逃れた先で
2021.01.30 投稿
冥界の底に吹きすさぶ風が、曙の温情にやわらかく透き通ったような笛の音。
高く茂った青い稲たちは、横笛を喜ぶようにざわざわと鳴るが、隣に座ったマキは渋面を作り彼を見ていた。
「そろそろしまえ。人が起きだす」
恒暗は横笛から口を離し、湿った吹き口の部分を指でこすってから黒い衣の下にしまう。
「本当に、大百の神社が三日月の晩なのだろうな」
恒暗は伏目で頷く。
「大百の神社は、明牙神社。明牙は三日月」
西を指さす彼の背後から、朝の太陽が顔を出す。照らし出される家や田の中に、ひときわ目立つ建物がある。
その建物の壁によりかかった春巫ことひなは、両膝に肘をたて、頬杖をつく。
「帰りたい……」
東の山脈から顔を出した太陽から顔を背け、大きな欠伸をする。
明牙神社に来てから、何日が経ったろうか。深刻だった不眠は治ったが、それでも嫌な夢を見て飛び起きたり、身体は疲れているのに目が爛々として眠れなかったりする。
今日も妙な夢を見た。
自分は不濁の池のほとりに立っていた。その鏡のような水面を、白蛇がすうっと滑っていく。真っ白な蛇の優美なうねりと広がる水紋が美しく、ぼうっと見とれていた。蛇は池の中央でとぐろを巻くと、赤い瞳でこちらを見る。ちろちろ吐き出る赤い舌は、自分を手招いているように見える。ぼうっとして蛇を見ていたら、それは娘に変わっている。悲しそうな顔をしていた。黒い髪はつややかに長く、白い肌は死人のようにも見えた。しかし唇は桜のように淡く紅い。その口で、何かをぶつぶつとつぶやいている。よく聞こえずに、池の縁のぎりぎりまで近寄った。
「なぜ助けてくれなかったのだね」
娘は、両目と胸から血を流す、冬巫に変わっていた。
叫んで飛び起きたところ、自分を起こしに来た巫女に大層驚かれた。
明牙神社では、太陽が昇る前に起床せねばならず、太陽が沈む前に仕事をやめてはならないというきまりがあった。太陽が昇るまでは、日迎えの堂にて、太陽を礼賛する祝詞を唱え、日の出の瞬間に三度平伏する。それを毎日欠かさずに、皆真面目くさった顔で行っているのだ。たとえ太陽が雲に隠されていようとも。
ひなはマキと別れた後、南の宿を目指す道の半ばにあった、この明牙神社に転がり込んだ。夏至にある夏祭の際、明牙神社の舞は毎年彼らに来てもらっていたため、親交があったのだ。ことのあらましを伝えると、神社においてくれることを快諾してくれた。その上、塞ぎ込んでいたのを元気づけてくれた。祭の時は堅くて近寄りがたい人たちだと思っていたが、心の優しい良い人たちばかりだったのだと感動していた。
数日前までは。
「ひな!こんなところにいたのかい!」
大股に歩み寄ってくる中年の女に、肩をびくつかせる。癖で何歩か逃げるが、諦めて立ち止まる。
「はいすみません」
と彼女に大人しく頭を下げる。
「なぜ日迎えをせず、ここにおるのかい!」
「怖い夢を見たんです、今朝」
とうつむいてみせる。
「動揺して、ぼうっとしてたら、ここにいたんです。ごめんなさい、混乱して……ぐす」
目元をこする。
「そうかい。怖い思いをしたね」
と女はふくよかな身体でひなを抱き寄せる。彼女は「ええーん」と彼女に抱き着いた。
「……でも日迎えをさぼったことには変わりないね。罰掃除だよ。集会が終わったら、北のお堂を綺麗にしてきなさい。ちゃんと終わるまで昼飯はお預けだよ!」
「あい」
「返事が小さい!」
「はい!」
女はさっさと歩いていってしまう。
彼女は基本的に厳しい。しかし辛さ悲しさを抱える者には優しかった。だからひなは嘘泣きを覚えたのに、罰掃除までは見逃してくれなかった。ひなはその背中に小さくあかんべをする。
彼女は、巫覡たちをまとめ、また神社のすべてのことを管理する者のようだった。明鳴神社では神主が行っていた仕事だ。ここにも神主はいる。気の優しそうな小さいおじいさんだ。
巫覡たちは彼女を「おかか様」と呼んでいる。毎日のすべての仕事はおかか様に命じられる。また少しでも分からないことがあれば、なんでもおかか様に聞いた。だからひなを元気づけてくれたのもおかか様に命じられてのことであったそうだ。それを知って以来ひなは、彼らとうまく話せずにいる。
助けてくれて文句を言うのは筋違いだと、ひなは自分でも思っていた。しかし、違うと思うものは違うのだ。
日迎えに行かなかったのも、そのためだった。ありがたさも分からないのに、言われるままにこなすのは違う。
自分は甘いと知っている。それを眠れぬほど悔やんだばかりだ。かといって、この神社のやり方に従うのは違うという気がした。単に厳しいからという理由ではない。途轍もない違和感があるのだ。
ゴーン、と鐘の音が聞こえる。ひなは溜息をつき、立ち上がった。朝食の合図の鐘だった。
巫覡たちは、なぜ今朝の日迎えに来なかったのだ、という視線を刺し続けるに違いない。だからここでも、夢にうなされ動揺した可哀想な人を演じなければならない。
腹は減っていた。トボトボと食堂に向かう。十三人が向かい合い、二列に並んで座る食堂に入ると、案の定ちくちくするような視線を向けられる。「遅くなってすみません」と一礼して、定位置に座る。
「それでは、合掌」
最年長の巫覡が、大声で言う。皆は目を瞑り、口元で両手を合わせる。
「御日様の御恵を血肉とする幸せをかみしめ、本日も食事をいただきます」
「いただきます」
全員でびったりと声を合わせる。ひなはどうしてもズレるので、昨日から言うのをやめていた。
皆一斉に箸をとり、黙々と食べる。それでも、彼らは白い目を向けることを忘れない。ひなは時折溜息をついてみたり、ぐす、と鼻をすすってみたりする。静かな朝食を終え、俯いて元気のない彼女に、「どうしたの?」と同じ年くらいの巫女が声をかけてくる。
「こわい夢を見たんです。それで、日迎えにもいけなくて……」
と顔を覆って嘘泣きをすると、何人かが「どうしたの?」と異口同音に近寄ってくる。
「また、こわい夢を見たんですって」
「かわいそうに」
「早く悪い夢を見なくなるように、御日様にお祈りするわ」
「わたしも」
「元気出して」
慰めすらも型通りで、もはや儀式だ。内心はウンザリしていたが、きちんと一芝居うっておかないと、これからが居辛くなる。ただでさえ「だらしのない余所者」だと思われているのだから「事情のある可哀想な人」は保っていなければ、冷笑を向けられるだけの存在になってしまう。
逆に言えば、今のところはそこさえ守っていれば、必死になって明牙のやり方に従わなくてもなんとかなるということだった。
「集会に行くぞ。並べ」
それぞれにしゃべっていた巫覡たちは、さっと廊下に並ぶ。小走りまでして並ぶ。集会は、渡り廊下を二ついったところにある神主の控室で行うのだが、わざわざ並んでいくということは、何か重要な儀式を行うのだろうか。年齢の高い方から先頭に二列になるのだが、ひなは巫覡たちの一員ではないので、一番後ろにつかされる。
集会というのは、今宵の厄番に備えての集まりだった。明牙神社では三日月の光に誘われて、境内の中心にある御神木からまじこりが出てくると聞いている。厄番では、十三人の巫覡全員で手を繋ぎ、御神木の周りをぐるぐる回るらしい。その間、神主が祝詞を唱えているのだそうだ。
部屋に入っていくと、神主は既に椅子に座っていた。何の合図もなしに二列が四列になる。どこに入ってよいかわからぬひなは、最後列の後ろについた。
「お座りなさい」
全員、一斉に腰を下ろす。ひなも慌てて正座をした。自分よりも背の高い人たちが背筋を立てて正座をしており、前が見えない。肩の間から隙間をうかがうって、やっと神主の顔だけが見えた。
「今月も、厄番の日がやってきたな」
神主が微笑むと、ただでさえ多い皺が倍になる。
「吉覡、具合の悪い者はおらんかね」
「はい。お陰様で、全員の体調は良好です」
吉覡と呼ばれた最年長の巫覡が答える。その大声にひなは肩を震わせた。
「よろしいよろしい。元気健康が一番。おぬしらも承知じゃろうが、役場様が襲撃にあったり、鬼の血痕があちこちで残されていたり、明鳴のまじこりが解き放たれたりとここ最近はどうも不穏じゃ。今回は特に、気を引き締めるようにな」
「はい!」
と皆が大きな声をそろえる。ひなは耳がキンとした。
「それでは今回も、鐘が三つで準備の始め、鐘が四つで厄払いの始め。夕暮れまではいつもの通り健やかに。以上じゃ」
「起立!」
吉覡の号令に全員が立ち上がる。ポカンとしていたひなも慌てて立つが足がしびれていた。うまく立てずにすっ転ぶ。皆はひなに目もくれずに、一言もしゃべらず出て行った。ひなはしびれた足でなんとか立ち上がる。
「し、失礼します」
「またれよ、明鳴の巫女殿」
出ようとする彼女を手招く。ひなは我慢をしながら歩き、膝を悪くした人のようにゆっくりと正座をする。
「足がしびれたか」
神主は枯木のように笑った。
「はい……」
恥ずかしくなって、顔を俯ける。
「まあ無理もない。明鳴では随分お転婆だったと聞いておる」
「いえ、まあ、はあ……」
「ここでの暮らしは慣れたか」
「前よりは、慣れてきました」
「何かお困りごとはないか」
「……困りごとではないのですが……」
ひなは上目遣いに神主を見上げる。
「さっきの集会は、何のためにやったのでしょうか」
神主は小さな目を見開き、首を傾げる。
「んん?」
「いやあの、何のための集会だったのかなって、思ったんですけど」
「厄番の前はいつもやることになっている集会じゃ」
「それが、何のためにやるものなんでしょう」
「何のためと言われても、やると決まっておるからやるのじゃ」
「はあ……」
列をなしてここまで来て、挨拶と確認だけなのか。また一つ、よく分からない明牙の習慣に出会ってしまった。
「他には、何かないかな」
「……あ、明鳴神社から返事は来ましたか。槻白は、大丈夫でしょうか」
「あれから、連絡はない。明日辺りにはまた届くじゃろう。来たらすぐに、おぬしに知らせるでな」
「ありがとうございます。お願いします」
「他には」
「大丈夫です」
「それでは、帰ってよいぞ。何かあればおかかに相談しなされや」
「はい。失礼します」
更にしびれを蓄えた足を立たせて、ひなは襖を開ける。
「そうじゃ、言い忘れとった」
「……はい」
「厄番の最中は、境内におってはならんぞ。昼食が終わったら、宿舎に下がりなさい」
「どうして、境内にいてはならないんでしょう」
「しきたりじゃ」
「……失礼します」
一つ頭を下げて、襖を閉めた。
ひなは壁に手をつき、足を引きずり廊下を行く。また、「しきたり」か。境内に入ったところで、実害はないのだろう。しかし見つかれば、今回ばかりは罰掃除では済まない。
なぜなら、厄番の重要性を再確認させることが、他でもない明鳴神社で起こったのだ。
ひなが明牙神社に流れ着いたまさにその日、すべての神社に伝令が走った。それは、槻白を山姥が荒らしているという報せだった。
槻白の村人たちは、西の宿に避難しているという。王から山姥退治の兵が使わされたが、化物は燃やせど埋めれど復活するそうだ。おまけに山姥が取って食おうとするのは男ばかりで、兵が退治に行けど被害が生まれる一方だった。伝説のように太陽神に力を借り池に戻すべく、神主たちが作戦を練っている。
また山姥が出現したのは厄番の儀式が中断されたことによるだろうと、明鳴神社の神主は各神社に伝えていた。だからこそ、一層気を引き締めて厄番を行えということなのだが、ひなは自分が責められているような気がしてしまうときがあった。前のようにひどく自責をすることはないのだが、山姥を退治する場に自分がいないのはもどかしい。
ひなが明牙神社に逃れたという報せを受け取った明鳴の神主は、騒ぎが収まるまで明牙神社で世話になるようにとひなに文書を寄越した。帰って自分も山姥退治に力を貸したいと返事を書いたのだが、その返答はまだ来ていないということだった。
そのような経緯で、ひなは明牙神社で世話になっている。最初は客の扱いを受けていたが、精神の回復と共に巫女の一人としての扱いになった。神事に加わることはないが、毎日境内を箒で掃いている。明鳴神社であったらうまく誤魔化してすぐ放り出している仕事だが、ここは神社に務める人間も多ければ参拝者も多い。つまり監視が多いのだ。
ひなは掃除用具のある倉庫に辿り着く。箒を脇に挟んで桶と雑巾を手にする。井戸から水を汲んで、桶を覗いた。この数日で、随分日に焼けた。それだけで少し大人になったように見える。
北のお堂には一度しか行ったことがないが、木々が生い茂り日陰が多そうだった。炎天下で掃除をするよりも良い仕事かもしれないと思うと、やる気がわいてくる。
よし、と桶を持って立ち上がったとき、後ろから大声で呼ばれる。
「ひな!まだ北のお堂に行っていなかったのかい」
どこかで自分を見てでもいるのだろうか。おかかがのしのしと歩いてくる。
「神主様に呼ばれて。あと足がしびれてて早く歩けな」
「情けないねえ。いい加減慣れないか」
「すみません」
「北のお堂は、お社をよく綺麗にするんだよ。鍵がかかっているから問題なかろうけど、中は開けたらいけないからね。箒でほこりや葉を落として水でよく拭くこと。あと、くれぐれも丁寧に。いいね!」
「あぃ……はい」
言いたいことを言うと、来た方向をのしのし帰っていく。せっかくあったやる気は一気にしぼんでしまう。肩を落として、ひなは宿舎の西にある鎮守の森へ延びる道をとぼとぼ歩いた。




