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そしてまた月は満ちる  作者: 春日野霞
七 化物
44/89

「山姥退治」

 ふつうでない人の力を借りるということは、ふつうでないことに巻き込まれるということなのだ。ひなは半分諦めの覚悟を決めていた。

 街道を行かず海沿いを西へ進み、山脈に突き当たったら山脈に沿って北上し槻白に入る、という計画を聞かされたとき、ひなはまだ夢を見ているのだと思った。

 しかしそれは現の内に遂行された。海の傍というのは、いるだけで疲れるものだった。強い風が暑さを吹き飛ばしてくれるものの、進もうとうする力までも奪い去ってしまう。時に断崖に行く手を阻まれ引き返したり、逆に断崖から落下しそうになったりと、何度も絶望感に打ちひしがれた。

 恒暗のおかげなのか、人間は死に絶えてしまったのではないかというほど、人には出会わず進むことができた。しかし追っ手は、その沈黙を打ち破って現れる。大抵の場合恒暗が盾となり、二人がそれでも防ぎきれないものを倒す形になった。怪我は、恒暗の血液に触れれば治った。最初はひっくり返って驚いたが、何度も見る内に慣れてしまった。

 山脈の裾に至ってからは、恒暗が案内をしてくれた。山の中に入ったり下りたりしながら、道なき道を進んでいく。彼はどうして進む先が分かるのだろうか。とひなはマキに問うたが「人でないからだろう」と

 そうして、入江を出発してから七日が経った。

「着いた……」

 清澄な朝陽に照り輝く、槻白。

 ひなは何度も脳裏に思い描いた景色を前に立ちすくむ。もっと感慨が湧き上がってくるものだと思っていたが、気持ちは意外とあっさりしていた。あれだけの苦難を乗り越えたのだから、辿り着いて当然だという気持ちの方が強かった。

 首を垂れ始めた稲が、朝の風に揺れる。ひなは畦道を、神社に向けて歩き始めた。三人は山裾で待機してここにはいない。万が一村人に見つかってしまったら騒ぎになるからだ。しかしひなの歩く村は無人だった。どの家にも、人のいる気配はない。鶏や小鳥の声ばかりが響き渡っている。しかし田に雑草はなく、人が出入りしているようではあった。

 辺りを見回していたひなは、遠くの畦道に動く影を見て立ち止まる。それが山姥だということを、直感的に覚った。

 地面を這いずるように進むそれは、現れた光熱の瞳から逃れようと影を探している。真っ白な長い髪は、いかにも山姥らしくぼさぼさだった。四肢は枝のように細く、また身体も小さい。あれがどうやって人を殺すのだろう。鋭い歯や爪を持っているのだろうか。

山姥は女を襲わないと聞いていても、怖いものだった。ひなは背を丸めて、疲れた身体に鞭を打ち小走りに神社へ急いだ。

 明鳴神社の境内に入ると、さすがに感慨がこみ上げてきた。山の麓にある下つ宮の拝殿の姿を、溢れる涙がぼやかす。

「ただいま……!」

「はいおかえり」

 ひなは飛び上がって驚き、背後から返された挨拶に振り返った。

「秋巫姉さん!」

「ずいぶん焼けたね」

「……びっくりしないってことは、夢に見たんですか」

 彼女は頷く。

「あんたが帰ってくるっていうんで早目に発ってきたんだ」

 彼女は巫女らしい巫女で、多少のことを予知する力がある。感情の起伏に乏しく、ひなは彼女の喜怒哀楽を見たことがない。唯一、呪うほど嫌っているゴキブリを目の前にしたときのみ、細い目をカッと開き罵倒の言葉を吐き散らして逃げ惑うのだが、それは感情を越えた別の何かに感じられるのだった。

「どこに、今みんなは、どこにいるんですか」

「西の宿。女だけ、朝が来たら村に戻ってくる。仕事して、また戻る。男は皆西の宿で銭稼ぎだ」

「大変、ですね」

 西の宿から槻白まで、遠すぎるということはないが決して近くはない。それを毎日往復するのは煩わしいことだった。

「すみません、私が儀式を……」

「あんたが謝ることじゃない。誰もあんたが悪いなんて思ってない。カルさんたちに聞いたが、あんたは大変な人に巻き込まれたそうだね。手配書まで出てる」

「え、もしかして私の?」

「そう。あと三人のお連れさんもね」

 追っ手が途切れなかったのだ。手配書が出ていない理由がない。ひなは奈落の底の縁に臨んだような顔になる。

「他の三人はともかく、槻白ではあんたを突き出したりしないから安心しな」

「ほんとですか!」

 打って変わって明るい笑顔が咲く。

「やっぱり、村の人は優し……」

「あんたに懸賞金は出ていないからね。労力の方がもったいない」

「そんな……」

「冗談だ。あんたにも、贅沢しなきゃ働かんでも一生くらしていけるくらいの懸賞金がかかっている」

 それならば冗談のままであってほしかった。

「私何もしてないのに。じゃあ他の三人はどうなっちゃうんですか」

 自分が丸ごとそのままお金になってしまったような気分に、腕をさする。

「はっきり覚えちゃないが、あんたの倍以上かかってるよ。役場に報せたら子供の代まで贅沢三昧だ」

「……じゃあ、もし他の三人が来たら、言いに行きますか?」

「事情によるね。なんで連れてきたんだい」

「連れてきたなんて、まだ言ってないじゃないですか……夢に見たんですか」

 秋巫は頷いた。

「あんたが三人を連れてきたんで、役場に報告した。そしたらあんたもろとも捕まって、大変な騒ぎになってる中、山姥が暴れだして村が廃れた。すぐに報せるな、ってことなんだろうよ」

「そう、そう、そうなんです」

 ひなは何度も首を縦に振る。

「山姥退治のためです。手紙に書きましたよね。一緒に、明牙の化物を倒した人たちなんですよ。ふつうじゃない人たちですけど思ったよりもふつうに人間なので大丈夫ですどうにかなります!もうすぐ村の人たち来ちゃうんでしょう。もう呼んでいいですか」

「騙されてはいないのか。役場を襲撃した人間だぞ。また英雄の名をかたるなどという不敬者と、得体の知れない男だろう」

「役場を襲ってたのを、今は反省しているみたいです。それにそれくらいちゃんと強い人です。あと晴瀬は本当に晴瀬なんですよ。春軌に呪い殺されて、変な世界に飛ばされて、帰ってきたら二百年くらい経ってたって、ほらあるじゃないか昔話でそういう話。得体の知れない男は本当に変です。多分人間じゃない。でも、何かをしたいっていうのもなさそうなんで敵にならなければ心強い人です」

 ひなは一気にまくしたてた。

「口で説明したって、分かりっこないですから、呼んでいいですか」

「それでこの村が壊滅したら、あんたは責任を取れるのか」

 一瞬怯んで口元を歪めたが、彼女は胸を張る。

「とりますよ。そんなこと、きっとしませんから」

「よし、それでは」

 突如、朝の空に、禍々しい声が響き渡った。

「山姥の声だ」

 秋巫が珍しく、顔に緊張を走らせる。

「行かないと。もしかしたら、山姥に見つかって闘ってるのかもしれない」

 走り出そうとするひなの襟首を、秋巫が掴んだ。

「ぐえ」

「落ち着きな。明牙神社の蛇と山姥は、ちょっとわけが違うかもしれない」

「どゆことですか。箒持って行かないと早く」

 清々しい朝を闇の中に引きずり戻すような声が、何度も何度も空を裂く。

「その箒だが、持っている人間には目の色を変えて襲い掛かってくる。たとえ女でもね。王様が遣わしてくださった術士たちが向かったが、箒を持った者を見た途端、誰の眼にもとらえられない速さで動いて、あっという間に殺されてしまった」

「でも、闘い始めてるかもしれない」

 山姥の怪鳥のような声は、だんだんと遠ざかっている。

「村に人が入ってくると危ないです。秋巫姉さんは街道の入り口で人を止めてください」

「あんたはどうする」

「様子を見てきます。できることがあったら……」

「春巫に何ができるっていうんだ」

 懐かしい名前に、反応が一瞬遅れる。栗色の瞳で、真っ直ぐに彼女を見上げた。

「分かんないから、とりあえず行くんです」

 ひなは今度こそ走り出す。

「秋巫姉さんも、お願いします」

 佇む彼女を振り返り、辺りに目を走らせる。明鳴神社は東の方向を向いていた。山姥の声は山の裏側、つまり西側から聞こえてくる。遠ざかっているということは、三人に気づいて彼らの元へ向かっているのかもしれない。

 ひなは宿舎へと走る。懐かしい玄関や家のにおいに涙が滲むが、感傷に浸っている場合ではなかった。箒を引っ掴んで、先ほど彼らと別れたばかりの場所を目指す。

 山姥の姿は見えない。ひなは見つからぬよう、背を低めて箒を引き摺る。

「ギャッ!」

 山姥のものでは、無い。

 山姥の声は聞こえなくなる。

 誰か、やられた?

 誰の声かは分からなかった。むしろ、人間の声にも聞こえなかったのだ。箒を手放し、冷や汗をかいて佇んでいると、マキと晴瀬が走ってやってくる。

ということは、やられたのは恒暗だ。

「恒暗は?」

「山姥に食われている」

 マキは息ひとつ上げずにさらりと言った。

「助けないんですか!」

「あいつが助けるなと言ったのだ。前にも言ったろう。あいつは死にたいが死なれぬ身体なのだ」

 しかし痛みはあるのだろう。身体を貪られる苦痛を思い、ひなは身震いする。

「おとりになってもらってる内に、箒を」

「持ってきたよ」

 ひなは晴瀬に、傍らに落ちた箒を手渡す。

「村の人はここにはこないのか」

「神社に秋巫姉さんが……神社の先輩がいたから、入ってこないようにしてって頼んだ」

「それでは、私たちが山姥を退治したことを、誰が立証できるというのだ」

 思わぬ間違いにひなは飛び上がる。

「ああ、ええ、ああ、ほんとだ。呼び戻してきま」

「大丈夫だ、ひな。村人を巻き込んだら大変だもんな」

「お前はまた暢気なことを言う」

「でもあれはあの大蛇の比じゃない。何しでかすか分かんねえぞ」

「箒を持った人見ると、物凄い速さで襲い掛かってくるらしいです」

 ほらな、と顔を引きつらせる晴瀬の横で、マキは不敵に笑う。

「見えないのなら見ないまでだ」

「それじゃやられちゃうじゃないですか」

「沖を追えばいい」

「チュウ?」

 聞き慣れぬ単語に首を傾げるひなに「術士にしか分からんものだ」と言って振り返る。

「箒を捨てろ。来るぞ」

 頷いた晴瀬は、既に箒を手放していた。

「分かったのか」

「沖は分かんねえけど、山姥が来てるのは分かる。声が聞こえる」

「何と言っている」

「助けて、と。今回はみち以外の声もたくさん聞こえる」

 マキには全く聞こえていなかった。

 白髪と両腕をだらしなく垂らした山姥が、ひたひたと歩いてくる。襤褸のような服は、今にも風にちぎれて飛びそうだ。身体は黒ずみ、乾いた皮膚はひび割れた大地のようだった。

「あれはお前を狙ってくるだろう。防げるか」

「やってみる」

「私はその間、沖を」

 彼女が言い終わらぬ内、突然山姥が跳躍し、二人目がけて落下してくる。晴瀬は躊躇いながら闇の銛を投げる。狙いは過たなかったが、山姥の爪が勝った。銛を薙ぎ払った山姥は鋭く長い爪を晴瀬に振りかざした。

「またお前は!」

 怒号と共に、水の柱が放たれる。山姥の身体は水に吹き飛び田んぼの中へと落下した。

「あれが異常に強いと分かっていて、なぜそんな中途半端な術を使う!」

「助けてって、声が」

「できないのなら最初からできないと言え」

 山姥が、田の中でむくりと起き上がる。

「もう一回だけ、やらせてくれ」

「仕損じても助けんぞ」

 晴瀬は頷くと共に闇の縄を振るい、山姥をぐるぐる巻きにする。山姥は平衡を失い倒れたが、すぐに起き上がり細い身体を震わせる。すると、縛める縄が一つずつ落ちていくのだ。彼は慌てて次の縄を飛ばす。山姥は軽い身のこなしで避ける。それならばと、晴瀬は地面から闇の手を生やし山姥の足をおさえつけた。

「そのまましばらく耐えてくれ」

 マキは目を閉じた。

「何をするんだ」

「沖の感覚のみで闘えるよう五感を忘れる。合図はする」

 山姥が苛立たしく叫ぶ声や、稲がせわしく揺れる音が遠ざかり、代わり沖の動きとして捉えられるようになる。朝目覚めたばかりの瞳が、辺りの景色や状況を吸い込んでいくように、自分の周りを取り巻く沖の動きが明瞭になっていく。

 ひなはずいぶん離れた所からこちらを見ていた。その背後にある山は神社だろう。近くには、ひなのものではないもう一人の沖がある。

 晴瀬と、相対する山姥の沖。前々から思っていたことではあったが、改めて晴瀬の沖は様変わりしていた。もう一柱神がついたから、ということばかりが原因ではない。前よりも複雑で、捉えきれないものになっていた。まるで誰か別の沖が混ざり込んできたかのような斑模様になっている。

 その彼が繰り出す、沖の先。山姥の沖は、幾億もの人間の沖を貯め込んだような恒暗の沖に酷似していた。しかしその何倍もおぞましい。その全ての人間が攻撃的に沖を発散させているようだった。

「もういいぞ」

 マキは目を瞑ったまま箒を手にする。山姥は小さな目をぎょろりと剥いて、マキへ強襲した。彼女は箒を振るい、突っ込んでくる山姥の顔面を止めるように打ちつけた。頬と肩口に鋭い痛みが走る。そのまま顔を薙ぎ払うと、山姥の軽い身体はぽん、と宙を舞った。

 再びこちらにざかざかと走ってくる。箒と接触した部分だけ、沖が変わっていた。恒暗に似ていることは変わらないのだが、清澄さを有している。大蛇を倒した後天に昇っていった、あの澄み渡った風を思わせるものだった。

 マキは流れるような動きで山姥の黒さを取り払っていく。

 身体の黒い沖は、数が減っていくにつれおぞましさを増す。マキは無数の瞳に睨まれているような錯覚を振り払うように、箒で山姥を薙いだ。山姥の動きも鈍ってはいるのに、その爪の一掻きは桁違いに重たくなっている。決着が近いとはいえ、油断はできない。隙を突かれたら終わってしまう。

マキは神経を研ぎ澄ませる。箒を振るう内に己の肉体の感覚すらなくなり、箒と皮膚の境が消えていく。純粋な一塊の生命として穢濁を払うような。

 最後に残った黒い爪に、なかなか箒が届かない。鋭い爪を遠ざけようと、顔や身体ばかりを叩いてしまう。重たい一振りが、防ぎきれずに身体のどこかを掠る。しかし、怒りや焦りは浮かんでこなかった。それよりも、山姥を救いきれないもどかしさが募る。痛みの広がりに五感が戻り、沖の感覚を鈍らせようとする。マキはここぞというところで一歩大きく踏み込み、振り下ろされようとする爪を下から薙ごうとした。

『かえしてちょうだい』

 突如、何十人もの声が重なった言葉が耳を突き、マキは驚きに目を開く。瞬間、最後に残った黒い爪が、彼女の腹を引き裂いた。

 熱した鉄を当てられたような腹。涼葉の顔が脳裏をよぎる。懐かしい痛みだと思うと笑えてきた。

 マキは倒れそうな足で大地を踏みしめ、血濡れた山姥の黒い右手に大上段から振り下ろす。猛る沖をなくした化物は、ゆっくりと後ろに倒れた。

「マキさん!」

 力を失った彼女の身体を、ひなが支える。

 山姥だったものは、娘のような白い身体を朝日に晒していた。髪も黒く艶やかに地面に流れ、その顔は美しい娘のものに変じている。

 ひなはその顔を見て、「あ」と声をもらす。明牙神社で見た悪夢に出てきた娘に、そっくりだったのだ。

「ひな、恒暗を呼んできてくれ。この道を真っ直ぐ山脈の方へ行ったとこにいるはずだ」

 彼女は頷いて、マキをそっと横たえると、真っ直ぐな道を疾走していった。

 晴瀬は現れ出た娘を抱き起し、その虚ろな瞳に己の顔を映す。

「もう、辛抱なんてしなくていい」

 娘は頷く。

「ごめんな」

 娘は、瞳をゆっくりと閉じた。繊月のような目蓋の端から、澄んだ涙が下り落ちる。娘の身体は外側から透けていき、臍が消えた瞬間、彼女の身体があった場所から冷たい空気が爆発する。

 晴れた冬の日を思わせる激しい風が、夏の終わりの朝に吹き荒れる。晴瀬は暴風に細く目を開ける。風はいくらかの稲を巻き込んで、帯のような雲の浮かぶ青空へと昇り去った。

 暴風の余韻に、青い稲たちはさやさやと若い穂を揺らす。そしてそれは、遠巻きに見ていた村人たちの間にも、吹き渡っていた。

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