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そしてまた月は満ちる  作者: 春日野霞
九 愛着<上>
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こんなにも遠い

2021.02.23 投稿

 次の日、晴瀬はマキにべったり貼りついていた。無論看病をしているのだが、少し身を揺するだけで過剰に反応する。また何度も何度も祭壇の前に座っては、祈りを捧げる冬巫の背後で手を合わせていた。

見ている方が疲れる。宿舎に下りたひなは溜息をついた。マキは心配だが、地下へおりる前に自分の力が尽きるのも心配だ。

 至たちのもとへは、男一人では下りることができないらしい。必ず女の同伴がいる。だからひなも下りなければならないのだが、恐ろしくてたまらない。死と何が違うのか、本当に戻ることはできるのか。

縁側の日溜りにぼおっと空を見上げる。階段の扉が開かなければ良い。そして都合よく、マキに巣食う怨霊が消えたらいいのに。

「おい、アホ面になってるぞ」

 庭を通りかかった秋巫が笑う。

「元々アホ面だもん」

「そうふてくされるな」

 彼はひなの横に腰掛ける。

「至のところに行くんだろ」

「うん……嫌だけど」

「逃げないのか」

 彼の驚きを見て、ひなは首を傾げる。

「逃げないけど」

「昔だったら、絶対逃げてたぜ」

 言われてみれば。

 数々の逃亡そして叱責が頭を巡る。

「変わったんだな」と目を細める彼に、ひなは首を横に振る。

「諦めてるだけだよ。ほんとは逃げたいけど。どうせ晴瀬に担ぎ上げられるだけだし」

「昔もそうだったろ。逃げ切ったことなんてなかった」

「それは、そうだね……。逃げたって、どうせやらなきゃいけないのになあ」

 自分で言って、現実逃避が通用しないことを覚る。いずれ地下へは行かなければならないのだ。

「ああ……嫌だなあ」

 伸びをして、ゆっくり後ろに倒れる。秋巫の明るい茶色の髪が、太陽の光を散らしてちらちらと輝いていた。

 三年が経ったが、彼は大きく変わってはいなかった。しかし前よりも元気がないように見えるのは、年相応の落ち着きを纏ったがゆえなのか。

 それとも、至となって死ぬことを決断したのか。もしそうだったらどうしよう。ひなは心配になって彼に尋ねる。彼が小さく首を横に振ったのを見て、心の底から溜息を吐いた。

「よかった……。地下の母神のために死ぬなんて言ったら、どうしようって思った」

「ひなはあのまま春巫でも、なってなかったろ」

「当たり前だよ。あんなのひどいわ。でも晴瀬も冬巫姉さんも、そんなことないって言うの。おかしいでしょ。でもそれは人それぞれだって。だって、季節は皆のものじゃん。なのに四季の巫覡だけが死なないといけないなんて、おかしい」

 一日経って、やっと言いたかったことが口を吐く。嬉しさやら悔しさやらで「おかしいじゃない」と繰り返す。

「まあなあ……」

 と彼は曖昧な返事をし「母神も、術士はいらんだろうしなあ」と寂しそうに笑ってみせる。

「……相変わらず、隠すの大変なの?」

「まあな。最近、そもそも術士だってことを忘れるようにしてるんだ。皆と同じだって思うと、けっこういける」

「……それがいいよ」

 ひなは身を起こし、膝を抱える。

「マキや晴瀬がね、術士が普通の人間みたいに暮らせないかって、色んな所にいる隠れた術士の話を聞いてたの。マキには分かるんだって、術士かそうでないかが」

「昔、聞かれたことがある。術士ではないかと」

「そうだったの」

「違う、と答えたよ」

「他の村の人たちも、そうだった。皆隠してる。中には、術士でなくなるにはどうしたらいいかってすがりつく人もいた」

 ひなは膝の日溜りに目を落とす。

「皆、なんで術士に生まれてしまったんだろうって言ってたの。だから、術士に生まれても普通と一緒に暮らせるようにしようって二人が言うんだけど、あんまりいい顔はしないんだよ。二人は不思議がっていたけど、きっと自分のことで波風を立ててほしくないんだわ」

 ひなは「兄さんは?」と秋巫に首を傾げる。

「あんまり、考えたことがなかったよ」

 と彼は目を逸らした。

「じゃあ、もし、術士って隠さないでも普通に暮らせるようになったら、どう」

「それは嬉しいけど、難しいだろうな」

「そう!私も、そう思うの」

 ひなは何度も首を縦に振る。

「術士って、目に見えないものを感じることができて、何も無いところから火を灯すことができるじゃない。兄さんや二人とずっと一緒にいて、普通の人と何にも変わらないところもたくさん知ってる。でも、術士は特別で、全然違うなっていうのもはっきりしてて。たまに怖くなるのよ」

 秋巫の顔が、誤魔化しようも無く曇る。

「やっぱり、怖いとは思うんだな」

「でも、兄さんのことは怖いって思ったことないよ。小さいときから一緒だもん」

 彼は首を横に振る。

「正直、普通の人に溶け込むことに、迷いもあるんだ。でも、あんな二人と三年も過ごしたひなが怖いんなら、他の人はもっと怖いだろうな」

 と諦めを滲ませ笑った。


 日は、あっという間に西へと傾く。ひなと晴瀬は白い着物に身を包み、祭壇の前に正座していた。

 着物が薄い上に、火鉢の熱はマキのためだけにあった。ひなは不安と寒さにガチガチと震えている。対して晴瀬は微動だにせず祭壇を見据えていた。

「これより地下へお伺いをたてる。お答えいただいた暁には、二人は至様方の元へ下ることが可能となる。その前に、以降の二つだけは絶対に注意してほしい。帰ってこれなくなる」

「はい」

 ひなは姿勢を正す。

「まず一つ。あちらでものを食べてはならない。地下の住民になってしまう」

 冬巫の顔ごと記憶するように、ひなは頭に刻み込む。

「はい」

「もう一つ。帰ってくるとき、絶対に振り向いてはならない。階段を一段上がるごとに、この鈴を鳴らしなさい。この音だけに耳を澄まし、他は何も耳にいれないこと」

 冬巫は二人の前に盆を差出す。朱色の組み紐に、銀色の鈴が二つ並んでいた。彼女は二人の手首に、鈴を結び付ける。

「決して、落とさないように」

 二人は同時に頷いた。

「あの……戻って来られるんですよね」

「かつて地下に赴いた者は、七人いる。その内の二人は帰ってこなかった」

「なんで」

「言いつけを破ったのだろう。それさえ守れば、戻れるという記録が残っている。しかし、至たちに飲み込まれそうになったともあった」

 冬巫は再び盆を差出す。三枚のお札が二組のせられていた。

「……これ」

 ひなには見覚えのあるものだった。彼女の反応に、「呪文は覚えているかね」と冬巫は問う。

「カタレヌカミヨフルキハハヨ我を守り給え」

「そうだ。何か気づかんか」

「……あ」

 至が仕える、語れぬ神と古き母。

「このお札って、太陽神様に守ってもらうものではないんですか」

「地下の母にお守りいただくのだ。謹んで呪文をお唱えするのだぞ」

 ひなは両手でお札を掬う。晴瀬が札の使い方を教えてもらっている傍で、あの時きちんと使えなかったお札を胸に抱く。地下の母神の力が、確かに込められているのだろうか。お札が一瞬脈打ったような気がした。

「お願いします」

 ぎゅっと強く念を込め、懐にお札を滑り込ませた。

「そろそろ、刻限だ」

 冬巫は音も無く立ち上がる。

「私はこれよりあの扉を開く。階段があれば跪き、二人を迎え入れていただくよう挨拶をする」

 祭壇から鏡や紙垂といった神具は取り払われており、黒ずんだ扉が燈籠に照らされている。

「私が立ち上がったら、一言もしゃべらずに扉の前まで来なさい。そして一礼をしたら、迷わず階段を下ること。後戻りは許されない」

 晴瀬は深く頷くが、ひなは逃げ出したいのをこらえるのに必死だった。懐のお札を握り締める。ぎんと凍えた手には汗が滲み、歯の根は合わずガチガチと鳴る。

 冬巫は機械的に、それでいて丁寧に儀式を進めていく。扉の前に立った瞬間、ひなは思わず目を瞑り、晴瀬にしがみついた。彼は耳元で「俺がいる。大丈夫だ」と囁く。

 確かに晴瀬は心強い。しかし同時におっかないのだ。彼を取り巻く巨大な運命に、自分も巻き込まれそうな気がする。

 ガチャン、と重たい錠前が開く音。ひなは薄目を開けた。どかん、どかん、と心臓が全身を震わせるほどに脈打つ。冬巫の動作一つずつが、ゆっくりに見える。隙間が空いた瞬間、扉は大きな音を立てて開いた。

 冬巫は突然のことに尻もちをつく。露わになったその先の暗闇が、部屋中の空気を勢いよく吸い込む。灯はあっさりとかき消され、日没の薄闇が落ちる。それでもなお、扉の先は滔々と黒い。

 晴瀬はひなを支えて立ち上がる。背中に手を当てたまま、暴風に逆らわずに一歩一歩足を進める。地下が再び、自分を呼んでいる。彼はそう信じて疑わなかった。

 確認するまでもなく、闇の中には階段が続いている。晴瀬が一段目に足を落とすと、遅れてひなの小さな足が続く。その瞬間、背後で扉が暴力的に閉まり、階段の闇に曙の色が混ざる。

 急転直下の静寂に、目を瞑り通しだったひなは意を決して開眼する。

「ああ……」

 安堵とも諦めともつかぬ声が漏れる。まるで夜明け前のように、晴瀬の顔を見ることはできた。

「下るぞ」

 確固たる声で、晴瀬はひなの背中を押す。

「いや。だって、地下なんか」

「ここまで来たら、ためらう方が危険だ。冬巫も言っていた」

「でも、怖いの!」

「マキが辛い思いをしてるんだ。階段だって答えてくれた。早く行かねえと!」

「階段が答えてくれた?」

「俺たちを吸い込んだだろ。来いって行ってくれてるんだ」

「意味が、分かんない」

 ひなは何度も首を横に振る。

「地下に呼ばれてるって、それって、死にに来いって言われてるんじゃないの」

「そうじゃない。大丈夫だ」

「そりゃ、晴瀬は大丈夫かもしれないよ。でも普通は、地下なんて行ったことないんだよ!」

「その俺がいるから、お前はまだ大丈夫だ。行こう」

「嫌だ!」

「もう後戻りはできないんだ。逃げようとするな!」

 彼の怒鳴り声に、ひなは恐怖を越え呆気に取られる。半分死人の顔が湛えた怒色を見上げた。

「はあ」

「いくぞ」

 ひなは晴瀬の半歩後ろを行く。

 いつもの彼なら、恐怖を和らげてくれる。怒鳴って従わせることなど無かった。

 それだけ必死なのだろう。マキを救うことに。共に向かう自分など、道具のように見えているのかもしれない。

 しかし思い返してみれば、そんな扱いは今が初めてではない。前にも何度か、二人だけで突っ走って行ってしまうことはあった。その度に寂しさを感じながらも、一方では諦めていた。二人には二人にしか分からない世界がある。沖だとか、神だとか、自分にはどうしても分かり得ないことだった。

 ひなは立ち止まる。この三年で、たくさんの経験を積み重ねた。強くもなった。しかし、マキと晴瀬という強大な存在を前に、自分を突き通す強さを失ってもいたのだ。

 気づいた以上、負けたままではいられない。ひなは階段を下りながら彼を呼ぶ。

「晴瀬」

 遠くなった背中に呼びかける。

『あなたは、こっち』

 振り返った彼に口を開きかけた時、娘の澄んだ声が響く。

 耳を澄ませると、階段の奥からタシタシと足音が上がってくる。

『やっと会えたわ』

 彼が「みち」と呟く。ひなが瞬きをしたその隙間に、彼の背中は消えていた。

 それみたことか。ひなは頭を抱える。彼は余りに自由に、自身の運命に引っ張られていってしまうのだ。こうして取り残された自分は、非力なまま一人で立ち向かわなければならなくなる。

 ひなは顔を覆う。りん、と銀の鈴が綺麗な音で慰める。自分の鼓動は、確かに聞こえている。指先は冷えているが、身体には確かに熱がある。マキの苦しそうな顔を思い出す。あのままでは、死んでしまうだろう。

 圧倒されながらも、精一杯命を燃やす彼女をずっと見てきた。それがあんなにも突然にもみ消されてしまうのは、絶対におかしい。

 怒り、恐怖、反発。身体の千切れそうな感情の渦に、今はただ不条理を覆そうと動くことでしか対処できない。ひなは鈴の音と共に、闇の階段を下り始める。

 それは、彼女がそれまで経験したことのない苦行だった。変わらぬ闇に変わらぬ段。本当に下っているのかも心もとなくなり、むしろ上っているのではないかという錯覚にさえ陥る。

 ひなは何度もしゃがみこんだ。足で強く胸を押さえつけて、心臓の存在を自分に知らせる。

「私は生きている。マキに昔助けられたから。今度は私が助けるために、至のところに行く」

 ひしゃげた心を奮い立たせて、再び歩みを進める。自然と、頭がマキを回想している。彼女は見ての通り愛想がない。村人たちには冷たい人間だと怖がられることも多かった。意外と情の深い一面がある……というわけでもない。他人にさして興味がなく、いつも遠くを見ていた。

 彼女は自分の信念には、絶対に嘘を吐かない。何を擲ってでも、己が道を守る。そうなったときの彼女には、前しか見えていない。差し伸べられる手すら、目に入らないのだ。いつしか彼女は独りで走っている。晴瀬が強引な伴走を続けているが、彼女の心はいつも孤独だ。

 心がそんなに強い人ではないのに。彼女は、いつか壊れてしまうだろう。彼女の破壊的な力を、晴瀬は受け止められるのだろうか。マキはひなには心をのぞかせる。しかし決して助けを求めはしないし、ひなも複雑な彼女を助けられるとは思っていなかった。

「マキ……」

 ひなは立ち止まって呟く。

「あなたの命を救えたとしても、あなた自身を救ってあげることはできないのかもしれない。この先も、ずっと」

 暗闇に放ったとき、突如光が目を突き刺す。ひなは音がするほど目を強く閉じる。全身に強張った力を徐々に抜き、ゆっくりと目を開ける。

「よろしき絶望!よろしき永遠!」

「楽しい客が来たぞ!」

「宴会じゃあ宴会じゃ!」

 豪奢な建物の中、わっと数十人の若い女たちが湧く。

 ひなは人目もはばからずにアホ面を晒した。

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