うみの夢
2021.01.27 投稿
暗闇に目蓋の赤のような像が明滅している。それは脈打って痛む腹と、拍を共にしていた。
「は……は……は……」
蠢いている。
身体を内側から、ぬめった身体が擦る。
「は……は……は……」
身体はないのにものが見える。身体はないのに腹が痛い。奇妙な捻れに耐え切れず、みちは身体があると思うことにした。途端に、無かったはずの手足さえも生えてくる。苦しみを吐きだすための口ができたことが、唯一の救いだった。
しかし苦しさに両手をやった顔は石のように冷たい。胎だけが、焙られたように火照っている。
ぞわぞわ、子供が胎の壁を這い始める。気味の悪さに身を捩る。竜宮で見た蛇を吐きだす夢が蘇る。あの神は、蛇の子を堕ろすのでも産むのでもない道に逃がしてくれると言ったのに。
このままでは産まれてしまう。
腹が、切り裂かれるようにズキリと痛んだ。
「いたい」
無秩序に這い回っていた蛇たちは突如幾条かにまとまり胎の壁を滑る。
裂かれるような痛みは何度となく繰り返され、みちはその度にうめいた。
「いたい」
ずん、と腹の底に重さが溜まる。
鋭い痛みにかわって、胎の壁に鈍い痛み。
とうとう産まれる合図だろうか。
「いやだ」
外に、出したくはない。呪詛のように「いやだ」と呟き続けるが、突如襲った焼けつく痛みに悲鳴を上げた。それば胎内に隈なく広がり、みちはのたうち回る。
「いたいいたいたいたいたい」
腹の業火は万年に亙って燃え続ける。いいや、例によって一瞬だったのかもしれない。視界を細かな粒が、虫のように這いまわる。それらが静かになったとき、みちは仄明るい場所にいた。
身を起こして、音のする方を見る。
月が水没して輝いていた。
玻璃を砕いたような砂浜に、波が寄せる。優しく耳を撫でるような音に、みちは波打ち際に目を落とす。白波は破鏡の欠片を飲み込んだように、きらきら光っていた。
凪の波音に、漲っていた緊張がさらわれていく。
「海」
みちは月光の揺れる波に足をさし出だす。足首に触れる海は、あの春の海よりも冷たい。返す波にさらわれて、足の裏に掴む砂が崩れていく。彼女は躊躇わず、月へと歩む。海に沈む身体は、海中の月光に死人らしく蒼褪める。
墓場のような海に、身をうずめる。幾色もの青の中、幾条もの光が真っ直ぐに走っていた。玻璃のような泡がゆらゆら立ち上り、揺れる海面に吸い込まれていく。そこに生命の姿はなかった。月を抱く海は、月の海を思わせる荒涼に絶息している。ただ、月だけが、無能の生物のように眩い光を放つ。目の奥まで焼き尽くされるような気がして、みちは海から顔を出した。
漆黒の天空には、細やかな光が散りばめられている。小さな光が何億何兆と集まって、空を分断する川になる。光を放つ雲の帯のようにも見えた。所々、光を食いつぶすような闇の雲が流れている。
その両岸に一等輝く星が、一つずつ。青白く熱をあげ、一方は流れの際に、一方はいささか距離を置いた所に。雲の帯に没してしまえば、これほどまでに輝く星といえども、いかなる運命をたどるか分からない。黒い雲に食われてしまうかもしれない。光の雲にその青を奪い取られてしまうかもしれない。
だから、橋を渡すのか。
みちは目を瞑り、愛しい人と引き裂かれた女を思う。
彼女は宙に浮かんだ星屑を集めて、橋を作る。胸いっぱいに星屑を吸い込み、強い息で吹きつけ橋を作っていく。崩れてしまわないように手で固めながら、また星屑を吸い込む。それを何千何億と繰り返す。気が遠くなるような作業だったが、愛しい人への思いに満たされた身体はそれを作業だとは思わない。その一息吹ごとに、あの人の笑顔に近付いていくのだから。
みちは大きく息を吸い込んだ。会いたい、会いたい、会いたい。橋はもう間もなく完成する。愛しい人の影が見えている。今年こそ出会うのだ。もう間もなく夏が来てしまう。一瞬だっていい。触れたい。抱き合いたい。あの大きな掌で、涙を拭ってほしい。
いつしか橋を造る女になり代わったみちは、向こう岸から迫る男に顔を上げる。
「晴瀬!」
しかし愛しい人は、晴瀬ではなかった。
「私と愛を、誓ったろうに」
竜宮の主が、精巧無比の面を哀切に歪めている。歪みは止まらず顔面は醜怪に捻じれていった。主の身体さえも溶けだしてヘドロのような腕が伸び、二人の端の僅かな間隙を渡してこちらに這ってくる。
「なぜあの男を追うのだ。あれは愛ではなかろうに。神のなれ果てのまやかし。あなたがこれ以上苦しむことはないはずだ」
みちは全てを聞かずに、背を向けて走り出す。グチャ、と嫌な音が背後から迫る。彼女の足に、橋の星屑が零れて纏わりつく。天の川は呆れるほどに広く、岸はあまりに遠かった。
突如、視界の端で光が弾ける。立ち止って目を向けるが、あまりの光に顔を覆った。腹の底が竦むような心地に、光の正体を知る。瞬間、星屑の橋が夏の灼熱に溶かされていく。目蓋さえも焼くような光に動けない彼女は、橋と共に天の川へと落ちていく。
光の川は北から南へと流れていた。みちは振り返る。河の両岸に光る二つの星。自分は伝説の女でないのに、そもそも海の中にいたはずのなに、何をやっていたのだろう。溺れて、天の川の光の水が喉に流れ込む。光の粒がくすぐったく暴れて、体の管を下っていった。溺れても水中のように苦しくはないのに、叫び出したくなるようなむず痒さが全身の内から外から、襲った。
川はいつしか勢いを増し、川の周囲にさんざめく色とりどりの星々が、超速で駆け去っていく。やがて星たちは数を減らし、光の川は真っ暗闇の中をひた下った。
か細い腕で空を描き喘ぐみちの身体を、川面がやさしく持ち上げた。口からいくらか光を吐いて、身体を掻き毟り低く唸る。川は彼女を乗せて、やはり変わらず滑っていく。速度は未だ弛むことなく、むしろ加速している。吹き飛んでしまいそうな風を受け、川面にへばりつく。ひやりと、頬に冷たさが触る。撫でてみると、川には鱗があった。
白々と夜が明けるように、密やかな光が辺りに満ちる。
顔をあげた彼女の目が、昇り始めた朝日を映す。その腕が伸びるのは水平線。眼前に広がるのは、海。
水を湛えたような光が、夜をやわらかに、空の奥へと押し上げる。海は輝きを放つ。みちはあの日に彼と見た、海のことを思い出していた。
拳を握ったその場所は、湿った皮膚の上。川の光はすっかり、銀色の鱗に代わっていた。
竜宮が消え去った直後、荒野に自分を見下ろした蛇を思い出す。銀の大蛇は砂浜をあっという間に駆けて海原に飛び込む。ぐわん……と沈む。思い切って目を開ければ、朝の陽が差す青い海。見上げた海面はまばゆく光り、泡がきゃらきゃらと音をたてて昇る。底は果てしなく深く光の腕も届かないのに、あの月の海よりもずっと生命的だった。
蛇に導かれ、海の底に足をつく。青い薄闇に、銀の蛇と対峙する。今にも竜宮の主か亜根へ姿を変えるのではないかとびくびくしていたが、蛇は静かだった。
黒曜石のようなその瞳は、落ち着いた光を湛えている。恐れの塊がそれに懐柔されてするすると解けていった。
「……助けてくれて、ありがとう」
言葉は泡になり昇っていくが、蛇は何を言ったか理解したようにすり寄ってくる。いつか白蛇に纏わりつかれた時のことを思い出し身を竦めると、銀の蛇は身を離す。蛇に表情は無いのに、悲しげに顔を曇らせているように見えた。
「……ちがうの」
その頬に手を伸ばす。
「嫌なこと、思いだしただけ」
蛇は彼女の華奢な手にもたれる。平衡を欠いた彼女は、海中にしりもちをつく。銀の蛇はそっと首を差し出す。彼女は掴まって立ち上がろうとしたが、蛇の頭がすん、と沈んできて、膝の上にその大きな頭が寝そべる。
それでも今度は、怖いと思わなかった。
温かな蛇の頭を、そっと撫でる。わずかな日光に艶めく身体はまるで宝のような、特別なものに見える。愛おしさすら感じて、顔が綻んだ。
目を瞑った蛇が、小さな泡を吐く。それが耳元で破裂したとき、みちは瞠目して叫んだ。
寸毫先も見えぬ、闇。
みちは戦慄きにうずくまる。
蛇の言葉を繰り返す耳を殴る。愛おしさを感じた胸を掻き毟る。
腹の中で大火事。
あれで子供は燃え尽きたのではなかったのか。
しかしそれは堕胎と何が違うというのか。
そしてまたあの銀色の蛇は何なのだ。
愛しさは母性ではなかろうか。
あの神は嘘を吐いたのか。
産むのでも堕ろすのでもない道を……『嘘なんかツイてないわよ』
「だって、蛇を、わたしを、産んだ?」
『蛇なんか産んでなイわ』
「じゃあ、焼き殺したの?」
『ソんなことしてないわ』
「それなら何!」
『大丈夫。これからはよクなッてイクかラ。ねえ、ほラ』
暗闇に、円く洸が開く。
『もうあなたは、一人じゃなイもノ』
円の中、水を透過した光の網が揺らめいている。たった今くぐってきた、海中の夢。その一部を切り取ってきたようにも見えた。
「夢はもう、いい」
『夢は現をこえる。現は夢をこえる』
水の中で聞く声のように、低く長く伸びる。
『あなたはもう、一人じゃなイノ』
そう繰り返したきり、神の声は消えてしまう。
生き物のように見える光の網から、水中の音が染み出て暗闇に満ちていく。
カエッテオイデ
光の囁きに呼応するように、闇の一部がみちの背後で立ち上がる。光を目指して、人の形をした闇が、たし、たし、と背を丸めて彼女に歩み寄る。
みちは、逃げようとは思わなかった。
人型の闇は、背中から彼女の内に入り込む。一人の形の中に、何十といった人間の記憶と、押し込められた感情が蠢いている。
何よりも強いのは、憎悪だった。
強大な力に踏み潰されて絶命した人々の、煮えたぎるような憎しみ。噴出する先をもおさえつけられて、消えることもできないでいる。
「かわいそう」
憐憫が口をつく。
「いっておいで」
言葉と共に、人型の憎悪が彼女から抜け出る。闇の姿であったはずのそれは、みちそっくりの姿にかわっていた。それは茫然とするみちへ無邪気に微笑む。踵を返すと、艶やかな黒髪をなびかせ、光の穴へと飛び込んでいった。




