邂逅
※残酷な描写があります。苦手な方はご注意ください。
2021.02.15 投稿
恒暗は、死の世界へと繋がるあの洞窟に姿を現した。
マキに眼球を奪われ山脈を去った後、恒暗はこの洞窟にいた。晴瀬との約束を思い出したのだった。
訪れるナダに九の禁術を使うなと何度説得しても、いつものようにうまく丸め込まれてしまうだけだった。会話の中で協力者の存在を知り、彼に訴えることにしたのだ。
結果として、己の不幸を繰り返しそうになっていたのを止めることもでき、僅かばかりの達成感が胸にあった。
月の欠ける晩、死の世界への道が開く。その縁に、恒暗は佇んでいた。
何度だって下ろうと見下ろし、恐ろしくて足踏みする間、朝が来て入り口が閉まる。そしてまた、不甲斐ない己をなじる一日が始まる。
しかし此度は違った。
恐怖は命を守るための本能だ。自分は消えて無くなりたいはずなのに、なぜ恐れなど抱いていたのだろう。また、僅かな誇らしさが、彼の背中を押す。
底を覗くと、大きな岩が行く手を阻むように生えている。恒暗は、生首を手に、穴の中へと足を差し伸べる。すると岩の屹立した坂が階段となった。しかし入り口はみるみる狭まる。恒暗は急いで階段を下りた。
真っ暗になるかと思いきや、辺りは薄ぼんやりと光っている。見れば、全方位目がついていてそれが全て自分を見ていた。爪先から脳天へと怖気が駆け上がる。思わず後ろを振り返るが、たった今塞がったばかりだ。
「ヒヒヒ。結局怖がりか」
ケネカの声が響く。
「早く、生首を置かんかね」
言われたとおり、首を階段の一番上の段に置いた。
こうすることで、確実に死の世界へ至ることができると、ケネカは言うのだ。
「下手したら、朝が来ると共に追い返されてしまうからね。地上と地下を繋ぐ穴を塞いでしまった方が確実だろう?」
突如、首を置いた段が痙攣を始める。段が液体のように溶け、首を包み込みそのまま飲み込んでしまった。
恒暗は、下っていく方を見る。急な階段は、途中で闇に閉ざされ見えなくなっている。無数の目に睨まれたまま、果て無き段を下るのだ。
逃げ場を探し、恒暗は震える手で笛を口にあてがう。目を瞑って、吹き口に息を吹き込んだ。彼の澄んだ横笛の音は、閉じた空間に反射し、伸び、地上よりも美しく響く。すると、幾千幾億と睨んでいた目が目蓋を閉じ、光は繊月のようになった。
恒暗は大きく息を吸い込んだ。ゆったりと指を動かし、階段を下り始める。足音を拍として流れる旋律は、哀愁を秘めた秋風のように流れ渡る。鋭い繊月はしゅるりと回転して丸くなり、優しい星明りへと変わっていた。
夢中のような青の中、恒暗は淡々と下っていく。笛の音に、己までもが清らかになるようだった。
時の観念が消失したそこで、何百段目かの階段に足をかけたとき、恒暗は壁から突き出た黒いものを見止める。薄闇の中、恐る恐る近づく。その正体が分かったとき、恒暗は笛から口を離した「かあさん!」
駆け寄り近くで見た顔は、紛れもなく母親のものだった。がしかし開いたその眼は血の色に満たされていた。無音になった洞窟に星々が目をこじ開ける。
「かあさん!僕だ、恒」
「太陽は惨事に時間を定めてわたしは迫害を謝罪するために密事におこがましく響き渡る鞭の音は蟻のように地を歩き影のように地を這い太陽に目は焼かれている雲の微笑……空が落ちてこない理由を天井に問えど梨の礫は私の歯に食い込み走る金木犀は高らかに声を上げ産まれたばかりの爪を踏みにじる……わたしはなぜ」
開かれた口から流れ出る言葉に、恒暗の顔は悲しみに歪む。
「聞きたくない……もう、あなたの、そんな言葉は……!」
かき消すように、笛を吹いた。
すると、母親の言葉が嘘のように変わった。
「ごめんなさい、もう、しませんから」「ゆるしてください」「二度と、言いません」
恒暗は驚きに、笛を口から離しそうになる。母の首は己の過ちを詫びるいくつもの言葉を垂れ流してしまうと、目を閉じて涙を流した。
清らかな泉が光を湛えたような、澄んだ涙だった。
彼は唇を笛から離す。静かに眠るような、母親の顔。
「母さん……」
その後の言葉が続かない。言いたいことはいくらでもあった。胸の底で渦巻く、母親への感情。自分を死なない身体にした母親を憎み、母親の生まれ変わりを探して殺した過去。
「生まれ変わり、だって?」
不愉快な声が聞こえた瞬間、目の前の景色が一変する。
仄明るい洞窟ではない。もっと開かれた、灰色の世界。
今にも雨を落としそうな雲が重く垂れ込め、荒れ狂う海の色は銀色に凍っている。皮膚がひび割れるような風に、骨の芯まで冷えていくようだった。
それは忘れもしない、景色だった。恒暗は顔を上げる。
肌色の砂浜に、点々と血の跡。それは海岸を這いつくばる白い髪の女のものだった。苦しそうな呻き声が、刺すような風に乗って耳に届く。
昔の自分が見た光景をそのまま、思い出しているのだ。身体は勝手に動いて、血痕をたどり彼女に近付いている。気配を感じたのか、女が振り向いた。青白い顔の半分が、血で真っ赤に染まっている。閉じられた片目から血の川が流れていた。それは彼女の瞳の色が溶け出したような色をしていた。
恒暗は立ち止る。女も身体引き摺るのを止めて、ゆっくりと身を反転させる。
「あんた……」
微かな息にのせた、か細い声。
返事はせずに、歩み寄る。やっと見つけた。ようやっと、不死の苦しみを与えてきた者に、苦痛を返すことができるのだ。
「私を殺しに来たんかい」
「お前が憎い」
「ははあ」
「私を不死の身体にしたこと、忘れないとは言わせない」
「……はは」
「お前は、母さんの生まれ変わりだ。沖が同じだ」
女は唇を、三日月形に引っ張って笑った。
「生まれ変わりなぞ、信じるでない」
「お前は母さんの生まれ変わりだ。間違いないんだ!」
恒暗は彼女の首を掴んで砂浜に抑えつける。
「よくも、私を、こんな風にしたな」
彼女の喉がヒヒヒヒヒヒと動く。気味の悪さにぎょっとすると、身体が跳ね飛ばされている。波打ち際に背中を打ち付け、立ち上がろうとした胸を女の膝が抑え、頭を片手が抑えた。どこにそんな力が残っているのか、逃れようとしても身体はびくともしない。あっはあっはあと笑い声までもが飛び出てくる。
「よおく、見ておきな」
女は顔を近づけ、残った己の目に自ら指を入れた。
地割れのような悲鳴が響き渡る。
恒暗は目を離せない。理解を超えた行為に心臓が猛り、思考回路が機能を放棄する。
彼女の片手に真っ赤な眼球が握られる。血の滴るそれを、眼もないのに見えているのか、驚きで空きっぱなしになっていた恒暗の口に突っ込み鼻と口を塞いでくる。天地も分からなくなるほど驚いて暴れたが、凄まじい馬鹿力を振りほどくことができない。苦しみにもがく咽が、余りに大きな異物を、遂には飲み込んだ。
眼球が下っていく音が、耳の底で生々しく響く。
女は手を離し、力を失くして横に倒れた。両目から滝のように血を流し、波打ち際に笑っている。
それを横目に、厳冬の海に口の中の血を吐きに吐く。海水を掬って口をゆすぐ。塩と鉄の味が混ざり合い、舌に突き刺さってむせる。赤く染まった波が白い泡と共に去っては、新たな透明が寄せる。喉に指をつっこんでも、吐き気が上がってくるだけで眼玉は出てこなかった。
「むだよう」
未だ息のある彼女に、怒りが突き上がる。女の腕を引っ掴んで、激しい波の寄せる海の中へと入っていく。さすがに力は尽きたのか、掴んだ腕は死人のように冷たかった。恒暗は何度も波に倒されながらも、女の顔を海に沈める。彼女は死にかけの虫のように最後の抵抗を示すが、やがて全身が萎れる。
女の身体を持ち上げ、できるだけ遠くへ放り投げる。ささやかな飛沫が空を目指すが、すぐに海面へと引き戻されていった。
恒暗は沖に背を向け、浜へ戻る。何度もえずいては立ち止るが、眼球は口から出て来ようとしなかった。胃の腑でないどこかに下ったような感覚が、脳を苛む。奇怪なものを含みこんだ彼を追い出すように、銀の波が彼の背を殴った。何度も膝を突きながら、彼はなんとか瀬を歩んだ。
海を脱した濡れそぼつ身体を、強い寒風が凍てつかせる。震えの止まらぬ身体を抱き、彼は吼える空と狂った海から逃げ去った。
「……久し振りに思いだしたろう。私を殺したこと、後悔してる?してる?してない?」
ケネカの声に、記憶から洞窟の中へと引き戻される。
海辺に展開された地獄の余韻に茫然とする彼を、いつの間にか姿を現したケネカが笑う。彼女は三つ下の段から、彼を見上げていた。
洞窟を埋め尽くす眼の色の色が、血のような赤に変わる。
「生まれ変わりなんて、信じたのが悪いのさ。単なる農耕民の信仰思想に過ぎないのに。もっといえば命の行方に人間が安心をするための欺瞞だよ」
「似ていたから、沖が、母さんに」
「同じ月神に取り憑かれていたから、そう思ったんだろうよ」
「母さんは今、どこにいる」
「この階段の、ずっとずっと奥の、どん底さ。会いたいのかい」
「会いたい……」
恒暗は冷たい手の平で、己が肩をさする。
「私を、殺せるのはもう、母さんしかいない……」
「ヒヒヒ。私はあんたが憎いから、会わせてやらない」
「それならお前が、私を殺せばいい」
「死なせてやらない」
「それでは、私は何をしにここへきたのだ」
「苦しむためさ」
恒暗は、化物じみた彼女の笑顔に真意を覚る。
「あんたはもう、ここから出られない。さっきのように、私が記憶を引っ張り出してやろう。笛が吹けなくなったあんたを、洞窟の目が睨む。耐え切れないあんたは笛を吹く。そしてまた私はあんたの記憶思い出させてやる。あんたが死ぬまで、続けてやる」
彼女の笑い声が、洞窟の壁に反射し無数に分裂し、恒暗に降りそそぐ。
「おおっと、あんたは死ねないんだったね。失礼したよ」
恒暗は、へたりと座り込んだ。果てしなき闇と無数の瞳。虚脱していれば、闇に溶け消えることができはしまいか。
満願成就に笑う青白い顔を、もう憎いとも思えない。かといって過ちを自責することもなかった。それだけ純粋な絶望が、身の内に満ちている。死の世界でも死なれずに、過去に祟られ生きねばならない。空いただけの右目から、血の涙が溢れる。冬にさらされたような冷たい頬を、生温かい液体が流れ落ちた。
「あれっ」
突如響いた、闇を裂くような声。
恒暗は顔を上げ、ケネカは振り返る。闇の底から、ぼんやりと光る娘が駆け上がってくる。
「お久しぶりだわ」
娘はそう言うと、二人に笑いかけた。朧月がそのまま娘の形になったような彼女の顔に、二人とも見覚えがあった。
ケネカは珍しく動揺し、彼女に問う。
「あんた、みちかね」
「そうよ」
花が開いたように、彼女は笑う。
「……洞窟の奥に行ってしまった、母さんの生まれ変わりか……」
「そうよ」
「みち、という名なのか」
「そうよ。私はみち」
みちはケネカの一段下まで迫る。
「あなたも、みちでしょう」
と黒い目を細めてケネカに笑いかけた。
「な、にを言うかねこの小娘は」
ケネカの顔は引きつっている。
「死にきれない生は、皆みちだもの。このままあなたがもっと歪んでしまったら、お母さん、大変になっちゃうよ」
「お母さん?」
「うん、このずっとずっと奥に、いるでしょう。お母さん、死にきれない生をたくさん吸い込むの。でもそれを吐き出す先がなくなっちゃって困ってるみたいなの。歪んだ、死にきれない生は、飲み込むのがきっと苦しいから、お母さんもっと大変になっちゃう」
みちはケネカの両頬を手の平で包み込んだ。
「だから、わたしと一緒に行こ」
みちはふわりと背伸びをして、ケネカに口づけをした。青白い狂女の身体が、抗う間もなく透けていく。みちは消えゆく彼女を抱きしめると、あとかたもなく消えてしまった。
恒暗は目を見開きみちを見下ろす。彼女は、閉じた目をそっと開く。黒かったはずの瞳が、真っ赤になっていた。
みちがケネカの言葉を話すのではないか。怯んだ恒暗を裏切って「私ね、晴瀬に会いに行くの」と微笑む。
「晴瀬……」
海の男の名を反芻する。
「だからここから外に出るの。あなたも一緒に行く?」
「……上への穴は、塞いでしまった」
笑顔だった彼女は、残念そうに眉尻を下げる。
「せっかく、ちゃんとした穴を見つけたのに」
「……すまない」
「ううん。他を探すしか、ないわ。あなたも一緒に行く?」
「……あなたの言う、お母さんとは、私の母のことなのか」
「しらないよ。でも、あなたもちょっとお母さんに似てるから、お母さんの中に、あなたのお母さんもいるかもしれないよ」
彼女は、本当にみちなのだろうか。恒暗は首を傾げる。見違えるほどに表情が明るく、また自分のことも覚えていない。
「私は、この底にいるという、母に会いに行きたい」
「わたしもね、お母さんのところに行ってるの。お母さん困ってるみたいだって、さっきも言ったでしょ」
「……晴瀬に会いにいくのでは、ないのか」
「うん、わたしは晴瀬に会いにいく!」
彼女の屈託のない笑顔に、恒暗は戸惑う。
「そんなはずは、ない。どちらか、だろう」
「晴瀬に会いたいわたしは会いにいく、お母さんを助けたいわたしは下にいく。どちらか一方じゃないと、なんてことないわ」
行こう、とみちは階段を下り始める。恒暗は躊躇いながらも、彼女の後についた。段を下りる度に、光の髪が艶やかに揺れる。
壁中の目はいつしかなくなっていた。暗闇を、彼女がぼんやりと照らす。二人は何千に及ぶ階段を淡々と下っていく。恒暗は途中で笛のことを思い出したが、吹く気にはならなかった。
彼女が突然立ち止まり、振り返る。
「ここから階段終わって、平になるから、気をつけて」
恒暗は頷いた。
最後の一段を下りる。身体は階段を下りる繰り返しに慣れきってしまい、妙な心地がした。闇の中には、耳を塞いだときのような音が凝っている。
「どこへ、行くのか」
まるで道があるかのように歩む彼女の背中に問う。
「お母さんのところに、行くのでしょう。途中まで送ってあげる」
「……すまない」
「いいよ。きっとお母さんも喜ぶような感じがするもの」
「地下にいる母とは、どのような姿をしているのか」
「私はお母さんに会ったことはないの」
「それではなぜ、母が苦しんでいると、分かるのか」
「感じるからよ。お母さんはね、死にきれない生を吸い込んで、息みたいに吐きだすの。するとね、死にきれない生はきれいになって空に昇ることがきるようになるの。だから死にきれない生はお母さんのところに集まるんだ。でもね、吐き出すための穴を、ずっと前に全部塞がれちゃったんだって。お母さん、息ができなくなっちゃったから苦しいの。それでも、お母さんに吸い込んでほしいって、死にきれない生はたくさん集まってくるから、お母さんのいる地底から溢れかえって色んなところに溜まっちゃってる。お母さんはますます苦しくなる」
彼女は振り返って、後ろ向きに歩きながら答えた。恒暗は、赤い目から彼女の足元に目を逸らす。
「でもね、最近、塞がってた穴が、空いたの。だからちょっとずつ、お母さんも楽になる、かもしれない」
「その穴から、あなたは出られないのか」
「出られるよ。出たもの。でも、溢れた死にきれない生もついてきちゃうの。だから、会えるんだけど、私だけでは会えないんだ」
みちは突然立ち止まり、彼との距離を詰める。いきなり真下から覗きこまれた彼は、一歩後ずさった。
「そういえば、その時、あなたを見たわ。食べてしまった、気がする。わたしはそんなこと、したくなかったよ。でもね、死にきれない生たちが仲間だと思ったみたいでね、勝手にに引っ張られちゃって」
恒暗は、槻白の山姥を思い出しハッとする。
二十八の神社は、それぞれ異なる月相のときに「邪なもの」を抑える厄番の儀式をする。槻白の山姥は、それがおろそかになってしまったがために現れたのだ。彼女の話とあわせて考えれば、厄番というのは、地底にいる母の呼気を塞いでしまう儀式だということにはならないだろうか。
「……母は、元通りに開いた穴から、呼気は出せるようになったのか」
「うん。そうみたい」
「あれは、どうだ」
恒暗は立ち止まって、前方を指さす。彼女は髪を揺らし、くるりと振り返った。
「あれは、見たことない。新しい穴かも!」
鈍い金の彼女は、白い穴に駆け寄っていく。真下からそれをじっとのぞき込む。が、彼女は首を横に振った。
「これは、塞がった穴が空いたものだわ」
恒暗は彼女の横に並んで、白い穴を見上げる。遠いようで近く、近いようで遠いその穴から、恒暗には何も見えなかった。
「もうすぐ、死にきれない生の大群が来るわ。巻き込まれちゃうから、離れましょう」
みちは軽やかに走り出した。
恒暗はそれでも、後ろが気になる。死にきれない生とは、どのようなものなのだろう。自分と縁が無いものとは思えない。もしかしたら、人間よりも近い存在かもしれないのだ。
彼は、何度かちらちら振り返る。しかし見えるようになるよりも先に耳が音を捉える。
ズズ、ズズ。恒暗は走る光を追いかけながら耳を澄ませる。足を、交互に前へ踏み出す音。重たい足を引き摺り、一歩ずつなんとか前に進むような、苦しい足音だった。それがやがて止まったとき、恒暗は振り返った。
巨大な人型が、こちらをじっと見ている。黒く悍ましい物体がぎっちりと集密して、人の形をとっているのだった。その表面はささくれ立ち、乾いてひび割れた大地を思わせる。
あれが、どこにも行き場の無くなった命の塊。恒暗はゾッとして顔を背ける。
しばらく走ると、薄紫の壁が見えてくる。みちはその前で、くるりと振り返った。
「ここをずっと下っていくと、着くわ」
壁の発するぼんやりとした光に、彼女の輪郭は曖昧になっていた。
「壁の、向こうに、か」
「壁に見えるだけよ。もう、ここから先に行ったら、絶対に帰ってこれなくなってしまうわ。それでも、いいのね」
恒暗は「構わない」と頷く。みちは赤い目を細めて、頷きを返した。
「それじゃあね。お母さんと、下のみちによろしく」
彼女は長い髪を翻し、走り去っていく。
恒暗は、ひとつ大きく息を吸った。壁にそっと手を伸ばす。感触は何もなく、白い手が空間と同じ色に染まる。一歩、大きく足を踏み出し、暗闇から曙のような色の世界へと飛び込む。巨大な坂道をひとつ蹴り、彼は滑るように下っていった。




