眼球窃盗
※残酷な描写があります。苦手な方はご注意ください
2021.02.07 投稿
背中に、冷たくやわらかい感触。
見上げるのは、夕焼け空に焦げた梢の葉。
覗き込んでくる青い顔が、安堵の息をついた。
「よかった」
俯いたまま独り言ちる恒暗の傍らで、マキは身を起こした。辺りを見ると、木々の生い茂る山中にいることが分かった。東側にかすかに家の屋根が見えることから、槻白の西にある山脈にいるのだろう。太陽は既に山の向こうに沈んだのか、辺りは薄暗い。恒暗は拳ほどの大きさの炎を浮かばせていた。次いで、自分の腹を見た。衣服は夥しい血液で凄惨な色になっていたが、傷口はたしかに塞がっている。
彼の指が、細かに震えている。それを見下ろし、マキは尋ねる。
「どうした」
「あなたが死んでしまったら、どうしようかと、気が気でなかった……」
恒暗の声が、珍しく感情を帯びる。
「私はまた、死ぬことができなくなってしまう……」
顔を上げた彼の瞳には、涙が滲んでいる。
「私を、死なせてくれ」
マキはその目を見据えた。恒暗の瞳の中に、初めて光を見た。
「はやく」
震えた手で、肩を掴まれる。
「死なせてくれ」
マキはその手を払った。
「そのために、ここまで共に来たんだ」
彼の顔が、哀切に歪む。
「死なせて……」
マキはそっと、指を恒暗の左の頬に滑らせる。下の目蓋をひたり、とまくる。
「何を……」
「お前、目も、蘇るのか」
彼女は怖いほど静かな声で囁く。
「……わからない」
「それでは、眼玉を失えば死ねるかもしれないな」
マキは冷たい人差し指を、目蓋の下に滑り込ませた。
「やめろ。嫌だ、痛い。どうして」
「死にたいのだろう」
彼女は恒暗の身体を山の斜面におさえつけた。
「本当は死ぬのが恐ろしいのか」
「ち、がう」
人差し指が目蓋の下で眼球を撫でる。恒暗は悲鳴を上げた。
「それなら殺せと請うてみろ」
「………………………………………………を、わ、たしを、わたしを……せて」
恒暗が術で灯していた炎がふっと消えた。
「ハッキリ言え」
「……わたしを死なせてくれ」
マキは指を奥まで突き込んだ。恒暗が絶叫を上げる。暴れるが、大した力ではなかった。それよりも、目蓋の閉じる力の方が強い。指が挟まれてそのまま食いちぎられそうだった。目の内側に親指を入れる。新たな叫びが耳を貫く。
「そんなに生きていたいのか」
嘲笑と共に親指をも深くねじ込ませると、恒暗は遂に失神した。
力を失った彼から易々と眼玉を引き上げると、それは手の平に載せて見るよりも先に、固まって水晶のようになった。雷のように走る血管は石の亀裂と化し、黒目と瞳孔だった箇所は真っ白に濁っている。じんわりと温かかったが、熱が次第に抜けて石のように冷たくなった。
目を失い、張りを失くした目蓋が、もう膨れあがってきている。辺りに凄惨を撒き散らした血液も、いつの間にやら消えていた。マキは淵色の目を冷たく光らせ、恒暗の胸の上下を見下ろしている。
彼女は左手を濡らした血を払い、眼球を首から下げた小袋に入れる。近くにあった蔦を引きちぎって帯の代わりにし、はだけた衣服を整える。乱れた髪を結びなおしながら、マキは灯火をともして山を下っていった。
静かになった山に、虫の声が響く。
とっぷりと夜闇が訪れた頃、恒暗は呻いて目を覚ます。
酷い目に遭っただけで、結局死ぬことはできなかったのだ。
「……女……あの女……」
期待をさせておいて自分を殺すことなく、あろうことか苦しめて去っていった。恨めしさに殺意が湧く。
こちらを見下ろす月を睨み上げた。が、視界が妙だ。
恒暗はそっと、右目を覆う。真っ暗になる。
ということは。恐る恐る、左目をおさえた。そこには確かに眼球の膨らみがある。しかし、見えないのだ。
「……ヒヒヒ、驚いた?」
自分の中から、声が聞こえる。
「お前、は」
「あんたに殺されたケネカだよ。眼玉を口ん中に放り込んでやったろ。ちょうど眼玉が無くなったからこうして戻ってきてやったんだ。久しぶり」
彼の新たな左目は、虹彩が真っ赤だった。
「お前も、私を殺せなかった、月の女だな」
恨みがましい声を、ケネカは心外だと鼻で笑う。
「むしろあんたに殺された月の女だよ。あんたを苦しめてやろうって思ってね、あんたの暗闇の中でじっとしてたんだけどさ。まあよく我慢してよかったよ」
また自分は、月の女に苦しめられるのか。
「それならはやく、私を殺せ!いい加減に罪を償え!」
「前提がおかしいと思ったことはないのかい。月の女だからってみんなあんたの母ちゃんってわけじゃないのさ。言ってみりゃ、母親にたまたまよく似た他人を母親呼ばわりするようなもんだ。なぜ殺せないのかと恨むのはお門違いだよ」
「いいや母親がああまで狂っていたのは月神に取り憑かれたせいだ。だから月神に憑りつかれた女はみな母親と同じだ」
彼は息をつく間もなく、早口で言った。
「そりゃあんたがそういうことにしたいだけさ。そもそも、あんたはなんでそうまでして死にたいんだね」
恒暗は闇を見る。死のうと決意したその日。あまりに遠く、いつのことだったのかも思い出せない。
「ヒヒヒ。もうそれも忘れちゃったのかい。それなら思い出させてやろうかね」
突如、目の前に母親の姿が現れる。それは恒暗の記憶の中にある光景だった。懐かしい家、懐かしい村、懐かしい父親。父親を殺した母親。父親のはらわたを引き摺りだす母親。おおおお前は人じゃない。わたしから産まれたものは、人じゃない。人じゃないのは人と生きられない。お前は一人で生きる。お前は人じゃない。死ぬことができない。わたしの子どもは人になれない。お前は死ぬことができない。お前は人のかたちをしているだけで人じゃないわたしの子どもは人じゃないお前は死ぬことのできない化物に帰る場所はない。お前はえいえんのときを一人で生きる
「やめろ!」
耳を塞ぐが、意味がない。黒衣の下の暗闇で、まるで洞窟のように彼女の言葉が繰り返される。彼は己の内側から打ちのめされて、膝から崩れ落ちる。
「わたしが……何をしたというのだ……」
「私を殺したろ」
「お前は、ほとんど、死んでいた」
「でもあんたに殺されたくなんかなかったね。海に寄り添って静かに死にたかった」
「それでもお前は死ねたのだから贅沢を言うな」
「ヒヒヒ。化物のあんたと一緒にしないでほしいねえ。私も今となっちゃ化物みたいなもんだが、昔はきちんと人間だったのだからね」
「私だって、そうだ。そのはずだ。人間だった。私は」
「それじゃあ、この地上にいるのはおかしな話なのじゃないかい。化物は人の生きる世におるから化物と呼ばれるのさ」
恒暗はハッと顔を上げる。
「死の世界を目指したらどうだ。行き方は知ってるだろう。むしろなぜ今まで行かなかったのか」
洞窟の奥にあった、濃い闇を湛えた穴。そのほとりに何度も立ちはしたのだ。しかしその先には、決して足を踏み出せなかった。
「こわ、かった」
「こわいぃ?なっさけない」
ケネカはさもおかしそうに笑う。
「ほんとは、生きていたんじゃないのかね」
「いいや。私は死にたい」
彼は目を閉じる。息を吐くと、闇に溶けるように消えていった。




