日の出
2021.01.05 投稿
翌朝。
凌光は崖の上で、大きな欠伸をした。初夏の暁は新緑の呼気に満ち、爽やかに香る。目に浮かんだ涙に、顔を出したばかりの太陽が光った。波波の果ての水平線は、温かな色をのさばらせている。
凌光は滑車の先に桶を取りつけ、絶壁から海に放った。塩を作るための海水を汲みに来たのだった。
「おっこいしょ」
重たくなった桶を引き上げ、もう一つ空の桶を、海に放る。朝日を見ながら綱をたぐると、まるで自分が海の中から太陽を引っ張り上げているような気分になる。
「おっこいしょ」
と桶を崖の上に置いたとき、凌光は首を傾げた。
今、太陽の中に、人影を見なかったか。
もう一度、朝日を見た。眩いばかりの真円が、大洋の上にあるだけだった。
気のせいだろう。両手に重たい桶を提げ、振り向いた。
「うわ」
と盛大に海水を撒き散らし、身をのけ反らせる。
「誰あんた!」
芽吹いたばかりの葉よりも鮮やかな緑の瞳が、そこにあった。
「ここはどこだ」
一つに結んだ髪を揺らし、娘が近付いてくる。
「禰々島だよ」
「ということは、私は生き返ったのか」
「半分死んでるけど……晴瀬といいあんたといい、死後の世界も忙しいね」
「晴瀬?」
綺麗な形の眉を顰める。
「背の高い、芯の無い、盆暗の術士のことか」
「ひどい言いようだね……。多分、そうだよ」
「どこにいる」
「知り合い?」
「そのようなものだ」
「……あんたが急に後ろにいたもんだから、せっかく汲んだのに零れちゃったじゃん」
と片方の桶の水をもう片方に移して空にし、海に放る。
「晴瀬の所に、連れて行ってほしい」
「行くからちょっと待ちな……晴瀬の知り合いっていうけど、あの人は百年以上前の……ほら、村芝居で出て来るじゃない。あの晴瀬なんだよ!」
青颯に得られなかった同意を求める。暫く間を置いて、「芝居で見たのはもっと強そうな奴だった。人違いだろう」と棘のある声で言う。
「ほんとだよ」
海水を満載にした桶を引き上げ、両手に提げる。ふわ、と風に浮き上がった娘の腕には、火傷のような痕があった。
「あんたそれ、大丈夫?」
凌光の視線に、娘は「問題ない」と袖をおさえる。凌光は怪訝に思いながらも、山を登っていく。
「本当に、春軌って悪の親玉を倒したんだとさ。昨日その怨霊が出てきて大変だったんだよ。まああんたが言うように、芝居の晴瀬よりもちょっと弱そうな感じはあるけどね。でも立派な身体をしているし、なんか色々あったみたいだから、本当は強い人なんじゃないかと思うけどね私なんかは」
「いずれにせよ、現状弱いことに変わりはない」
と冷たい声で言う。可愛げの無さは青颯といい勝負だ、と凌光は心の内で笑った。
二人はほどなくして塔に至る。凌光が、水瓶に採ってきた海水を注ぎこんでいると、騒がしい音と共に青颯が起きてくる。
「あんた、珍しいね」
「また妙なのが来たね」
と、青い顔で娘を睨んでいる。彼女も鋭い眼光で睨み返した。
「あんたは来客をそう睨むもんじゃないよ。この子に失礼……そうだ、名前は?」
「マキ」
下りてきた晴瀬が代わりに答える。
「どうして、ここにいるんだ」
瞳を目一杯に見開いている。
「生き返ったからだ。お前こそよく生き返ることができたな」
口調も雰囲気も様変わりした彼女に気圧される。
「俺は……引っ張り上げられただけだ」
「あの女……私の母の姉はどうなった」
「……死の底に落ちてしまった」
「そうか。この世から消えたのならそれでいい」
冷たい声で残し、マキは踵を返す。
「どこ行くの」
その背中に、青颯が鋭く声をかける。
「こんな所に用はない。生まれた所に帰るのだ。私にはやることがある」
「あんたはまだ生き返っちゃいないよ。半分は死んでる。この状態であっちに戻ろうったって難しいだろうよ」
彼女は立ち止り、眉間に皺を寄せて振り返る。
「半分死んでいる、だと?」
「そうさ。あんたにも神が憑いてるみたいだけど、本体はどうしたって人間なんだから、そんなに都合良くはいかないよ」
マキは口端だけで笑った。
「よく見れば、お前にも憑いてるみたいだな」
「……あんたは晴瀬みたいに盆暗じゃないらしい。どっから来たの?」
朝から何度も馬鹿にされる彼を、凌光は密かに同情した。
「信仰を失った神の行きつく場所からだ。神を憑けて地上に戻った」
「……自分で憑けたの?」
「神を殺した結果、憑いた」
「そんだけやばけりゃ目も覚めちゃうよ……あんたがこれからどうしようと勝手だけど、半分死んでるってことは忠告しておいてあげる」
彼は階段を上り始める。
「待て。それなら、どうしたら故郷に戻れるというのだ」
「知らないよ」
「私は、一刻も早く戻りたいんだ」
「勝手にしな。巻き込まないで」
と取り合わずに自室に消える。マキは舌打ちをして、凌光を向く。
「どうしたら、戻れるんだ」
「私にゃ分からんねえ。あいつ朝は機嫌が悪いから、昼くらいに起きてきた頃に聞いてごらん。巻き込むなとは言ってたけど、興味はあると思うよ」
「面倒な奴だ」
とマキが吐き捨てると、凌光は快活に笑う。
「でも諦めないでうまいこと言えば、いいことあるかもよ」
頷くマキの目が意味ありげに光ったのを、晴瀬は不安に思った。
凌光が言った通り、青颯は昼頃食堂に下りてきた。食卓では凌光が居眠りをしているので、自分で飯をよそって昼食を食べ始める。
「……あれ、おはよう」
ほどなくして、凌光が目を覚ます。
「二人は?」
マキがあの怖い顔を迫らせてくるだろうと思っていたが、彼女の姿はなかった。晴瀬もいない。
「晴瀬は、オオガイを取りに行ってくれてるよ。マキは、どうだろうねえ。あんたが部屋に戻った後どっか行っちゃったよ」
「変なことしてないといいけど」
「大丈夫でしょう。そんなことをする人ではなさそうじゃない」
「分からないよ。タダ者じゃなさそうだし。島を荒らさなきゃいいんだけど」
「考えすぎよ」
と凌光は笑うが、青颯は渋い顔のままだ。
「晴瀬とマキは知り合いなの?」
「ちょっとだけしゃべったことあるらしいよ。晴瀬って、死んだ後に二か所経由して、ここに来てるんだね」
青颯は頷く。
「それで、死んだすぐあとにいった、桜ばっかり咲いてる所で、しゃべったって」
「何を?」
「さあ。そこまでは言ってなかったけど」
「また二人が一騒動起こさないか心配だよ」
と漬物をくわえる。
「いいじゃない、にぎやかで。あんたが来た頃を思い出すよ」
凌光の優しい顔を青颯は上目遣いに見上げ、奥歯で漬物を噛む。
「あんたが来なかったらさ、多分なんとなく死んでたと思うんだよね。ずっと、五十年、あのまま一人で生きてたらって考えるとゾッとするもん」
「……だから何」
「わざわざ言うのもさ、あれなんだけど、ありがとうね」
青颯は漬物を飲み込んだ。
「……こわ。俺何かした?それとも何かさせたいの?」
凌光は穏やかに微笑むばかりだった。




