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そしてまた月は満ちる  作者: 春日野霞
八 黄泉
55/89

女神は下る

2021.02.16 投稿

 生命の息吹から遠ざかる。

 母の元へ向かうみちは、恒暗のずっとずっと先の坂を、とぼとぼと下っていた。

 景色は、空が白み始めた頃の色に似ている。どこを見ても、果てがない。四方を地平の線が区切っていた。

 みちは坂をいく自分の足を見ている。真っ白い足先が坂から転げぬように力をこめながら、視界の中へと交互に現れる。その規則的な動きが乱れることはない。みちは決められた時刻に顔を出し、淡々と空を亙っていく月を思う。機織小屋で、月光を待った日々。足の動きに合わせて、記憶の彼方から音が聞こえてくる。

こるう ヒー

パンパン ホ

こるう ヒー

パンパン ホ

こるう ヒー

パンパン ホ

こるう ヒー

パンパン ホ

こるう ヒー

パンパン ホ

こるう ヒー

パンパン ホ

こるう ヒー

パンパン ホ

こるう ヒー

パンパン ホ

こるう ヒー

パンパン ホ

こるう ヒー

パンパン ホ

こるう ヒー

パンパン ホ

こるう ヒー

パンパン ホ

こるう ヒー

パンパン ホ

こるう ヒー

パンパン ホ

こるう ヒー

パンパン ホ

こるう ヒー

パンパン ホ

こるう ヒー

パンパン ホ

こるう ヒー

パンパン ホ

こるう ぎちちちちちちちちち ヒ………………………………………………………………

 みちは足を止めた。

 ぎちちちちちちちちち

 固い大地が、強い力で擦れあったような音。

 ふ、と顔を上げた方向に、音の正体がある。深い青の闇に、上から真黒い何かが降ってくる。落ちている、というより、宙を垂直に進んでいる。二匹の蛞蝓が、互いを乗り越え前進していくようだった。

最初は一つだけだったのが、二つ、三つと増えていく。気づけば何百という数になって、一つがみちの上に降った。ざらざら、乾きに耐えかねひび割れた地面の肌触りが、彼女の頬を擦る。

 二匹の蛞蝓は坂に降り立つと蝸牛になっていた。各々が不愉快な音を立てながら、一心に坂を下っていく。

「そっちにいって、どうするの」

 蝸牛に向けた問いかけが、そのまま自分に返ってくる。

 どうして、坂を下っていたのだろうか。

 空から降る黒い蛞蝓の数は、下れば下るほどに増えていく。坂を占める黒の面積が、みるみる多くなっていく。

 考えてみても、思い出せない。し、思い出したところで、坂を下らねばという気持ちが変わることはない。

それは使命というほど強くはない。どちらかというと、祝祭の感覚に似ている。その儀式に大事な意味が隠されていることが、言葉にせずとも感じ取れるような。

 きっと、蝸牛たちも一緒なのだ。

 ぎちちちちちちちちち

 ぎちちちちちちちちち

 ぎちちちちちちちちち

 真っ黒に醜怪な蝸牛たちの中を、白い足がいく。彼女は真っ直ぐ行く先を見ていた。地の底を目指す闇の川の他に何も見えない。しかし瞳は、視覚を超えた感覚でものを捉えている。

 ぎちちぎちちちぎちち

 ぎちちぎちぎちぎちち

 ぎちちちぎぎちぎちち

「そうなんだ」

 ぎちぎちぎちぎちぎち

 ぎちぎちぎちぎちぎち

 ぎちぎちきがついたら

 ちまみれのゆかにたおれていた

「そうなんだ」

 ぎちちちちしにたくなかった

 ぎちぎぎちこどもをうめないのはごくつぶし

 ぎちちおまえのいのちはつみのはて

 ぎちちちちちちちおまえはいらない

 ぎちおまえじゃなくていい

 おまえがおまえじゃなくていい

「そんなことないよ」

 むすめがいればいい

 おとこがいればいい

 おまえがおまえでいようとするおまえはしね

「死なないでいいよ」

 ぎちちちちちちもうおそい

 ぎちちちちちちち

 ぎちちちちちちち

 ぎちちちちちちち

 おかあさん

 おかあさんがすくってくれる

「お母さん」

 みちは思い出した。

 地下の母に、会いにいくのだった。

 空から降る蛞蝓たちを、改めて見上げる。醜く見えていたその動きは、みちの瞳の中で両の手の平を合わせ祈る様に変ずる。

 みちは両手を組み合わせる。黒の中に一点、白き彼女は、葬列を率いるようにしずしずと坂を下っていった。彼女は、坂の幅が少しずつ狭くなっていることに気がついた。蛞蝓たちが現れる空の位置も、低くなってきている。蝸牛たちは次第に道には入りきれなくなり、互いを乗り越えて進んだり、壁を這ったりするようになる。

 青い闇が、黒い闇に閉ざされていく。

 やがて天井にまでも蝸牛が這うようになる。四方からやすりのような表面の蝸牛たちが、詰め寄ってくる。皮膚が破け、血が溢れる。肉体らしい肉体は既に無いはずなのに、痛みがある。みちは表情の無い顔で、ぼんやりと発光する身体を這う血を見た。自分の中にはまだ、なけなしの生命があるらしい。

 踏み出したみちの足が、壁に当たる。ぎちちと鳴く蝸牛たちは、変わらずぎちぎちとその先に進んでいる。試しに押してみても、前に進めなかった。

「行き止まり、なの」

『こノ先に、行きタイノ?』

 いつか聞いた、神の声。背後に、彼女の清澄な雰囲気を感じる。

「ええ」

『戻れなくなるわ』

「いい」

『会イタイ人に、会えなクてもイイノ』

「わたしに会いたい人なんて、いない」

『あなタがあなタでなクなるけど、イイの』

「わたしがわたしであったことなんて、一度もない」

『ソんなこと、なイわ』

「そうかも、しれない。けど、わたしには、そう思えない」

『こノ先には、今ノあナタノままじゃ、行ケなイ』

「どうしたら、いいの」

『わタしがあなタの、力になる』

 肩にそっと触れる。柔らかい手。

「また私は、取り憑かれるの」

『イイえ』

 背後の神の、柔らかく、心地の良い日差しのような吐息。

『あなタノ、大いなる力を呼び覚ます。そノきっかケとイうダケ』

 刹那に、戸惑いが胸をよぎる。しかし、もう守るものなど、なにも無かった。

「あなたは、何」

『わタしは……そうね』

 ふわり、と風のように、両の(かいな)がみちを包み込む。

『春ノようなもノよ』

 じりじり、皮膚の内側を光の粒が駆け抜けていく。全身の緊張がふるふると抜けて、みちは瞑った目蓋の裏に光の渦を見る。それに吸い込まれるような感覚に身を折り曲げ顔を覆い、苦痛とも快感ともつかぬそれを、腹から太い息で吐き出す。その息が行く先の壁を溶かして、真の闇を呼び込んだ。

 彼女はまだ、みちの形をしていた。しかし、ゆっくりと手を下ろし、胸を張って開いたその瞳は瑠璃の色に輝いている。

 別のものへと生まれ変わったみちは、迷わず穴に足を伸ばす。その先に地面はない。花びらが散るように、彼女は穴の底へと舞い降りていった。

黄泉、最終章です

次回からはラストパートが始まります。お楽しみに。

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