闇の中へ
2021.01.26 投稿
帰ってこない。
今日は夜までに帰ると言っていたのに。
凌光は青颯の所在をマワリへ確認に行ったが、誰もが「分からない」と首を傾げる。
「何かあったら、知らないはずもない」
「そういえば、下で妙な音がしたと、西の門番は言っていたが」
「どんな音ですか」
「空気が震えるような音だったらしいぞ」
「バリバリ、とか言ったな」
「それで、見に行ったりしたんですか」
「駆けつけたが、ファリさんが既に対応していたとおっしゃっていた。何があったかは詳しく語られなかったな。今日はファリさんとタヒトさんと青颯……さんの三人で巡回していたから、その内帰ってくるんじゃないか」
部屋に戻った凌光の浮かない顔を、晴瀬はそっくり映す。
「ダメだったのか」
「うん。その内帰ってくるだろうっていうんだけど、嫌な予感しかしないんだ」
落ち着かない凌光は、何度もマワリを訪ねに出て行った。その度ごとに首を振って帰ってくる。
「村の人に聞いてくるよ。もしかしたらマワリでない人が知ってるかもしれねえ」
と晴瀬は立ち上がった。
「いや、ちょっと、一人にしないで」
凌光は扉の前で両手を上げる。
「怖すぎて爆発して死にそう」
「じゃあ、一緒に探しに行くか」
「それがいいねそうしよう」
二人でそろって扉を出た時、階段を上ってきたタヒトと鉢合わせた。彼は、随分疲れた顔をしていた。
「青颯は、どうしたんですか!」
タヒトが階段から落ちそうな勢いで聞く。
「今から、説明しますので、部屋へ」
と目を合わせずに言う。
悪い報せに違いないと、晴瀬は確信する。それは凌光も同じのようで、わずかに唇を噛み、顔を強張らせていた。
小さな灯台に灯りをつけ、二人と一人は向かい合って座る。タヒトはひとつため息を落とすと、若竹色の瞳を開いて二人を見据えた。
聞きたいような、聞きたくないような。二人の耳に流れ込んできたのは「青颯は、消えてしまったのです」という夢物語のような言葉だった。
「……んん?」
二人は揃って首を傾げる。タヒトは目を逸らした。
「……失礼。言葉が足りませんでした。私は今日、青颯と若隊長と共に巡回をしておりました。その折、今下界を荒らしているという術士に遭遇したのです。その際、なぜ塔を燃やしたのか、とその術士に尋ねていました」
二人は顔を見合わせ、「マキだ」と同時に言う。
「……そして答えを聞くと突然雷電を手にしたのです。それからは、あまりに激しい光と音に我々も何があったのか分からず、おさまったときには、その術士の姿も、青颯の姿もありませんでした」
タヒトは深々と、頭を下げる。
「申し訳ございませんでした。ついていながら、何もできなかった」
「顔上げてくださいよ。そりゃ、あんなのどうしようもないですから」
ゆっくりと顔を上げた彼は、やはり瞳を暗く沈めていた。
「前にも、このようなことは、あったのでしょうか」
「ないよ。初めてだ」
「そうですか……」
タヒトは顔を上げた。その目は微かに潤んでいるようにも見える。
「戻ってこられるよう、私も努力いたします」
それでは、と頭を下げ、静かに出ていった。
残った沈黙の中、晴瀬は何と声をかけたらよいか分からない。彼自身も動揺していたが、彼女の喪失感は計り知れないものがある。
しかし、先に声を発したのは凌光の方だった。
「なんか、変じゃなかった?」
声も乾いている。眉間にくっきり皺を寄せた表情は、青颯そっくりだった。
「何が、だ」
「タヒトさんが。もっと目を真っ直ぐ見て話す人じゃなかったかね……他にも、変だと思ったとこあったけど。言葉にならないもんだね」
と腕を組む。「こういうとき青颯がいたら便利なんだけどなあ」
「……どこいっちまったんだろうな」
「まあ、いつか帰ってくるでしょ。死んだわけじゃなさそうだしさ」
と笑う彼女に、晴瀬は同意を返すほかなかった。
ほどなくして灯りを落とし、床につく。しかし晴瀬は胸の底がざわめいて眠れなかった。
二人のおかげで、何日か前のような落ち込みから回復することができた。殺人の罪を悔いて自責を拗らせるのは、裏を返せば自己満足だと青颯に言われハッとしたのがきっかけだった。
考えれば考えるほどダメになっていくのだから、絶え間なく動けば良いのだと火災復旧の仕事をとにかくもらった。それで感謝をされるのが心苦しかったが、凌光に感謝を返せばいいと言われた。仕事をくれてありがとうと言うようにするだけで、重たかった胸が軽くなった。
今こそ、恩を返すときだ。方法を思案するが、例によって頭を使っても全く冴えない。景色の変わらぬ暗がりを相手にしていても始まらないので、晴瀬は凌光を起こさぬようにそっと扉を開け外に出る。
音を忍ばせ階段を下る。振り仰ぐと、満天の星空が、みすぼらしい姿の月を睨んでいた。鈍く光る、今にも死んでしまいそうな月だった。
職務区に向かい星明りの村を歩く。夜まで仕事をしている人が時折いるが、さすがに遅いのか、仮の寝床になっている仕事場はほぼ、真っ暗だった。
唯一、さびしく灯りが点っている場所がある。それがどこかは分からなかったが、職務区の奥にあることは確かだった。
ひたり、と足音が近づいてくる。反射的に隠れる場所を探すが、やましいことをしているわけではないと、迫る人の沖を読んでみる。滑らかに、澄んだ流れを持っていた。他にももっと要素がある。頭の中で言葉にしようと必死に意識を凝らす。
掴みきれない内に、その人が姿を見せる。
「あらあ、見ない顔」
その声に、聞き覚えがあった。
「あなた。名前は?」
「晴瀬だ」
「ハルセ……ああ、親島から来たっていう。初めまして、娼婦のセラよ」
自ら娼婦を名乗る彼女に、驚きを隠せない。
「しょうふって、あの娼婦だよな」
「ええ」
彼女は、いやに白い肌をしていた。袖がなく、丈の短い服を着ており余計に目立つ。突き出た手足は長く、やわらかに丸みを帯びていた。
「そんなに、驚く?」
「いいや……声、聞いたことあるって、思って」
「この前のお葬式のとき、私は歌をうたっていたわ」
「……ああ!」
あの時はもっと低い声だったが、声質は確かに彼女のものだった。
「でも娼婦なんだろ」
「そうよ。何かおかしい?」
特殊な風俗だった。
「ここでは娼婦って、闘う男といいことして、神様の力を分けてあげる女のことよ。神様と通じる力がなければ、なれないわよ」
「そうか……。綺麗な、声だった」
そう言い残して立ち去ろうとする彼の腕に、彼女はふわりと絡みつく。
「ふふ、もっと耳元で、好きなだけ、聞かせてあげるわよ」
と珍らかな青い目を上目遣う。ワタドの村人は皆、顔の横で髪を結んでいたが、彼女は金色の髪が波打つままに揺らめかせていた。
「そういう意味で言ったんじゃねえ……そうだ、青颯って、知らないか」
「あなたと一緒に来た、術のできる子供のこと?」
晴瀬は頷きながら「子供じゃないからね」と顔をしかめる青颯を思い浮かべた。
「ふふふ。知りたかったら、私のところにおいで」
「知ってるのか」
「ふふふ」
青い目を細めて彼の腕に絡みつき、ゆったりと引っ張る。小さく灯りがともっているのは、彼女は自分の仕事場だった。狭い部屋のほとんどを占めるように、布団が敷かれている。枕が二つ並んでいるのを見て、晴瀬はげんなりした。
「知りたければ、おいでなさい」
彼女は布団の上に媚態を作り、手を伸ばす。胸元がやたらと開いた衣服から、豊かな乳房が覗いている。だがそれを、晴瀬は性的な信号と受け取れなかった。
「俺は、青颯がどこにいるか知りたいだけだ」
「だから、おいでなさいったら」
晴瀬は躊躇いながらも布団に上がり、胡坐をかく。笑った彼女は彼の首に抱き着いて、彼をふわりと寝そべらせる。
「意外と、簡単な人ね」
息の触れる距離で、彼女が言う。白い足を彼の足に絡ませ口づけようとする。
「待て」
と彼女の額を抑えた。
「教えてくれるって言ったじゃねえか」
「知らないもの。そんなこと」
「じゃあ離せよ」
「いやあね。気持ちのいいことしようって、お誘いしているのに」
と甘い声で囁く。
「そんなことしてる場合じゃねえんだ」
「怖い顔をしないでも、いいじゃない。ああ。分かったわ……好いてる人でもいるんでしょう」
途端に彼は表情を切なげにゆがめる。
「話、聞かせてほしいわ」
するりと足をほどき、彼から離れる。
「どこにいる人なの?」
「……冥界の、底にいるんだ」
晴瀬は身を起こして答えた。
「まあ……ごめんなさい。死んでしまったのね」
「違う!」
突然の大声に、セラは首をすくめた。
「すまない。死んだ、かもしれないけど、死んだって言えないんだ。でも、冥界の底にいる。行って、会って、そこから救い出したいんだ」
「ふふふ。神話のようなことを、大真面目な顔で言うのねえ。可愛い」
彼女の反応に戸惑い、部屋を出るべく立ち上がろうとする。そのとき晴瀬はふとあることを思い出し顔を上げた。
「神話のようなって、もしかして、神様が冥界に下っていくって話か」
青颯に聞きかけていた神話を思い出したのだった。
「ええ。ご存知?」
「……女神が、闇の世界に下って……って話だろ」
あまりよく覚えていなかった。
「ふふ。知りたいの?」
「また、代わりに何かしろって言うんだろ」
セラは身を起こすと、ゆっくりと首を横に振る。目を瞑り、幾分低い声で歌い始めた。
女神は下る 女神は下る
死した肉棄て 女神は下る
かたき季節に 女神は下る
地の底にて 母に触れ 死の底にて 子に触るる
女神は昇る 女神は昇る
生くる肉もて 女神は昇る
さくる季節に 女神は昇る
息吹亙りて 光満ち 新たな眼に 光満つ
歌が終わり、長い睫毛に縁どられた瞳を、ゆっくりと開く。突然に、彼女の肉体が僅かな光に浮き上がる。布団の上に流れる生足の柔らかな曲線、細い肩にやわらかくおちた金の髪、ふっくりとした赤い唇。
ぼうっと見つめる晴瀬に、彼女は嫣然として白い腕を伸ばす。誘われて手を伸ばした晴瀬は、すべらかな指に触れた瞬間、ハッとして手を引っ込めた。
頭を何度も横に振る彼を、セラは声を立てて笑う。
「あなたも男でしょう。我慢しないで、きたらいいのに」
「……女神はどうやって死の入り口を見つけたんだ」
早口に、目と話を逸らす。
「そこまで、分からないわ。でも、ここにも、死の世界の玄関だと恐れられている場所があるわ」
晴瀬は逸らしたばかりの目を、彼女に向けた。
「本当か」
「ええ。案内するわよ」
「今、じゃなくていいんだ」
セラは首を傾げる。「どうして」
「俺、全然だめだから。もっとちゃんとしてからじゃないと、救えない」
「ふふ」
彼女は目尻を妖艶に下げて笑う。
「我慢したがりなのね。そんなに会いたがっているのに」
「感情だけで動いたって、しょうがないだろ」
「気持ちのまんま動くことって、ダメなことなの?」
立ち上がった彼女を、晴瀬は見上げた。
「行きましょうよ」
彼は、今度こそ伸ばされた白い手を取った。
セラは晴瀬を、西の門に誘った。
「お疲れ様」
「どうしたんだ、こんな時間に」
門番はセラを見て愛好を崩し、物見から下りてくる。
「晴瀬がね、下の洞窟に行きたいんですって。案内してあげてくれない?」
門番は晴瀬に鋭い一瞥を送る。
「ちょうど今は、死の口だ。いくらセラの願いでも、そんな危険は冒せないな」
「彼はね、死の世界に行きたいのですって。案内するだけだから、ね」
さり気なく門番の手を握った。彼は口元を緩めるが、眉間ばかりは険しく「できない」と首を横に振る。
「何をしている」
音もなく近づいた彼に、三人とも驚く。
「ファリさん。この男が、下の洞窟に案内しろと言うんです」
「何の目的だ」
彼は細い目を晴瀬に向ける。その気はないのだろうが、睨まれたように感じる。
「死の底に、行きたいんだ」
怖気づきながらも、はっきりと答える。
「ねえ、ファリさん、いいでしょう。私も興味があるの。もし彼が帰ってきたら、何か村に役立つものをもたらしてくれるかもしれないわ」
彼女は打って変わって、凛とした声で言う。豹変ぶりに晴瀬は目を見張った。
「確かに、我々としても未知の領域だ。俺が案内をしよう」
「ありがとうございます」
「よかったわね。さあ、行ってらっしゃい」
ファリはすたすたと物見へ上がっていく。晴瀬は「きっと、帰ってくるのよ」と囁くセラに背中を押されて、彼の後に続いた。彼は物見から縄をおろし、それを伝って下りて行く。晴瀬もそれに続いて、門の外に出た。
「あの、すみません」
「なんだ」
「火を、そんな風に、浮かせてられないんです」
ファリの一歩先に浮かぶ火を見て言った。
「だからなんだ」
「松明とか、上から貸してもら」
彼が言い終わる前に、ファリが「松明!」と先ほどの門番に声をかける。門番は二人が降りた縄を引き上げて松明を吊しておろす。
「ありがとう」
と上に声をかけ、晴瀬は縄から松明を抜き取り、火を灯した。その間も、ファリは既に山を下っている。晴瀬は慌てて追いついた。
「あの、聞いてもいいですか」
そう問うても彼は何も言わない。沈黙は肯定の意であろうと晴瀬はとらえる。
「洞窟って、ずっと死後の世界に繋がるんですか」
「……下弦から晦の月が夜空を亙る間だけだ」
喉の底から呻るような声で答える。
「お前は、なぜこのような時間に外に出たのだ」
「青颯を、探そうと思ったんです……そうだ。一緒にいたんですよね。何か、知りませ」
「タヒトが説明に行った通りだ」
それきり話さず、二人は山道を下った。夜更けの山は静かなようで、闇にうぞうぞと蠢くものの気配を感じる。それが自分を害すると、晴瀬には思えなかった。しかし下っていくにつれてそれは濃密になっていく。
「ここだ」
彼が灯りを掲げた先に、闇があんぐりと口を開けている。何かが蠢くような気配の源は、ここにあった。
「俺は朝が来るまでは、ここでお前を待とう」
「……あの、凌光に伝言、頼んでいいですか」
帰って来られない可能性は、勿論ある。しかし引き返す気には全くならなかった。むしろ、今行かねばならないという指令が、胸の内から全身に向けて発されていた。
「みちに会いに行っただけだから、心配しないでくれって、言っておいてください」
ファリは、相変わらず返事をしなかった。
木々の葉をざわざわと擦らせた風が、洞穴へと吸い込まれていく。彼は風に押されるように、洞窟へと足を踏み入れる。
松明をかざして中を照らすと、洞窟内部は水平でなく、下に向かって伸びている。凹凸のある岩肌は濡れて、松明の火にぬらぬらと光っていた。
晴瀬は慎重に足をかけ、手をつきながら岩を下り始める。手に持った松明が、邪魔でならなかった。それも、術の未熟な己のせいであると自分をなじる。
こんな自分で、本当にみちを救えるのだろうか。
セラの言葉に、なんとなくその気になってしまっただけではないか。
それに本来は、青颯を探すために出てきたのに。
このまま自分まで戻れなくなったら、残された凌光はどうなってしまうのだろう。
逡巡する彼の耳に、記憶の彼方から音が迫る。
しねばいい
死ねばいい
永久に変わらぬ円環の中に生き、惨めたらしく死ね死ね死ねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしね
しね
しね
し
……
……………… しく
………………しく
……しく………………しくしく
………………しくしく………………しくしく
………………しくしくしくしくしく
しくしくしくしくしく………………しく
しくしく………………しくしくしくしく……しく
しくしくしくしく………………しくしくしくしく……
……………… しくしくしくしくしくしく……しくしくしく
しくしくしく…………しくしくしくしくしくしくしく
しくしくしくしくしくしく…………しくしくしくしくしく
………… しくしくしくしくしく……しくしくしくしくしくしくしく
しくしくしくしくしくしくしくしくしくしくしくしくしく
しくしくしくしくしくしくしくしくしくしくしくしくしくしく
しくしくしくしくしくしくしくしくしくしくしくしくしくしくしくしくしくしくしくしく
泣いている。
みちの声のような気もする。
晴瀬は急いで下りようとする。が、慣れない足場で気持ちばかり逸らせても、身体はうまくついてこない。足を滑らせて転げ落ちる。濡れた岩壁に当たって松明が消え、あっという間に闇が訪れる。闇の中を転げる晴瀬は、手を伸ばし、なんとか何かを掴む。それは奇妙に柔らかかった。
痛む身体をゆっくり動かし、体勢を整える。手の平に火を灯して見ると、それは岩壁から生えた女の頭だった。晴瀬は絶叫して手を離す。再び崩れた身体を掴み落下を留めるもの。それは真っ黒い三つの手だった。辺りはいつしか仄明るくなっている。見れば、上下左右全ての壁面に星が散らばっている。
青白い光の中、女の髪の毛は乱れ、長い毛束と短い毛束が入り混じっている。固く閉じていた目を、女は開いた。白目はおろか、黒目までが真っ赤に充血している。ばかり、と口を開けると、唇は動くことなく声だけが言う。
「太陽は惨事に時間を定めてわたしは迫害を謝罪するために密事におこがましく響き渡る鞭の音は蟻のように地を歩き影のように地を這い太陽に目は焼かれている雲の微笑……空が落ちてこない理由を天井に問えど梨の礫は私の歯に食い込み走る金木犀は高らかに声を上げ産まれたばかりの爪を踏みにじる……わたしはなぜこうなのだこうなのだ穴の中に包まれた袋を振り回す神の手になすがまま首を垂れて涙を流す……水底から手を伸ばして掴む蛇の抜け殻が地上に乾きをもたらすまま声を嗄らして夏が来る……」
女の口から、真っ赤な血が流れ出たと思うと、紅の目が溶けて血と流れる。赤い川が下っていくと、辺りに散らばっていたはずの星が何時しか残らず眼になっている。大小様々の眼が、全方位から自分を見下ろしていた。恐怖が度を過ぎ声も出ない彼の身体を、闇の手が放り出す。滑る血に身体は止まることなく岩を転がる。もう打っていないところが無いというほど全身を岩に打ちのめされた彼の身体は、坂を下り切りようやく止まる。
一瞬、意識を失ったかもしれない。視界を占める無数の目は、残らず彼を見ている。星の名残を虹彩に秘め、真っ黒な瞳孔はどこかの果てへと続く穴のようだった。晴瀬は背を丸め、ゆっくり立ち上がる。身体が少しも痛まないのが、春軌の見せる悪夢から覚めたときの起き抜けに似ていた。あの眩暈がするような桜の里。それを再現するかのように、光の粒がちらつき始める。
眼の光がすうっと失せると、視線を送った洞窟の奥に、白い人影がぼんやり光る。
「みち……」
出会いの日をそのまま映したような、彼女。
晴瀬は通路のような細い道を走り出す。近づく度、白い女の影は、頭からするすると消えていく。彼が彼女の立つ円い小部屋のような場所に足を踏み入れた瞬間、涙を一筋残して消え去ってしまう。
「どこいったんだ……」
光の粒も同時に消えて、二度目の暗黒が訪れる。湿ったものが絡み合う音が、洞窟の内部に響く。生臭さが鼻をつき、晴瀬は手の平に火を灯す。
彼女が立っていた洞窟の最奥。小さな光を盛んに跳ね返すぬらぬらとした物体。壁面に貼りつく大きな塊かに思えたが、それは無数の小蛇が蛇が団子になった塊だった。互いの上を互いが這い、潜り、顔を出す。その身は銀に光り、影に潜めば闇の色に流れる。晴瀬には目もくれず、這い回るのに熱を上げている。そして、僅かながら、その一塊は徐々に膨れ上がっていた。
晴瀬は火を片手に、我知らずと闇の刃を手にし、振り上げている。蛇たちは一斉に動いて振るわれた刃を避ける。何度も刃を振るうが掠りもせず、虚しく岩壁を傷つけるだけだった。
晴瀬は闇の刃をおさめる。一匹の蛇に己の沖を繋げると、そこに闇の矢を突き立てた。見事に命中し、蛇は力を失い壁からぽとりと落ちる。
すると、壁面の小蛇たちは一斉に鎌首を擡げ、晴瀬を見た。幾千もの生きた蛇の眼を、彼は睨み返す。小蛇たちは猛烈な勢いで集まり、銀の大蛇の形を作った。
大口を開けた小蛇の大蛇が晴瀬に迫る。晴瀬は闇で櫂を作って銀の波を薙ぎ払う。岩壁に叩きつけられても、蛇は少しも弱らずまた大蛇の身に合流する。小蛇はそれを繰り返すだけで、動きを見せようとはしない。
――命を簡単に、奪っちゃいかん。
彼方から、声が聞こえる。
「俺は、この蛇を殺さなきゃなんねえ」
今度は自覚のないまま命を奪ったりしない。
残らず、徹底的に、消す。
晴瀬は灯りの炎を広げて、大蛇を覆うように放った。
蛇の塊はたちまち火に包まれ、光の中で苦しそうに身をくねらせている。普通の蛇ではないのか、その影はいつまで経っても動き続けている。晴瀬は袖で口を押え、身を低くし闇の刃で蠢く影を斬り払う。断裂した蛇は力を失い地でのびる。火を直視し、光の残像を蓄積した瞳は使えなくなる。煙に涙する目を、晴瀬は一思いに閉じた。小蛇の塊を一匹の大蛇と捉え、その沖と己の沖を繋げる。体が思うままに闇を手にし、蛇が一匹残らず絶命することだけを考えてそれを解き放った。
耳を裂くような音と暴風が駆け抜ける。蛇の沖が、炎ごと消え去った。
晴瀬は低くした体勢をゆっくり戻しながら、目を開ける。
その視界に飛び込んできたのは、真っ赤な火を纏った蛇が口を開き片目に突き迫る像。
黎明が近い。
夏の山は、海中のような青に浸る。
ファリは立ち上がり、夜を引き摺る洞窟を見据えた。その闇から、唸り声のようなものが聞こえてくる。
空に、明るい青が満ちてくる頃、唸り声は叫びに変わる。身が引き裂かれる恐怖から、発されるような声だった。よく聞いてみれば、それは晴瀬の声だった。
「晴瀬か?」
呼びかけると、暗がりから突如として彼が現れる。顔の左半分を火が這っている。右側は水に濡れていた。意識が既に朦朧としているのか、手にする術は水でなく水蒸気ぐらいにしかならない。ファリは彼に水をぶちまける。が、紅蓮の炎は消え去らなかった。
彼は眉を一瞬動かしたが、冷静は失わなかった。火焔を覆うように闇を放つ。遂に気を失った彼の顔から闇を霧散させると、炎は見事に消えて焼け爛れた顔面が残っていた。
ファリは彼を背負い、薄い唇でほくそ笑んだ。




