旱魃
2020.12.26 投稿
2021.03.27 再投稿
こるう ヒー
パンパン ホ
こるう ヒー
パンパン ホ
こるう ヒー
パンパン ホ
こるう ヒー
パンパン ホ
こるう ヒー
パンパン ホ
こるう ヒー
パンパン ホ
こるう ヒ……
パン パン ホ
タン
ゴタン
ゴ
カタコ
ヒタン
タン
タ……ン
こるう ヒー
パン パン ホ
こるう ヒー
パンパン ホ
こるう ヒー
パンパン ホ
こるう ヒー
パンパン ホ
こるう ヒー
パンパン ホ
こるう ヒー
パンパン ホ
こるう ヒー
パンパン ホ
こるう ヒー
薄暗い山の、粗末な小屋の中。
娘は機を織って暮らしていた。
蝉の鳴き止んだ午後、しなやかな指が機の上を舞う。
こるう ヒー
パンパン ホ
こるう ヒー
パンパン ホ
こるう ヒー
パンパン ホ
こるう ヒー
パンパン ホ
こるう ヒー
パンパン ホ
こるう ヒー
パンパン ホ
こるう どんどんどんどんどん ヒ………………………………………………………………
娘は機織の手を止めた。
どんどんどんどん
静かに高鳴る心臓をおさえ、徐ろに席を立った。
戸に口を近づけ、小さな声で尋ねる。
「どなた」
返事はない。
聞き違いだったのだろうか。娘は機織に戻り、杼を手に取った。
こるう ヒー
パンパン ホ
こるう ヒー
パンパン ホ
こるう ヒー
パンパン ホ
こるう ヒー
パンパン ホ
こるう ヒー
パンパン ホ
こるう どんどんどんどん
娘は再び手を止め、夜闇を集めたような色の瞳を戸に注ぐ。
ドん、どんどんどん
嫌な汗が、首の付け根に滲んだ。ぎゃ、と遠くで蝉の断末魔が爆ぜる。娘は息を殺して戸を見つめた。こめかみに発した汗が、頬を伝って顎から落ち、膝の上に握り締めた拳に光る。
しかし、待てども戸が再びおとなわれることはない。それでも安心できない娘は、布を裁つ鋏を手に取り、そ、と戸の隙間を開ける。
幽鬼のような男が、ぼおっと佇んでいた。
娘は鋏を握り締め、片方の手でしんばり棒を戸にかけた。そ、っと後ろ向きに三和土から上がり、何歩か後退る。戸がガッタンガッタンと鳴る。しんばり棒が、強い力で開けられようとするそれを耐えている。恐怖が踵から脳天へと駆け抜け、心臓が早鐘を打つ。どぉん!どぉん!戸が乱暴に叩かれる。娘の頭は真っ白でどうしてよいのか分からず、身を固くし戸を凝視する他できることがなかった。
急に、扉を叩く音が止まる。
代わりに、音もなく扉が開いた。
娘は、眩しさに目を細める。黒衣を纏った男が、すい、とこちらを見上げた。夏の殺人的な日差しを背中に、双眸は真夜中の闇を湛えている。顔には一切の表情がなく、汗ひとつかいていなかった。
「私を、死なせてくれ」
土足で家に上がり込こみ、音も無く近付いてくる。娘はそれをただ見ている。黒衣の下から、両手をだらりと向けてくるその動作も。
「いい加減、私に、死を与えてくれ」
泥沼のような瞳と目があった瞬間、目の前は真っ黒に塗り潰された。
息ができずに、娘はもがいた。しかしそれもむなしく、ゆっくりと落ちていく感覚。死はこうして、突然訪れるものなのか。失意の中、絶息の苦しみがするすると抜け始める。それと同時に、自らの体内に蓄積された澱のようなものも解き放たれていった。皮膚と肉に閉ざされた身体の内部までもが、白く透明になる心地に娘は微笑む。
こんなにも清らかな気持ちになるのなら、死も悪くない。そう思った時、娘の細い背中が床に触れる。
彼女は、ハッと目を開けた。
「夢……」
娘は破れた屋根から降り注ぐ日光の下、重たい身体を起こす。
「夢を見た……」
寝ている間、太陽にさらされていた頬が痛い。反対側の冷たい頬は、腐った床のあとをぼこぼこと写し取っていた。
顔や首を流れる汗を拭う。どろどろと歩いて水瓶の蓋を開けた。
映った自分の顔と目が合う。いかにも悪夢を見たというような顔をしていた。柄杓でそっと、顔を歪める。冷たい水が喉を下り終えると、代わりに温かな息が喉からもれた。二杯目を飲んで、日照りが続いているのを思い出し、蓋を閉める。
娘は緩慢な動作で、三和土に寝かせた盥を手に取り戸を開ける。蝉の騒ぐ山の中は、木々が濃い影を落として薄暗く、時折涼しい風が吹く。むしろ、破れた屋根から太陽の差す家の方が暑いくらいだった。木漏れ日と影の斑を踏んで、すぐそばにある池のほとりにしゃがむ。日光にきらめく池に、娘は長い睫毛に縁どられた目を細めた。
水位の低くなった池に細い腕を伸ばし、盥に水を汲む。着物の袖が落ちて濡れているのにも構わず、日陰に盥をおいて娘は顔を洗う。何度も何度も顔をこすると、残った水をその場に流す。娘の白い足の間を、水が川のように流れた。
繕いの目立つ、ほとんど小屋のような家を彼女は眺めた。屋根にはぺんぺん草が生え、家の周りには雑草が生い茂っている。雑草は窓の高さにまで達し、家の中を覗くように頭を揺らしていた。
娘は盥を再び三和土において、汚れた足もかまわず家に上がる。そして思い出したかのように、入り口のちょうど向かい側にある観音扉を開けた。
階段を三段上ったそこに、小さな社がある。格子戸の留め金が壊れて、だらしなく半開きになっていた。闇の凝る神棚に祀られた鏡はくすみ、蜘蛛の巣さえ張っている。
娘は薄汚れた社に膝をついて頭を下げ、一つ手を叩いた。口の前で合わせた手に囁くように、もごもごと言う。
「昨日は月がきれいでずっと見上げていたら長話になってしまってそのまま寝てたらいやな夢になっていました。今日は頭がいたくてつらいです」
娘は立ち上がって叩頭し、小さな階を上って半開きの戸を閉める。ピタリとしまらず再び開こうとするのから目を背けるように、観音扉をバタンと閉めた。部屋を振り返ると、あけ放たれた入り口からここまで、真っ黒な道が出来ていた。ピト、ピト、という音に下を見てやっと、濡れた袖と汚れた足に気が付く。
掃除をせねばと俯くが、戸の向こうに聞き慣れぬ音を聞き顔を上げた。
人がくる。
彼女の小屋には一日に一度だけ、飯と水を持ってくる女がいる。それは二人だ。しかし今登ってきているのはもっとたくさんの人だ。金属のたてる、涼やかな音も混ざっている。
娘は慌てて戸を閉めて、機を織り始めた。彼女は小高い山の頂近くで、機を織って暮らしていた。食事はその対価のようなものだったから、機織をしていないと嫌な顔で見られる。特に最近は、暑さのせいで身体が萎え、布の上がりが遅い。昨日も山を上がってきた女の二人に、無言で睨まれたばかりだった。
娘の胸が高鳴る。大勢の人間は、自分を叱りに来たのだろうか。
こるう ヒー
パンパン ホ
こるう ヒー
パンパン ホ
こるう ヒー
パンパン ホ
こるう ヒー
パンパン ホ
こるう ヒー
パンパン ホ
こるう ヒー
パンパン ホ
こるう どんどんどんどんどん ヒ………………………………………………………………
遂に、人々が戸の前に達する。
娘は機織の手を止めた。
どんどんどんどん
静かに高鳴る心臓をおさえ、戸を開けた。
大仰な輿を担いだ四人の男を先頭にずらりと、十幾人の人が並んでいる。いずれも白い服に身を固め、白い鉢巻を巻いていた。その表情は揃えたように沈鬱だった。
「水神様のお妃様」
下からの声に、びくりと身を震わせる。見れば、胸のあたりまでの身長の老婆が、丸まった背中から皺だらけの顔を突き出していた。
「婚礼の準備に上がりました」
老婆は筋張った手で、娘の手首を掴んだ。その老体からは想像もつかないほど、強い力だった。
娘は家の外で、三人の女に着物を剥ぎ取られ身体を洗われる。何日も水浴びをしていない身体から、汗や垢が削げ落ちる。ぐちゃぐちゃに絡まった長い髪を、女たちは懸命に解いて洗う。娘は髪を引っ張られる度に顔を顰めた。
「よう洗いや」
老婆は厳しい顔で監督している。日陰に佇む老婆にはなぜか、さらに黒い影が落ちているように見えた。
娘が身体を清める間中、部屋は掃除が行われていた。破れた屋根は応急的に塞がれ、埃や砂で白っぽけていた部屋は元の黒さを取り戻している。
すっかり綺麗になった娘は、白い襦袢を着せられ家に上げられる。己の顔を見せまいとするように俯き、居心地悪そうに背を丸めている。
そんな娘に構わず、先ほどまで彼女を洗っていた女たちは、娘の髪を乾かしながら着物を着せ始めた。蝉の騒ぎたてる中、幾重も羽織らせて、ぎゅっと帯を結ぶ。暑さときつい締め付けに、気分が悪くなる。
はやく、夜にならないだろうか。突如降ってきた謎の苦痛に茫然としながら、娘は思った。
孤独に住まう彼女にとって、唯一の話し相手が月だった。肥えた月が夜を亙る何夜かの間、一月の内にあったことを話す。といっても代わり映えのない毎日なので、暑くなったとか寒くなったとか、季節の変化の話ばかりだった。それでも月は笑って聞いてくれている気がした。時には夢のような嘘の話を語りもする。思い人と秘密の逢瀬を果たした話。桜の花が咲き誇る里に行ったという話。冷たい川を自在に泳ぎ回ったという話。
今晩こそは、現実に起こったことを、話すことができる。嘘の話を作るのも楽しかったが、本当に起こっていない虚しさに、目覚めてから泣いてしまうことがある。話題になると思えば、耐え抜くことができそうだった。
今宵はちょうど、満月だ。十全の姿をした月が、娘は一番好きだった。全てを受け入れてくれるような慈愛に満ちている。あの円な縁は……。
「もっと腕を上げて」
腰の辺りから見上げてくる女の顰め面が目に飛び込む。夢の景色から現へ戻り「ごめんなさい」と目を逸らした。
月への甘美な想念を断ち切られた彼女は、されるがままに徹する。着替えはいつしか終わり、椅子に座らされ白粉をはたかれる。女くさいにおいにむせると、化粧をする女に再び顰め面を向けられ「ごめんなさい」と俯く。
「顔上げて」
と顎を上げられる。否が応でも接近した人の顔が目に入り、娘は緊張に肩を強張らせる。これほどの間他人と共にいるのは、何年ぶりだろう。記憶を辿るが、この粗末な山小屋での生活の他は、靄がかかってしまったように思い出せない。
娘は女の顔から、宙空に焦点を逃がす。
自分は産まれてからずっと、ここで孤独に暮らしていたわけではない。そのことは覚えているのに、具体的な思い出を掘り起こそうとすると、何かがそれを阻むのだ。娘はしばらく考えたが、やがて諦めた。
化粧が終わると、まだ生乾きの髪が結われ始める。髪を引っ張られる度に、鈍い振動が痛む頭の奥まで響く。気分の悪さも相まって、何も食べていないのに吐き気が上ってくる。
じっと耐えていると、髪が結いあがる。頭の上に何かを被せられた。視界の上部を隠し、汗をかく身体の熱気を覆う。
できあがった娘の衣装姿を眺めまわし、老婆は満足気に頷く。
「それでは、婚礼の儀を始めよう」
娘の身なりを整えた女たちは、そそくさと家を後にする。気づけば太陽はとっくに頂きを過ぎ、雑草がきれいに除かれた窓に西日が射しこむ。娘の真っ白い花嫁衣装は、金の色に濡れていた。
ゆったりと、初老の女が入ってきて、観音扉を開ける。その奥の社の扉も開けた。くすんでいた鏡は光を宿し、娘の部屋同様、社は本来の輝きを取り戻していた。
老婆は社の前に跪く。初老の女が、娘の肩を柔らかに抱いて、老婆の後ろに座らせる。そのまま彼女は娘の傍に座った。
老婆は何やらもごもごと唱えている。言葉が古く、娘には聞き取れない。神に捧げる言葉なのだろうが、地の底を這うようなその声は、少しもありがたさを醸さない。娘は早く終わらないだろうかと指を固く結んでいた。そうしていないと、気分の悪さに今にも倒れてしまいそうだった。
老婆が唱え終えた頃には、黄昏が訪れていた。
娘はそれで、ようやく解放されると思った。しかし初老の女が再び肩を抱き、家の外に控えた輿まで誘われる。担ぎ手の一人が娘を抱え、輿に乗せた。残りの三人が手早く、縄で娘を神輿に縛り付ける。
なぜこんなことをするのだろう。
――水神様のお妃様
老婆の声を今さら反芻する。
――婚礼の準備にあがりました
ざわざわ、血流が潮騒のように騒ぎ始める。記憶に被せられた蓋が、じりじりと痒む。
輿が担ぎ上げられる。どん、どん、どん、と男たちの歩みに伴い、輿は不安定に揺れる。その前には、あの初老の女がいる。向かう先は池だった。
過去を思い出そうとする手を、阻むもの。それは今から起ころうとしていること。
「水神様」
池のほとりに至り、初老の女がよく通る声でのたまう。
「唯今より、お妃をお宮にお連れいたします。お二人の力で、どうか我らの村に雨を降らせてくださいませ」
いつか村人のために死ぬ。そういう約束の下に、この場所で飼われていたのだ。
ゾッ、と腹の底から絶命の恐怖が駆け上がってくる。娘は喉の奥から声を迸らせ、身を捩って逃れようとした。
突如、身体がふわ、と浮き上がる。三度、輿と共に身体を上下させられる。このまま池に放り込まれるのだ。
「いやだ!」
ガシャン!と大きな音がして衝撃が突き上がる。綿帽子が頭の上で弾んで落ちた。
池でなく地面に落とされて、娘は目を白黒させる。いつしかどよめいている担ぎ手たちと老いた二人の女は、黄昏の中に佇む異様な人物を見ていた。
娘はその姿を見て、咽に声を詰まらせる。
そこにいたのは、蓑笠を着た巨漢だった。
化物じみた風貌のそれは、何かを呟き、のしのしと足音を響かせこちらに迫る。村人たちは後退った。
「眼玉をもらいにきた」
人間とは思えぬほどの低い声と共に蓑の中から滑り出た白銀の光。村人たちは叫びを上げて散りぢりに逃げていく。しかし蓑笠の男は脇目も振らず、短剣をひらめかせ娘に向かって真っすぐ走ってくる。
綿帽子が落ち露になった顔は茫然としている。眉から流れるように通った鼻筋に、品のよい形の目の中、黒々とした瞳。ふっくりと薄い唇が、恐怖に引き攣る。神の妃に申し分ない乙女の顔を、切っ先の鋭利な光が撫ぜた。
蓑笠の男が、短剣を持つ太い腕をいやにゆっくり振り上げる。突如脳内に、蓋を剥がされた記憶たちが解き放たれる。記憶の中の映像が次々明滅し、あまりのはやさに娘の認識も追いつかない。
ただ一つ明瞭だったのは、ここに来る前までは笑顔に囲まれて過ごしていたということだった。
切っ先が、眼球に突き迫ってくる。
「死にたくない」
痛みよりも先、視界に真黒が落ちた。
それは、雪の日の夜のような色だった。
目の前にかざした指の形すらも見えない、越しがたい夜。歯の根があわず震えた雪の晩。穴の開いた屋根から、家の隙間から、容赦なく寒風が吹きつける。なけなしの木炭を火鉢にくべても、気休め程度の暖かさが得られるだけだった。冷たい布団の中で丸くなり、氷のような指先に息を吐きかけては、背筋をさする死を追い払う。
冬枯れの枝が解けて、花が咲く。冬の固い地面を、じくじくと生命力が裂いて春が噴き出る。その瞬間を胸に抱いて、冬を耐え忍んでいた。
娘は、目を開ける。
今日は眩い夜だった。目線の先にいる満月。夏の月は高度が低い。池を囲む木々の梢すれすれに、その姿を見せていた。
満月の位置からして、すっかり真夜中だ。
娘は満月に手を伸ばす。その白い手は、金色の光に透けていた。
起き上がろうとするが、背中が大地に根を張ってしまったかのようで、動かない。
「帰りたい」
頭を駆け去った古い記憶。自分を産んだ両親の顔。同じ年ごろの子供たちが笑う顔。皆と、あたたかな村で苦楽を共にする生活。透けた手で、何度も月を掴もうとする。
孤独の存在しえないあの場所に、もう一度戻りたい。
「わたし、みちって、名前だった。わたしが、忘れてた」
ぼったりとした金の光が、涙に滲む。
「わたしが、死んでも……みちが死んだなんて、誰も、思わない。誰も、知らない……」
一人で山に閉じ込められて死を待つ日々は、苦痛以外の何物でもなかった。天災に備えて殺されるのか、天災がきたら殺されるのか。しらされていなかった。明日死ぬかもしれない。恐怖にとらわれたら最後、正気ではいられなくなった。
ただ、機織の間だけは無心になれた。毎日夢中になって織っている内に、その日がくるという事実を忘却した。それと共に、温かい記憶も一緒に葬っていたのだった。
死に際に蘇ったそれらの中に飛び込みたい。凍った映像が氷解して、声や温度を持つ瞬間が、欲しくて欲しくてたまらない。
死人が欲したところで、渇望はただの渇望。生者を気取って涙を流している身体の感覚は、落下するように失われていく。月にかざした手も、今や消えようとしていた。
「かえりたいのに」
絞り出すように言ったその時、水底に響き渡るような声が降る。
「あなたは死んだ。けれどそれは、この世の人じゃなくなったというだけの話」
涙に広がった月光が自ら変形し、水中に広がったような髪と輪郭の曖昧な四肢を持った女の姿になる。その顔には真っ黒な両目の他何もないが、慈悲深く微笑んでいるように見えた。
「……誰?」
「月よ。あなたとずっと、お話していた、月」
娘は不思議な心地でそれを見ていた。
「ほんとに?」
「ほんとうよ」
光が手を伸ばし、みちの頬に触れる。水が人の体を持ったような、不思議なやわらかさがあった。
「わたしが、かわいそうなあなたの夢を、かなえてあげる」
満月が、木々に埋もれてしまう。光の女の姿もかげる。
「待って、一人にしないで」
縋る娘に、女は頷く。
「だいじょうぶ。姿がみえなくても、これからはずっと、一緒にいてあげる」
女の形が崩れ、元の光のように視界いっぱいに広がった。
みちは眩しさに、目を閉じる。
光の残像が消えてしまってから、そっと目を開いた。溜まっていた涙を落とした眼球は、白み始めた空の色を映している。朝を告げる鳥の声が、青い闇をにぎやかに飾る。
背中が軽くなり、みちは難なく起き上がる。それでも身体が透けていることに変わりはなかったが、消えてしまいそうなほどではなかった。もと着ていた着物を身につけ、解かれた髪の毛先が腰で揺れていた。
池がしんしんと湛える清澄をちらりと見て、立ち上がる。
「かえろう」
みちは夜明けの山道を下っていく。木々の間から、顔を出したばかりの太陽が睨んでくる。
麓は思っていたよりも遥かに遠く、その上何度も迷った。山が下る通りに歩いていけば良いはずなのに、いつしか同じ場所を何度もぐるぐる回っている。そこからなんとか脱して下り始めると、今度は見えない壁に阻まれて進めなくなる。それを回避すれど、再び同じ場所を歩き回る獄の中。
山の麓に群れる墓が見え始めたのは、昼も近くなった頃だった。
娘は墓の間を、背中を丸めてそそくさと下った。土を盛ってあるだけの墓や、大きな石が立てられたり、小さな石で円が描かれたりしている墓がある。それらの地下深くに眠ったものたちに、睨まれているような気がした。
墓の間を抜けて、やっと平地に足をつく。
眼前に広がったのは、真っ白に灼けた道と、しなびた田畑。
みちはそろそろと歩み出す。強烈な熱が足の裏を焼くことはなかった。それでも鈍く、熱が伝わってくる。
娘が小川の橋を渡ったとき、冷たい風が吹き抜けた。突如として暗くなる辺りに空を仰ぐ。
灼熱を舐めつくそうとするその正体は、真っ黒な雲だった。激烈な熱線を放つ白い円を飲み込み、あっという間に薄暗くなる。
「雨が、降るんだわ」
彼女の囁きを合図にしたかのように、雨が滝のように降り注いだ。
否応なしに潤いを取り戻す万物。
蘇りに期待を膨らませる田畑。
空が割れるほどの、歓喜が炸裂した。
「雨だ!」「雨が降ったぞ!」「雨だ!」「雨だ!」「雨だ!」「雨が降った!」「雨だ!」
家から飛び出て、跳ね回る村人たち。灰色の天地に両手を上げて、皆踊り出す。その顔にはどれも、笑顔がある。どこからともなく歌が始まると、それは欠伸のように伝染して、たちまち村一杯が歌になった。
雨 ふれ 恵みの 雨 よ ふれ
雨 ふれ 田畑に 雨 よ ふれ
水神様の 婚礼に 母なる地より 雨が降る
雨 ふれ 恵みの 雨 よ ふれ
踊り狂う村人の中に、あの老婆や初老の女、化粧や髪結いをしてきた三人の女や、輿を担いでいた男たちの姿がある。彼らは周囲の村人たちに称えられているように見えた。雨音よりも激しい喜びの声に顔を顰め、彼らの傍に寄ってみる。
「いやあ首尾よくいったよかった」
「妙なものが現れどうなるかと思ったが」
「やはり水神様はご健在なのだ」
「よかったよかった」
「雨が降って、よかった」
村人たちにみちの姿は見えていないらしく、誰も彼女に目をくれない。
「これでとりあえずはなんとかなる」
「川にも水が戻る」
「もう誰も死なんで済む」
「わたしが、死んだよ」
声は、当然のように届かない。
「ねえ、わたしは、死んだよ」
「今日は宴じゃ」
「目出度い雨だ」
「よかった、よかった」
村人たちは、それぞれに笑顔を咲かせ、安堵に泣いていた。
「わたしは、死んだ!」
「あなたは、ただの死人ではない」
不意に背中に触った声に振り返ると、一人の青年が佇んでいた。
「やっと、見つけた……」
目を閉じた青年は、音も無く涙を流す。
みちは彼を凝視した。
それは、夢で見たあの男だったのだ。
足まで覆う長い衣を纏った男は、一見して普通の人間でないと分かる。肌の色は、死人のように白かった。
「あなたを、ずっと、探していた」
「……誰」
黒い青年は、悲しみのような喜びのような表情を浮かべるばかりで答えようとはしない。
「わたし、ただの死人でないって、何」
青年は、目蓋を開く。娘はその瞳を見上げ、夢で感じた恐怖を思い出し、息をつまらせる。
「やっと、会えた……」
青年は、静かに娘を抱きしめた。
その胸に、ずぶずぶと身が沈んでいく。みちは悲鳴を上げたかったが、金縛りにあった時のように喉は不自由だった。
真っ暗に囲まれて、娘は夢の出来事を反芻する。震える両手を握り締め、足を折り曲げ丸くなった。水中のような浮遊感に、身体がゆっくり沈んでいく。耳には微かに、水の音が触れている。無数の囁きが集まって一つになったような、音だった。何も無いかに見えるここに、実はたくさんの何かが潜んでいるのかもしれない。みちは恐る恐る辺りを見る。
真上に、小さな、点のような、白い光。
月だ、と娘は思った。
身体をゆっくりと解いて、手を伸ばす。するとそれは、みるみる近づいてくる。
それは腰まで伸びた白髪の、後ろ姿。
「た、す、け、て」
娘は、鉛のように重たい喉で、声を振り絞った。
「あらあ」
ゆっくり振り返ったそれは、若い女だった。みちはぎょっとする。瞳が血のように真っ赤だ。大きな口をぱっくり裂いて、女は笑う。
「あなたはここにいちゃ、だめよ」
人に見えないその娘は、両手で彼女を突き飛ばした。
背中に、冷たく固い感触。
見上げるのは、ちろちろと小さな炎に照らされた石の天井。
覗き込んでくる顔は、あの青年。みちはひっと息をのみ身を強張らせる。
彼は安堵の息をついた。
「やっと、会えたんだ」
青年は俯いたまま、独り言ちる。
みちは目だけで辺りを見る。小さな蝋燭が一つだけ立っている。そこは洞窟の中だった。
彼の指が、細かに震えている。それに小さく恐怖を感じて、彼女は身を起こした。
「……あなた、誰」
「私はやっと、死ぬことができる」
それまで呟きだったような青年の声が、突然感情を帯びた。
「死なせてくれ……」
顔を上げた彼の、瞳。涙で、闇が溶けている。
「私を、死なせてくれ」
震えた声に、肩を掴まれる。
「死なせてくれ」
振りほどいて、立ち上がった。少しでも彼から遠ざかりたかった。
「やっと会えたんだ」
同じ言葉ばかりを繰り返す。
「死なせて……」
みちは首を横に振る。何度も振る。
「できない。わたし、きっと、人違い。帰して」
「あなたはもう、死んでいる。帰る所はない」
耳を疑った。
「私を、死なせてくれ」
「わたし故郷に帰りたい」
「目を逸らさないでくれ」
「いや!」
「目を逸らすな!」
大声に彼を見る。
「はやく、私を殺せ!いい加減に罪を償え!」
洞窟の岩肌は、青年の言葉を何度も繰り返す。彼女は打ちのめされて、膝から崩れ落ちる。同時に、涙が瞳から零れた。
「わたし……何もしてない……人違いだから……」
「いいや私が間違えるはずなどない」
今すぐ、この男から逃れたかった。
みちは涙を拭って、もう一度光を探した。火が邪魔で、蝋燭を吹き消す。
「何をする」
馴染まない目を必死に凝らして、立ち上がる。
「あ」
洞窟の向こうに、幽かな白光。
みちは引っ張られるように歩き出した。
「そっちには、何も無い」
「いいえ。光がある」
彼女は光を信じ、滑らかに歩く。洞窟の天井はだんだん低く、また光は強くなっていく。身を屈めてすすみ、やがては四つん這いになる。天井が頭に当たった時、突如眩い光が弾けた。
反射的に、手の平で目蓋を覆う。目に焼きついた痛みが遠ざかり、恐る恐る目を開けた。
みちは、あの粗末な小屋によく似た場所にいた。どうやってここに来たのだろう。戸惑いに翳った瞳が、開け放たれた戸の向こうを見て光を呼び込んでいく。そこには、数限りない桜が花を満開に咲き誇らせていた。




