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そしてまた月は満ちる  作者: 春日野霞
七 化物
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過去から未来へ

2021.02.08 投稿

 翌日、マキが目を覚ましたのは夕方前の頃だった。

 山を下りて村に出た後、強烈な渇きが咽を襲った。月光がひっそりと無言の村を照らす中、井戸を見つけてあおるように水を飲んだ。

 次に襲来したのは空腹と眠気だった。ぐらつき始めた視界が、遠くでひょこひょこ走る鬼の影をとらえる。今の状態では、とても戦えない。ましてや食べ物を探すことなど、到底できないだろう。

 鬼が唯一入ってこない場所、それが神社だった。マキは明鳴神社のある山へと逃れる。朝になれば、神社には人が来る。いくらか登っていくと、池に辿り着いた。

 その畔で、目覚めたのだった。

 梢を透かし、太陽光線が澄んだ池を煌めかせている。夕刻の風に水面が荒立つと、一層きらびやかに光が瞬いた。

 身体に力が入らない。起き上がることができず、ぼんやり青空を眺める。

自分のような人間は、このようになんでもないときに死ぬのかもしれない。

それも良い、と目を閉じる。

 術士の迫害をなくすこと。自分が自分として生きるためには、術士であることが認められることが大前提だ。鬼と迫害されるから、術士であることを押し込めて生きなければならない。

しかしそんなことももう、関係ないと言い切れる場所に自分はいた。迫害とは、集団生活の内に発生するものだ。晴れて罪人となった自分にはもう、そのような場所で生きていくことなどできない。

 それにそもそも、社会の方が変わりきっていた。

 深い溜息を吐いた。その時、視線を感じて跳ね起きる。

 山道の下から、青年がこちらを見ている。

「そこで寝ているのは誰だ」

 彼は険しい顔で言う。服装からして、神社の人間なのだろう。

 マキは立ち上がったが、ふらついてしまい手をつく。

 怪訝な顔をして、青年が近づいてくる。反射的に逃げようとするが、四肢は死に絶えたかのように動かなかった。

 やがてマキの元に至った青年は、彼女の服を染めた褐色を見て目を見開いた。

「大丈夫か。何があった」

 次いで彼女の顔を見、彼の表情は訝りに変わる。

「……もしかして、役場を襲撃してまわっていたという、術士か」

 マキは彼の茶色い瞳を真っ直ぐ見上げ、頷いた。やはり、ここで終いなのだろう。

 しかし彼は彼女の前に膝をつき「ひなと、村を救ってくれて、ありがとう」と頭を下げた。

 目を白黒させる彼女に、彼は続ける。

「私は夏巫という。ここの神社の者だ。ひなを呼んでくるから、待っていてくれ」

 しかし、ほどなくして戻ってきたのは夏巫一人だった。

「今、役人が来ている。ひなは見つからぬよう墓地に逃れているそうで、いなかった」

「この村は罪人をかくまうのか」

「私たちにとっては恩人だから。あなたを突き出すことはしない。山姥を退治した者に関しても、遠くから見ていたからどのような人物か分からなかった、と説明してある」

「バレたら、ただでは済まんぞ」

 夏巫は重たく頷く。

「永遠に失うかもしれなかった私たちのふつうを、取り戻してくれたんだ。その恩を仇で返すほど、この村の人間は鬼じゃない」

 彼の眼差しには、曇りがなかった。

「しかしあまり長くはごまかせない。なるべく早く、村を立ち去ってほしい」

 彼女は黙って頷く。

「これを、受け取ってくれ。礼には粗末すぎるが、今はこれが精一杯だ」

 夏巫は、着替えと笹の包と竹筒を差し出した。彼女は驚きから、恐る恐るそれを受け取った。

「本当に、ありがとう」

 彼は深く礼をして、踵を返す。

「……お前」

 マキはその背中に声をかけた。彼は立ち止まって振り返る。

「術士なのか」

 夏巫は妙な沖を持っていた。

 視覚に喩えるなら、正面から見ると術士でないように見えるが、横目で視界に入れると術士に見える、という具合だ。術士でない者が術士のような沖を持つことはあり得ない。だから、本来的に術士であるが未だ発露していないのか、意図的に隠しているかのどちらかになる。

 強い風に梢が揺れた。夏巫の上に斑を落とした木漏れ日が、きらきらと搔き乱される。

「私は術士ではない」

 彼は無表情に答える。マキはただ「そうか」と頷いた。

 夏巫が去った後笹の包をほどくと、玄米の握り飯が二つ並んでいた。竹筒の中には茶が入っている。何も考えずにそれらを腹へと流し込んだ。全身に温かな血が巡り、生き返った心地だった。古い服を脱ぎ捨て、新しい服に袖を通す。元々着ていたものがそうだったからなのか、縹に染めた男物だった。

 着ているものが綺麗になると、身体の汚れも気になるようになるものだった。顔を洗おうと、マキは池の縁にしゃがむ。鏡のような水面に映る、自分の顔。少し自分の顔を見ない内に、別人のような顔になっていた。

 疲れのせいだろうか。両手を差し出し鏡面を歪める。冷たい水で何度も顔を洗う。

 かえしてちょうだい。

 聞こえた声に、マキは手を止めた。

 顔から滴る雫が、いくつもの円環を描いては消える。袖で顔を拭い、ゆらゆらと平を取り戻す水面に、恐る恐る己が面を映す。

 そこに映ったのは、みちの顔だった。

「かえしてちょうだい」

 瞠目して水面を殴る。「かえしてちょうだい」という声は水飛沫の数だけ増えて宙を舞う。立ち上がって顔を上げた先、池の中央に娘が佇んでいる。

 何も言わずにジッと佇む、みち。

「何をしにきた。かえせとは、なんだ」

 今にも震えだしそうな拳を握り締める。

「月神はお前自ら手放したはずだ」

 マキはかつて、さらなる神の力を欲し、ゆすらに月神を憑けてほしいと願ったのだった。結果、みちから月神を奪うことになっただろう。

 しかしみちは、何も答えず顔を覆う。指先でべったりと顔を撫でつけ、徐々に露わになった顔はマキを睨みつけている。

 突如、みちの背後に炎がゆらめく。生き物のように蠢いた髪の毛が一つに結ばれ、仁王立ちをする彼女の手から、眩い棒が伸びていった。空を向いた先端はほっそりと尖り、槍になる。

「永久に変わらぬ円環の中に生き、惨めたらしく……」

 池の中央にたつ彼女の言葉を聞き終える前に、マキは光の槍を手にして投げつける。それは自身と瓜二つの女を貫くことなく木々の闇に消える。

「かえせ」

 黒い目の自分が、池の上を歩いて迫り来る。マキは逃げた。山を駆け下りる。木の根に足を取られて転びそうになりながらも、速度は緩めない。足音がない分、すぐ背後まで迫っているのではないかと恐ろしくなるが、マキは振り返らなかった。

 山を下りきったその時、平地の感覚をつかみきれずにがくりと転げる。すぐに立ちあがって後ろを見たが、自分そっくりの女の姿はなかった。

 肩で息をつきながら、手の底を額に打ち付ける。疲れて幻影を見ただけだと、強く言い聞かせた。

 顔を上げると、そこに村人たちいた。田んぼの中からこちらを見ている。皆、何も言わない。

 マキは、その瞳が何よりも嫌だった。

 逃げるように、真っ直ぐに伸びる道を走った。破壊された家を直す人々も、蜻蛉を追いかける子供たちも、見慣れぬ人間の姿に手を止める。彼女には、その眼を睨み返すこともできなかった。

 無様に去来する記憶。術士であることが露見した時に刺さった、人々の冷たい瞳。母が死に、自分が術士だと知る人はいなくなったのに。裏返しのようにその他全員にバレてしまった。己の生命が終わる、その足音を聞いた。母は言っていた。術士は人間として扱われることがない。それがバレたら、人間以下の生を強いられることになるのだと。

 母がそれを感情を込めて語るのが、不思議だった。

 理由を聞いた。母は逃れた術士と恋に落ちてしまったのだと言った。その人間との子供なのかもしれないと母はいった。だから兄弟の中で一人だけ目の色が違い、術が使えてしまうのではないかと言った。

マキはまた思い出す。時折母が自分に向ける、泥沼のような瞳。ここまで特異な姿であれば、母の貞節が疑われたことだろう。しかしたまたま、父の家系に緑の目の女がいたこと、そして母が言うように母の姉の面影があることから、なんとか誤魔化せたのだろうか。

 それでも自分が術士だということが露見すれば、母の罪も露見する。そうなる前に、自分を殺そうと思ったのだろう。何度も。彼女の沖の淀みが、そう告げていた。

 それが恐ろしかった。

 そして、それを分かってしまう自分を呪った。

 だから、母の姉の生まれ変わりとして振る舞うことが、最大の自衛だった。母の笑顔を作り、親族の目を騙すことができる。何より、自分が自分として生まれたことの失望を忘れることができる。母は嬉しそうに、姉の話を語った。同じ話を何十回何百回も。好きなこと好きなもの好きな季節。それら全てを模倣した。

 自分が本当に好きだった景色、好きだったものが、母の姉に飲み込まれていくような錯覚に陥った。思い描いた彼女の中に、自分が消えていく夢さえ見た。一人目覚めた深更に、ひっそり泣いた。そもそもは、母が過ちを犯したことが悪い。そんなことをしなければ自分は生まれてこなくて済んだのに。そう思うほど涙は止まらず、心の奥底に押し込めた母への憎しみを自覚するのだった。

 しかしそれすらも、なくなる。

 作り込んだ表情や感情の下、無味乾燥の境地で日々を生きた。

 瞳の色のせいで、嫁としてもらってくれる家はなかったが、かえって良かったと思う。誰かに添い遂げ、子供を産み育てることなど、到底できなかっただろう。

 それでも、子供と笑う男女をぼおっと見ているときがあった。その時は何も思わなかったが、今振り返れば憧れていたのだろうと思う。

 そんな人生の上に自分を落とした母を、許せなかった。

 何かに躓き、回想が断たれる。全力疾走に熱を上げた身体で、ゆっくり起き上がった。いつの間にか、紫の花畑にいる。村のはずれなのか、人気がない。黄昏の只中、どこを見ても紫。

東の空は薄墨の色に沈み、白い月が表情の無い顔で空に穴を開けている。息を荒げる彼女を宥めるように、月に向かって風が吹いた。

 マキは、紫の花々の中にゆっくり膝をついた。未だ猛る己の精神は、こぶりな花々を鷲掴んでは引き千切る。

「私は、強くなった。私になった。だからもう、そんなことはなんでもない」

 虫の音に負けじと、己に嘯く。

「なんでもない……」

 いつの間に怪我をしてのか、花を引き抜く左手はべっとりと血に濡れていた。

「なんでもない。なんでもないなんでもないなんでもない!」

 ぶちぶち、鈍い音と草の死臭が辺りに広がる。マキの手の中、彼女自身の血と草の血が混ざりあう。

「こんなこと……!」

 もう、声が震えていた。涙が頬を下っている。土ごと花を地面から抜いて、叩きつける。何度も、何度も、何度も。

「マキ!」

 黄昏に現れた声。

 彼女はハッとして手を止め、振り返る。

「ここに、いたのか」

 黄昏にも、走り来るそれが誰なのか分かる。マキは背を向け、涙を拭った。頭から冷水を浴びせられたように、錯乱が冷めていく。

「何の用だ」

 息を整える晴瀬を睨み上げる。

「探して、たんだ。村、そろそろ出ようと、思って」

「なぜお前と一緒に行かなければならない」

「じゃないと、お前、死ぬだろ」

 彼の瞳は、やがて至る夜の色を湛えていた。

「一人で、何かを抱え続けてたら、そのうち死ぬ」

 晴瀬は、彼女の周りで無惨に死んだ花を見る。

「お前だって、人間なんだ。たまに、人間じゃないみたいに見えるけどよ。辛いことまで一人で抱えてると、いつかどうかなっちまう」

 マキは、首を横に振る。

「……もうなってる」

「まだ、大丈夫だ。でももうちょっといったら、もうダメだ」

 まるで見てきたような口振り。マキは疑念を胸に声を低める。

「私の母の姉は、そうして死んだのか?」

 晴瀬の「そうだ」という溜息のような頷きが、鼓膜をぶち破って頭の奥に突き刺さる。冷めたばかりの錯乱が、天を衝く勢いで沸騰する。

「私は、あの女とは違う。私は、私だ!」

 淵色の瞳の周囲、赤い雷のように目が血走る。

「分かってる。お前とみちは全然違うよ」

「……お前には分からない。この呪いが」

 マキは、震える唇を噛んだ。しかし堪えきれずに、重たい涙の粒が、下瞼を乗り越える。

呪いは奥底で人を蝕む。自ら、彼女と同じ道を歩もうとしていたのだ。十何年と重ねてきたことが易々と消え去ることなどないと、思い知らされる。

 古い自分は、一度くらいでは脱ぎ去れないのだろう。昔の自分を捨てきり、己の望む己に至るまで、あの死ぬほどの苦痛に何度貫かれればよいのだろうか。

 虚脱感に、膝をつく。紫の花畑の中には、もう夜が落ちている。自分がぼろぼろに殺した花を見下ろすマキの正面に、晴瀬はしゃがむ。

「……私は、何人もの人を殺した。ゆすらに言われたこととはいえ、禰々島も燃やした。自分が叶えたいもののためだったのに、もうそれを叶えることはできない」

 マキの血濡れた手の平を、晴瀬の手が握る。あつい手の平に、マキは顔を上げる。

「俺は恩人を殺した。育ての親が教えてくれたことを破ってな」

 彼女は彼の眼差しに、口端を歪めて笑った。

「私は月の女だが、お前を愛し、殺すことはないと思っていた」

 マキは血濡れた手で彼の手を握る。

「しかしお前も私もそのように罪深いのなら、今ここで、死んでしまえばいいと思わないか」

 強い風が紫の花畑に波を作って駆け去る。夜が迫り、月が輝きを増す。風に揺れる花々の音は、月光を迎え入れるかのようだった。

 晴瀬はマキの問いには答えず、徐ろに口を開く。

「これまでのことを、無かったことにはできない。ぶち壊れそうな気持ちになっても、全部無視しないで抱える覚悟がなきゃ、過去に祟られたまんま一歩も動けなくなっちまう」

「私は過去を直視し、昔の自分を捨て去った。だからお前にも、私とあの女が違うように見えるだろう」

 晴瀬は首を横に振る。

「昔の自分を捨てちまうことは、できないんだよ。全部、引き摺って、明日の道を選ばなきゃいけない」

 マキは黒曜石のような瞳から目を逸らした。 

「死ぬのは、過去とか、それを背負って生きなきゃいけない現在を放棄することだ。それを悪いとは言えねえよ。でもここまで積み重ねてきた人生が、お前にそれを許すのか?」

彼の言葉は滔々と闇に流れ、風を生む。

「誰かや何かが憎かったり、心残りがあったら、死んだって死にきれない。それは自分に対しても一緒だ。このままじゃ、死ねないだろ。罪を犯しっぱなしにして、やりたかったことも、途中で諦めて」

 彼にこんなことを言われる日が来ようとは、思いもしなかった。

 悔しさ、驚き、安堵、既視感……多くのささやかな感情が渦となり、彼女の奥底に貼りついた瘡蓋を引き剝がす。皮膚の戻らぬ肉が、渦にさらされ悲鳴をあげる。

 それこそが、本当の自分の声だった。導となるのは神ではない。この声だ。

涙が一筋だけ、彼女の頬を伝った。それは月の光を孕み、闇に同化した大地に落ちる。

「……また別の神社の化物が、解放されちまったらしい」

 もう片方の手で彼女の手を包み込み、晴瀬は俯いたマキの瞳を見る。

「何からやったらいいか分からないから、とりあえず、俺たちにできることをやろう。また化物を倒しに行こう。三人で。ひなも一緒だ」

 マキは俯いたまま、「分かった」と呟く。

「よかった。お前がいなきゃ、始まんねえからさ」

 立ち上がり、手を引いて歩きだそうとする彼に「待て」と静かな声をかける。マキは手を離し、襟の下に隠れた紐を引き上げ、衣の中から小さな袋を出す。袋の中から注意深く、手の平に白い玉を落とした。

「なんだ、それ」

「お前の眼球になるものだ」

 マキは晴瀬の顔の手拭いを取り去る。

「顔を隠す必要はあるのか」

「怖いだろ、このままじゃ」

 死者と生者が半々に揃ったような顔は、薄闇に見ると一層化物じみて見える。

「……そうだろうか」

 下の目蓋に触れる。ざらり、と人の顔でない手触り。

「感触はないのか」

「ない」

 眼窩の上には、焼け爛れた痕がある。灰色の目蓋をそっとめくり、その(うろ)の中に白い眼玉を嵌め込んだ。

「お前の顔面に二つの瞳が揃っていないのが、我慢ならなかった」

「……これ、何なんだ」

 恐る恐る、彼は聞いた。

「私の、罪過だ」

 彼女は彼の問うところのものを知りながら、真実を隠す。

「これからはお前のその眼を見るたび、己の罪を思い出そう。お前は私が作り物の眼球に触れるたびに、それを思い出せ」

 再び強い光を湛える彼女の瞳に、晴瀬は頷く。

「行こうぜ。ひなが墓場で待ってる」

 紫の花弁を散らして走り出す二人を、月が真白い瞳で見下ろしていた。

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