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そしてまた月は満ちる  作者: 春日野霞
六 朙滅
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子供の夢

2021.01.29 投稿

 汀に、男と女が一人ずつ。

 今日の日が、水底へ沈んでいこうとしている。

 熟れた果実のような色をした光線が、浜を炙る。

 波は及び腰。ずっと諦めている。二人の足先へは届かない。

 目を瞑り、膝を抱えた腕に額をつけた女。

 寒風に髪をそよがせ、遠くを見つめる男

 が、女に目を下ろす。

 髪の間からのぞいたうなじが夕陽の色。右腕が動くままに、その細い首を掴む。

 女はすぐに顔を上げその手を払う。光の乱反射する瞳が、男を睨む。男は黙ってそれをじっと見る。女は視線を突き返すように立ち上り、波間を踏み分ける。

 女ははた、と立ち止って、静かに上衣を脱ぐ。その背中。陶器のような双曲線が、爛れた光を浴びている。背筋に刻み付けられた闇。風にちらつく漆黒の髪。

 女は上衣を海面に叩きつける。空になった手は、尚もきつく握られ震えている。

 女は唇を噛み振り返る。

 男は瞳を見つめる。

 波の音。

 風の音。

 暗闇の忍び寄る空。

 太陽が死に絶える。

 夜が始まってしまう。

 朝になれば忘れてしまう切なさ。二人の間で渦を巻く。男は立ち上る。女は背を向け、沖の方へと走り出す。男は追いかける。波に耐え、海を必死にかき分ける女の腕を、男はやすやすと掴んだ。


 ………………


 濃紺の空は火球の雨。

 蒼白い尾を引いた白い光の球が、海へ海へ海へ墜落する。

 女の白い胸が上下している、

 海辺。

 空の光を見て身を起こす。

 半開きのその目に流れる光。

 星の落ちる音。

 猫背からぽろ、ぽろ、落ちる砂粒。

 女は砂を掴み、握り締める。

 立ち上る。

 砂を浜に叩きつける。

 海へ走り出す。

 すぐ横に星が落ちる。それでも女は海をいく。潜る。泳ぐ。底を目指している。海面はほの白い。数知れぬ泡がひかる。灰色の塊が青い闇を押し砕き、力を失っては、底の無い闇の中へ沈下。

 向こうから踊り来る、生き物の影。

 猛り狂った和邇。

 女の右腕を食いちぎる。

 力を失い浮かんでいく身体を、流星が殴る。泡と深紅に溺れていく。次々と降る灰色の星が、女を底へと突き沈ませていく。


………………


 白い手首。

 青い血管が走っている。

 骨の左右非対称。

 密やかな陰影。

 食べ物のような肌触り。

 舌のはらで撫でる。

 唇の両端で親指の下の骨を包む。

 

………………

 

 女は目を覚ます。

 女の身体を左右に分断するような、闇の線。さかんに棘を生やしている。生き物のように、それぞれ伸び縮みを繰り返す。

 女は起き上り、外に出る。

 曇天の、海辺。

 女の身体の闇は海と目が合った途端、ズドと弾けるように伸びていく。海を分断する、闇の線。沖の方で、海に跳ね返された闇が空に向かって高く高く柱を作っている。勢いの終着点から落下する飛沫は白い。流星のようにひかり、蒼白い尾を引いて、海へ落下。

 女は割れた海へと走る。沖の柱が一層高くなる。降る星の雨は強くなり浜辺まで届く。

 女は海に背を向け、北の彼方に聳える山を睨む。

 灰色の空の下、真っ黒な塊が、こちらに触手を伸ばしてくる。

 女は白い手で、身体に走った闇の線をなぞる。

 それがそっくり、白い剣となって女の手に握られる。

 しかし恐れをなしたのか、女は後退る。海の割れ目に落ちた足を闇が掬い上げ、そのまま空高くへ彼女を押し上げる。

 北から、伸びてくる大きな腕。鋭い爪を剝き出し突っ込んでくる。女は自らをのせた闇を駆り、その爪へと剣を振りかざす。


 人々が夢の出口で彷徨う、薄明の天空。

 女の声がこだまする。

 誰もが耳にしているのに、誰の記憶にも残っていない。

 思い出して。

 おまえの水底に沈んだあの叫びを。


………………


 膝枕。

 火傷の肌を撫でる掌。

 横たわった海の底に、安らいだ身体。

 見上げた先で、優しく微笑む女。真上の日輪がまるで後光のように重なっている。積水が光を懐柔させ、安住の底は薄闇で満たされている。

 顔を撫でる掌は冷たいのに、膝枕の太腿は温かい。彼女の黒い瞳が滲ませた光に、春の色を見る。吐き出した息が、泡となって光へと昇っていく。このままずっと、ここにいたかった。産まれ、揉まれ、死ぬ。無意味無価値にも思える営みから外れた場所。

 死んだような女の掌に、そっと手を伸ばす。


「かあさん」


 現に目を開いた瞳は、まだ海の中に取り残されたようだった。一つ瞬きをすると、視界が元に戻る。重たい涙が、蟀谷を伝った。

 晴瀬は身を起こした。片目からもう一筋、涙が下り唇を濡らした。まるで海水のようにしょっぱい。

 新月の夜、そっと外に出る。空にさんざめく星たちが、洞窟の中で見たように、全て眼に見える。眼を閉じて、ゆっくりと開くと、それらはきちんと星に戻る。

 彼の顔の半分には、火による傷の痕があった。しかしそれはぼうっと白くなり、何による傷なのかが分からなくなっている。左の眼球がなくなり、張りを失った目蓋が死を垂れ下げている。

「おい」

 振り返ると、そこにはファリがいた。

「ついてこい」

 彼に従い、ひっそりした村を歩く。

やがて開かれた西の門が見えてきた。

「こっちだ」

「……どこに行くんだ」

「こっちだ」

 彼は門の外にいる。

「早く来い……お前の、無くなった片目を、取り返しにいくぞ」

「どこにだ」

「洞窟に」

 晴瀬は左の瞼を触った。皮膚は細かにざらつく岩のようで、どういうわけか冷たい。

「俺の、眼玉は」

 彼はそこで初めて、己の顔面の異変を知る。

「だから、洞窟に取り返しに行くと言ってるんだ」

 晴瀬は顔に触れながら、一歩を踏み出す。

「なあ、俺の顔、どうなってるんだ」

 歩きながら彼に問う。門を出た瞬間、ファリが足を引っかけ彼を突き倒した。不意のことに反応が遅れ、身体が山を転げる。木にぶち当たってやっと止まった時、門のある方を見上げた。

「二度とこの村へ立ち入るな」

 ファリの冷たい眼光を最後に、門が音を立てて閉まった。

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