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そしてまた月は満ちる  作者: 春日野霞
五 故郷
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泥沼の回想

2021.01.23 投稿

 それからしばらく、シアラの攻撃はぱったりと止んだ。季節は進み空の青い日が増え、涼しい山中にも蝉の声が響き始める。嵐の前の静けさなのではないか、とかえって不安は絶えない。人々の間にはまだ、長雨の空模様が停滞していた。しかしよく晴れたある日、それを変じさせる報告が、早目に帰還した偵察からもたらされた。

 その日非番だった青颯は、幹部たちに報告された内容を、屯所でノルが伝えるのを聞いていた。

「腕に金色の装飾をつけた術士が、北部の村を荒らしているそうだ。村ごとに置かれている王使の役場を単独で襲撃しているという。偵察はそれをシアラが追いかけているのを目撃したということで、急ぎの報告をしに早目の帰参になったと言っていた。ここのところいやに静かだったのは、その術士を追っていたからと考えてよさそうだ」

「標的を我々から金色の術士に変えたということなのでしょうか」

「そこまでは分からない。しかしその術士も単独であるから、逃げ切ろうにも限界があるだろう。王が黙っているとも思えない。シアラはいつ戻ってくるやもしれんから、一層気を引き締めるように」

「金色の装飾って何?」

 奥に座ったノルの前に揃って座っていたマワリたちが、一斉に青颯を振り返る。

「それが、はっきりとは分からないと。ただ、その装飾は闇の中にあっても光るそうだ」

「ふうん」

 好ましくない視線を向けてくるマワリたちを睨み返して、青颯は屯所を出る。彼は未だに村に馴染んでいない。中組のマワリとは行動を共にするため、多少距離が近くなった。しかしその他とまともに言葉を交わしたことがない。なるべく人の少ない所を選んで帰るが、この狭い村で全く人に出会わず西から東へ渡ることはできない。会話をしている二人の女の横を通る。話に夢中であるはずなのに視線を送ってくる。一瞥を返すと目を逸らす。それがこの二人に限ったことではなく、ほとんどの村人の態度だった。

 不愉快極まりなかったが、一方で自分が奇異なものとして彼らの目に映っているということは理解していた。しかし理的に解釈したところで不快の感情は拭いきれない。眉根に皺をよせのしのし歩くのがまた、人を寄せ付けない態度になるのだろう。が、それもやめたら更なる苛立ちを溜め込みそうだった。

 ようやっと家に着き、階段を上る。曇天のような胸中を夏の太陽と蝉の声が煽る。ここには、それをぶつける書物も研究もない。禰々島を破壊したマキの顔が頭をよぎる。苛立つままに、音を立てて扉を開け放つ。水を飲み汗を拭って、風の当たる日影に寝転がった。目を瞑るが、その瞬間に何かが視界に映らなかったかと、目を開け身を起こす。

闇の溜まった部屋の隅で、晴瀬が膝を抱えていた。口は半開きになり、生気のない瞳は床に落ちた夏の光さえも映さない。

「どしたの」

 全く答えない彼に、青颯は目を瞬く。しかし彼は幽霊でもなんでもなく、確かに実体をもってそこにいる。

「ねえ、晴瀬」

 名を呼んでやっと、彼は顔を上げる。

「どうしたの」

「……ああ」

 問いかけには答えず、彼は立ち上がる。

「ねえ、大丈夫?」

「……何がだ」

「晴瀬がだよ。そんな所で膝かかえてぼおっとして」

彼に元気がないのは、なにも今日に始まったことではなかった。ワタドに来てからずっと鬱々としていたが、ここ数日は言葉も発しなくなっていた。それでも住居を建て直す仕事の手伝いには出ていたのだが、今日はその気力すらも失われてしまったのだろうか。

「俺は……」

 視線を右往左往させながらも、青颯の目を見る。

「なんかあったの?」

 首を傾げる青颯に、晴瀬は我に返る。

「いや、何も無い」

「じゃあなんでそんな死んだみたいな顔してんの」

「……ちょっと疲れたんだ」

 青颯が言葉を続ける前に、外に出る。始まった夏の日差しが、カッと目を焼く。細めた目で、仕事をする村人たちの方へ走る。その間にちらつく、青白い顔。ハッとしてそちらを見ると、消えている。

 彼の視界には、春軌の幻が纏わりついていた。

 怨霊は確かに去り、苦しめられることはなくなった。しかしそれよりも、深く深く根を下ろした呪いの方が恐ろしいことに、今まで気がついていなかった。礼を言われることが、あまりに堪えがたいのだ。ありがとう、と笑顔を向けてくれるその人は、自分が人殺しだということを知らない。

 晴瀬はうなだれて、踵を返す。遠くから呼ばれた声も無視して走る。気付けば塀に行き止まる。深く溜息を吐き、塀にもたれかかって腰を下ろした。どこから「シアラが」という声が聞こえ、耳を塞ぐ。

実は、晴瀬にはシアラであった頃があった。シアラは、単なる暴力的な術士の集団ではなく、国が秘密裏に術士たちをまとめた組織だった。力の強い術士たちは、奴隷の仕事でなくシアラに入れられる。晴瀬は春軌を殺した後、力があると認められシアラに行かされたのだった。

 彼は、ワタドを襲撃する部隊ではなく、月夜に戸外へ出た村人を惨殺するための部隊にいた。ワタドの人たちだと思われている「鬼」とは、その実シアラだった。

シアラという単語を聞く度に、当時の春軌の声が蘇る。

「人、殺すんだね。君はできちゃう奴だからきっとうまくいく。俺が君のじいさんに報告してきてやるよ。晴瀬はまた人を一人殺しましたってね」

 じいさん、というのは、晴瀬を育てた養父のことだった。

養母は晴瀬を嫌っていたが、養父はいつ何時も優しかった。自分が術士だと分かってもそれを疎むことなく、漁に連れていってくれた。

 滅多に怒らない彼が、唯一激怒したのが、晴瀬が虫を殺したときだった。

「命を簡単に奪っちゃいかん」

 いかな害虫とはいえ、命あるものであり、それに続く命がある。人間にとっては害悪を与える存在だとしても、彼らも必死で生きているのだ。と彼は繰り返した。それほど、優しい人だった。

 しかし養父は、ある日忽然と姿を消した。

 それは冬至の日だった。祭があるから、漁に出てはならないのに、養父はなぜか舟を漕ぎ出し海に出た。それも人づてに聞いた話で、晴瀬は冬至の祭の準備を手伝っていたため知らなかった。よく晴れた日で、海は穏やかに凪いでいた。海に出た養父を見つけた人がそれを咎めたが、彼は手を振っただけだったという。そしてひたすら沖へ沖へ、舟を進めていったそうだ。

 養父は帰ってこなかった。養母はすぐに晴瀬が術士であると告発し、彼は養成所送りになった。

 養成所はひどい場所だった。飯は一日一回で、王の威光や術士がいかに呪われた存在であるかということを、ひたすら叩き込まれる。最初は反抗心を抱く者もあるが、口もきけなくなるほど痛めつけられるため誰も逆らわなくなる。それでも何度も、反抗する人間はいた。しかしそのような人間は必ず姿を消す。おそらく殺されるのだろう。

 術を正しく使えるよう、それなりの訓練を受ける。しかし青颯に教えられたような、明確に体系づけられているものではなかった。闇、火、水、風を使えるようになるため、ひたすら出したり引っ込めたりを繰り返す。できなければ叩かれた。何度も見本を見せられ、それを夢中で真似した。その段階を越えると、それぞれが得意なものを少し鍛える。晴瀬は闇を鍛えることになったのだが、その教官が春軌だった。

 彼は他の教官に比べ、格別に若く、絶対に叩いて教えることはなかった。そして何より、教え方が上手かった。

 春軌はまた、別のことを教えた。

 養成所を出れば、ほとんど奴隷のような扱いを、一生受け続けることになる。配偶者や子供を持つことは勿論許されない。体力や術が衰えればすぐに棄てられてしまう。なぜそうなってしまうのかをよく考えるように。と日に何度も繰り返した。術士が呪われた存在であることを刷り込まれている彼らは、「この世に存在していること自体が悪だから」としか思えない。

 しかし、聡い者は気づいてしまう。

 晴瀬と行動を共にすることが多い術士がいた。彼が春軌に「王がそのように仕向けたからですか」と言っているのを、晴瀬はたまたま聞いてしまった。そのまま返すわけにはいかないと、半ば巻き込まれる形で、春軌の話を聞いた。術士が非人のような扱いを受けるのは、王が術を使える者ばかりが力を持つことがないようにするため、また民を統制するためなのだという話だった。

 目が覚めるような思いだった。今までの自分が見ていた景色が、いかに暗く狭いものであったかを思い知らされる。彼は術士の非人視を打ち壊すため、王に対し反乱を起こすと言う。二人はそれに加わることを決意した。

 敵を知るような気持ちで、王や術士について教えられることを一生懸命覚えるようになった。春軌に頼まれたことを、絶対にバレないように行うのは命が縮むような思いだったが、徐々に増えていく仲間と力を合わせて乗り切った。物のように使い捨てられる結末に至る暗い道に、突然与えられた灯。自分でも信じられないほどの力が湧いてくる。なんとしても、希望を掴み取ってこれからの行く道を光で満たしたかった。

 にもかかわらず、晴瀬は春軌を殺した。

 春軌が教官を殺した、その遺体を目にしたとき、血が逆流するような感覚をおぼえた。自分たちの希望を叶えるために、犠牲になる人間がいるということに気がついてしまったからだった。心臓が、己の犯そうとする罪へと高鳴る。自分も違わず、何人もの人間を殺すことになるのだろう。そもそも、非人視を打破するために暴力を用いては、逆効果なのではないか。

力に頼らぬ方法は無いか。暴力ではきっと解決できない。未熟で感情的な思想で春軌に訴えた。

 同意は勿論得られなかった。

 希望を求めたその力はそのまま、恐怖や戸惑いをのせて刃に代わり、春軌へ突き立てられた。

 死んだ彼が空を見上げたその瞳の様子が、脳裏に焼き付いている。明るい茶色の瞳は、水晶のように澄んでいた。対して中央の瞳孔は、息がつまるような漆黒を湛えていた。

 春軌が死んだのを知った術士たちは、どの道死ぬのなら、と大暴れをした。彼らは養成所の外へも飛び出したが、単純に力でぶつかって教官に勝てるわけがなかった。無関係の術士までも殺され、終わってみれば相当な数の人間が犠牲になっていた。

 晴瀬は春軌を殺した「英断」を讃えられたが、耳に入らなかった。犯した失態に、目の前が真っ暗になっていたのだ。一人になった夜に、自ずと首へ刃を突き立てようとしていた。その時、春軌の怨霊が現れる。

「君には仕事が残っている」

 その仕事が、シアラの任務だった。

 すぐに海の近くの村に配置された。故郷ではなかったが、久し振りに嗅ぐ潮の匂いがかえって胸を塞いだ。養父に会いたいと願っていた日は既に遠い昔。会わせる顔が無いとは、まさにこのことだった。養父が最も嫌っていたことを、そしてよりにもよって人を、殺した。そしてまたシアラの仕事は人殺しだ。月夜の晩に村に出て、外に出た人間を惨殺する。罪に罪を重ねるつもりはない。仕事に出ても人は殺さないと心に決める。

 何度目かの任務の際、初めて外に出ている人間を見つけた。若い男女だった。晴瀬は黙っていようと思ったが、すぐに見つかってしまった。殺す段になり引っ張っていかれたが、晴瀬は従わなかった。

 のが、まずかった。

 殺されはしなかったものの、酷い目にあった。顔の形が変わるかと思うほど殴られ、背中に×の烙印を押された。それが十溜まれば、出来損ないとして奴隷の仕事に降ろされる。

 傷が癒えぬ内に、次の仕事に出るよう命じられる。月が出る晩、わざわざ外に出ようとする人間は、そう多くない。だから仕事に出ても何もせず帰ることだってざらにある。頭ではそう分かっていても、今夜こそ人を殺すのか、そうでなければまた酷い折檻を受けるのか、と胃の腑が捻じ切られるような思いだった。どちらの道に進もうとも、地獄が待つ。

 迷いの渦中で、春軌の声が降る。

「一人殺してるんだから、何人殺したって同じだ。何を勘違いしているのか。一人ならまだマシだと思っているの」

 晴瀬の中の何かが、真っ二つに折れた。折れた何かが遠くへぶん投げられる苦しみに絶叫する。頭に血が上った視界で、行く手を阻むものをなぎ倒す。外に出て、草を踏み花を蹴散らし、彼の足は海に向かう。

 晴瀬は岬から飛び降りた。

 死んだはずだったのに、目が覚めた。そこは波打ち際だった。

 身体が、まるで無くなってしまったかのように軽い。自分が目覚めた場所の景色を目の当たりにし、呆然とした。

 見渡す限り、桜が満開だった。晴瀬はやはり、自分は死んだのだと覚る。清々しい気持ちだった。空は晴れ渡り、穏やかな海の音が響き渡っている。加えて故郷にそっくりだった。幼い頃に戻ったような気分で歩いていると、背後から声がした。

「まだ逃がさないよ」

 そこに、春軌がいた。驚いて腰を抜かすと、無様な姿を嘲笑い彼は宙に消えた。

 その夜、夢を見た。

 見事なまでの悪夢だった。

 一方的にいたぶられ、殺される夢。痛みも絶息の恐怖も、現実そのものだった。朝の光に目をこじ開け現実に顔を出す。しかし、またどこからか誰かが来て殺されるのではないかと気が気でなくなった。恐怖を声で噛み殺し、波に正解を問う。殴るように寄せる海に気管が侵されてやっと、今いる場所は夢でないと自分を落ち着けることができた。

 起きている間は、何もやることがない。空白の時間は自然と回想を生産した。どんなに明るい記憶も、美しい記憶も、最後は春軌の殺人に塗り潰される。そうして始まる自己嫌悪が段々膿んで、産みの親を呪った。棄てられることがなければ、養父に拾われることもなかった。命を奪うことを強く咎められなければ、純粋に革命の志を追いかけていられた。全ての始まりは、親が自分を棄てたことにあるのだ。

 むしゃくしゃして走り出し、海に飛び込み波間を泳ぐ。肉体の感覚の乏しいここにも疲れはあって、倒れるように眠りに落ちる。眠れば決まって悪夢を見る。だから寝まいとして、海から離れるようにひたすら歩いた。しかしいつの間にか、浜辺に戻っている。潮騒を聞けば目蓋が重たくなり、抗えず膝を突いてしまう。悪夢を見る。

 そんな日々を何度か繰り返した。疲れを迎える身体があるのに、自分が死んでいる。これは永遠に終わらないのだ。遠く水平線を望洋し、際限なく膨れ上がる絶望の音を聞く。手には自然と闇の刃が生えた。何も考えず、自らの心臓を貫いて死んだ。

 その日の目覚めは、スッキリしたものだった。

 夢を見なかったからだ。

 晴瀬は、自死を経れば悪夢にうなされることが無いと知り、目蓋が重たくなったら自らに刃を振りかざした。

「人に言われなくてもちゃんと自分を罰せられるようになったみたいだね。偉いじゃないか」

 死ぬのは苦しい。何も感じなかったのは最初だけだった。自分の心臓を貫く前の苦味。肉体の痛みはなかったが、何かが遠くで叫んでいるのを耳にするのが苦しかった。

 過去を振り返るのも、泳ぐのも、歩き倒すのも、飽きてしまった。春の陽気に、どうしても眠くなる。夢を見るのは御免だと、日に何度も自分を殺すようになった。目覚めてしまったら、すぐに殺す。

 しかしある時、初めてただの夢を見た。近くの小高い山に、ふらふらと登っていく夢だった。桜は不思議と美しく見え、空は二度見するほどに青かった。澄んだ気持ちで山を登ると、立派な枝垂桜に目がとまる。

 その御簾の内の人影に、息を飲んだ。美しい娘が、風に髪を揺らめかせて遠くを見ていた。思わず声をかけようとした時、目が合う。その直後、闇が空を蔽い、彼は砂浜で目を覚ました。

 晴瀬は予感に駆られて立ち上がり、山へと走った。もう一目見てみたい。

 思い描いた通りの場所に、思い描いた通りの人がいた。

 様々な言葉が、胸を去来した。無感情になっていたはずの心が、いとも簡単に氷解する。彼女の顔が鮮明になるにつれ、透明になっていく自分がいた。あれも、これも、と言葉をかけたい気持ちが冷めていき、たった一つの言葉が残った。

 ずっと昔に、会ったことがある気がする。

 近くで見る彼女は、尚のこと美しかった。絶対に目を合わせず下を見る、長い睫毛。華奢な肩。すぐに散り去ってしまう桜を思わせる白い肌。

 を、あれほど黒く染めてしまったのも、自分が罪の深い人間だからで「何、ぶつぶつ言ってんの」

 覗き込んできた萌黄色の目に、晴瀬はハッとして顔を上げた。つい先ほどまで太陽が照り輝いていたのに、いつしか黄昏が迫っている。

「もしかして、ずっとここで座ってたの」

 視線を振り払うように、晴瀬は立ち上がる。

「晴瀬には月の女に会ってもらわなきゃならないんだ。俺たちの命がかかってるんだからね。元気出して」

 晴瀬は首を垂れる。

 みちを死の底から救い出すことも、かつて青颯に言われたように、罪深い己の勝手な願望だろうと思っていた。また仮に救い出せたとして、その後どうするつもりなのだろう。彼女は自分を殺してしまうことを恐れていた。その運命の恐怖の中に、また彼女を引き摺り込むのか。

蘇る、指をすり抜けていった彼女の感触。自分が人殺しだと口にした時、彼女は自分の首を締めたのだ。その人間が「救ってやる」と目の前に現れたとき、果たしてその手を取れるものなのか。

しかしみちに会わなければ、彼らの命も海の神に奪われてしまう。恩を仇で返すことしかできないのかと再び溜息を落とす彼に、青颯は珍しく顔を曇らせる。

「あんたたち何やってるの」

 仕事から帰って来た凌光の声が、いやに明るく聞こえた。

「晴瀬が元気ないんだよ。ここでずっと座ってたって……」

「いや、大丈夫だ。問題ない」

 と彼はぎこちなく笑う。

「嘘が下手なんだよ」

「村の人も心配してたよ。声かけたけど、向こうに走っていったって」

「凌光、顔に黒いのついてる」

 青颯が話をぶった切る。

「え、どこ」

「ここ」

 彼は自分の頬を示す。凌光は親指の腹でそれを拭う。

「どこで仕事してるって言ったっけ」

「火事の後始末の手伝いだってば」

「初耳なんだけど」

「前にも言ったでしょ」

「そうだっけ」

「言ったよねえ」

 と晴瀬を見る。しかし彼は俯き、そもそも二人の会話を聞いていないようだった。黄昏に溶け落ちそうな瞳で「禰々島に戻りてえな」と呟く。

「俺なんてもっと帰りたいよ」

 彼は突然語気を荒げて言い放ち、地面を踏みしめ歩き去る。「悪い……」と晴瀬は追いかけようとするが、「ほっといた方がいいよ」と彼を止める。

「晴瀬だって、怒らせるつもりなかったでしょ」

「そんな……当たり前だ」

 じくじく痛む頭を抱える。

「ほんと、ごめんな。もっとしっかりするから」

「無理にしっかりしなくたっていいよ。まあ、ずっと今のままっていうのも困るけどさ」

 晴瀬が再び「ごめんな」という前に、凌光は続ける。

「とりあえずもっと、泣いたり笑ったり怒ったりっていうのを、ちゃんとやってみたら。急に難しいことやろうとしないで、簡単なことから始めてみなよ」

 と、笑顔で彼の背中を叩く。裂けそうに痛む背中に涙が浮かんだが、胸の澱が少しほぐれたような気がした。

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