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そしてまた月は満ちる  作者: 春日野霞
六 朙滅
32/89

遭遇

2021.01.25 投稿

 マキは彼女を一瞥した。大きな目に涙を溜めて、まだ何か言いたそうに俯いている。

 彼女にしては珍しく、多少は同情していた。というのも、自らの境遇に似たところがあったからだ。

 マキがあの桜の里に行くことになったきっかけは、ひなと同じように月夜に外へ出てしまったことだった。しかし彼女と行動を共にするのは不可能だ。彼女を鬼から守りきれる余裕はないし、第一術士がいると騒がれては面倒だ。

 それきりひなのことは頭から打ち捨てる。鬼山を見据え、足を速めた。

山の裾に着いたのは、太陽が頂点を過ぎた後の一番暑い時間だった。笠を解いて汗を拭い、山に登り始める。蝉が木漏れの光を沸騰させるように騒ぐ。体感としては平地よりもよほど涼しいのに、喧しさのせいで暑苦しく感じられた。

 マキは顔色ひとつ変えずに、黙々と山を登った。彼女には、大勢の人が集合している沖が感じられていた。鬼と呼ばれる人々の居住地はそこに違いないだろうと、道なき道を登っていく。

 しかし山が人を簡単に頂上へ運ぶことはなかった。途中で断崖に行き当たったり、落石に道を阻まれたりする。術をも駆使して乗り越えることもあったが、引き返さざるをえない道もあった。また、度々熊が出没するのも厄介だった。平地で育った彼女は、熊を見るのは初めてだ。それでも、恐ろしい動物だということは聞いたことがある。無暗に闘うべきではないと、身を潜めて視界から消えるのを待った。

 そうこうしている内に、太陽は西の山脈に落ちていこうとしている。黄昏の迫る中、突然道が開けて、人々の沖も近くなっていく。目的地は近い。笠を脱いで首に結んだマキの視界に、円い暗闇が映る。

 立ち止まってみると、それは大口を開けた洞窟だった。

 沖の激しい既視感に、眉を顰める。ここに至るまで気が付かなかったのが不思議なほど、強烈な沖だった。洞穴の闇に閉じ込められた沖が、のたくり回っている。それは億劫の時間と那由他の記憶を溜め込んでいる。その時間や記憶のそれぞれがそれぞれに異なる沖を持つ、無数の個の集合体だった。まるで何億といった人間を目の前にしているようで、眩暈がする。

 死の世界に続く洞窟であると、マキは確信した。

 月夜に外に出た後、例にもれず鬼に出くわした。当時から術が多少できたが勿論敵わなかった。四肢を千切られ殺されるはずなのに、何があったのか半死半生のまま放っておかれた。切れ切れの眼前に、それまでの人生が駆け去る。最後に鬼に殺される場面までが甦り、いよいよ死んだと思った。

しかし予感に反し、意識が明瞭になったのだ。そして身を起こした場所が、この洞窟だった。

 一人の、幽鬼のような男がいた。マキはかつて、彼に自分が死んだのかと問うた。彼は、生きてもいるし死んでもいると答えた。マキは自分が死んでいるのならば、母の姉に会いたいと言った。すると男は、洞窟の奥を指さした。その通りに進んだら、あの桜の里に出たのだ。

 マキは疼き始めた腕の痣をそっと抑える。

 鬼の居住地は近い。しかし、無視して通り過ぎることができない。

 刻一刻と光が抜けていく中、洞穴を凝視する。

 ひた、ひた、ひた、と足音が耳に触る。蠢く沖をかき分けて、あの幽鬼のような男が姿を現した。 

記憶に残った姿と、少しの違いもなかった。肩から被った黒い衣を引きずり、奈落を見つめるような色の瞳を円く開け、こちらを見ている。

 マキは宵闇にまやかしを見ているのかと、拳ほどの灯りを中空にともす。が、男の姿は消えることなく、確かにそこにある。

「お前は誰だ」

 男は一度、目をしばたく。

「私は、恒暗」

 今にも崩れ落ちそうな、悲しげに萎れた声。

「私はマキだ。一度会ったことがあるが、記憶にあるか」

 恒暗は、ゆっくりと頷いた。

「今度はあなたが……」

 乱れた前髪の下で目蓋を閉じる。音も無く、両頬を涙が下った。

 彼の持つ沖は淀み、ほとんど死人のようだった。しかし有限を無限と錯視させる闇のように、彼の体内と体外の境界を失わせているその沖は、洞窟の持つ沖に酷似していた。

「お前は、人か」

 そうでないと分かっていながら、問う。案の定、彼は首を横に振る。

「それでは、何なのだ」

「……殺してくれ」

 血の気のない顔が、哀切に訴える。

 一歩踏み出してきた彼に、反射的に後退った。不可解な彼は、敵という明快な対象でない。そのことがマキを困惑させていた。

「此度こそ、私を、殺してくれ」

「……なぜ、私がそんなことをせねばならない」

「私をこんなようにしたのは、あなただ。私の殺し方を知るのは、あなただけだ」

 焦点の合わない瞳は、マキを映していながら別の何かを見ている。

「悪いが、人違いだろう」

「あなたを別人と違う、はずがない」

「それではなぜ、以前に会ったときは殺せと言わなかったのだ」

「あのときあなたは別人だった」

「……わけのわからないことを言うな」

 と言ったものの、確かに別人という表現も頷ける。冥界に行く前と今の自分は、何もかもが違っていた。

「殺してくれ」

「……そこまで言うなら、望み通りにしてやる」

 マキは光の槍を手にする。

 恒暗は表情を変えない。マキは彼に向かって走り、その胸を貫こうとする。が手ごたえが全くない。突き立てる先を失った勢いで、彼女は彼に頭からぶつかる。

 ぐにゃり、と人体でない感触に、慌てて身を引く。

「化物」

 彼は俯く。

「だから……殺してほしいのに」

「どうやって殺せというのだ。お前の身体はどうなっている」

「私にもわからぬから、あなたを待つのだろう!」

 闇を裂くような声だった。

「私は」

 黒い衣から、白い手首現れる。もう片方の手に握られた刃物が、手首を裂く。血が滲んで流れ出すが、みるみる内に傷が塞がっていく。

「こんなようだから、死ねないのだ」

 マキは、自分が夢を見ているのでないかと思う。頬をつねるが確かに痛い。

「あなたも……」

 彼は血の残る指で、マキの頬に手を伸ばす。

「触るな」

 と腕をはねのける。

「その、顔の傷を、治そう」

 鬼から意識を失ったひなを守ったときに、よけきれずに受けた傷だった。

「そんなことが可能なのか」

「私は、私の体液は、傷を治す」

 裂いた身体から溢れる血で、自らの傷を癒すのか。恒暗は、マキの頬に走った傷をひと撫でした。

ぞわりと寒気が、マキの背筋を抜ける。頬に触れてみると、傷は確かに消えて、元の肌が戻っていた。手に付いた彼の血を灯りにかざすが、見た目には常人と変わらぬ血液だった。

「しかし、お前には人の身体すらなさそうだった」

「衣のうちにある身体に、身体はない。外に出ると、身体になる」

「それならその衣を脱ぎ捨て、火の中にでも身を投じてみたらどうだ。体液による回復も間に合わんだろう」

「もう、やった」

「溺死は」

「やった」

「それならどうしようもないだろう。人違いだったと思い諦めろ」

「何百年と、一人で、たった一人のあなたを待つ孤独が、あなたに分かるか」

 淀んでいる彼の沖が、ぞわりと動く。

「私を死ねない化物にしたのはあなただ」

 光を映さぬ黒い瞳が、ぎょろとマキを睨む。

「呪いを解き、殺してくれ」

「……悪いが私には、何の話なのかさっぱり分からないのだ」

 マキは踵を返す。

「待ってくれ」

「どこかに行くわけではない」

 向こうから、葉や草を踏み分けるせわしない音と、荒くれだった沖が近づいてくる。

「鬼がくる」

 マキの言葉を合図にしたように、何本もの火の矢が飛んでくる。闇の矢で残らず相殺すると、マキは灯りの火を消して目を瞑り、眩い光を弾けさせる。

 足音と沖がその場に留まる。マキは目を開けて、灯した火を掲げる。全身を黒い装束で固めた鬼が五人、目を抑えて佇んでいる。それでも沖を頼りに再び攻撃を仕掛けようとする一人に「待て。話がある」とマキは言う。

「この近くに、お前ら鬼の居住地があるだろう。私はお前らと話がしたくて来たのだ」

「鬼ぃ?」

 最も近くに迫ってきていた鬼が、不必要に声を上ずらせる。

「俺たちは鬼じゃない。王に認められた術士だ。あんな蛮族と一緒にするな」

「鬼ならここ登ったとこに住んでるぞ」

「鬼と話しがしたきゃ勝手にそっち行け」

「でもその前に死ね」

 五人は呼吸でも合わせたかのように、また一斉に術を繰り出す。全てをいなしきれず、右腕を刃の術が掠る。袖が破れて、金の痣があらわになる。それは闇の中でも、ぼんやりと光を放った。

 平地で襲い来る者たちよりも手強いが、マキの敵ではなかった。激した者たちの操る、力ばかりの強い単純な沖をそっくり操り、彼らに返した。

 いくつかの断末魔を聞く。一人が走り去る音が聞こえたが、彼らを残らず殺す必要もなかった。

 マキは恒暗を振り返り、血の滴る腕を突き出す。

「治してくれ」

 恒暗は言われる前に、彼女の傷の上で手首を切った。彼女の腕に落ちた血が傷を塞いでいく。二人分の血液が混ざり合って、地面を黒く濡らした。

「この、ここ……」

 恒暗は心配そうに眉を垂れて、金の痣を撫でる。

「触るな」

 マキはその細い指を振り払う。

 再び、荒々しい足音と沖が迫る。またかと顔を顰めマキは振り返った。

 灯りを掲げた三人は立ち止まる。「鬼」の黒い装束は着ていない。沖も、「鬼」の持つものと違う。

 その内の一人に、見覚えがあった。

「青颯。なぜここにいる」

 マキの声に、彼は目を見開き硬直している。

「どうした。声でも失くしたのか?」

 マキは片頬を歪めて笑った。

「役場を襲撃する術士というのは、お前か」

 青颯の傍らの男が、大声で聞く。

「そうだ」

「なんでそんなことすんの?」

 青颯は脳裏に、ごうごうと燃える塔の像を見ていた。

「術士を人間にするためだ」

 彼女は、記憶の中の言葉をそっくり繰り返す。

「じゃああの時はなんで塔を燃やしたの」

「……ああ」

 彼女は一瞬、何のことなのか意味を取りかねたようだった。

「よく、覚えてはいない」

全てを消しておきながら、何の頓着もないのだ。

青颯は、内腑から突き上がる怒り憎しみの烈しさに意識を奪われる。沸騰した血液が全身に満ちていく。身体の内にある何かが皮膚を突き破って膨れ上がる。気付けば片手が紫電を握り、笑みを浮かべる彼女にぶつけていた。

全ての動きが遅く見え、身体が無くなってしまったかのように軽い。

 彼女は、腕をひと振りした。電撃が弾かれ宙を駆ける。何かの術を使ったようには見えなかった。腕の金が不気味に光る。あれが邪魔なのだ。

 身の竦むような音と共に、視界を雷光が埋める。彼女の放った炎を電気が食う。どういう理屈なのか分からないのに、至極当然の現象に思える。どんな術が襲いかかっても、全て雷で対抗できるという感覚がある。

 それを非現実だと眉を顰める自分は、奥の奥から闘う自分を見ていた。

 身体は燃え上がるように熱く、感情が吹き荒れ嵐のようだった。しかし身体の芯は氷のように冷えている。静かに状況を捉えることができるのに、身体の主導権も意識の支配も剝奪されている。

 マキと激しい戦闘を演じているのが分かる。雷電を以って彼女の皮膚を爛れさせ肉体を焼き息を絶えさせるために。しかし彼女に隙は無い。まるで彼女を核に術を通さぬ結界が張られているようだった。

 それをぶち破ろうと、全身から大量に放電する。

 余分が過ぎる。少なくともマキに集中させればよいものを。客観の青颯は主導権がないことをもどかしく思う。まるで夢を見ているようだった。目は強い光のせいで使い物にならないのに、頭に直接目の前の光景が飛び込んでくる。マキが左腕をおさえこちらを睨んでいる。衣服が焦げているところを見ると、命中したのだろう。

 更に追いかけながら術を放つが、マキは抵抗をやめない。突然現れた真っ黒な衣の男が、マキを連れて洞窟へ走る。その背中に雷電を放つ。確かに命中しているはずなのに、二人は暗闇に消えてしまう。それどころか、雷を闇に咥えられて身動きが取れなくなる。闇が雷電を介して彼の身体に流れ込み、全身を支配していたほとぼりを一瞬で奪った。

 突如身体が鉛のように重くなり、青颯は膝をついた。雷の筋は幻のように溶け去る。青颯は茫然として闇を見ている。背後に迫る足音にも気が付かず、頭に大きな衝撃を食らって昏倒した。

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