生と死
2021.01.05 投稿
2021.01.10 改稿(内容の変更なし)
2021.01.16 改稿(矛盾点修正)
「はい起きて!」
光と声に、晴瀬は目をこじ開ける。
「今日は田植えだよ!晴瀬にも手伝ってもらうからね」
窓の外を見ると、水平線は曙の暖色に染まっている。薄闇をかき分けるように、日の出前の冷たい空気が流れ込んで来る。
凌光が同じく隣の部屋の青颯を起こしている声を聞きながら、階段を下りる。台所には、すでに朝食が並んでいる。炊き立ての白米とみそ汁の匂いが、全身の細胞を起床させていく。晴瀬は何も考えずに箸を取り、凌光が青颯を連れて来たころには食べ終えていた。
「ほら、あんたも食べちゃいなさい」
ぶすくれた青颯は黙って椅子に座り、料理を口に放り込み始める。
「あ、それで顔洗っちゃってよ」
と手拭いを晴瀬に手渡し、凌光は外に出ていく。晴瀬は勝手口を出て、水を満たした盥で顔を洗い、口をゆすぐ。もらった手拭いで顔を拭く。何十年ぶりかに思える当たり前の習慣に、生きているからこその行為なのだと、濡れた手拭いを見下ろした。
「邪魔」
と出てきた青颯に、場所を空ける。どうも彼は朝が弱いらしく、日中あれだけしゃべるとは思えないほど無口になる。
晴瀬は手拭いを肩にかけ、凌光を探した。
「終わった?ちょうど呼びに行こうと思ってたんだけど」
向こうからやってくる。
「田んぼはこっちだよ」
平地のないここに、田んぼなどあるのだろうか。
南の方へとまわる。すると坂に、階段状に作られた田んぼが現れた。満たされた水が鏡のような銀に張り詰めている。
「すげえな」
「自慢の田んぼだよ。二人でね、何十年とかけて作ったのさ」
「あいつも鍬持って耕したりするのか」
「するよ」
不機嫌な顔のまま、青颯がやって来る。
「するって言っても、たまーにね。研究が煮詰まったとか言ってちょーっと手伝っては疲れた、とか言ってほっぽり出す」
「うるさいな。ちゃんとやったときもあったじゃん」
目覚めてきたのか、言葉の数が増えてくる。
「研究?」
「三階に本がいっぱいあるんだ。それ使って、この不毛な土地を豊かにする方法とか、より強い稲を作る方法とか、他のことも色々調べて考えてる」
「お前、字が読めんのか」
「うん」
「だからこんなに理屈っぽいのこいつ」
「凌光は考えが足りなすぎなんだよ」
「できることが別々で、ちょうどいいな」
凌光はにやにや黙り、青颯は口をへの字にしてそっぽを向く。
「……せっかく早く起きたんだから、始めようよ」
「今年は晴瀬もいるから、早く終わるかもね」
「俺漁師だったから、田植えはしたことねえ」
「ええ、漁師だったの?じゃあ明日は釣りを頼もうかな」
と長い棒を持ち田んぼに入る。目盛りのついたそれを、田んぼの端に刺す。
「青颯、苗とってきて」
「もう持ってるよ」
と投げ渡す。
「はい」
と隣の晴瀬にも苗の束を渡し、田んぼに入る。ひやり、と冷たく、足の踏む泥がぐにゃりと沈む。
「そんな難しいことじゃないから、やってりゃすぐ分かるよ。この目盛りに合わせて、一つずつ、苗を植えてくのさ」
凌光の仕種を見ながら、真似をしてみる。たしかに難しくはなかったが、経験の差がどうしても出る。二人はとっとと植えてしまうが、晴瀬はなかなかそうもいかない。上に、不格好に曲がってしまう。
「あそこは晴瀬が植えたって一目で分かるね」
「すまん」
「気にせんでいいよ。一日やってりゃ上手くもなる」
田んぼは、島の中腹まで続いていた。
「これ、どんくらいかかるんだ」
「日没までかかるよ。晴瀬が頑張ればもっと早く終わる」
彼はとにかく黙々と植えた。やっている内に、コツがつかめてくる。植えられる数も増え、格好も良くなってくると、楽しくもなってきた。休憩を挟みながら続け、太陽が水平線と天頂のちょうど真ん中にある頃に、全て植え終わる。
「やっぱり、早く終わったねえ」
凌光は泥のついた手を伸ばして身体を反らす。と、凌光の手から泥が落ちて、青颯の顔に落ちた。
「ねえ、かかったんだけど」
「あら、似合うわよ」
「この」
青颯は泥のついた手を伸ばすが、凌光は身軽に逃げる。
「やれるもんならやってみな」
と畦の坂道を上っていく。青颯は「待て」と追いかけるが、到底追いつきそうにはない。凌光は坂を上りきって「早く来いよ頭でっかち」と挑発する。青颯は田んぼから泥を掬い上げ凌光に投げるが、届かず終わる。凌光は笑いながら、塔の方へと姿を消した。
「お湯の火、点けてやらないからね!」
「あんたが風邪引きたきゃそれでもいいよ」
と尚も言い合う二人を見て、晴瀬は「ほんとに五十年も一緒にいんのかよ」と呟いた。
お湯の火、というのは、風呂を沸かすための火のことだった。
夕食を食べた後、晴瀬は何年ぶりかと思われる湯船に身を沈める。今日の疲れのみならず、積年の疲労が筋肉の隙間からほどけていくようで、思わずほっと息が洩れる。
「湯加減はどう」
青颯の棒読みが下から聞こえる。
「最高だ……」
晴瀬は空を見上げる。満天の星空だった。湯を沸かす炎に、湯気が白く天へ昇っていくのが見える。遠くから潮騒が耳に届き、自然に溶け込むようだった。
「ここ、いいとこだな」
「いいとこに、何十年もかけてしたんだよ」
青颯は風呂の下に浮かべていた火の玉を消す。
「最初は何も無かった……この塔はあったけどね。食べられるものもいっぱい生えてたし、魚も鳥もよくとれる。でももっと良い生活がしたくなるから、色々考えて、やったんだ」
「この塔は、最初からあったのか」
「うん。中の道具もね。俺たちの前にも、誰か住んでいたらしい」
「こんな所にか」
自分たちの故郷から、わざわざここに移り住んだ人がいたとは思えなかった。
「日記みたいのが、残ってた。ここからもっと西にいったところに大きな国があって、そこを追われてきた人たちが住んでたらしいんだ。沖とか術に関する書物もたくさん残ってるから、術を持って来た人たちだろうね」
「術を持って来た?元々あるもんじゃねえのか」
「多分。俺の村に伝わってた話を合わせて考えると、どうもそうらしい。術を持って来た人たちと、最初はうまくやっていた。何しろ便利だから、国だってどんどん豊かになった。でもある時決裂して、術は国を乱す邪なものだって退けられるようになった。もう、元々いる人たちと、術を持って来た人たちの子孫も分からないくらい馴染んでたから、言いがかりをつけては術士を摘発して殺し、って散々な事態になったんだって。俺のいた村は、その滅茶苦茶な争いから逃れてきた人たちがつくった村なんだってさ」
「それで、術士が差別されてないんだな……」
羨ましい、というのを飲み込む。他にも様々な事情があるのだ。安易に羨んではならないと自戒する。
「にしても、そんな基本的なことも知らないんだね。養成所ってとこで、そういう歴史って教えてもらえないの?調教されるだけの場所?術もロクに教えてもらえてないみたいだけど」
「……養成所を出たら、大体が土木工事や農業の手伝いなんかをさせられる。そのために必要な分しか教えられなかった。元々力のある、選ばれた人は、もっと教えられる。それで、教官になったり……する」
「んじゃ春軌って人は、力のある人だったんだね」
晴瀬は暗い声で返事をする。
「掘り返して悪いけど、どうしても気になったんだ。自分より術のできる人に対して不意打ちができないのが、沖の術でしょ。例えば、闇を術として現わす前、絶対に身の内の沖の動きを変えないといけない。術達者は沖を読む力も強い。そんな一触即発の状況で相手の沖を読まないなんて、よっぽど油断してたとしか思えない」
「……油断、してたんじゃないか」
晴瀬は星影を映す湯面に目を落とす。
「春軌さんは、もの凄く強い人だった。頭も良くて、人が考えないようなことをポンポン言うような人で……。俺なんかに殺されるなんて、思ってもみなかったんだろ。俺は滅多に怒ることだってなかったんだ」
「そうか」
火の消えた湯は、着実に冷め始めていた。ふやけた両手の皺を、こすり合わせる。脳裏には春軌を殺す前の会話が蘇っていた。そこにいない誰かを憎む炎を宿した、明るい茶色の瞳。冷たかった己の腹の底から、燃えるように迸った怒気……を振り払うように顔を洗うと、下で小さく炎が灯る。
「そろそろいいんじゃない。交代してよ」
ああ、と満足気に頷き、身体を拭く。凌光が作ってくれた、新しい服に袖を通す。重ねた布を縫い合わせただけの簡素なものだったが、ありがたいものであった。帯を締めふと顔を上げると、海をじらじらと照らして、隈を湛えた黄金が姿を現していた。
十六夜を睨んだ青颯は、ぼそりと呟く。
「……なんか来るね」
晴瀬は目を疑うと同時に、油断していたのは自分の方だったと頬の裏を噛む。彼はもう、現れないだろうと、心のどこかで高を括っていたのだった。
月光にのり、闇を滑るように現れた彼は、中空から晴瀬を見下ろした。
「ここは思ったよりも居心地が悪くてね。何度も名前呼んでくれてやっと君の前に姿を現せたよ」
「春軌さん……」
晴瀬は震え出す足に、拳を打ち付けた。
「久し振りの地上はどうだい。暢気に風呂なんか浸かって……生き返った幸福は味わえたかい」
春軌の束ねた長い髪が、蛇のように頭をもたげる。
「また、あの荒野に引き摺りこんでやろう。一度幸福を味わうと、苦しみって倍増するものだよね」
「ちょっと待って。その前に教えて」
青颯が口を挟む。
「なんであんたは、大人しく晴瀬に殺されたの?油断してたの?」
「油断?」
春軌は口元を歪めて笑う。
「そもそも、裏切られるなんて思ってなかった。途中から、言ってることがおかしいとは思ったさ。でも君だって思うだろう。こんな奴に殺されるわけがないって……」
「それを油断というんだよ」
「どうでもいいことだねえ」
「春軌さん」
晴瀬は、静かな声で彼を見上げる。
「本当に、すみませんでした。心から、あなたを殺してしまったことを、反省しています」
彼が言い終わらない内に、怨霊は星空に哄笑を響かせる。
「俺はね、そんなキレーな言葉で詫びてほしいんじゃないんだよ。君を殺して、死の底に引き摺りこんでやりたいんだ。安らぎの無い、冷たい、あの荒野よりもっと寂しい場所にね。けど海の神が憑りついてるせいでうまくいかない。それに今はあの女の子がそこにいるから、予定変更しなくちゃいけなくてね」
「みちが……」
彼女が落ちていったのは、そんなに恐ろしい場所だというのか。
「君をあそこに落とせなくなったのは残念だけど、あの子のお蔭で、君を苦しめるもっと良い方法を思いついたんだ」
いかにも怨霊らしい顔で笑う。
「俺があの子を、君にしたみたいな方法で苦しめてこよう。肉体に、精神に苦痛を覚える夢を見させ続けてくるよ。その彼女の様子を、君に夢で見せてあげる」
晴瀬は肩を怒らせ、手を爪が食い込むほどに強く握る。
「もっとちゃんと、怒りなよ」
青颯が囁く。
「晴瀬が怨霊に苦しめられるのは自業自得だ。でも晴瀬を苦しめるために別の人を巻き込むのは違う」
「……キレたらまた、殺しちまう」
「馬鹿なの?あいつはもう死んでるんだ」
「それでも、もう、二度とやらない……」
「そこの少年。一対一で対決してるんだ。加勢するのはおかしい」
春軌が青颯を指さす。彼は怨霊を指さし返した。
「よく言うよ。別の人巻き込むってのは、言うならば強引に味方を増やしたみたいなもんでしょ」
「理屈をこねるのがうまい子供だねえ……君が晴瀬に加勢するってんなら、大事にしてるここを荒らしてやろうかね。冥土の風を、田んぼに吹き込んでやったらどうなるか」
青颯は何も言い返さない。晴瀬は彼を見下ろす。無表情の下に、怒りを滾らせているのが晴瀬にも分かった。
「嫌なら塔の中に入りなさい」
春軌は屹立する石塔を指さす。青颯はしばらく彼を睨んでいたが、やがて黙って塔に消える。
「さあ邪魔者もいなくなったことだし……」
続きを遮り、晴瀬は決意を口にする。
「俺を、その死の底ってとこに、落としてください。二度と、生き返れなくなってもいい」
「あの女の子に会いたいだけだろう」
「会いたい、んじゃない。救いたいんです。みちを、生き返らせてやりたい」
「君に人が救えるわけがないだろう!俺を殺し余計な死者を出し海に身を投げ死後すらも俺にやられっぱなしだった君に!」
ゴオオオオ……と空が唸る。森がさざめいた。圧し潰されるような冥界の沖が、春軌の頭上に集まっていた。
「また、あの荒野に落としてあげよう。また夢の中で何度も殺してあげよう。心が消えたころにここに戻してあげよう。そして心が戻ったときに、突き落としてやる。何度だってやってやる」
『ソんナに死ノ世界ノ沖ヲ持チ込まれたラ、島ノ均衡が崩れチゃうワア』
不意に響いた声に、春軌の表情が豹変する。
『怨霊は大人しク死地に戻りなさアい。お情ケかケテ空に上げテやるかラ観念しテね』
「邪魔をするな」
怒りに顔を歪めて、塔の最上階へとび上がる。
『おねむりナさい。安ラかナところにかえるノよ』
カッ、と塔の頂上から、直視できぬ光が迸る。晴瀬が恐る恐る目を開けた頃には、あの圧殺するような沖も、春軌の姿もなくなり、何事もなかったかのような夜が戻ってきていた。
茫然と空を見る晴瀬は、足音を耳にし振り返る。
「大丈夫?」
凌光が駆け寄ってくる。
「怪我は?」
「ない、ありがとう……なんだったんだ、あの光は」
「怨霊を消すための光だ」
真顔の青颯が答える。
「最上階に、人間の形した、人間じゃないのが住んでる。それにどうにかならないかって頼んできた」
「……助かった……ありがとう」
「いいや。あれを島に投下されたら、本当に島もおかしくなるところだった。俺が頼まなくてもああしてたと思うよ」
「……本当に、悪い。俺が、こんなんだから……」
「どうにかなったから、そんなに俯きなさんな」
凌光がバンバンと背中を叩く。
「ああ……すまない……」
彼は俯いたままふらふら歩き、塔の中へ戻っていく。た、た、と己の歩みが響き渡る暗闇。倒れ込むようにして入った部屋を、月光が濡らしている。彼は壁にもたれて、月を見た。
春軌を殺した夜も、月に見られていた。反乱が露見し、殺された仲間の血も、全てを月が見ていた。
「俺は何もできなかった」
春軌との決着も、結局自分でつけられなかった。その自分が、地の底に落ちてしまった彼女を救えるか?
「俺は、今も昔も、何も、なんにもできない」
救おうと思うことすら、傲慢なのかもしれない。青颯の言う通り、自分が救いたいと駄々をこねているだけで、彼女はそっとしておいてほしいのかもしれない。しかし、そう落ち込む度に、何度も蘇るのだ。桜の輝く坂の先、遠くを見ていた娘の姿が。艶やかな髪の流れ、瞳がくわえた景色に、感嘆の隙間をたたえた唇。
彼女を一目見たその感情を表すための、言葉がほしい。光とも靄ともつかぬものが去来した、その時のことを。
海の神に思い出させられているだけなのだとしても、この光景を無視できない。彼女を冥界の底から救い出したい。彼女に、会いたい。
彼の黒い瞳に映った、覆いかぶさるような白い円。気圧されるような、痛いほどの視線を浴びて、彼は月に手の平をかざす。
指の縁を、白光が凍てつかせる。月を包み込むように、拳を閉じる。
「もう同じ過ちは犯さない。海に憑かれた男としても、人間としても。みちを冥界の底から、引っ張り上げてやりたい。一緒に生きていこうって、言いたい」
指の間からすり抜けていった彼女。押し黙った彼女が溜め込んでいた絶望。彼女が落ちてしまったと言う地の底は、光の届かない海の底よりももっと暗く、音さえも死に絶える場所なのだろう。
晴瀬は立ち上がり、窓辺に佇む。
夜を支配する月の光は、地上を死の色彩で埋めてしまう。全てのものが有する死の面を思い出させるかのように。
生きているということは、死を背負うということだ。二律背反を抱えたまま、生の光ばかりを信じて呼吸をしている。夜の眠り、意識のないその最中、自分が死と同様の面を晒しているとも知らず。
それでも、明日を求めて生きることはとても鮮やかで、眩しい。
晴瀬は静かに窓を閉め、月光を締め出す。濃い暗闇と、くぐもった潮騒。すぐそばの莚に、その身を横たえる。闇を吸い込むように、闇に消えるように、闇が首を絞めるように。生が沈みこんでいく。
誰もが死の列に並ぶ深更。彼はそっと目を閉じた。




