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そしてまた月は満ちる  作者: 春日野霞
二 乙女
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乙女

※血が出ます

2020.12.26 投稿

2020.12.27 改稿(誤字脱字、構成若干調整)

2020.12.28 改稿(表現調整)

 窓から吹き込んできたやわらかな風に、薄桃の花びらがふわ、と舞い込んでくる。

 見間違いかと思う。二度、目をしばたくが、やはりそこには桜がある。

 そろそろと足を出し三和土に下りる。恐る恐る、外に出た。

 白い柔らかな光に、みちは目を細めた。眼下に広がるのは山の斜面。そこに立つ木は全て、満開の桜だった。

 素足のまま歩き出す。桜の花びらに、斑模様になった地面。木漏れ日がその上に斑を重ねる。幾重もの黒と白。呆けるほど穏やかな日差し。包み込まれるような大気に立ち止まって、大きく息を吸い込んだ。可憐な花々の放つ匂いで胸が一杯になり、思わず顔がほころぶ。

 青い、靄のかかった空に向かって、桜たちが枝いっぱいに花を綻ばせている。春の太陽を纏う、純白の花。全ての生き物を代表して、冬の終わりを高々と宣言し、春の豊かさを寿いでいる。

 桜を見たのは何年ぶりか。月に語った夢物語そのままの景色の只中に、自分はいる。彼女はたまらず、桜の中に駆け出した。

 春の大地の弾力が、みちの細い足を跳ね返す。光と影の中をくぐり、根を蹴り、山道を下る。黒い髪は艶やかに流れ、ぬばたまの瞳はまっすぐ前を見る。首をくすぐる風はまだ冷たく、熱を上げていく身体には心地良い。呼気は楽し気に弾み、胸の苦しささえ春の空に解き放っていく。光が一層華やいで、滲んだ。いつしか涙がこみ上げていた。

 麓まで一気に下り、その勢いのまま平地を走る。そこには、一本の大通りが通っていた。道の両脇にも、一定の間隔をおいて桜の木が植わっている。勢いは徐々に失われ、やがて立ち止る。風が後ろから吹き抜け、道いっぱいに散った花びらを転がしていく。

 彼女は溜息をついて、桜の道を歩き出す。

 聞こえてくるのは、まるで瑠璃の鈴を転がすような小鳥の囀り。花弁が枝を離れちらちらとまたたく。それに合わせるように、毛先が風に躍った。真っすぐに伸びる道の先には、何があるのだろう。地平線までずっと、薄紅の花が咲き誇っているのを見たい。延々と緑の続く草原もいい。未知へと高鳴る鼓動が、道を先へ先へと進ませた。

 しかし現れたのは、想像だにしない光景だった。

 彼女の足は、自然と止まる。

「……海だ」

 初めて見る水の広野は、深く青い色をしていた。

 あそこには、たくさんの生き物が泳ぎ回っていると聞いたことがある。遠く離れているのに近くにあるように感じるのは、きっとそのためだろう。あれは生命をふんだんに抱え込んだ、おおきな一つの生命体。立ち止まっているのに、迫ってくるような気さえした。風にざわめく桜の音も、潮騒のように聞こえてくる。万象が自分を海の底へ沈めようとしているような錯覚に、彼女はたまらず踵を返した。

来たばかりの道を、全力で駆け戻った。背を向けた途端、海が追いかけてくるような気がして、何度も何度も振り返る。海が見えなくなっても、安心はできなかった。もしかしたら、ぞわぞわとあの道を這ってきているかもしれない。

 それでも身体は、急には丈夫になれないものだ。元気一杯に動きすぎた足は次第に萎え、彼女は脇腹を抱えながらとぼとぼ歩く。来た時よりも斜面が急になった山道を登り、小屋に辿り着いたときには薄暗くなっていた。

 改めて見上げてみると、質素ながらもきれいな小屋だった。雑草も生えていなければ、屋根が破れてもいない。無垢のままの壁は、薄闇の中でぼんやり光っているようにさえ見える。

その格子窓から、灯りが洩れていた。

 誰かいるのか。息を止めた時、戸の向こうから声がする。

「お待ちしておりました」

 清澄な、若い女の声。

「こちらはあなたのためにご用意いたしました宿にございます。どうか立ち去ることなく、戸をお開けくださいませ」

 そっと戸に手をかける。恐る恐る開いてみると、部屋の真ん中に背筋を伸ばした女がいた。

「みち様ですね」

 彼女は、ややあって頷いた。名を呼ばれるのは、余りにも久し振りだった。

「ようこそ、おいでくださいました」

 手慣れた所作で両手をつく。玄関で立ったまま動けないみちに「おあがりください」と微笑んだ。

 みちは三和土を上がってすぐのところで、正座をした。

「こちらに座布団を用意しております。そこでは冷えてしまいますよ」

 正直なところ、見知らぬ女に近づくのが怖かった。しかし従わないともっと怖いことになりそうで、みちは彼女と向かい合う座布団に座る。

 目の前の彼女は、見たこともない色使いの服を着ていた。その衣からか、なんとも言えない良い匂いを漂わせている。視覚と嗅覚が一度に刺激され、みちは小さくくしゃみをした。

「私は竜宮の主の使いで、めめと申すものでございます。みち様のお世話をさせていただきますので、何卒よろしくお願い申し上げます」

 竜宮?

「まずは地上での働き、お疲れ様でした。主はみち様を竜宮にお招きできることになり、大変喜んでおります」

 みちは目を白黒させる。

「もしかして、ご自身の状況をお分かりでないのでしょうか」

 おずおずと頷くと、めめも大きく頷いた。

「それでは、説明をさせていただきましょう。みち様はずっと、池の横で機織りをされていましたね?」

「……はい」

「その池の底に、竜宮がございます。あなたの機織りの音は大変美しく、主も大層気に入っておりました」

 現実味の無い話に、曖昧な頷きだけを返す。

「そして旱魃の続いた夏、みち様は池に沈められるはずでした。愚かな庶民たちは、そうすれば竜宮に娘を捧げることが叶い、返礼として雨を降らせてもらえると考えているからです」

「しかし」と強く言葉を切ったのに驚いて、みちは少し肩を震わせる。ちら、と見ためめの瞳には、怒りの色が浮かんでいた。

「真実は異なります。池に娘を投げ入れても、死ぬだけです。そもそも、人間の都合で娘を与えられても、主に返礼をしなければならない義務はありません」

強い口調に、みちは思わず「すみません」と呟く。

「そんな!あなた様を責めているつもりはないのです。つい、熱くなってしまいました」

 と、彼女は丁寧に頭を下げた。

「竜宮には、ふさわしい娘だけが赴くのです。みち様も、恐ろしい思いをしたでしょうから詳しくは言いませんが、蓑笠をつけた大男が選んだ人間でなければ、主の妻にはなれないのです」

 蘇る、絶息の恐怖。

「決して、主がみち様を殺させたのではないですよ。誤解することなきよう。あの男は、我々と直接繋がる存在ではありません」

 みちは膝の上で拳を握る。灼熱の目覚め、人々の黒い影、瞳を貫いた光の痛み。まだ生々しく、身体の内に残っていた。

「竜宮は、この桜の里に負けず劣らず綺麗な場所ですよ。主も、みち様にお会いできることを心待ちにしております。三晩はこちらで過ごしていただくことになりますが、楽しみにお待ちくださいまし」

 頭を去らない苦痛の光景で、めめの言葉にぼんやり膜がかかる。しかし目の前の彼女は嬉しそうな顔をしていて、みちは惰性で頷きを返した。

「お疲れのところ、たくさんお話をしてしまいましたね。もうお休みになりますか?」

 願ってもない提案だった。

「……お願いします」

 めめが立ち上がり、葛籠をそっと開ける。中から出てきたのは、真っ白な寝具だった。滑らかそうな生地が、やわらかな陰影を作っている。誘われるように目蓋が重くなり、苦痛の景色が遠ざかる。

 敷かれた布団に触れる。くすぐったいくらい滑らかで、すぐにでも飛び込みたくなった。

「それでは」

 彼女が戸を閉めるのと同時に、ふ、と部屋の灯りが消える。

 暮れ時は、いつの間にやら夜になっていた。煙の臭いが鼻をかすめる。後を追い、春夜の匂いが肺に満ちた。

 みちはめめの気配がないことを確認し、布団に潜る。そして気を失うように、闇の中へ落ちていった。


 目を覚ましたのは夜明け前。

 彼女はぼんやり天井を見上げた。昨日のことをゆっくりと思い出しながら、立ち上がる。ドテ、ドテと重たい足音の先で戸を開けた。

 夢では、ないのだ。

 青い曙に、亡霊のような桜の木々が並んでいた。

 改めて見ると、不思議に思える。どうして、こんな所にいるのだろう。ここはどこなのだろう。

 胸にわだかまる不可解を、忘れたかった。彼女は、水中のような静謐に泳ぎ出でる。

 昨日とは反対に、登り坂をいく。息が上がってきた頃、桜の行き止まりが見える。真っ直ぐ見上げた先の頂上に、大きな枝垂桜が屹立していた。じっとり黒ずんだ幹から、細い枝がやわらかにおりている。こぶりのかわいい花がぽつぽつと咲いているのが、近付いていくごとに明瞭になってくる。

 みちは御簾のような枝をかきわけ、冷たいその木に寄りかかる。小さな花々の向こうに、海が見えた。

夜明け前の霞を這わせた空の下、海は鉄のように黒い。昨日と同じように、遠く離れているのに海の息吹が聞こえてくるような気がした。

 小屋に戻ろうとした彼女は、目の端に異物を捉える。

 桜の斜面へと這わせた、視線の先。

 そこに、若い男がいた。

 大きな目をいっぱいに開き、こちらを見つめている。その眼差しが空を裂いて、みちの脳に突き刺さった。

 走った熱に、ぎゅっと胸をおさえる。

 会ったことなどないはずなのに、このたまらない懐かしさは何だろう。

 桜の御簾を出ようとしたその時、颶風が山を駆け下る。突然辺りに闇が落ち、みちは小さく悲鳴を上げる。こわごわと見上げれば、空には夜が戻っていた。星が姿を現し、舞い上がった桜の花びらを睨みつけるように輝く。

 彼女は慌てて、青年を見下ろす。その姿はあると思えばあるように見え、ないと思えばないように見える。

「そこに、いるの」

 震えた声を契機とするように、東の空を太陽が引き裂いた。

 日輪は無数の腕を、空に大地に延々と伸ばしていく。彼女の白い面は太陽の色に染まり、髪が光に濡れていく。翳った瞳が否応なく明るみにさらされる居心地の悪さに、彼女は顔を伏せた。

 ちらと確認した場所にもう、青年はいなかった。

 みちは太陽から逃げるように、桜を離れる。まるで夢を見ていたかのような心地に、うらうらと舞い散る桜が拍車をかける。

 転ばないのが不思議なほど、頼りなげな足取りで小屋に辿り着く。戸を開けたそこに、女の顔。

「し、失礼しました」

 ひっくり返った彼女に、めめは手を伸ばす。その白い手を頼りに、よろよろと立ち上がった。

「今、探しに行こうと思っておりました。お怪我はありませんか。妙なことに巻き込まれなかったでしょうか」

 みちは首を横に振る。その切迫した様子に、自然と不安な気持ちが膨れ上がる。

「実は、大変なことになったのです」

 と、握ったままの手でみちを座布団に導く。腰を下ろすと、めめは「落ち着いて、聞いてくださいね」と低めた声で言った。

「ここには鬼が、います」

「鬼……」

 思わず呟いたとき、脳内で蓑笠を被った男の姿が閃いた。

「突然、夜が戻りましたでしょう。あれは山に侵入した異物を追い返す、竜宮の守りの力なのですが……こんなことが起こったのは、初めてです」

 夜が来たのは、あの青年の姿を見た後だった。

 みちは首を傾げる。あれが、鬼だというのか。恐ろしいものには、とても見えなかった。

「……あの……人を見ました……人、でした」

「見たのですか」

 めめは目を丸くする。みちは意味もなく「すみません」とうなだれる。

「咎めているのでは、ないのです。先ほど確認をしてきましたが、あれは紛れもなく鬼でした……鬼というのは、術士のことなのですが、知りませんか」

 みちは、知らないと首を横に振る。

「沖術、という恐ろしい術を、生まれながらに使う者のことです……火や水、風や闇までもを自在に生み出し、操る。人の形をしていますが、人ならざる力を振るう。それが、鬼なのです」

 沖術。口の中で小さく繰り返す。

「鬼は凶暴な力を振るい、みち様を深く傷つけるかもしれません。みち様がお美しい姿を見られというのなら、尚更」

 なぜ、いちいち容姿を称賛するのだろう。僅かに眉を顰めた彼女に、めめは小首を傾げた。

「私は今から竜宮に戻り、守りの力を強化して参ります。力は、平地に下ってしまえば無効になってしまいますから、くれぐれも山から離れることのないように」

 そう言って、めめは小さく戸を開け出て行った。

 その日、何度も夜が訪れた。みちは「鬼」という言葉に誘われ恐怖を覚えるが、隠しようがないのは胸の鼓動だった。

 闇に覆われる間中ずっと、彼の姿が頭に閃き続けていた。近くで見てはいないのに、鮮明に焼き付いてる。彫の深いハッキリとした顔立ちに、並んだ黒い瞳。癖のある短い髪に、壮健な体躯。

 目線がかち合ったときの、痛み。

 彼は本当に、鬼なのだろうか。あんな瞳を持った人が、自分を暴力に晒す存在だとはとても思えなかった。

 闇に包まれ、心臓をおさえる。身体が熱く、息が苦しい。それなのに、悪くない。部屋で小さく蹲りながら、闇が去ってしまうのを恐れている。指先すらも見えぬこの黒の中には、彼がいるのだ。

 そうだ、と彼女は顔を上げる。

 彼が今、山にいるのなら。またあの枝垂桜の元に行けば、会えるかもしれない。

 手探りで床を進む。戸に手をかけたその時、蓑笠の男を思い出す。

 鬼が、自分を騙すつもりで、あんな姿をしているのだとしたら?

 また、恐ろしい目に遭ってしまったら?

 彼を疑うだけで、汚くなったような気持ちになる。振り払うように戸を開けたその時、闇が晴れ昼過ぎの光が戻る。

 彼女の呆けた顔に、太陽の欠片がちらちらと舞う。霞のかかった空を見上げて、後ろ手で戸を閉めた。家の壁にもたれて座り、邪気のない桜を眺める。

 竜宮は、ここよりも綺麗な場所なのだという。

池の底の暗さを、みちはよく知っている。真昼の光にさらされても、池の底にだけは、じっとりと深夜がある。

 そんな所に美しい場所があるとは、到底思えない。みちは膝を抱える。真っ暗闇に閉ざされ、どこへも行けない。竜宮の主が、どんな人かも分からない。竜宮の主というのならば、神の類なのだろう。きっと、おそろしいものに違いない。

自分を閉じ込めるため、嘘を吐かれているのではないか。途端に、雁首揃えて咲いた桜すら嘘の景色に見えてくる。

 本当の春は……。彼女は瞳を閉じる。

 春が空から舞い降りて、大地を優しくなぜる。冬がそれを羨んで、寒さが戻ってくる。しかしやがて春に懐柔され、空の最奥へと去っていく。それに手を振るように桜が咲く。桜は、偉大なる冬の輝かしい墓標。裸の桜が吸い込んだ冬の冷たい光が、暖かさにほだされ花開く。

娘は目を開いた。

 目の前の桜は、どことなく太陽に媚びているように見える。夜明け前、紙のような白さの中に、ぽっそり陰影を孕んだ姿。あれが、冬がないここに咲く桜の、本当の姿であるように思えるのだ。

娘は、何千何万と咲き誇る桜に、溜息を吐く。竜宮に、行きたくない。もう二度と、生きているような死んでいるような日々を送りたくはないのだ。しかし明後日、その時が来てしまう。

 陽光の匂いを吸い込み、溜息に変える。

 記憶に眠る温かな場所に帰りたくて、山を下りたはずなのに。抱えた膝の闇に突っ伏した。


 夜が来る前、みちは葛籠から布団を出す。鬱々とした気持ちが目蓋を重くし、太陽よりも早く夢に沈む。

 他者の記憶に潜る夢に。

 

 よく晴れた空が、広がっていた。

 きん、と澄んだ空は冬の色。

 白い息を吐いて、手にした箒で参道を掃き清めるその手は、霜焼で真っ赤だ。寒さは日ごとに厳しくなり、身を苛む。それでも彼女は、冬が好きだった。太陽が早々に姿を消し、冴えわたる月が高々と昇る冬が。

 全部掃き終わってしまうと、箒をしまって奥の神社へと山を登る。鬱蒼とした木々の下に、こじんまりとした拝殿がある。戸を開けると、黴た臭いが鼻をつくが、入ってしまえばすぐに分からなくなった。乱雑に物が置かれた、薄暗い部屋。部屋の真ん中に火鉢がある。氷のような空気に圧し潰され、その火は余りに小さい。

 囲炉裏端に正座をする。姿勢を正し、目を瞑った。途端に、目蓋の裏には拝殿の周りの景色が映った。やがて山の下から人がやってくる。着ぶくれた初老の男……神主。

 きっと、悪い知らせ。

 それも、決定的に。

 目を開ける。戸の方を向いて座り、神主を待つ。

「ケネカ」

 緊張に満ちた声。予感が正しいことを確信した。

『どうぞ』

 戸が開いた音。少しばかり明るい外を背景に黒く映える神主の顔は、うまく見えない。

「明日、発たねばならなくなった」

 突然、神主が消える。鬱蒼とした木々も消え、視界が開ける。

 夜。

 空で光線を放つ月の光の強さ。シンシンと肌を突き刺す白。真円の光に全てが凍りつき、夜闇は地べたに這いずる。そこはどこかの広野。

 向こうから、その人が歩いてくる。ああ、待っていた。満ち足りた月にも負けぬ強い光が、胸の内から零れ落ちる。

「ケネカ!」

 声が、身体に響いて、凍っていた足が溶け出す。縋るように走り、その温もりを抱きしめた。

「待たせて悪かった」

『寒いわ……』

 その鼓動で、何もかもが救われるような気さえする。互いの温もりを確かめ合い、手と手を握り合って向かい合う。

『あのね……やっぱり、行かなきゃいけないって』

 その愛しい顔は、悲痛な面持ちに歪む。そんな顔、見たくなかった。鏡のように、彼の表情を映す。

「どうしても、なのか」

『ええ……逆らえる相手じゃないの。逆らってどうにかなる相手でもない』

「そう、だよな」

 握る手の力が、強くなる。

「俺も行きたいが……」

『わたしだって、共に来てほしい。あなたと一緒にいたい……ずっと、ずっと』

 愛しい人は、返事をしない。じっと、口を噤んでいる。月明りに瞳は光るのに、はっきりした顔立ちは影を深く溜め込んで鬱屈。

 握る手の力が、そ、っと弱くなり、やがて彼は離れてしまう。どうして?視線を向けると、彼は懐から細長い物を取り出す。

「これで……」

 鞘を払う。現れた銀の光。月光を含みこんだ凄絶。

「俺たち、ずっと、離れないだろ」

 震えたその肩は、寒さのためではないだろう。それを愛おしく思う。そっと、震えに手を置いて、その胸に頬を寄せた。

『そうね……。永遠は、死でないと、叶えられないもの』

 彼の向こう、満月を見上げる。

 白い面。強烈な光を放っておきながら、我関せずとでも言うような顔。それを睨みながら、彼の首に腕を回し、片手は震える両手に握られた、鋭利な刃に触れる。

「お前、血が」

『今から死ぬのに、そんなことで動揺してちゃダメでしょ』

「ああ……」

 鉄の冷たさをなぞり、その両手に触れる。手はまるで、死人のように凍えている。血で粘る指先で、彼の手から短剣をそっと奪う。

「お前が、やってくれないか。俺には、もう……お前の血が触れただけで……」

 彼は芯から震えている。

『怖いの?』

「お、前に殺されるのなら」

 す、っと息を吸う。彼の胸が大きく膨らむ。

「お前と、しね……」

 う、と短い声が漏れる。

 脇腹を刺したそれを、そっと離す。

『わたしはまだ、死ぬわけにはいかないの』

 身を離し、信じられないという顔で目を見開く彼の、心臓を一突きにする。全身に吹きかかる血は、火傷しそうに熱かった。

 月下に倒れた彼を見下ろしていると、どうも、月光に突き殺されたように見えてくる。

『ごめんね』

 しゃがんで、月を映すその瞳を覗き込む。

『次はうまくやるから』

 目を閉じてやり、口をそっと閉じて、その唇に………………

「!」

 夢!

 みちは転がるように布団を出て、戸を開け放つ。そこにはちゃんと春がある。高々と昇っているのは、日輪。

 あれは夢だ。

 何度言い聞かせようと、この山を下った先にあの景色が待っているような気がした。桜は、真実を覆い隠すために咲いている。

「違う!夢よ!」

 激しく脈打つ心臓が整わぬまま、みちは坂を下る。むせかえるほどの、薄紅の幻想。生を許さぬような景色から戻ってきた今、目にがしがしと染みてくる。

 あの、愛おしさ。

 あの、血の熱さ。

 あの、月の輝き。

 生々しさに吐きそうになり、立ち止る。強い風が、幾度となく押し寄せた。花びらは無限に千切れて、行く先を真っ白に霞ませる。首がもげそうになるほど頭を振って、夢を打ち消す。それでも夢の感覚は何度も蘇り、その度みちは足を止める。

 夢中で攻防を繰り返す内、彼女はいつしか山を離れている。

 ふわ、と足が異質なものに触れてやっと、立ち止まる。見上げた視線の先、目を突き刺す光。

 海が、輝いていた。

 みちは、息を忘れて立ち尽くす。

肌色の浜から続く海は、名前の知らない青。幾重にも重なり耳に至る波音は、身体中に共鳴する。

長い、溜息が零れた。

 あの真冬の景色など、どこにもない。

細められていた彼女の目が、徐々に開かれる。満月のような大きさになった瞳に映ったのは、光の中に立ち尽くす青年の姿だった。

 みちは、胸の前で拳をぎゅっと握る。大きな瞳をいっぱいに開きこちらを見る彼は、紛れもなく、あの朝桜の中で出会った青年だった。

 波打ち際に立っていた彼が、一歩ずつ近づいてくる。みちは少し、逃げたくなった。彼が、余りにも眩しく見えたからだ。その光に晒されてしまえば、自分は全く、決定的に、別の人間になってしまう。そんな気さえした。

「俺、晴瀬っていうんだ」

 潮騒も物ともしない、低い響き。

「名前は?」

「……みち」

 緊張で、声が震えていた。

「桜の山で、会ったんだよな」

 見上げる顔には期待がある。それに答えられることに頬が緩むが、見られたくなくて俯いた。

「そうです」

「やっぱ、そうだよな!」

 それまで伺うようだった彼の声が、途端に明るくなる。

「急に夜になって、しかもこの海にいたんだよ。どうしたって会いたくて、何回も山に行ったんだけどな、登ろうとすると夜になって、引き戻されて……。だから、本当に嬉しい」

 みちは、何も言えなくなる。代わりに、痛むほど脈打つ心臓が、口から零れ落ちてしまいそうだった。

「具合、悪いのか」

 この上なく悪かったが、みちは黙って首を横に振る。

「でも……耳まで真っ赤だぞ」

 慌てて、両手で耳を隠す。見上げた彼は、大きく口を開けて笑っていた。呆けて両手をおろすと「面白いことするなあ」と目尻を下げている。

「よくなるまでここにいろよ。海の音聞いてると落ち着くぞ」

 言われるがまま、彼女は彼の横に腰を下ろした。

 彼の言う通り、海鳴りに鼓動が落ち着いていく。傍らの体温に、もう緊張しなかった。そっと見上げた横顔は、遠く沖を見ている。明るい瞳はどこか虚ろで、みちの伺い知らぬ感情にとらわれているようだった。

「なあ」

 突然こちらを見下ろした瞳に、虚ろの影はなかった。

「海、入ったことあるか」

首を横に振ると、彼は笑って立ち上がる。自然に差し伸べられた手をそっと取ると、強い力で引き上げられる。

 海が、ずんずんと近づく。彼は迷わず瀬へと足を踏み入れる。みちは、水際で立ち止まった。

「入ってみないか」

 こわごわと、寄せる波に足を差し出す。ひやっとして引っ込めると、彼はまた快活に笑う。

 恥ずかしくなって俯き、再び水に入る。太陽を水面に遊ばせる海は見かけに反して冷たく、ぎりぎりと肌に突き刺さる。寄せては返す波と共に、砂が足の裏から抜け去っていく。

 そのまま、深みに連れていかれてしまいそうな気がした。

 光をまとった小波の先には、深い深い闇が連なっている。

 何もかもが息絶えた場所と、確かに繋がっているのだ。

 みちはすごすごと陸に上がる。驚く彼を「やっぱり、こわい」と上目に見上げた。

「ごめんな。大丈夫か」

 彼もざぶざぶと上がってくる。申し訳なさそうな顔に、かえって申し訳なさが募った。

「すみません……」

「いや、こっちが悪かったよ。みちが謝らないでくれ」

 彼女は、曖昧に首を振った。

 どちらともなく、再び砂浜に腰を下ろす。冷たい足に、温まった砂が心地よかった。

「俺はさ、海に潜るんだ。漁師だから」

「海に?」

 娘は、再び海原に目を馳せる。

「なんでそんなこと……するんですか」

「魚や貝なんかを取るために、潜るんだ。釣りをしたり、ワナを仕掛けたりもする」

「こわく、ないんですか」

晴瀬はしばらく彼女を見ていたが、やがて沖へ目をやる。

「こわい」

 ひときわ高い波が、浜を濡らした。

「でも、同じくらいに好きなんだよ」

 向けてくる笑顔に、みちは海に視線を返す。

 底知れぬものを隠し持った海は、なんということの無い顔で凪いでいる。みちの胸は、穏やかな顔の下に恐ろしいものを隠した海へのおそれでいっぱいだった。

 何百何千と潜れば、好きと言えるようになるのだろうか。

「なんでこわいのに、好きなの」

「なんでだろうなあ。言われてみると、よく分かんねえな」

 みちは自分の中にも、探してみる。こわいけど、好きなもの。好きだけど、こわいもの。

「月」

 考えよりも先に、答えが口を吐いていた。

「月?」

「好きなの。でも、ちょっと、怖い」

 今朝見た夢の、まるで生命を蝕むような月光を思い出す。

「海は、月の満ち欠けと一緒に満ち引きするんだ。よく見上げてたよ」

「そうなの」

「ああ。満月の海は、本当に綺麗だ。光の道ができることもある。」

「……見てみたい」

「見てほしい。きらきらしてて、そのまま海の上を歩いて月に行けそうな気持ちになるんだ。……ここから出られたら、俺が育った所の海を見てほしいな」

「行って、みたい」

 顔が、心地よく赤くなる。ほんの少しほほ笑む彼女に、晴瀬も笑顔になる。

「みちは、いつこっちに来たんだ」

「おととい」

「どうやって来たか、聞いてもいいか?」

 みちは少し考えた後、黙って首を横に振る。もう、思い出したくはなかったのだ。

「……辛い思い、してきたんだな」

 彼女は驚いて、彼を見上げた「どうして、分かるの」

「表情が、辛そうだ。悪いこと聞いたな」

 少しの沈黙の後、彼は口を開いた。

「俺は、もうどんくらい前なのか分かんなくなるくらい昔に、ここへ来たんだ……海に、飛び込んだら、ここにいた」

「漁で、飛び込んだんですか」

「いや……」

 晴瀬は目を逸らす。砂を見るその瞳は、まるで闇に満たされたかのように黒かった。海の底を思い、みちは恐ろしくなる。それでも、なぜか、目を背けることはできなかった。

自分と同じように、辛いことを、思い出してしまっているのかもしれない。

 みちは「……ごめんなさい。嫌なこと、聞いてしまった」と頭を下げる。

「違うんだ!」

 突然の大きな声に、みちは肩を竦める。

「俺が言えないのは、辛いからじゃないんだ……」

 と言いかけ、口を噤む。

 沈黙が、重く圧しかかる。彼の瞳は変わらず真っ黒なままだ。みちはなんとかしなければと焦るが、自分のことも話すという方法の他、何も思いつかない。

 傷口を裂くような気持ちで「わたしは」と口を開く。晴瀬の瞳に光が戻ったのを見て、みちは心の内で息を吐いた。

「村で日照りが続いてたから、池に落とされそうに……生贄にされそうになってた。でも、蓑笠を着た男の人に、殺された。気がついたとき、月が、話しかけてきて。そしたら身体が自由になって、山を下りたら、雨が降って……村の人たちが皆、喜んでた。そこに、黒い服の男の人が来て……。その人の中に、吸い込まれた。それで、目が覚めたら、洞窟にいて……洞窟の奥に進んだら……ここにいた……」

 自ら口にしてみると、信じ難い話だった。話す前は嫌悪にまみれていたこれまでの出来事が、まるで夢の話であるように思えてくる。

「なんか、夢みたいな話だな」

 同じ言葉が耳から聞こえて、みちは弾かれたように黒い目を見上げた。

「わたしもうちょうど、そう思ってたの」

「そりゃ面白いな」

 と彼が笑うのにつられて、みちも笑顔になる。ひとしきり笑った後、今度は晴瀬が驚いた顔で、「お前、そんな風に笑うんだ」と呟く。

「ずっと暗い顔してるから、想像つかなかった」

 言われてみれば。みちは頬に手をやる。

「そんだけ辛い思いしてきたんだもんな。笑えなくもなる」

 うん、とみちは頷く。

 彼といれば、笑顔の日々を取り戻せるのかもしれない。

「竜宮なんかに行くより、あなたといたい……」

 溜息のように、口から零れた。

「俺も、みちといたいな。会ったばっかりなのに、安心する」

「でもね、私、竜宮に嫁がなきゃいけないの」

 晴瀬はきょとんとして、何度か瞬く。

「海の底にあるっていう、あの竜宮か?」

「……わたしがいかなきゃいけないのは、池の底にあるって……」

「そんなとこに、嫁ぐのか。ほんとなのか」

「……蓑笠を着た男に殺されたのは、竜宮に選ばれたってことだから、行かなきゃいけない」

「行くなよ」

 彼の顔には怒りがあった。

「その蓑笠の男ってのは、みちを竜宮の嫁にするために殺したんだろ?」

「……そうではない、みたい。でも、行きたくない」

 みちは膝を強く抱く。

「行きたくないの」

「じゃあ、行かなきゃいい」

「でも……無理だと思う」

 夜を呼ぶほどの力が、竜宮にはあるのだ。抗っても、きっと敵わないだろう。

「もう、さみしいところには、戻りたくないのに」

「昔も、竜宮にいたってことか?」

 つい、独り言になってしまう。首を横に振って、遠く沖を見る。

「わたしね、殺される前は、独りでずっと、機織小屋に閉じ込められてた。山の上にあったのだけど、人が住むところには、下りられない。小屋はぼろぼろで、冬はとっても寒い。何年も……誰とも話なんかしないで、暮らしてた」

 彼女の声は、波音に消えてしまいそうだった。

「池の底は、暗いでしょ。また、そんなところに閉じ込められるだなんて思うと……怖い。嫌なの。本当に、行きたくない……竜宮の主だって、どんな人か分からない……きっと、人じゃない。わたしはまた、独り」

 いつしか、涙が流れている。

「でも、どうしたらいいか分からない……。生まれた場所に帰りたい。ずっと、忘れてたの。そんな、温かい場所があったってことを。自分の名前だって、忘れてた。あの機織小屋から出られたから、帰りたい。でも、竜宮に行ったら、絶対に、もう二度と、帰れない」

 温かい過去の記憶が、再び頭を巡る。

「なんで、こんなことになっちゃったんだろう……」

「じゃあ、竜宮に行かなきゃいいだろ」

 彼の瞳は、彼女の瞳を真っ直ぐに見る。

「今から、戻ろう。地上に」

 強い声にも、彼女は俯いてしまう。

「そんなこと、きっとできない……。あなたが入ったら、山が暗くなるのは、竜宮の力。そんな力を持ってるんだから……」

「そうかもしれねえ。でも、やってみようぜ!出口を探しにいこう」

 晴瀬はみちの返事を待たず、彼女の手を引き立ち上がる。

「でも……」

「山に入らなきゃ、とりあえず大丈夫だろ。行ってみよう」

 二人は海を後にする。みちは山と海の間の道の他歩いたことがなかったが、晴瀬は何度も歩いてきたという。人もいないのに田畑があり、道にはやはり桜が咲いていた。

 みちはふと、立ち止まる。

 西日を浴びて並んだ桜に、強い既視感を覚えた。

みちはそっと腹をおさえる。温かながらもむずがゆい気持ちが身体中に広がる。桜の木々の下、両手を広げ風を切ったら。みちは首元をくすぐる風と、まるで夢の中のような薄紅の乱舞を思う。まだ冬の残る冷たさと、胸いっぱいに広がる喜び。

「…………ち、みち、みち!」

 大きな声で呼ばれ、ハッとする。

「どうしたんだ?」

「……懐かしいの」

 みちの視線の先を、晴瀬も見渡す。

「故郷に、似てるのか?」

「多分、きっと、そう……。忘れていた、ことだから。きっと……」

 自分の生まれた場所には、あんな美しい場所があったのだ。

 大好きだったに違いない。この場所に初めて来たとき、桜を目にして心が浮き立ったのを思い出す。昔も、あんな風に桜の下を駆け回ったのだろうか。

「綺麗な所だったんだな」

「そうなのかもしれない」

 頬が緩む。

「美しい場所に、生まれたんだわ……」

 胸に広がる喜びが、突如として凍りつく。

 今までそこに無かったはずのものが、何度目を瞬いてもそこにあった。 

 二人は、ゆっくりと顔を見合わせた。

 人が、いる。

 桜の道に、微動だにせず立っている。

 その顔まではっきりと見えない。ただ真っ直ぐに身を貫く、強烈な視線。狼に睨まれたように、鳥肌が走る。

「俺たちの他にも、ここに人がいんのか」

 平気そうな晴瀬に対し、みちは一歩後退る。

「どうした」

「……怖いの」

「あれが、か」

 みちは頷く。

「行こうか」

 晴瀬は人影に強い視線を返し、再び歩き出す。その影は、二人が見えなくなるまで、ジッとその場に佇んでいた。

 

 太陽が、水平線へと落ちかかる。

「またか……」

 二人は元の浜辺に立ち尽くしていた。

 どこへ行こうとも、道の先は、必ずこの海に続いているのだ。

「なんで、こうなるんだろうな。確かに、真っ直ぐに進んでるのに」

 みちは西日に輝く山を見上げる。

「明日の朝なの……竜宮に行かなきゃいけないのは。もうすぐ」

「時間がねえのか……」

「やっぱり、帰るなんて、無理なのかな」

 俯くみちの肩に、晴瀬は手を添える。

「無理じゃねえよ。無理じゃねえ……だって、入ってきたってことは、出れるってことだろ?」

 みちは目を見開く。なぜ、そんな単純なことに気が付かなかったのだろう。

「……ここに来た時に初めていた場所が、出入り口……?」

「そうか!それだ!」

 パッと彼の顔が輝く。

「頭いいなあ!」

 対してみちの顔は暗い。

「……出入り口、あの山にある、機織小屋みたいなところなの。初めてここに来たとき、あそこにいたから」

「あの山か……。それじゃあ、俺はついていけないな」

 みちは、右手を左手で包み込んだ。

「大丈夫かな」

「俺も行きたいよ。心配だ」

 心の底から自分を思う眼差しに、みちは涙が出そうになる。彼の言葉や表情には、邪気がない。だから、胸が締めつけられそうになるほどに嬉しい。

「麓まで、一緒に行こう」

 嫌な一歩を、共に踏み出す。

「朝になっても帰ってこなかったら、地上に戻れたってことにする」

「……一緒に、行きたい」

「俺もだ」

「地上に戻れたら、もう、あなたとも会えなくなっちゃうかな」

 彼の瞳が、一瞬淀む。すぐに光を取り戻して「俺も戻れるように頑張る」と力強く言った。

 夕日に陰影を刻んだ顔を、見上げる。今日出会ったばかりなのに、もうずっと前から一緒にいるような気がする。故郷に似たあの桜の景色を、共に見たこと。道を行く静寂が、心地良いこと。

 みちは、山を目前にして立ち止まる。

「本当に、会えるのかな」

 不安気な眼に、優しい声が返る。

「絶対、また会える。そんな気しかしねえんだ。だから大丈夫だ」

 彼は、屈託なく笑った。

 大丈夫。その言葉を心臓に覚えこませるように、拳を胸にあてる。彼が、言うのなら、大丈夫だ。

「それじゃあ……行ってくるね」

「おう。また会おうな」

 彼の笑顔は、太陽のようだった。


 黄昏の山道を、一歩ずつ登る。夕暮れに夜明けを勘違いしたような小鳥の囀りと、一方で胸に染みる静けさ。

 もし本当に、戻ることができたら。

 もし本当に、生まれ故郷に帰ることができたら。

 もし本当に、元の場所で彼に出会うことができたら。

 輝かしい光景を思うと、鼓動は痛いほど強くなる。落ちる桜が、彼女の道行きをちろちろ飾った。あの小屋が待ち遠しい。急いた気持ちに合わせるように、毛先が軽やかに跳ねる。

頬を上気させて至った小屋に、めめはいなかった。

みちは一度呼吸を整え、三和土を上がる。

 洞窟からこの小屋に出た、あの時。開け放たれた戸から桜を見た。

 あの機織小屋なら、朽ちかけた祠があったその場所。そこから、出てきたことになるだろうか。みちは足音も立てずに、玄関の向かいにあたる壁に歩む。扉になってないかと壁を間近で見るが、正真正銘ただの壁だった。

 みちはそっと、壁に手を伸ばす。滑らかな壁面に触れたとき、かたりと音がした。

 驚く彼女をよそに、壁が扉のように開いていく。現れたのは、山肌にばっくり開いた穴だった。

その闇は、どんな夜よりも黒い。光さえも飲み込んで離さないような手が、無数に生えているような。突如、闇がぐわりと歪んで渦を巻く。

 ――吸い込まれる。

 ぐらりと歪んだ足元に、しりもちをつく。

 みちの視線は闇の穴に縫い付けられていた。ぐるぐる目が回り、天地の区別が無用になる。視界が徐々に暗くなり、穴に飲み込まれようとしていることを知る。この先に、本当に光の世界があるというのか。

 ――大丈夫だ

 晴瀬の声が響く。

 みちは意を決し、拳を握る。

 きっと、大丈夫だ。きっと、このままでいれば…………………………「お帰りですか」

 冷たい声に、ヒッと息を飲んだ。

 瞬く間に、部屋は元の通りになっている。

 あの穴も、壁に開いた扉も、嘘のように消えていた。

「何をやっているんですか」

 夢だったのだろうか。めめの問いに答えず、みちはぼうっと壁を見上げる。

「……みち様」

 名を呼ばれ、やっと振り向いた。

 めめは、いつもよりも綺麗な衣装に身を包んでいた。

「どこに、行っていたんですか。山を離れるなと申したでしょうに」

 細い眉が作る怒色に、「ごめんなさい」と俯く。

「もしかして、鬼に会っていたんですか?」

 心臓が、跳ね上がる。嫌な音が、身体中に響き渡った。

 答えないみちに、彼女は目を細める。

「鬼の男に、会っていたんですね」

 返事を待たず、彼女は言葉を次いだ。

「竜宮で調べてきました……彼がどのような者なのか」

 聞きたくない。本能的に耳を塞ごうとする手を、めめの怒りを知った理性が留める。

「彼は、殺しをしています」

「殺し……?」

 否定するつもりで反復すると、ご丁寧に頷きが返る。

「それが原因で、死んだようです。今なお、殺した者の亡霊に追われている……と。鬼同士、反乱を起こそうとしたことがあるようです。その際、首領であった仲間の鬼を殺した」

 目を泳がせるみちに、彼女は容赦なく続ける。

「鬼である上に、殺しをしている。しかも、仲間を裏切っているのです。そんな男と会うことがいかに危険か。誰だって分かります」

 めめの言うことは、嘘だ。

 あんなに真っ直ぐ、自分を思ってくれる人が、人殺しなど。

 ただ一方で、夜の底のような瞳の色を思い出す。

 こちらに来た理由が、本当に人殺しであるのなら。ここまで来た経緯を語れないのも、ごく自然なことではないだろうか。

 みちは全身を硬直させていた。腹の底から溢れかえる言葉は喉でのたうち回る。

 動揺するみちに、めめは溜息を吐いた。

「ともかく、あなた様に何もなくて良かったです。竜宮へ行くのは、夜明け前ですからね……。今日は早く寝ていただくつもりでありました。温まれば、すぐに眠くもなるでしょう。お風呂を用意してございます」

 彼女は笑顔で戸を開ける。

 もう、逃げられないのだ。見る間に、目の前が暗くなった。

 気が付いたときには、真新しい着物に身を包み、滑らかな布団に挟まれていた。

 部屋には小さな灯がついていた。扉の方で、めめが寝ている。その反対側……穴のあったちょうどその前に、真っ白な打掛が両袖を広げていた。

 みちは、そっと身を起こす。

 それが並大抵の品でないことは、薄暗い中でもよく分かった。まるで雪のような無垢に、よく見ると流れる水の模様が縫い込まれている。それが光の加減で、きらりきらりと光っていた。

あれに袖を通せば、太陽を二度と拝めなくなる。

 瞳を閉じれば、晴瀬の顔が闇に浮かぶ。

 彼の明るい笑顔。真っ直ぐな眼差し。力強い声。人殺しなんていうのは、きっと嘘だ。桜と同じ、自分を竜宮に赴かせるための嘘。

彼の「大丈夫」を反芻する。

 だからきっと、大丈夫……。

布団の外が冷えていく速度に、夜更けの深度を感じる。彼の力が、きっと、助けてくれる。みちは挑むような気持ちで、長く息を吐いた。


 



            ●




 

「みち」と呼ぶ声を聞き、思わず顔を上げてしまったその時から、その娘は貧乏ゆすりを繰り返している。

 桜の向こうに見た、二人分の人影。一方は男で、一方は女。

 怯えていた女が、あの「みち」であるのなら。こんな妙な場所に至ったことは、またとない好機だ。

 鬼に追われ死にかけた後、目覚めた洞窟。そこにいた幽鬼のような男に、母の姉を知っているかと聞いた。なぜかは分からないが、自然と問うていた。

 そして、なぜあの男がその行方を知っていたのかも、不可解だ。

 事実、あの「みち」はここにいるらしいのだから。

彼女は、鋭い視線で平野を見渡す。極まりには、まるで千尋の谷のような海がある。

分からないことだらけだが、彼女がここにいるのなら。やらなければならないことはたった一つだ。

 彼女はすっくと立ちあがり、歩き出す。等しく刻まれる歩調に合わせるように、空が白んでいく。朝が来る前の、引き潮のような冷たさを突き進む熱は、真っ直ぐ海へ向かっていた。





            ●




 

「起きてください」

 いつの間にか、眠っていた。

 めめに恭しく布団を剥がされ、冷たさに晒される。冬が返り咲いたような空気に、指先が凍えた。

 立たされたみちは帯を解かれ、新しい着物を着せられていく。されるがままにぼうっとしていた。眠いから、ではなかった。言葉にならない言葉が膨れ上がり、彼女の胸を塞いでいるからだった。

「昨晩は、よく眠れましたか」

 力なく、首を横に振る。

「神のもとに、嫁ぐのですからね。緊張されるかもしれませんが、主様はお優しい方です」

 みちは答えない。部屋のぼんやりした闇をそのまま映した瞳で、床を見ている。

「加えて竜宮は、目が覚めるほどに綺麗な場所ですよ。水の底から見る光は、格別に美しい。何不自由なく、過ごすことができます。飽きることが無いよう、楽しいことを様々にご用意していますし。はじめは地上を恋しく思うかもしれませんが、すぐに慣れます。水の底は、とても良い所ですから」

 あの、水面の下の、奥底の、闇。

 黒が、内側からみちの額を殴る。

「あなたは閉じ込められることの苦しみを知らない」

 生きながら死んでいた日々が、娘の眼前を駆けていく。孤独に窒息していく心。死刑宣告を待つ日々。閉じ込められたそこで生涯を閉じる絶望。それならいっそのこと、自分で死んでやる。そう思ったことも、一度や二度ではなかった。しかし思うだけで何もできなかった。そんな自分を恥じながら、ひたすらに、機を織った。

 あの絶息の場所に、再び連れていかれようとしている。

「行きたくない」

「まだ、そんなことをおっしゃるのですか」

「嫌だ……絶対に」

 彼女の声は震えていた。

「申し上げたでしょう。竜宮は、美しい場所です。あなたがこれまで見たことないほどに」

 みちは、何度も首を横に振った。

「行きたくない!」

 拒絶に構わず打掛を羽織らせようとする、めめの手を払い除けた。

「嫌なの!」

 豹変した娘の表情に、竜宮の使者はうろたえる。

「もう二度と、あんな思いはしたくない!」

 みちは、小屋を飛び出した。

 いくらも走らない内に、長い裾に足を取られて転ぶ。立ち上がり、帯締めを解いた。走りながら帯を解き着物を脱いで小袖になる。山はまだ夜の闇そのもので、何度も躓いた。真っ新は闇の中で、着実に汚れていく。己が名を呼ぶ声から逃れるように、何度だって立ち上がった。

東の空が、白み始める。桜がぼんぼりのように、僅かな光を集めた。それを頼りに、みちは山を下りきる。

「晴瀬!どこなの。晴瀬!」

 力の限りに、彼を呼ぶ。しかし答える声は無い。彼女は海へ走りながら、何度も彼の名を呼んだ。

「ここだ!」

 背後から、彼がやってくる。ああやっぱり、彼が助けてくれるのだ。みちは涙の混ざった声で彼の名を呼んだ。

「晴瀬!」

「何があったんだ。泥だらけじゃねえか」

 彼の心配そうな瞳。人殺しの目だなんて、鬼だなんて、思えない。

「竜宮に、行きたくないから、逃げてきた……!」

 息継ぎの中で言うと、晴瀬は愉快そうに笑った。

「いいじゃねえか」

 みちの手を掴むと、引っ張って走る。ぐんと速度が上がり、彼女は懸命に脚を回した。

 あっという間に、砂浜に辿り着く。夜明けを控えた空が、紅潮した彼女の頬を炙り出す。呼吸を整えながら、波打ち際まで歩いた。

「追いかけてきてるのか?」

「分からない」と首を横に振る。

「まさか、放っておかれることもないだろうしな……隠れるところもない」

 晴瀬は辺りを見渡す。目が、あるものを捉えて大きく見開かれた。

「あれ……誰だ?」

 静かだが強い歩調で、歩んでくる娘。

 桜の間で見た、あの影だ。

 そう気づいた時、みちは思わず晴瀬の手を握る。彼女の視線は、真っ直ぐ自分に向けられていた。鮮やかな緑の瞳は、怒気さえ孕んでいる。

 初めて会う人だ。だが、なぜか知っているような気がする。何度目かの既視感は、これまでのように心地の良いものではなかった。

 娘は、二人の前でピタリと止まった。

「わたしはマキ。あなたは、みちでしょう」

 よく通る声が、真っ直ぐにみちを刺す。大きな背中に半ば隠れながら、頷く。

「それなら確かめるけど、あなたの妹の名は、さくね」

 ――さく。

 それは確かに、妹の名前だという気がした。曖昧ながらも、みちは頷く。

「わたしは、さくの娘。あなたに、ずっと会いたかった」

 しかし、彼女の娘に会えることなどないはずなのだ。

 家を出て何年が経ったかは定かではない。仮に子供がいたとしても、自分と同じ年齢に達するほどの時が経っているとは思えなかった。

「……人違いじゃ、ないかしら。名前が、たまたま、同じなだけ」

「確かに、わたしたちが同じくらいの年齢で出会えることはおかしい。でもここは、少なくとも普通の世界ではないのでしょう。時間の経ち方が変でも不思議じゃないわ」

「でも……」

「それなら聞くわ。妹の名はさく。母はのの、父は陽慈。あなたは春の生まれで家の近くには桜がたくさん植わっていた。だから、好きな季節は春……違う?」

 心臓が、どきりと鳴る。

 全部、聞いたことがある。

 あの景色に時めいたのも、確かに、故郷を映していたからだった。

「まだ、ピンとこない?」

 答えずにいると、彼女は続ける。

「村で一番機織が上手く、また器量も良かった。誰からも好かれるような優しい質で、少しも威張るようなことはなく、素直な娘。母の仕事や畑の仕事をよく手伝い、あなたを見かける度に、近所の人は声をかけた。好物は餡を使った菓子。年に一度だけ宿場に行く日は、必ずねだっていた」

 胸の奥が、むずがゆい。無視するように、首を何度も横に振る。

「ごめんなさい……わたしは、昔のこと、あまり、覚えてない……」

「どうして?」

「……閉じ込められてた、から」

 マキは怪訝な顔をした。

「あなた、売られた後、どんな暮らしをしていたの?」

 みちは、首を傾げる。

 売られた?

「……全部、忘れてるのね」

 彼女は溜息を吐く。

「ひどい旱魃が続いて、あなたは隣村に売られたの」

「……そんなの、嘘よ」

 自分を産んだ両親の顔。同じ年ごろだった子たちが笑う顔。皆と、あたたかな村で苦楽を共にする生活。

 僅かな記憶を、何度も反芻する。

「そんなこと……そんなことする人たちじゃないわ!」

「忘れてるのに、自信たっぷりね」

「でも、ちゃんと、覚えてることもある!」

「都合の良いところだけ、なんでしょ」

 マキの瞳が冷たく凍る。

「わたしはね、あんたの妹に、あんたの生まれ変わりだと育てられてきた。好きなもの、好きな色、好きな季節。性格や得意なこと。何から何まで、あんたと同じになるように。さくは、あんたがいなくなってからおかしくなってしまった。大好きだったあんたへの、異常な執着によって」

 聞きたくない。耳を塞ごうとする手を、マキが引っ掴む。

「逃げないで」

「だって!わたしは関係ないじゃない!」

「あんたを責めてるのではないわ。ただ、教えてよ。あんたがどんな人間か。わたしは自分を忘れてしまったの。わたしはあんたと違うことを確かめたい。剥がれないの。あんたの生まれ変わりだっていう、母さんの言葉が。ずっとこびりついてんのよ」

 みちは、ひたすら首を横に振る。

「わたしは殺されたようなものだわ。あんたそっくりの生き物になれるように生きてきたのだから。あんたとは決定的に違うのに、あんたと同じだって……」

「決定的に違うって、知ってるじゃねえか」

 晴瀬が、静かな声をさす。

「手を放せよ。怖がってる」

 マキは彼を睨み、みちの手を放す。

「あんた、鈍いわね」

「……何の話だ」

「わたしと彼女の、何が決定的に違うか。あなたなら分かるはず……彼女には分からないけど」

「目の色か?」

「馬鹿と話をする気はないわ」

 再び、みちに目を向ける。

「あなたが、どんな人なのか、教えてくれるだけでいい」

 夜が、光に引き裂かれる。

 みちの濡れた瞳に、朝日が宿った。

「わたしはわたしのことなんか、知らない」

 太陽が、辺りを光で染めていくのと同時に……細かな、地鳴り。

 顔を出した太陽に照らされ、山の方から大きな生き物がやってくる。

「蛇」

 杉の大木ほどもあろうかという黒蛇が、おそろしい速さで突進してくる。晴瀬はとっさにみちを抱えて、横に飛びのく。砂浜に手をついた二人が見たのは、海へと放物線を描くマキの身体だった。

 余力で海に飛び込んだ蛇は、海水を滴らせ巨体を翻し、赤い舌を吐きながら二人を見下ろした。

「竜宮からの迎えである。そこにある男は即刻、娘から離れよ」

 深い淵から響いてくるような声だった。

「いやだ……」

 みちは晴瀬にしがみつく。「竜宮になんて行きたくない!」

 蛇は娘の声には答えず、青年を見下ろす。

「娘から離れろ。先刻の女のようになりたくないならな」

 晴瀬は大蛇の双眸を睨み、立ち上がった。彼の右手から、闇の棒が伸びる。それは先端の尖った銛となった。

 みちは、目を円くしてそれを見上げる。彼は本当に、術士なのだ。

 しかし、鬼などという恐ろしいものには思えなかった。朝の光を浴び、大蛇に掲げられたそれは、自分を守ってくれる刃。

「お前がどっか行けよ。化物」

「術士風情が、神の使者に勝てると思うてか」

 と蛇は嘲笑を含み、大口を開け突進してくる。みちはぎゅっと目を瞑る。晴瀬は「待ってろ」という声を残して離れる。それが恐ろしくて目を開いた時、既に勝敗は決していた。

 清澄な空に、悍ましい悲鳴を上げる大蛇。その目から噴き出る血が、浜を、海を、そして晴瀬を真っ赤に染めていく。血を滴らせ「大丈夫か」と手を伸ばしてきた彼の手を、みちは縋るように握る。強い力で引っ張り上げられた余力で、彼の胸に抱きついた。

 蛇の血に、左頬が濡れる。「汚れるぞ」と彼の声が、すぐ耳元に聞こえる。みちは、首を横に振った。

「あなたといれば、いいんだわ……」

 晴瀬は、躊躇いがちに彼女を抱き寄せる。みちは応えるように、ひとつ息を吐く。全身が弛緩するほどの安堵に、彼に寄りかかった。

「私が死んだと思ったら、大間違いですよ」

蛇が倒れた跡の残る砂浜に、めめが立っていた。みちは目を疑う。彼女が蛇であった証拠に、片目が真っ赤に潰されていた。

「私は、神の使いです」

 手が血を拭うと、元の通りの瞳がぐわっと目を開く。

「その男から、今すぐ離れてください」

穏やかな彼女の雰囲気は消え去り、蛇の眼光で晴瀬を睨んでいる。彼は怯むことなく、静かな目線を返す。

「みちは、竜宮に行きたくないって言ってんだ。強引に嫁がせるのなんてやめろよ」

「何も知らない者が意見をしていい話ではない」

「でも、強引に嫁にするなんて絶対おかしいだろ」

「それでは、教えてあげましょう。みち様、その男は、あなたを必ずや不幸にします」

「何を、言うの!」

 彼の胸から顔を上げ、みちは掴みかかるように叫ぶ。

「今だって、助けてくれた!わたしは竜宮に行きたくない……あなたたちの方がよっぽど、わたしを不幸にする!」

「……今は、そう思ってしまうかもしれません」

 めめの表情は、哀切に歪む。

「ですが、私の言葉の意味が分かる日は、必ずやってきます。あなたがいずれ、その男を殺してしまうその時に」

「そんなこと、あるわけないじゃない!」

 本当に?

 言い放った瞬間、胸にひらめく声がある。

 愛する男を、躊躇なく殺した。あの生々しい夢。

 どこかへやってしまうよう、首を横に振る。

「薄々、感じているのではないですか」

 彼女は目を細める。

「あなたは、月の神に憑りつかれています。そしてその男は、海の神に」

 好きだけど、怖いもの。

 二人は顔を見合わせる。

「月と海の神は、それぞれ女と男に憑りつくのです。そして愛し合った後、女は男を殺します」

「そんな変な話、あるわけないだろ」

「愚か者は誤認を貫けばよろしい」

 ピシャリと言う。

「今はその男が恋しいかもしれません。しかしそれも、神が錯覚させた恋情なのです。神の力には、抗えません。必ずや、その男を殺す運命に至るでしょう。それでも、共にいたいと言いますか」

 信じがたい話に、みちは閉口する。

「あなたの心を慮るからこそ、離れろと言うのです」

 極寒の夢が、どうしようもなく蘇る。頬の血はそのまま、あの時の血の感触を反芻する。

 これが蛇の血でなく、彼の血だったら。

 みちは次いで、夢の最後を思い出す。

「つぎは、うまくやるって。夢で言った」

 迷いのない瞳で、彼女は告げる。

「絶対に、わたしは、晴瀬を殺したりなんかしない」

「甘いなあ……」

 突如、場外から声が降る。

 三人は一斉にその方を見る。晴瀬が、悲鳴に近い声を上げた。

「神に憑かれた人間が、神の恐ろしさを知らないとは」

 後ろで手を結び、男が立っていた。

「初めましてお嬢さん。俺は春軌という。晴瀬は俺の獲物だから、横から奪う真似はやめてほしい。悔しければ、次の海の男を待て。繰り返すようだが、あんたは晴瀬が好きなんじゃない。海の男にひかれているだけだ」

 明らかに恐懼する晴瀬の手を、みちは握った。

「そんなわけ、ない。あなた、晴瀬に、何してるの」

「復讐してやってる」

「なんで、そんなことするの!」

 春軌の瞳が、ギラリと光る。

「晴瀬に殺されたからさ」

 思わず、彼の顔を見上げる。何も言わず、唇を噛んでいた。

「想像がつかないかもしれないが、そいつは本当に俺を殺している」

 じっと見上げても、彼は一度も目を合わせようとしない。

「そんなおっかない奴だと分かっても、一緒にいたいと言うのか」

 答えは、決まっていた。

「術士でも、人殺しでも、彼といたいもの!」

「……神の恋情を断とうと思う方が、難しいことなのかもしれない」

 バチン!と音がしたかと思うと、二人は引き離されていた。

「この……」

 再び手を取り合おうとする二人の喉元に、中空から現れた真っ黒い刃が突き立てられる。

「それ以上、動ける?」

 晴瀬は「やってやる」と刃を避けみちへと走る。

「馬鹿だなあ」

 刃はピタリと、彼にはりつく。彼女に手が届く一歩手前、闇の刃は彼の首を斬り落とした。

 みちは、表情を変えることすらできなかった。

 力を無くした四肢と、胴体から離れた首。

 どういうことなのか。説明を求めるように春軌を見る。

「大丈夫だよ。胴と首はまた繋がるから」

 その言葉が終わる前に、彼女は気を失って倒れた。

 すぐさまめめが駆け寄り、優しく抱き上げる。

「鬼め、嫁様に傷がついたらどうする」

怒りの形相を、彼は乾いた笑いで受け流す。

「神の怒りを被るのは御免だ。彼女を傷つけるつもりなど最初から無い」

「この里を、これ以上荒らすな。その男と共に、相応しい場所へ消えろ」

「……だってさ、晴瀬」

 息のない彼を見下ろす。

「言われなくても、行くのにね」

 春軌が彼の背中に触れた時、二人は宙に消えていく。それをしかと見届けためめは、桜の林立する山へと向かう。

 誰もいなくなった浜には、深い海鳴りが響いていた。

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