、それに甘えてしまったのだ。悪かったと……ひなに伝えてくれないか」

 冬巫も言葉を探しているのか、なかなか立ち上がらない。心配だ。とマキが付け加えると、彼女は提灯を持ってひなの後を追っていった。

 その光が見えなくなってから、マキは深く息を吐く。木々を凍りつかせる白光を見て、マキは思いの他時が経っていることを知る。来たときは三日月だったのだ。

「迷惑を、かけた」

「お前は悪くねえだろ」

「違う。これまでの話だ」

 彼女が消えていった、暗い山道に目をやる。

「ずっと、抱えていたのだろうな」

「ああ……」

「本当に、目が覚めた思いだ。私たちを歓迎してくれていた村人たちも、心のどこかに不可解を抱えていたのだろう。ひなでさえ、ああなのだから」

「……それが、自分たちの役に立てば、英雄だけど。今回みたいに恐怖を与えたら、爆発する」

 晴瀬も、ずっと感じていたことだった。

「いつしか、忘れていたな。私たちは異物だった」

 彼の黒い目は、しんと黙っている。やがてマキから目を逸らし、黙って頷く。

「発とう。ここにはいられない」

 彼女はゆっくりと立ち上がる。長い間寝ていたためか、身体中がきしみをあげる。晴瀬は慌ててマキを支えた。

「そんなんじゃ、無理だろ。ひなをあのままにしておくのだって……」

「いいや。もうこれ以上気を使わせるのは、気の毒だ。村人も私たちが怖かろう」

 それに、と彼女は言葉を継ぐ。

「私は、お前の故郷に行ってみたいのだ」

「なんと。そちらから出向いてくれるとはの」

 突如混入した、空間を歪めるほどの沖。昼間に眩しすぎる光を見たような痛みすら感じる。二人は同時に、光源を注視する。

 地下へ続く扉の前に、忽然と貴人が佇んでいる。王族の宿を思わせる高貴な服に身を包み、艶やかなこげ茶の髪を流していた。

「なんだ、お前は」

 沸き上がる畏れを振り払うように、マキは問う。

「冬至の日、鴉坂に来や。その前からいてもらっても、構わんがの」

 貴人はマキの問いには答えず、宛然と笑う。

「なんのために」

「その日になれば分かる。たまには、結論を急がんのもよかろ」

 琥珀色の目を細めて、貴人の姿は消えてしまった。

 入れ替わりに下りた静寂に、「鴉坂が、俺の故郷の名前だ」と呟く。

「冬至に、何かあるのか」

 晴瀬はしばらく黙ったのち「何も」と首を横に振る。

「……本当はあるのではないか」

「いや。あるけど、俺だけの話だ。鴉坂に何かあるわけでは、ない」

 そうか、とマキは髪を結う。さっさと着衣を整え、上つ宮の隅にそのままになっていた荷物を担いだ。晴瀬もそれに続く。「せめて、夜が明けてから行かないか」と何度も彼女を引きとめたが、マキは頑として首を縦には振らなかった。

 空気まで凍りつく夜の中に、二人は身を晒す。静かに下っていく二人を、山に溺れる月だけが見ている。

 しんしんと更ける夜。冬至まであと五日を数える朝が、来ようとしていた。

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