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そしてまた月は満ちる  作者: 春日野霞
六 朙滅
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下弦の月夜に

2021.01.24 投稿

 それから、何日かが経った。

 春巫は山の麓にある、神社仕えの宿舎で寝ころんでいた。縁側から、西日の差した庭が見え、生け垣から透けて槻白の村が見える。それに死んだ目を向けた彼女の髪を、わずかな風が揺らした。

 あの日から一睡もできない彼女は、目の下にくっきりとくまを刻んでいる。冬巫の叫びを聞いた神主が駆けつけてくれた後宿舎に運ばれ、以来一歩も外に出ていなかった。食べ物も大して口にしておらず、たった数日で痩せた。毎日挨拶を交わすおばあちゃんが、姿が見えないか大丈夫かと差し入れをくれたそうだが、どうしても食べたくなかった。

 夕刻が訪れた村に、蜩の声が鳴り渡る。また今日も、夜が来る。部屋の隅にたまり始める闇に、瞳を閉じた。月光が照りつける山から、あの蓑笠の男がのしのし下りてきて、宿舎の人間を皆殺しにするという妄想が、夜の間じゅう頭を巡り続ける。その上、皆殺しにされたという明鳴神社の一族が床下に撒き散らす怨嗟や、冬巫の闇を裂くような絶叫を耳にする。

 妄想と幻聴に苛まれる夜は、あまりに長かった。息を詰めて涙を流し、しわくちゃで穴すら開きはじめたお札を握る。あの時唱えられなかった不甲斐なさをも殺すように、「カタレヌカミヨフルキハハヨ吾を守り給え」と、息も忘れて唱え続けた。

 そうして越えた夜の先の、暁。縁側に出て、昇りくる太陽を拝する。強烈な光を放ち、闇を打ち払う。地上に生命の秩序をもたらすその姿は、紛れもなく神だった。有象無象の魑魅魍魎を蠢かせる月とは違う。その月は日に日に身を空に食われ、朝日を前に力を失して白骨化していく。夜中流した恐怖の涙は安堵の涙にすり替わり透明に光った。

「春巫」

 ぞ、と低い音がして戸が開く。彼女は緩慢な動作で振り返った。

「具合はどうだ」

 夏巫が心配そうな顔で入ってくる。春巫は床に顔を戻す。顔についた木目のあとがずれて、肌が凸凹になったような錯覚。

「気晴らしに、散歩でもいかないか。外の方が涼しいぞ」

「……いかない」

「ずっと部屋の中にいるから余計に、気が塞ぐんだ」

「……いかないもん」

「ひな」

 春巫の本名だった。

「辛かったと、思う。だから、ちょっとでも早く元気になってほしいんだよ。そのための手伝いをさせてくれないか」

「いいよ……夏巫兄さんだって、忙しいでしょ……」

「お前がそんなこと心配しなくていいんだよ」

「する……これからは……私がちゃんとしてなかったからあんなことになったんだ」

「お前は無事だっただけでいいんだ」

「でも冬巫様は!死んだ!」

 彼女は突如身を起こし、彼を振り返る。

「余計なこと言わないでよ!思い出しちゃうから!」

 夏巫は悲しそうに眦を下げる。その顔を見て、春巫は「出てって!」と叫んだ。

 その日の夜は、それまでで一番激しかった。

 耳にこびりついた戸の開く音が、蓑笠の男の姿を伴って脳内に再現される。最初に殺されるのは自分だ。小さな瞳に込められた邪な力に動けなくなる。そして月光のような刀身を光らせ目に突き立てられる……妄想の狭間、遠くから声がやってくる。「死ね!」「待て!」「死ね!」「待て!」幻聴などという騒ぎではない。

 今日こそ、死人たちが床下から這い上がって殺しにくる。

 春巫はどたどたと廊下を駆け、外に出る。半眼の油月が、疎まし気に地上を見ていた。月がこんなんだから、魍魎が特に騒がしいのだ。「死ね!」「待て!」走る彼女の耳に、はっきりこだまする。宿舎にいるときよりも、鮮明に……。

「待て!」

 鋭い声が耳に突き刺さり、弾かれたように顔を上げ足を止める。荒々しい足音が近づいてくる方を見れば、逃げる一人を何人かが追いかけていた。

「死ね!」

 集団の誰かが叫び、炎が走る。逃げる一人は何かを放ち、それを打ち返す。

 春巫は蒼褪めた。

「鬼だ」

月の晩に外に出たら鬼に殺されるのだった。厄番のせいですっかり忘れていた。神社の中に鬼は入ってこれないため、全く問題がないのだ。

逃げる一人が自分を追い越す。集団は春巫に目もくれないで去る……ように見えたが、二人が彼女に気づいた。

「そういや、本業はこっちだよな」

「ええそうだった」

真っ黒い衣服に身を包んだ、真っ黒い瞳の、二人。

「こいつを始末しないといけない」

「ええそうね」

「あいつ全然捕まらないからいい憂さ晴らしだね」

「ええそうね」

「ほら見てみろ、固まって全然動けない」

「ふふふ。そうね」

「ははははははは」

「ふふふふふふふ」

 鬼が、じりじりと近づいてくる。遠くで、誰かの断末魔が弾ける。

「あいつまた、仲間を殺しやがったな」

「ええそのようね」

「まったく、腹の立つ奴」

「ええそうね」

「落とし前つけろよな」

 男の方の手が伸び、首を掴まれる。女が髪を引っ張り上を向かされる。

「はははは怖そう」

「ええ怖そうね」

 再びの、断末魔。

「また殺しやがったなあ」

 男のもう片方の手の親指が、口の中に入る。

「歯を折ってやろうか」

「ええいいじゃない」

 前歯に力がこめられる。

「ははは怖そう」

「ええ怖そうね」

「もっと怖そうな方がいいな」

「ええそうね」

「眼の方が怖いか」

「ええ眼の方が怖いわ」

 口の中を離れた親指が、頬を這う。

「ひひひ怖そうだ」

「ええ怖そうね」

 心臓が、胸を突き破りそうなほどに鼓動を打つ。親指こめかみまでくる。

「さあ眼を潰すぞ」

「ええ潰しましょう」

「ぃや……」

「こいつ、しゃべったぞ」

「ええしゃべったわ」

「なんだもう一回言ってみろ」

「ぃやめて……」

「月夜に勝手に外に出ておいて、命乞いをしやがる」

「ええ愚かな子ね」

 春巫の目じりから、涙が下る。

「泣いている。おかしいな」

「ええおかしいわ」

「ははははははは」

「ふふふふふふふ」

 二人の哄笑に紛れて、地面を強く蹴り走る音が迫る。突如、裂くように口を開けていた男の顔が吹き飛ぶ。

 地面を転がった彼はすぐさま起き上がる。睨む先に、逃げていた一人がいた。笠を被ったその人は光の刃物を手にして男に投げる。見事命中し、額から血を迸らせあっけなく死ぬ。

 その様が冬巫に酷似していて、春巫は耐えられれなくなる。「死ね!」という女の声を最後に、意識を手放した。


 夏の強い朝日に、目蓋をそっと開かれた。

 笠を被り、側に座った見知らぬ人が、手の平に目を落としている。頬に生々しい傷跡が残るその顔は、誰かを思い出しているかのように切なげだった。目覚めの意識が明瞭になるにしたがい、手の上にある何かを見ているのだということに気づく。誰のことを思っているのだろう。家族だろうか。恋人だろうか。

春巫は再び目を閉じた。身体が重たく、いつまでも寝ていたい。ここは神社でもなさそうだから、起こしにくる人もいな……。

 神社じゃない。

 春巫は勢いよく身を起こした。

「ここどこ」

「大百だ」

 それは、南部の一番東にある村の名だった。

「……私、死んだのかな」

 春巫は再び寝転ぶ。

「大百なんて、歩いて一日はかかるもの。死んで魂だけがすーっと、移動したんだわ」

 と寝返りをうつ。

「死んでなどいない。槻白を出てから一日以上が経っているのだ」

「んえ」

 春巫は慌てて身を起こす。その人は手の平の物を小さな巾着に入れて首から下げ、袷から服の下に入れた。袖や裾が広がるのを布を巻いておさえている。旅人なのだろうか。

「お前は一日以上寝ていた。捨て置くわけにもいかないから、負ぶってここまできたのだ」

 淵色の目をした旅人らしき人は立ち上がり、歩き出そうとする。

「ちょ、ちょ、ちょ、待ってよ」

 春巫はその足につかまって止める。

「私は急いでいる」

「いや、それでもだって!もうちょっと教えてよ。なんで私を、こんな所に連れてきたの」

「お前が鬼に殺されそうになったから助けたのだ。その場に捨て置くわけにもいかぬから」

 津波のように、記憶が大挙する。

「ああ……」

 冬巫の死、眠れぬ日々、何かを間違え外に出て、鬼に殺されそうになった夜。

「ああ……」

 感情までが反芻されて全身を駆け抜ける。

「ああー!」

 春巫は足にしがみついて嗚咽した。

「静かにしろ。人に見られる」

 しかし彼女は大声で泣きじゃくり続ける。旅人はしゃがんで、彼女の耳に口を寄せる。

「なぜ泣く」

「だって、だって、怖かった!」

「理由になっていない」

「怖かったの!」

 とまた泣いて、旅人に抱き着く。旅人は困った顔で、彼女を見下ろしていた。

 彼女が泣き止んだのは、太陽が山と天頂の中間まで昇った頃だった。

 春巫は、すぐそばの川で顔を洗い、旅人の横に座る。

「すみません。怖かったんです」

 しゃくりをあげて、彼女は呟く。

「なぜ月夜に外へ出たのだ」

 咎めるような口調に背を丸める。

「だって、怖かったんです。宿舎にいたら、いっぱい、死んだ人の声とかが聞こえて、死ね、っていうからこのままここにいたら殺されちゃうって思って……でも、出てみたら、それは鬼の声だったんです……」

 傍らの彼女を見た。

「あなたの、名前は」

「マキだ」

 夏の太陽に濃い影を作る笠の下、鮮やかな緑の瞳と目が合う。反射的に逸らして「私はひなです」と早口で言った。

「あの、どこで、私を助けてくれたんですか」

「お前が鬼に殺されそうになっていたからと言ったろう」

 春巫改め、ひなは首を傾げた。ということは、彼女は男の鬼を殺した「……術士、なんですか」

 答えず、彼女は立ち上がる。「夜中は外を出歩かんことだ」と踵を返して去る。

「待って、待ってください!」

 案の定、彼女は立ち止まらない。走って追いかけその腕を掴む。それでもマキは立ち止まらないので、ひなも共に歩く。

「何の用だ」

「話の途中なのに、なんでどっか行っちゃうんですか」

「私は急いでいるのだ」

「あの、私、帰り方が分からないです」

「この川を遡れば、南の宿に行き着く。そこでなんとかしろ」

「お金ないんです……明鳴神社まで送ってくれたら、お礼はちゃんとしますから、送ってくれませんか」

「……私は鬼に追われる身だ。これからもあの鬼山に行くのだぞ。私といる方が却って危険だ」

 鬼山とは、その名の通り鬼と呼ばれる人々が住む山のことだった。海のほど近くにあり、山脈から外れた山のなかで最も高く、裾の広い山だ。行く手に既に見えている。緑をこんもりと生い茂らせた山は、いかにも鬼の大群を溜め込んでいそうだった。

「……じゃあ、ここで、待ってますから……」

「いつになるか分からん。生きて帰れる約束もできない」

 ひなは口を噤む。

「分かったら、手を離せ」

「……ありがとうございました」

 ひなは、言われた通りに手を離した。

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