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そしてまた月は満ちる  作者: 春日野霞
六 朙滅
30/89

2021.01.24 投稿

 あっという間に、蜩の鳴く刻限になる。後を引く声が、時雨のように彼女の背中に触る。

「さあ、行くぞ」

 赤く染まる千切れ雲を見上げる春巫に、夏巫が声をかける。彼女は頷いて、彼の後に付いて行く。

 上つ宮までの道は、石畳で舗装されていた。夏らしく葉に生命を溜め込んだ木々が、黄昏の闇を濃く沈ませる。夏巫は提灯で辺りを照らし、春巫の歩みに合わせてゆっくり歩く。彼女は下を向いて、珍しく口を閉ざしている。

「始まってしまえば夢中になるから、すぐに終わるもんだぞ」

「……冬巫様って、どんな方なの」

 全く聞いていなかったかのように、春巫は別なことを彼に問う。夏巫は少しムッとして答えた。

「落ち着いた方だ」

「怖くない?」

「たまに、怖いと思うこともあったな。でも基本的には優しい方だぞ」

「……あんまりお話したことないから、かな。ちょっと怖いなって思うのは」

「……そうかもな」と夏巫は濁して答える。

 以降、二人は黙って坂や階段を上っていく。虫の声や時折吹く風に葉が擦れる音に、沈黙は無音を免れる。夏巫は言葉を探したが、また別のことを言われるのも馬鹿らしいとやめてしまう。結局無言のまま、目的地に辿り着く。

「着いたな」

 夏巫が、ゆっくりと振り向く。首をぐるぐると振る提灯に、二人の影が交互に伸び縮みする。

「じゃあ、頑張れよ。あのままやれば大丈夫だからな」

「うん……朝になったら、迎えに来てね」

「手のかかる奴だなあ」

 言いながらも、彼は笑っている。

「ねえ、来てね」

「分かったよ。それじゃあな」

 踵を返し去っていく彼を、春巫は見送る。暗い山の中へ、ゆらりゆらりと火が下っていく。彼とはひとつしか違わないのに、いつの間にかふたつかみっつ離れてしまったような気持ちになる。二人で怖がりながら山を登ったこともあったのに、なんともなさそうに下っていく。

 春巫は溜息を零して、上つ宮を振り返る。瞬間、拝殿の扉が開いた。

「んわ」

「あなたが、新しい春巫だね」

「は、はい」

「待っていたよ。靴を脱いでおあがり」

 彼女が消えていった中を見ると、灯りが一つだけ、ともされている。その光が及ぶ範囲は狭く、つめたい床と神棚の裾だけを暗闇から浮き出させている。覆いかぶさるような闇の中から、何かが這い出てくるかもしれない。春巫が幻想に囚われている内、冬巫は灯りの傍の円座に座って、手招きをする。

「こわいのかい」と彼女は笑う。青い瞳が、細められた。

 その、残っている片方だけが。

 春巫が彼女を苦手に思う理由。それは、目が片方無いからだった。眼帯をしているためまだ良いのだが、時折それを外すのだ。今がまさにそうだった。髪の毛で隠してくれてはいるが、目を抜かれた痕跡がどうしても視界の端に意識されて、恐ろしい。しかし一方で、どうしても見てしまう。それどころか、見なければならないという引力めいたものを感じるのだ。それが心にざわめきと葛藤を起こし、落ち着いてはいられなくなる。

「はよ上がらんと。時は限られているよ」

 鼻を、香の匂いが掠める。渦の形をした線香が、冬巫の向いに置かれた円座との間で細い煙を立ち昇らせている。それは、儀式に向かうまでの時間を計るためのものだった。

「でも……ですが、やることなんて、ないんでしょう」

「入っておいで」

 春巫の問いに答えず、冬巫は微笑む。顔が、そばの灯りに深い陰影を刻んで、春巫は怖いものを見たような気持ちになる。

「お茶菓子もあるよ」

 彼女が自分の脇から、盆をすっと滑らせる。そこには茶の入った湯呑と饅頭が置かれていた。

 春巫はそれに吸い寄せられるように、足を拭いてから拝殿に上がる。扉を閉めると、そそくさと冬巫の向いに座った。

「素直な子だね」

 とそわそわする春巫を彼女は笑う。春巫は思った以上にその場所が恐ろしく、辺りに目を走らせずにはいられなくなる。神棚から強烈な視線を感じるようで萎縮した。

「落ち着かんだろうが、直に慣れるよ。とりあえず、おあがり」

 きつい香の匂いに食欲も失せるが、手はおかまいなしに饅頭を掴んでいる。一心不乱に饅頭を食べる彼女を、冬巫は微笑のもとに見つめている。

「私の分もお食べ」

「いいんですか」

 食べ始めたら、お腹は空いてくるものだった。冬巫が頷くと同時に、もう一つを頬張る。あっという間に平らげて、春巫は茶をすすった。

「うまかったかい」

「はい。いつも食べるのよりも、おいしかったです」

「そりゃあ、良かった。これは西の宿の菓子だよ」

 西の宿とは、槻白の三つ村をこえたさらに先にある宿場だった。国の北と南へ通じる街道と中央に向かう街道の交差する場所で、貴賤を問わず人の往来が多く、菓子屋も多く軒を連ねていた。

「誰か、西の宿に行ったんですか」

「いいや。村番様からいただいたものだよ」

「ええ」

 春巫はのけ反って驚く。村番とは王使の役人で、村の内で最も権力のある存在だった。国にある二十八の村にそれぞれ一人ずつおかれ、王に代わって村を統治する。

「いらしたんですか」

 そのような人が参拝にくるとなれば、歓迎の準備が必要だ。知らないはずがない。

「いいや。ここのところ、厄番の前には使いを下さる」

「どうして」

「これから話すことに、関係がある」

 冬巫は突然声を低めた。

 きっと怖い話だ。逃げようかと思うが、ここは既に森に囲まれた上つ宮で、外の方がよっぽど恐ろしい。また相手は冬巫だ。神主のようにはいかないだろう。

「今から話すことは、しかと聞き、決して他言せぬように」

 青い片目で念をおされ、春巫は押し込めきれない恐怖を顔に貼りつけ「はい」と返事をした。

「太陽の英雄が二十八の村に巣食う化物を退治した伝説は知っておるな」

 春巫は頷く。四季の祭では、その伝説をもとに祭を行うのだ。国は東西南北に区画され、各方角に七つずつ村がある。春は東の村、夏は南の村、秋は西の村、冬は北の村の伝説をとる。三日に渡って、芝居や舞で伝説を模していく。神社の人間ではとても足らないので、村人たちが芝居をしたり、伝説の当地である村から人を呼んで舞をまってもらったりもする。

「槻白の伝説は何であったか」

「この山にずっといた、人を食べる山姥を、太陽の英雄が、太陽の熱で鍛えた剣で、斬り倒したんですよね。それでこの山に埋めた後に、この神社が造られたっていう」

「そうだ。しかし本来は、その続きがある」

 春巫は大きな目を更に大きく見開く。

「しかし山姥は蘇り、村人を喰い始めた。太陽の英雄は再び山姥を殺して山に埋めたが、やはり生き返る。そして不思議なことに、生き返る度ごとに強くなっていくのだ。困った太陽の英雄は、太陽の御神にお伺いを立てた。御神は、不濁の池に山姥を沈めよ。と仰せになった」

 春巫は首を少し傾げたが、冬巫は構わず続ける。

「地中に太陽の眼は及ばぬが、光の及ぶ池であれば睨みをきかせることができる。しかし邪な月の光を借りて、再び地上に返り咲こうとするだろう。その時は我が目の代わりである神鏡を、池の底へ投げ入れよと」

「それじゃあ、厄番っていうのは、山姥が蘇ろうとするのを止めるための儀式なんですか……?」

 冬巫は重たく頷く。

「まじこりはその先駆けとなるものだ。池の底からの梯子だと思ってよい。それを伝って山姥が地上に戻ってくる。不濁の池の山姥は、十四夜の月の光を借りるから、毎月満月の前の晩に厄番を行うのだ」

「でも、本当にいるわけじゃないんですよね。ただの伝説なんですよね」

「本当にいる。だからこそ、村番様が使いを下さるのだ。此度も山姥をしかと封じ込めよという激励のために。ここのところ、王土を穢す術士が、西部の村に猛威を振るっているのは知っているだろう。邪なものは連鎖して立ち現れる。ここで仕損じれば、また次の厄をどこかの地で招くことになろう。我々が決して仕損じてはならぬのだ」

「でも、今まで、誰も、失敗したこと、ないんですよね」

「ない。だからといって油断をしてはならん。特にあなたは初めてなのだからね。本日は一層身を引き締めなければ」

 春巫は茫然とする。

 教えられたことをその通りやれば良いのだろうが、そのように恐ろしいものに対抗するための儀式だとは、露にも思っていなかった。

 突如として、夜は両肩に重たくのしかかってくる。空を真黒い大蛇がずずずと動き、赤い舌を吐きながら目を光らせている光景が、頭に閃いた。今日に限って山姥が早目に地上へ上がってくる、などということはないだろうか。扉をぶち破って、自分たちを喰いにくるんじゃないか。

「や、山姥が来たら、どうしましょう」

 冬巫は片目で春巫を睨んだ。

「滅多なことを言うもんじゃない。口にするだけでそれが災いに転じることもある。巫女でありながら、言葉の怖ろしさを知らんでか」

 途端に何よりも彼女が恐ろしくなり、全身に粟肌の立つ思いで「すみません」と首を垂れた。

「まあ、あなたの言葉くらいではどうともならんだろうがね」

「はい……」

 甘い、と神主に怒られるよりも、相当にこたえる。訪れた沈黙に、虫の声が響いてくる。縮こまってそれを聞いている内に、先ほど覚えた違和感が蘇る。

「その……ちょっと聞いてもいいですか」

 上目遣いに見る彼女の顔は、もう怒ってはいなかった。

「なんだい」

「山姥を埋めた場所に、この神社を作ったっていうのは変ですよね。池で儀式をするために、神社を作ったんですか?」

「良いところに気付いたね。決して口外してはならぬというのは、そういうことなんだ。この神社はもっと昔からここに鎮座している」

 そんなはずはない。春巫は何度も首を横に振る。

「もっと昔って、太陽の英雄の伝説だって、相当昔の話でしょう。太陽や月ができたばっかりの時の話だっていうの、私ですらちゃんと覚えてます」

「そちらが偽りであるという可能性は考えないのかい」

「だって……嘘なわけないじゃないですか」

「明鳴神社は、もと月神を信奉する神社であったのだ」

 腹の底から喉を裂いて迸ろうとする驚きの声を、口を押えてなんとか殺す。

「ほんろらんれすは」

 余波で呂律が回らなくなる。

「嘘を言うと思うか」

「でも、あんな死神を崇めるなんて!」

「ひとまず話を聞きなさい」

 たしなめられて、春巫は上がっていた肩を下ろす。

「今は神といえば太陽の御神ただ一柱だ。太陽の御神にまつわる神話や伝説が成立する以前は、各地に様々の神が存在していた。ここは主には月神を、併せて海の神と、神々の母を祀っていたというよ」

「……嘘だ」

「すぐには信じられんだろうね。信じられんついでに、もう一つ話してしまおうかね」

「まだ、あるんですか」

 春巫は既にお腹いっぱいになっていた。勘弁してほしいと姿勢を崩そうとするが、冬巫はそれを留めるように話し始める。

「昔、ケネカという狂女が、この神社の巫女であったことがある」

 奇妙な名前だ。閉じかけていた耳が、彼女の話に吸い寄せられる。

「目が赤く、髪は白く、肌は死人のように青白かったという。月神と深く繋がり言葉を下ろし、その年の吉凶を百発百中で当てたという。見た目の奇異さも相俟って、彼女は都に呼ばれた」

 春巫は視線を感じた気がして振り返る。

「どうした」

「なんでもないです……」

 そこに何も無いのは、お決まりのようなものだ。安堵と自嘲の溜息をつく。

「ケネカは王の御前で本性を現した。術士であった彼女は、王に襲いかかったという」

「なんで」

「残念だが、そこまでは伝わっておらんのだ。ただ、その一件以降、全ての神社は太陽の神を祀るようお達しが下り、それまでの全ての神が廃されることとなったそうだから、彼女が深く繋がっていた月の神が暴走したのかもしれない」

「やっぱり、死神なんですね」

 春巫は懐のお札を握り締める。

「彼女が退治された後、この神社も反逆の嫌疑をかけられ、明鳴神社を代々司っていた一族が殺された。以降は王より派遣された神主がこの社を管理することになったのだ」

「一族が、皆殺しにされたんですか」

「そうだと、言ったろう」

「前……そんな怖い話、聞いたことあるんです。井戸、あるじゃないですか。あれの底からたまに唸り声が聞こえるのは、殺された人の祟りだっていうの……」

「私もよく聞いていたな」

 と目を細める。

「笑いごとじゃないですよ……もう夜寝れないじゃないですか」

「しかし、決して他言してはならんぞ。何度も言うが。夏巫も秋巫も当然この話を聞いておるが、それでも話をしてはならん」

 まさに、やろうと思っていたことを言い当てられどきりとする。

「なんでですか」

「最も聞かれてはならないのが、神主様だからだよ。この話は神社の「汚点」だ。取り潰されたとておかしくないのに存続したのには、何かの意味があるんだろうよ。だからこそ、「汚点」の歴史は抹消したいはず。それを王使の神主様が聞いたら、口封じに私たちの首は刎ねられてしまうかもしれん」

 考えてみれば当然のことだったが、神主は知っているものだという気がしていた。話を聞いただけなのに、自分が取り返しのつかない過ちを犯したような気分になる。

「これは四季の巫女だけに語り継がれている話だ。決して絶えさせてはならない。これから毎月厄番の度に確認するから、自らの内でよく復唱してな」

「どうしてこんなこと、語り継がなくちゃいけないんでしょう。汚点なら、忘れちゃったほうがいいじゃないですか」

「私もこの話を聞いたとき、当時の冬巫に問うたねえ。分からない、と言われたが。私は自分で考えてみたけど、やっぱり分からない。それでも、こうやって語り継ぐこと自体に意味があるように感じるよ」

 と遠い目をする。彼女は何歳なのだろう。年齢が大きく違うわけではなかったように春巫は記憶していたが、ずっと年上のように見える。

「そういえば、冬巫様がお役目を終えたら、どうなるんですか」

 香の煙が、ふ、と絶える。

「時間だね」

 冬巫は答えずひと回り小さい線香をとり出し、灯りから火をつける。

「これが消える前に、準備を整える。今回は私が全てを行うからそれについてくれば良い。手順は頭に入れなさい」

 二人はまず、装束に着替える。それから冬巫が神棚へと祝詞を唱え、掲げてある鏡を丁重に下ろす。それを漆の箱にこめた頃、線香はもう、残り僅かになっていた。

「少し早いが、あなたは慣れないだろうから、もう発とうか」

 春巫は鈴を握り締め、無理矢理に頷く。先を歩かねばならない彼女が、戸を開ける。 

 外は奇妙に明るい。満月の忌々しい光は、森の間に人影を生ぜしめる。春巫は髪の白い女が佇んでいるような気がして、背中を冷や汗が伝う。そのせいで鈴の拍は乱れ、焦るため余計にまた乱れる。

「もう少し、落ち着かんか」

「は、はい」

 結局、到着するまで鈴の音は安定しなかった。しかし春巫は、目を瞑りたいのを必死にこらえてよく頑張った、と息を吐く。

「本番はここからだ」

「はい……」

死神の名にふさわしい月光は、夜の精気を抜いて地上を白っぽけさせている。太陽の光を浴びれば美しく輝く池も、月を映して妖しく光っている。

 冬巫が、春巫を追い越し所定の場所に莚をしく。鏡を捧げ持ちながらそこに膝をつき、自分と池の間に置いた。春巫は三度鈴を鳴らし、冬巫と共に三度叩頭する。冬巫は居ずまいを正して座り、大きく息を吸って祝詞を唱え始めた。

 春巫は目を瞑り、意識を懐のお札に集中させた。死の光にさらされていることが、人を食う山姥の沈む池の前にいることが恐ろしくてたまらず、身体は震えていた。

今すぐにでも逃げ出したいが、そんなことをしたら山姥が放たれてしまう。とにかく、儀式だけはきちんと行なわなければならない。頭が真っ白になった今、もっと練習しておけば良かったという後悔が絶えない。寝ながらでもできる、はずだ。しかし自信がない。もっともっと自信がつくくらい、練習しておけばよかった。

終わらないでほしい祝詞が、最後の言葉を迎えてしまう。

 もう、ここまできたら、やるしかないのだ。息を吸い込み目を開けた、視界の端に、何かが映る。また、何かを見ている気になっているだけだ。恐怖が生んだ化物だとそちらを見ずに春巫は鈴を振るう……が、目の端の化物が近づいてくる、音が確かに聞こえた。

 冬巫と共に目を向ける。

 蓑笠を着た大男が、どすどすと足音を響かせ迫ってくる。

 悪寒と汗が、ぶわりと浮き出る。山姥でも、ケネカでもないものに鈴を放り出し逃げようとする。が、冬巫は腰が抜けてしまい立てない。

「       きた」

 それは余りに、低い声。

「眼玉をもらいにきた」

 冬巫が悲鳴を上げる。

 春巫は自身の恐怖を、彼女の恐怖が凌駕していくのを感じた。彼女の左目に刻み込まれて離れない、苦痛。大挙する人々に手足を抑えつけられ、眼玉を抉り取られるその恐怖。

 春巫は、彼女を助けなければ、と思った。

 何も考えずに、神鏡の入った漆の箱を開けていた。神聖な鏡を両手で掴み、迫る大男に投げる。それは見事に額に命中し、どう、と音を立てて倒れた。

「冬巫様!今の内!」

 春巫は頭一つ大きな彼女を背負う。よろめきながらも体勢を戻し、森の中に入る。このときばかりは月があるのを救いだと思った。真っ暗で何も見えなかったらもっと苦労していたことだろう。

「……あなただけで、逃げなさい」

 耳元で、冬巫の震えた声が囁く。

「いやです!」

「眼玉をもらいにきた」

 春巫は振り返りたくなるのを必死にこらえて、走り出す。後ろから鈍い足音が迫る。儀式用の装束は春巫の活発な脚の枷となる。足音が背後に迫る。ふわ、と背中が軽くなり、春巫はつんのめるように転んだ。

「冬巫様……」

 耳をつんざくような、悲鳴。

迸った液体が月光に照らされ下品に光る。

 力を失った彼女と、抜き取られた血みどろの短刀。

 蓑笠の男の小さな目がゆっくり、春巫を映した。彼女の頭は真っ白に飛んでしまう。

しかし、男は彼女の恐怖に反して、ゆっくりと背を向け歩き始めた。

どす、どす、と去る背中が、月影でぼんやりと白い。

――もし万一邪なものが現れたときは、札を握り締め唱えるのだ

「待て……待って!」

 喉が張り裂けんばかりに叫び、駆け出す。しかし男は背を向けたままだ。震える手で懐のお札を直に握りしめる。

「呪文……呪文」

 思い出せない。

 あの後、ほとんど練習をしなかったことを悔やんだ。情けなさに涙が出てくる。男はどんどん遠ざかる。

「この……馬鹿!」

 突如、大男が足を止めて振り返る。春巫も足を止めた。夏であるのに冬の出で立ちをし、無骨な顔に鬚を蓄えた男。蒼褪めた春巫が一歩退くと、男は再び歩き出し、森の闇へと消えていった。

 春巫は力を失って、膝から崩れた。

 すぐそばに、自分が投げた神鏡が落ちている。鏡越しに、春巫は初めて月を見た。虚脱の身体は恐怖を忘れ、幽鬼の光にぼんやり見入る。死人のような真白い月輪はあたりの星の光を殺し、太陽の神鏡を冷たい光で侵す。痘痕顔が、まるで自分たちをせせら笑っているように見えた。

 静かな夜を荒々しく踏み散らかし去った災厄は、このうらぶれた死の神がもたらしたものなのだ。春巫は膝を抱え、暗闇に顔をうずめた。

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