地下
2021.02.09 投稿
妙な臭いに耐え切れず死ぬだろう、と青颯は思っていた。
地下の狭い部屋には、書物や腐臭の混ざった臭いが渦巻いている。ひどい悪臭に食事も咽を通らない。書物を読む余裕も無いが、ハマの無言の圧力からなんとか文字にかじりついている内に、鼻が麻痺して臭いを感じなくなった。
加えて沖が分からない。今まで当たり前に使ってきた感覚を突然奪われるというのは、相当な恐怖だった。また毎日逃げることを考えるが、やはり沖術が使えなければどうにも逃げられそうにない。
ハマが隣の自室で眠っただろうという頃合いに、梯子を上って地上に通じる蓋を開けようとしたことがある。しかしピクリとも動かなかった。その上、闇に「その蓋は、上からしか開けられないのよ」というハマの声が響き、肝を冷やした。
ハマは、非常に鋭敏な読沖の感覚を持っていた。だからこそ、眠っていても隣室の人物の行動に気づいて目を覚ますことができるのだった。本来はよほど強い刺激でなければ、眠っているときに読沖が働くことはない。
「おはよう」
地下室の時間は、ハマが司っていた。部屋から出てきた彼女が書庫の灯りをともして一日が開始し、全てを消して部屋に退くと一日が終わる。
無表情のハマに起こされた青颯は、起き上がった後しばらくは額に手をあて動かない。ハマは、天井の蓋の隙間から下がった縄を何度か引く。しばらくすると重たい音と共に蓋が空き、彼女は梯子を上って地上に出ていく。
地下室は三つの部屋に分かれていた。青颯のいる書庫を真ん中に、両端にはハマの寝起きする部屋と、得体の知れぬものを溜め込んだ部屋がある。地上に通じる蓋があるのは書庫だけで、縄を引っ張り合図をし、上にいる者に開けてもらう。
青颯は額に手を当てた姿勢のまま、うつらうつらしていた。今度の「夜」は短かったような気がする。
「起きて」
肩を揺すられて、目を開ける。小さな机に、粗末な朝食が並んでいた。ハマは彼の傍らを離れ、朝食を食べ始める。青颯はのろのろと立ち上がって、食べ物の前に座った。湯吞みに入った冷たい水を飲み干す。作業のように朝食を口に運んで、青颯は再び寝床に伏す。
それを一瞥したハマは食器を重ね、机を部屋の隅に戻す。
「起きて」
「……なんで?」
「禁書の解読、もう三日も進んでないじゃない。いい加減、兄さんに言うよ」
彼女は抑揚なく声をかける。彼は答えず、動きもしない。溜息をついた彼女は、部屋の掃除を始めた。彼女が青颯の周りを箒で掃き出したとき、彼は突然箒を掴んだ。
「あのさ」
と顔を上げる。
「こっちの蠱術がどういうのなのか教えて」
「あなたのとは、違うの」
「違うからそう言ってるんじゃん……」
と彼は再び突っ伏す。
「手、どけて」
彼女が言い終わる前に、彼の手は箒から滑り落ちる。再び寝息をたて始めていた。
ハマはしばらく彼を見つめ、掃除を再開する。彼女の顔は、兄にはあまり似ていなかった。一重の目は切れ長く、かたい髪には癖がある。鼻もナダほど高くなく、唇はほとんど色を失っている。肌の青白さだけをとれば、むしろ青颯に似ていた。
彼女は箒を元の場所に置き、代わりに盥を手にする。その上で手拭いに術で水を沁み込ませ、ぎゅっと絞った。
「起きて」
肩を揺すると、青颯は不機嫌に顔を顰めてハマを見上げ、ゆっくりと身を起こす。
「はい」
濡れた手拭いを差し出すと「ありがと」と不機嫌な顔のまま受け取る。随分と時間をかけて顔や首を拭き、差し出されたハマの手にそれを返す。彼女は術で水を張った盥で洗い、それを持って自室に消える。青颯が立ち上がって首を回していると、彼女が戻ってきた。
「私は、兄さんみたいに蠱術を理解しているわけじゃないから、あなたがほしいものを知っているか、約束はできないわ」
彼女は部屋から出たところに敷かれた円座に座る。青颯は彼女と反対側にある、文机の前に腰を下ろした。
「蠱術を理解してないで、どうやって蠱術をやるの」
「……あなたのところがどういう蠱術なのか知らないけど、ワタドの蠱術は、知の者と霊の者が力を合わせることで可能になるの。知の者は兄さんで、私は霊の者。だから、兄さんほど詳しく理解してるわけじゃない」
青颯は床にいくつか積んである和綴じの本を手に取っては、表紙をめくる。何冊目かで目当ての本にいきついたようで、頁をペラペラと繰った。
「ああ、霊の者は、地の極まりと繋がる者で、その霊性は霊の者である親の肉を食べ継承されるって書いてあるけど、食べたの?」
ハマは首を横に振る。
「何代か前までは、そうしていたらしいわ。でも地の極まりに通じるための壺が、作られたの。それからは食べたりしなくなった」
「じゃあ壺に仕事をさせればいいじゃないか」
「……壺だと、送りきれなくて溢れることがあるから」
ふうん、と彼はまた頁を繰る。
「霊の者は、地の極まりと繋がるための装置って感じで合ってる?それを動かす、止めるっていう操作をするのが知の者?」
「そう」
「他に必要な役割はないの?」
「ないわ」
「で、こっちの蠱術でできることは、病気や怪我を治すこととか、腐敗を防ぐこととか?」
ハマは頷く。
「病気怪我腐敗を、知の者が霊の者を介して地の極まりに押し込むんでしょ」
「……分かってるじゃない。こっちの蠱術のこと」
ハマは自らの肩を抱く。青颯はその指に包みこまれた黒い皮膚を見つめた。
「分からないこともある。その用途以外にも蠱術を使ってると思うんだ。この村の沖は、蠱術によって大きく歪んでたから。それは、何をするための蠱術の影響?」
彼女は、少し考えてから口を開いた。
「結界を、蠱術で張っているみたい。私はよく知らないけど、沖を歪めてシアラが簡単にここに来られないようにする蠱術」
「じゃあ霊の者がいらない蠱術ってこと?」
「ええそうよ」
頬杖をついた青颯は、しばらく中空を睨む。
「知の者は、病や腐敗をそのものから引っぺがして、あんたの中にいれるわけでしょ。それってもしかして、対象の周りに要を置いて、壺中の空間を模してあんたの中に落とし込むって感じでやってる?」
ハマは意味を取りかね、首を傾げる。
「例えば、この前は俺に病を治す術をかけたわけでしょ。その時、俺の周りに呪具を置かなかった?それは、壺の中を擬似的に作り出してるんだよ。壺っていうのは、水とか物だけじゃなくて、沖とか蠱術のような力も溜め込んでおける。だから蠱術の結界で壺の底を模せば、病なんかが自然と底に溜まる。であんたは壺の底と繋がるんだろうから、受け取って地の底に押し込む……ってこと?」
「多分、そうだと思う。でも……前から分からなかったんだけど、壺の底と私がどうして繋がるの」
「そんなことも知らないの」
「私は知の者ではないから」
「でもじゃあ、知の者が間違えたときどうするの?あんたも知識を持っていて損はない……ってまあ俺には関係のない話だけど。それに答えるには、そもそも蠱術って何なのかってところから話さないといけないんだ」
と彼は本に目を落とす。
「……教えてくれないの」
「ああ、めんどくさいなと思って」
「教えてよ」
「ていうか、なんで知らないの」
「……勉強不足なんだと、思う」
「じゃあ」自分で勉強して、と言いかけ、飲み込む。恩は、売れるときに売っておかなければなるまい。青颯は本を置く。
「蠱術が誕生した頃、どういう術だったのかは知ってるの?」
ハマは頷いた。
「壺の中に、毒虫を百匹入れて、食らい合わせる。そうして生き残った一匹を、冬至に一番近い満月の日に取り出して、乾かす。それを、薬や毒に使う、という術でしょう」
「そう。そこから、暗がりの底で、複数の力や生命が一点に凝縮して力を持つっていう蠱術の原則ができた。暗がりの底っていうのは、壺の底のことだ。それをもっと大規模に考えると、大地の底、ということになる」
彼は肩幅に掲げた手を、逆三角に滑らせ胸の前で合わせる。
「あんたが繋がってるっていう地の極まりっていうのは、ここのことなんでしょう」
合わせた手を二度揺する。彼女は「多分」と頷いた。
「今の蠱術で言う暗がりの底は壺の底じゃなくて、この地底のことだ。これが、蠱術の力の源泉」
「どうして、そこが蠱術の源泉になるの。蟲のようなものが、たくさんいるの?」
「真実かどうなのかは知らないけど、ここに死にきれない生が集まる、って言い方をする。それが持つ怨念というか、負の霊的な力を使う……まあこっちの蠱術はそうじゃなくて、死にきれない生の範疇である病や怪我を、地の極まりに捨ててしまうって感じなんだろうけどね」
面倒だと言った割には、よくしゃべる。
「で、壺の底も、あんたも、地の極まりも、同じように蠱術の力で満たされている。だから繋がるんだ。で、蠱術には常に上下という階層が与えられるから、上から壺、あんた、地の極まりに下っていくような力が働く。だから、あんたと壺が繋がる」
「それなら、壺から、直接地の極まりにいってしまうこともある、ってこと」
「多少は。でも限界がある。さっき地底と繋がる壺があるって言ってたけど、それは何らかの蠱術がかけられた特別な壺だ。でもあんたほど力が強くはならないはず」
「……それじゃあ、結界で作った壺も、地の極まりに直接繋がるようには、作れないの」
「できない。というか、結界の中には人がいる。あんたの肌の黒いのは、地底との接触が原因の穢れでしょ。もし結界が直接地の極まりに繋がったら、例外なく穢れに触れる。ふつうの人間はそれに耐え切れないで死ぬ」
ハマは返事をする代わりに、手足を縮める。頬に走った黒い稲妻と、黒く焦げ付いたような皮膚を両手で隠した。
青颯は無表情に彼女から目を逸らし、字がびっしりと書かれた紙の束をめくり始めた。
「……あなたの村にも、私のような人が、いたの」
「いなかったよ」
彼は手を止めずに答える。
「じゃあ、どうやって地の極まりと繋がったの」
「そういう、神様みたいな化物みたいのがいたんだよ」
「それって、何」
青颯は彼女を一瞥する。
「聞いてどうすんの」
「知りたいの」
「どうせまた、兄さんに聞いておけとか言われたんじゃないの」
「違うわ」
彼は何枚かの紙の束を抜き取って、机の上に置いた。
「ほんとに?」
鋭い目を向けられても、ハマはひるまず頷く。青颯はその目をじっと見つめ返し、徐に口を開く。
「……嘉杖土にはね、洞窟の奥に御妣と御子ってのが祀られてた」
「みははとみこ?」
「胡坐をかいた女が、玉を抱えてる。女は髪が長くて、ずっと俯いている。はっきりと見ることは禁じられているけど、ていうかこんな風に他人にしゃべることも禁じられてるんだけど、身体が腐ってはいないんだ。かといって干からびてもない。それが地底と繋がっていた」
「あなた、さっき……負の霊的な力を使うって言ってたけど、その、御妣と御子が、何かをしてくれるの」
青颯は頷く。
「正確には、御妣と御子に、強大な力を振るわさせて願いを叶えさせるんだ。してくれる、っていうか、こっちがさせる。自分たちの望むことをさせるために誘導する術が、嘉杖土の蠱術」
「願いを叶えてもらうための、術ってこと」
「そうだね」
「じゃあ、九の禁術は……そっちの蠱術ってことなの」
思ってもみない言葉に、青颯は目を円くする。
「沖術をこの世から無くす術が、九の禁術なんでしょ」
「まだ分からない」
「でも、兄さんは、沖術を消す術の書いてある九の禁書を読み解け、って言ってたでしょう」
彼の顔はあからさまに不機嫌になる。
「あの九の禁書に、何が書いてあるか知ってる?」
ハマは黙って首を横に振った。
「くそつまんない民話が書いてあるだけなんだよ。難解なことが記されてる方がまだマシだ。ほんとに禁書扱いされるほどの蠱術が書かれてるのかってことから謎なの。で朝三日も進んでないとか言ってたけど、そんな本だから蠱術の本とか他の民話とか色々読んでちょっとずつ手掛かり探るしかないんだよ。別にだらけてるわけじゃないから」
「ごめんなさい」と彼女は口の中で小さく謝る。
「なんであれに沖を消す術が書いてあるって言ってんのか知らないけど、ナダはなんで沖術をこの世から消したいとか言ってんの?」
「そんなこと知らなくていいって、前も兄さんが言ったでしょ」
しょんぼりと目を落としていた彼女は、一転して強い眼差しを彼に向ける。
「それがそもそもおかしいでしょ。こんなとこ閉じ込められて大人しく従って調べてやってんのに肝心なとこ知らなくていいとかさ。あとさ、兄さんって呼ぶのやめてくれる?」
「……じゃあ何と呼んだらいいの」
「名前ででも呼んだら?」
投げやりに答える。
「そんなこと、できないわ」
「できなくてもやれよ。とにかく兄さんってもう言わないで。兄さんが言ったとか兄さんに言われたとか、そんなんばっかりじゃん」
「……勝手なこと言わないでよ」
「じゃあこっから出してくれない。そもそも勝手をしているのはどっちなの?」
ハマはいつものように、目を伏せ黙る。「出せ」というと、彼女はいつも悲しそうな表情をする。被害者を気取られているような気分に、苛立ちが募った。
青颯は大袈裟に溜息を吐き零し、手元の書物に目を落とす。
ナダに読み解けと言われた九の禁書に関し、周辺の資料から探りを入れているとハマに説明したが、半分本当で半分嘘だった。
何日か前から、お手上げ状態だった。九の禁書に記された蠱術を果たすために必要な材料は、さほど苦労せずとも分かった。しかしそれはナダも同じなのだろう。「材料の一つは既に揃っている」とも言っていた。しかしそこから先がのっぴきならないため自分にやらせているのだ。
青颯は三日前から、自分にかけられた神縣を抑える術を解く方法を調べていた。ナダがここにおりてくることは滅多にない上、ハマは視力が弱いようだった。そのため、別なことを調べていても覚られないだろう。
とはいえ、蠱術の書物を読むことが苦痛であるのに変わりはない。思い出したくもない過去が、五十年ぶりの単語に触れるたびに蘇ってくる。
彼の生まれた家は、故郷の嘉杖土において蠱術を司っている家だった。
彼は蠱術の継承者として、幼い頃から基礎を叩きこまれていた。三つ離れた兄はだらしがなく、継承者として次男の彼にお鉢が回ったのだ。
兄の姿に嘆く親戚を見ていたため、彼は大層真面目に蠱術の修得に励んだ。才能の結果か努力の末か、通常は五年かかる基礎内容を一年で覚えきってしまった。のめりこみ始めると止まらず、次から次へと新しいことを覚え、術の実践を重ね、当時の蠱術の主であった父親に意見するまでになった。喜ぶ親族に対し、兄の顔は日に日に歪み非行に走るようになり、ついには座敷牢に閉じ込められた。
それを自分は、暗い喜びに浸りながら見ていたのだった。
今となっては、自分の真の暗愚さに溜息が出るばかりだ。兄は蠱術の陰惨を理解し、あえていい加減な振る舞いをしていたのではないかと思える。数少ない兄の記憶を手繰り寄せると、幼いうちは、彼は「覚えが早い」と褒められていたような気がするのだ。しかし加減を誤り牢にぶち込まれる辺り、彼も本来的には愚かなのだろうと思いもする。
どちらにせよ、兄はもう生きてはいないだろうから、確かめる術はない。一族は五十まで生きれば長寿と言われた。父親も、自分がまだ嘉杖土にいるときに死んだ。蠱術の主は短命であるものだったが、そうであっても早すぎたようだ。父親の顔や年齢など記憶にないが「若すぎる」と口々に言われていたことは覚えている。
父親が死んだ後、青颯が蠱術の主になった。歴代で最も若い主であった。
「だまれだまれだまれ」
口の中で小さく己をなじり、回想を止める。眠気も相まって、文字が眼球を滑るだけになっていた。読んだ記憶の無い箇所まで戻り、苦痛を噛み殺し読み始める。
ワタドで初めて神縣という言葉を発したとき、ナダは「こちらに書物はほとんど残っていない」と言ったが、真っ赤な嘘だった。禰々島よりも、遥かに詳しい資料がいくつか出てくる。
昔は、それほど神縣に苦しめられていたらしかった。文章の端々から、蠱術で神縣を鎮めようとした苦労がうかがえる。沖術では対抗できなかったらしく、相手を煽ることになるため使ってはならないとまで書いてある。
しかし、ここに渡ってきた三百余年の間は、さほど神縣には苦しめられていないようだった。書物は番号を振られて管理されており、ここに渡ってくる前のものもいくらか残っている。神縣の資料は、ここに渡ってきた後の番号のものが少ない。代わりに、医術や防腐に関する資料は増える。ワタドの族長ですら、神縣のことを知らなかったのだ。それよりも大きな敵はシアラなのだろう。
彼が今読んでいる紙の束は、神縣を抑える術が羅列してあるものだった。全く関係のない医術の棚に入っていたもので、丸一日使って探し当てた。しかし内容を見てみると、神縣の人間を殺すことを前提として書いてあるものばかりだった。いくつも方法が書いてあるが、どれを読んでも期待は外される。
「あ」
めくった頁に、神縣の人間を殺さない術の事例が出てくる。
しかし、必要な材料の時点で、それが間違った術であることに気づく。そのまま方法を読んではみたが、やはり間違いであった。
嘉杖土型の蠱術に不可欠なものが、欠けている。
また嫌なことを思い出しそうになり、青颯は次を急ぐ。辞書を片手に全て目を通したが、結局それらしいものは見つからなかった。
大きな溜息を吐いた青颯はのろのろと立ち上がり、紙の束を手に本棚の前に立つ。
彼のいる部屋は、両側の壁がそのまま本棚になっていた。床から天井まである棚に、本や巻物、紙の束が隙間なく敷き詰められている。書物にはそれぞれに年代の番号と、分類の番号がふられており、分類ごと、年代順に並べてあった。更には所蔵されている書物の一覧表まで作成されており、防腐の蠱術がふんだんに活かされ劣化や虫食いもほとんどない。あまりの整然さに感心したくもなるが、それほど大事にされていることが憎々しくもある。
元あった場所に紙の束を戻し、何冊かの本を引き抜いて机に戻る。幸運にも、最初の本から求めている情報が書いてあるが、字が汚くまた文章が回りくどく、読み取るのに苦心する。「ご飯」
いつの間にか昼食を整えたハマが、おずおずと声をかける。しかし青颯は見向きもしない。
「ご飯だよ」
声を強める。
「あとで食べる」
彼は字を追いながら答える。
「今日は、温かいのあるから」
「それよりさ凌光」
小さく呼びかけた青颯は、間髪入れずに自らの頬を叩いた。
「……リョウコウって言った後にいつも頬を叩くのは、どうして」
彼は青いくまを刻んだ顔面をハマに向ける。
「もう二度と言わないようにだよ」
「リョウコウって、悪いものなの」
「違う。人の名前だ」
「どんな人」
「……凌光は凌光だよ」
と書物に目を戻すが、集中が切れてしまい内容が少しも入ってこない。溜息と共に立ち上がり、仕方なく箸をとった。味のしない食事を胃に詰め込み、机の前に戻ったところで睡魔が襲ってくる。
「ねえ」
「は?」
閉じようとする目を無理矢理開けて、彼女を睨む形になる。
「これを読んだら、なんで沖術を消したいのか分かるって」
眠気が強大な力を振るう今、そんなことはどうでもよいことだった。
彼女はその薄い本を文机に置き、食卓を片付ける。青颯は机に膝を突き両手で顔を覆う。睡魔に意識を奪われ、ぐらりと倒れた。




