嫌われ聖女の癒し方
シャムエルには、忘れることができない記憶がある。幼い頃、熱病に魘された時のものだ。
彼ばかりでなく、老人や子供から始まり、村の者たちが次々と倒れていった。流行り病だ。彼を看病する両親もふらついていて、家族が揃って生き延びる未来も想像できず、一家ごと共倒れになるのを覚悟しかけた──その時、彼の額に冷たく心地よいものが触れた。
それは、女性の細い手のようだった。水仕事に荒れた母親のそれとは違って、ひたすら柔らかく滑らかで、どういう訳か触れたところから熱が引いていくのが不思議だった。頬をそっと撫でられると、目を開く余裕もできた。疲れや脱水で霞んだ視界に映ったのは、優しい銀と碧の光だった。流れるような銀はその人の髪。星のように輝く碧は、その人の目。それらが白い顔を彩っている。そう認識したシャムエルの胸に、聖女、という言葉が浮かんでいた。神から賜った聖なる力で万病を癒す《癒し手》──その中でも、最も尊い方。綿が水を吸うように、ひんやりとした手が彼の熱を拭い去っていく、そのような奇跡は、聖女でなければできない技だ。それにしても、地方の小さな村にまで足を運んでくれるなんて。
その人の手が離れた時には、シャムエルは既に寝台から起き上がる気力を取り戻していた。でも、彼の喉は干上がって礼の言葉を言うことも叶わなかった。だから、彼は煌めく銀の髪が踊る背を、見送ることしかできなかった。村には癒すべき病人がまだまだいたのだろう。
それが、シャムエルと聖女リシアの出会いだった。あの銀の煌めきに導かれるようにして、彼は自分の生き方を決めた。
「風邪を少し拗らせたようですね。解熱と咳止めには、この薬をどうぞ」
シャムエルが取り出した薬の小瓶を見て、その老人は毒を勧められたかのように表情を強張らせた。教会への信仰が篤い地方では、特に珍しい反応でもなかった。癒し手を強く信奉する人々にしてみれば、薬に頼るのは怪しげな妖術を用いるのと同じとしか思えないらしいのだ。
「……飲む前と後に聖句を唱えてくださいね。神のご加護を得るために」
「は、はい」
シャムエルはにっこりと笑うと、指先で聖印を切りながら小瓶を老人に握らせた。悪魔の使いの類ではないと示すために。こういう人々には薬草の効能を説いても意味がないのを、医術師としては若輩のシャムエルもよく知っている。地元の教会と軋轢を起こさないため、渡したはずの薬を捨てられるのを防ぐため。彼らが受け入れやすい言葉を選ぶのが肝心なのだ。
老人の他にも何人かの治療が終わると、シャムエルは村長の家で歓待を受けた。
「神は我らをお見捨てになったかと思いかけたところでした。《癒呪師》の方が通りかかってくださって助かりました」
「とんでもない。これが僕らの務めですから」
癒しの力を持たず、薬や医術を用いて治療を行う者のことを癒呪師と呼んでいたのは、昔のことだ。神の力によらない治療など怪しげな妖術でしかないと思われていたような。村長の誤りは指摘せず、シャムエルは微笑んだ。
「どうして神のご加護を疑われますか? 僕はまあ非才の身ですが、都には聖女リシア様がおられますよ」
供されたスープには、煮込んだ野菜に干し肉が少々、香草の風味が食欲をそそる。取り立てて裕福ではなくても、何人か病や痛みを抱えた住人はいても、嘆き悲しむような暮らしぶりには見えないのだけど。
村長の不安の正体を薄々察しつつ、シャムエルは明るく言うとスープを啜った。彼が皿に目を落とした隙を捉えて、村長はどこか後ろめたそうに呟いた。
「その、リシア様ですよ」
木製のスプーンが、同じく木製のスープ皿に擦れる音が響く。村長の言葉を遮ったり咎める気はないと、シャムエルは態度で示していた。
「前の聖女様の時代は、この村の蓄えでも癒し手をお招きできました。それが、最近はお布施の額が跳ね上がって──いえ、教会にも先立つものが必要なのは分かるのですが」
時刻は夜、昼間は診療所を務めた村長の家の食堂にいるのはシャムエルと村長の二人きりだ。誰の耳を憚る必要もないのに、村長の声には怯えが滲んでいた。教会への疑義を呈して、異端に問われるのが怖いのだろう。
「リシア様は金持ちか貴族しか相手になさらないというのは本当ですか。それに……その、畏れ多いのですが、癒しの力が、歴代の聖女様方と比べて、お、劣る、というのは……?」
「リシア様は、歴史に残るどの聖女様にも劣らず気高く慈悲深く、力にも恵まれた方ですよ」
村長の怯えを払拭すべく、シャムエルは顔を上げると先ほどよりもなお晴れやかに笑った。
「……本当に……?」
「ええ。お姿とお力を見たことがあるから確かです。──僕の故郷は、かつてあの方に流行り病から救っていただきました」
「そう、ですか……」
シャムエルは、いつでもあの銀の輝きを思い浮かべることができる。彼の目と声に宿る熱意と憧憬を汲んでくれたのだろう、村長は目に見えて肩の力を抜くと、椅子の背に体重を預けた。
「素晴らしい聖女様がいらっしゃるのは、心強いことです。あの、今のことは──」
「ええ、他言無用に、ですね。癒し手の方々はもちろん、我々医術師も増えていますから。どうか心安らかに暮らしてくださいますように」
医術師とは、妖術まがいの怪しげな治療ではなく、系統だった学問を修めた者のこと。比較的最近生まれた肩書をさりげなく口にしつつ、シャムエルはスープを最後の一滴まで啜った。この様子では、「あのこと」は決して言えないな、と思いながら。
聖女リシアに救われた記憶には続きがある。
シャムエルの病を癒した後も、聖女リシアはしばらく彼の村に滞在していた。病人は一日や二日で癒しきれる人数ではなかったからだ。
一足先に健康を取り戻した幼いシャムエルは、暇を持て余していた。それに、聖女に対する感謝の念を抑えきれないでいた。もう一度会いたい、ひと言なりと礼を言いたい。その思いに駆られて、彼は村長の家に忍び込んだ。客室だろうと見当をつけて階段を上ると、果たして辺鄙な村には不釣り合いな華奢な人影を、ある窓辺に見つけることができた。
人の気配を察したのか、その方は扉に視線をやり──そして、シャムエルと目が合った。
『子供……?』
『聖女様、ありがとうございました、あの──』
正面から見た聖女リシアは、思ったよりも幼かった。十代も半ばほど、シャムエルよりも幾つか年上という程度の少女。でも、村のどの娘よりも美しく気高い佇まいはシャムエルをのぼせ上らせて舌をもつれさせた。胸を焦がす感謝の念と訳の分からない憧れを、どうにかして伝えたくてリシアのもとへ駆け寄ろうとして──でも、彼はすぐに足を止めた。
『村の子が紛れ込んでいるわ! 早く追い出して!』
リシアの高く鋭い声に、鞭打たれたのだ。碧い目が驚きに見開かれていたのはほんの一瞬だけ、それはすぐに怒りと不快と苛立ちによって吊り上がったように見えた。
聖女の命令に応えてすぐに人が集まり、シャムエルは村長の家からつまみ出された。その後、聖女の一行が村を発つまでの間、彼があの銀の髪の煌めきを目にすることはできなかった。
この国で医療を担うのは、第一に神から力を賜ったとされる癒し手たちだ。薬も器具もなく、身ひとつで跡形もなく治癒を施すことができるの彼ら彼女らは、民の信仰を集めている。
癒し手たちの中でも、最も強い力を持つ、即ち最も神に愛されているとされる存在が、聖女だ。別に女性には限らないのだが、歴代では女性の方が多かったため、そう呼ばれることが多い。とにかく、いつの時代でも聖女は常に民に崇められてきた。でも、当代の聖女リシアについて言えば、その評判ははっきり言って悪い。医術師として旅するシャムエルも、度々民の愚痴や苦言を聞くほどだ。例えば、このように。
「聖女リシア様は、一度着た衣装は残らず捨ててしまわれるそうね。信じられない贅沢だわ」
「お布施は一体どこに行ったのでしょう。当地の教会は古びたままだというのに」
「癒し手のマリシュカ様の方が慈悲深くていらっしゃるというのは本当でしょうか」
彼の思い出を聞かせれば民はどう反応するかな、と思うことはある。聖女リシアは評判通りの冷酷さだと、喜び満足するだろうか。けれど、シャムエルに噂好きの民の機嫌を取るつもりはなかった。民の不満など些細なものだ。彼が聖女リシアに対して抱く思いは、もっと複雑でもっと根深いものなのだから。
王都に向かう街道は込み合っていた。折しも、年に一度の祭儀が近づいている。聖女が民の前に姿を見せる貴重な機会を目当てにする民も多いのだろう。シャムエルが泊まった宿屋の食堂も、人いきれで息苦しいほどだった。
「なんだ、シャムエルか。久しぶりだな!」
「あれ、ティボールじゃないか……!」
相席を頼まれた彼は、向かいに座った相手の顔を見て驚きの声を上げた。そこにいたのは、医術師仲間のティボールという男だったのだ。
「王都に行くのか。俺は薬の仕入れなんだが、お前もか?」
「いや、祭儀が見たくてな。年に一度のことだし……気になることも聞いて、な」
共に机を並べて学んだ仲だし、旅路で行き会えば薬や情報を交換することもある。気心が知れた相手だから、シャムエルは目の動きだけで内緒話だと伝えることができた。それに応えて、ティボールは素早く席に着き、顔をぐいと彼に近づけた。そして周囲を憚る低い声で、囁く。
「祭儀の場で聖女を糾弾する計画があるって話か? 冷酷で、聖女に相応しくない、と……」
「ああ。やっぱり広まってるんだな」
聖女は、生涯その立場にある訳ではない。老齢による癒しの力や体力の衰え。後進の育成に専念したいと退くこともあれば、より若く力の強い癒し手に譲ることもある。だが、糾弾によって立場を追われた聖女など、今までにいなかったはずだ。聖女リシアの評判は、そこまで落ちているということだ。
「癒し手マリシュカは野心家だな。本人じゃなくて、取り巻きかもしれないが」
ティボールが溜息交じりに口にした名を、シャムエルも各地の民の口から聞いている。広く信徒からの声望を集めた癒し手が聖女に就任するのも、よくあることではあるのだが──
「リシア様の『評判』……お前は、信じるか?」
幼い日に浴びせられた冷ややかな視線と言葉を思い出しながら尋ねると、ティボールは軽く肩を竦めて見せた。
「さあ、民は信じたいものを信じるものだ。我々がよく知っている通り、な」
シャムエルとティボールの間に、内臓の煮込みの皿が置かれた。それに、葡萄酒の杯も。脂の良い香りが鼻をくすぐった。シャムエルの食欲は、さほど湧かなかったけれど。
ティボールが皮肉る通り、医術師の聖女や癒し手に対する敬意は概ね薄い。薬を受け取らせるために聖印や聖句に頼らざるを得ない場面は、医術師なら慣れたもの。彼女たちのせいで信用されない、という思いも拭えないのだ。
「誰が聖女だろうと変わらんさ。できることをするだけだ」
だから、ティボールも葡萄酒を干しながら淡々と語るのだ。聖女が引きずり降ろされようと構わないし関係ない、と。
「まあ、多少やり辛くなるかもしれんが……」
癒し手や教会のお偉方の中には、医術師を異端と敵視する一派もあるのだ。マリシュカが「模範的な」癒し手だというなら、そういう考えである可能性はそこそこ高い。その点、リシアは医術師の活動には無関心を貫いている。医術師の学校に寄付する匿名の篤志家がいても、保守派の渋面を余所に教会に寄進するよう強いたりもしない。それがまた、聖女に対する不信の一因なのかもしれないが。とにかく──
美味いはずの煮込みを渋い顔で飲み込むティボールを前に、シャムエルは葡萄酒で舌を湿した。そして、告げる。
「癒し手マリシュカのやり方は質が悪い。俺は、不当な糾弾には立ち向かうぞ」
ティボールが盛大に咽る様は見ものだった。葡萄酒を飲み干しても収まらず、やっと声を出せる状態になった時、彼の目には薄っすらと涙が浮かんでいた。
「医術師風情が口を挟んでもろくなことにならない。分かってるだろう?」
ティボールは再びぐっとシャムエルに顔を近づけてきた。心配げな表情が雄弁に語っている。マリシュカが聖女に並ぶ声望を得ているなら、逆らったところでどうにもならない、と。それは、シャムエルもよく分かっている。
「承知の上だ」
「おい……!」
でも、その上で、諦めるつもりは全くなかった。リシアには言いたいことがあるのだ。根拠のない弾劾などでは到底足りない。それを伝えるのは、彼でなければならないのだ。
壮麗な大聖堂の、色硝子の大窓から降り注ぐ七色の光を浴びた聖女リシアは、シャムエルの記憶と違わず美しかった。否、幼さも残るあの頃よりも、女性として成熟した分今の方がなお美しい。けれど、大聖堂を埋める民の全てが、聖女に見惚れている訳ではないだろう。彼女が失墜する様を眺めようという魂胆の野次馬もいるだろうし、積極的に糾弾に加わってやろうとさえ考えている者もいるかもしれない。
集った者たちの思惑を知らない訳ではないだろうに、リシアは碧い目を伏せて淡々と祭儀の手順をこなしている。祭壇に供物を捧げ、聖水を注ぐ。神の加護に感謝を示し、今後も癒し手を遣わしてくださるようにと祈るのだ。
祭儀は粛々と進んだ。シャムエルが予想していた、「予定外のこと」が起きたのは、リシアが祭壇の前から下がるために客席を振り向いた、その瞬間だった。最前列から若い女が立ち上がり、聖女のもとに駆け寄ったのだ。
「リシア様! 救っていただきたい村がありますの。どうぞ御力をお見せくださいませ!」
「癒し手マリシュカ……そのような請願は、しかるべき手続きを踏みなさい。このような場で言うことではありません」
リシアが眉を顰めながらその名を呼んだことで、女は例のマリシュカだとシャムエルにも知れた。豊かな黒髪に、同じ色の目を潤ませて聖女に訴える姿は、確かに慈悲深そうではある。祭儀のために金糸銀糸の豪奢な衣装で正装したリシアに比べれば、質素な装いは堅実にも見えるだろう。
「でも、急を要することですから。それでは間に合わないかもしれませんわ! それにほら、もう来ていただいていますの」
マリシュカの済んだ声は、聖堂によく響いた。その声質と声量も、民の上に立つ者には必要な才覚のひとつだろうか。それに、聖女の渋面にも臆さずに、声を張り上げることができるのも。そして──
「聖女様、どうかご慈悲を……村の者が次々に倒れて──」
マリシュカの背後から、よろりと進み出た人影を見て、大聖堂は民の悲鳴に揺れた。聖女と癒し手、二人の女性の凛とした声と比べれば、三人目の声は弱々しく掠れひび割れていた。何より、その男が聖女に差し伸べた手、ばさりとフードを取り去った、その下から覗いた顔が、民を恐れさせたのだろう。赤黒く爛れて、ところどころが腫れ上がっては皮膚が破れ、血と膿を滴らせている。
遠目にも恐ろしい病に侵されていると見て取るのに十分だろう。席に着いていた聴衆は我先に立ち上がり、転がり、押し合い、突き飛ばし合いながら大聖堂の出口に殺到しようとする。マリシュカが手を回したのか、扉は固く閉ざされて、民を──聖女の弾劾を見届ける証人を、逃がそうとはしない。
「マリシュカ! 何ということを──」
恐怖と混乱によって獣のような悲鳴と怒号が飛び交う中、それでも聖女の怒りの声は高く響いてシャムエルの耳に届いた。それに、幾つかの意味を持った罵声が。
「金を積まなきゃ癒さないのか!」
「それでも聖女か!?」
シャムエルの他にも、落ち着いて席に着いたまま、聖女を罵る余裕がある者が何人かいる。マリシュカが仕込んだ「役者」だろうか。優しげな容姿に反して、マリシュカは本当に用意が良いらしい。嘲るような野次を飛ばされて、リシアが眉を逆立てる一方で、マリシュカは慈愛に満ちた笑顔で皮膚病の男に寄り添っている。
まったく分かりやすい構図だった。シャムエルは深々と息を吐いてからまた吸って──声を張り上げた。
「聖女様、癒し手様。失礼をいたします。その方──僕が治せるかもしれません」
「え……?」
彼は、人前で話すことには慣れていない。リシアの碧とマリシュカの黒、二対の目に貫かれると、ただでさえ緊張で高鳴る心臓が痛いほどだった。でも、とりあえずは止められなかったのを良いことに、シャムエルは立ち上がると聖女たちのいる祭壇へ足を踏み出した。
「神の加護を持たない医術師風情が……出しゃばるな!」
マリシュカが仕込んだ煽り役は、シャムエルの言葉から彼の職を言い当てたのだろうか。でも、不意のことに気勢を削がれてか、声はいかにも力ない。だから、シャムエルは彼を注視する大勢の目を意識しながらも、また声を上げることができた。
「ええ、だからこそ僕らは傷や病状をしっかり診るんです。……随分爛れている。でも、その割に膿の悪臭はしない。痒みや痛みが耐え難いということもないようですね。村が大変ということは、感染するのでしょうか? こんな病気は、書物でも見たことはありませんが……」
祭壇に近づくにつれて、病人の皮膚の様子もはっきりと見て取れるようになっていった。思いつくままに並べるうちに、大聖堂を揺るがす民の声が、次第に静まっていく。最後は、講義のようですらあった。医術師の言葉を、大勢の民がこれほど熱心に聞き入るなど普通はあり得ない。何か重要なことが起きているのだと、皆が気付いているなら良い。
「今までにない病だとしたら、なお大変。聖女様の御力が必要でしょうに──」
シャムエルの見立てを聞いて、「病人」は血膿を流しながら青褪めるという器用な真似をして見せた。マリシュカの笑顔の方は、変わらず優しく穏やかで、それでいて聖女リシアをあてこすっていたが。
「いえ、『聖水』で十分でしょう」
おっとりと微笑むマリシュカと、驚いたように目を瞠るリシアと。二人の女性を素通りして、シャムエルは祭壇の傍に控えた司祭から聖水の壺をひったくった。彼にとってはただの水だが──それでも、汚れを洗い流す役には立つ。
「わ、止めろ──」
「病人」は意外なほどの機敏さで避けようとする。が、シャムエルの方が早い。男は頭から聖水を浴びて──血や爛れを模した絵の具が流れ落ち、男の服と大聖堂の床を汚した。
赤黒い水が広がるのを避けて、シャムエルは壺を床に置いた。いまや、そのこつりという小さな音でさえ響き渡るほど、大聖堂は静寂に包まれていた。マリシュカの欺瞞が暴かれたのを目の前にして、誰もが息をすることさえ忘れたようだった。シャムエルの、他は。
「──『病人を見捨てる冷酷な聖女』の姿を民に見せようとしたのですね、マリシュカ様。確かにリシア様がこの場で癒しを施すことはなかったでしょう。でも、貴女は糾弾を恐れたリシア様が御心を曲げられる可能性も考えた。だから、聖女でも決して癒せない病──詐病の者を仕立てたのです」
「実際、リシア様は癒そうとなさらなかったわ。目の前の病人を前に、規則が何ほどのものだというの? この方が聖女の資質に欠けることを、この場の者ははっきりと見たでしょう」
民の首が少しずつ動いて、注視の先がシャムエルからマリシュカに移る。何百という目に貫かれてもなお、悪びれず、むしろ不思議そうに首を傾げる癒し手へと。でも、その美しい笑みを見て、慈悲深いと思う者はいるだろうか。悪事を暴露されたにしては、マリシュカの曇りない笑顔は異様だった。あまりにも異様で、同意を求めるように視線を向けられた者たちが、ことごとく目を逸らすほどなのに。
「聖女への直訴が叶うと知れたらどうなるとお思い、マリシュカ?」
ただ一人、マリシュカに声を掛けることができたのは、聖女リシアだった。豪奢な衣装の裾が絵の具の汚水に浸されるのも構わず、彼女はマリシュカの目を覗き込んで、静かに告げる。
「病人はこぞって王都を目指すでしょう。私たちは、病に冒されることがないから良い。でも、王都の民は? 王都に至るまでに出会った人々は? 教会に仕える者だって、病魔と無縁ではいられない。貴女の軽率な行動は、多くの人の命を危険に晒しかねなかったのです」
「それでも、聖女は慈悲を示す存在のはず。貴女よりも私の方が聖女に相応しいですわ」
「私はそうは思わないわ。嫌われているのは知っているけど、貴女ほど愚かな真似はしない」
マリシュカが何かしらの反論を口にする前に、やっと我に返ったらしい衛兵が彼女の腕を捕えていた。びしょぬれになった元「病人」も同様だ。彼らは身柄を拘束され、汚れた床も染みひとつなく清められる。そして、聖女の権威も、また。
聖女リシアは、跪いて祈りを捧げる人々の壁に、ほとんど埋もれていた。この場でのやり取りの全てを理解した者がどれだけいたかは分からないけれど、不当な告発を聖女が退けたのだけは伝わったのだろう。分かりやすい物語を信じ、美しい偶像を崇めるのは民の常だから。だから──とりあえずは良かった、のだろう。
祭儀が終わると、シャムエルは聖女リシアの住まいに招かれた。
「貴方には、お礼をしなければなりませんね。私にできることなら何でもします」
端然と座ってそう告げたリシアは、大聖堂でのマリシュカ同様に簡素な衣装を纏っていた。室内の調度も、華美なものは何一つない。マリシュカがお布施の着服の廉でリシアを追求したかったとしても、この暮らしぶりを見ては諦めていたことだろう。
リシアの申し出は、願ってもないものだった。シャムエルが長年夢見ていた瞬間がやってきたのだ。でも、答える覚悟を固めるまでに、出された香茶を飲み干すだけの時間が要った。とても冷静ではいられなかったのだ。
「では──貴女の本当の姿を、広く民に知らしめてください」
「私の、本当の……?」
「僕は、幼い頃に貴女に癒していただきました。ひと言お礼を言いたくて村長の家に忍び込んで──そして、貴女に追い出された」
「あ──あの時の……!」
リシアの碧い目が見開かれた。身体中の血が燃えるような高揚と感動が、シャムエルの胸に溢れる。彼女は、彼のことを覚えていたのだ。
「冷酷な聖女だと、もっと広めれば良いということかしら。ええ、それは本当だけど……!」
「違います。貴女は優しく慈悲深い上に、非常に聡明な方ではないですか」
興奮に駆られて、シャムエルは熱弁を振るう。寂しそうに後ろめたそうに、目を伏せるリシアが痛々しくて、大きく首を振りながら。
「ずっと、考えていたんです。どうして貴女があんなことを仰ったのか。あんな噂が広まっているのか。貴女は──我々医術師に近い考え方をなさっているのではないですか?」
先ほどマリシュカに告げた短い言葉の中からも、それは窺えた。多くの民も癒し手も、病が人から人に移るものだという認識は何となくある。けれど、どのように感染するのか、どうすれば防げるかについての知識はまだ浸透していない。癒し手は、理屈なしで病を治してしまえるものだから。
「村長の家には、病気が治っていない人も出入りしていたでしょう。貴女は、僕がまた病気にかかるのを恐れたんだ。流行り病の対応が遅いと言われているのも、そうだ。聖女様ご自身はともかく、供の者を引き連れて移動すれば、逆に病を広げて回ることにもなりかねないから」
もちろん、リシアがあらゆる訴えを黙殺したということではないだろう。でも、流行の規模の観察や、随行する癒し手や医術師の選定、彼らの感染予防の準備に費やした日数の遅れが不満に思われたことは十分あり得る。そんな不満を、マリシュカは拾い上げて膨らませたのではないだろうか。
聖女リシアの他の噂も、説明がつくものがある。衣装を次々と捨てる贅沢ぶりというのも、そうだ。
「病人に触れた衣類も注意しなければならないと分かったのは最近のことです。……とても、勉強なさっている」
「何の話かしら。勘違いをしているようね」
「医術学校に寄付までしてくださっているのに? 名前も出さず見返りも求めず、あれだけの額の寄付してくださる方となると、他に思い至らないのですが」
聖女リシアは、思いのほかに表情豊かな人らしかった。そ知らぬふりで香茶を口にしようとしていたのに、シャムエルの言葉を聞いて音を立てて茶器を置いてしまうのだから。年上の聖女を次第に可愛らしく思うようになりながら、それでも彼は舌を止めることができなかった。マリシュカよりもよほど、彼は聖女リシアを責めたかったのだ。
「貴女ほど民の尊敬を受ける方はいない。その貴女がもう少し言葉を発してくだされば、僕たちの仕事はずっと楽になるはずなんです。なのに、どうして黙っていらっしゃるんですか。ご自身の評判が悪くなるのにも知らない顔で……!」
そして、リシアにとっても彼の糾弾の方が堪えたらしい。マリシュカの弾劾を毅然として受け止めた聖女が、不意に泣きそうに顔を歪めたのだ。冷静にマリシュカを諭した唇が、子供の駄々のような叫びを紡ぐ。
「……だって、聖女が『そんなこと』を言い出したら、皆混乱するでしょう……? 今までは異端と教えてきたことなのに! 私にできるのは、医術師たちの後押しをするだけ。それに、少しずつ聖女を疑ってもらえるようにするだけよ。あんな女が聖女なんて、って思われて、医術師にも信頼が向くように……」
聖女リシアが吐き出した本心は、薄々シャムエルが予想していた通りだった。あるいは、そうだったら良い、と期待していた通り。この方は冷酷でも高慢でもなく、真実慈悲深い聖女だった。医術師の知識と技にも理解を示し、密かに手助けしてくれていた。だからこそ──彼女の誤りを正したい。
「どうしてお一人で背負われるのですか? それは、医術師の立場はまだまだ低いのですが。癒し手の方々と我々と、二つの方向から……少しずつでも、民の考えを変えることだってできるはずでは……!?」
多分、リシアだって考え抜いた末にしてきたこと、徒に問い詰めたところで、困らせるだけなのだろうけど。ほら、リシアは唇を震わせると、白い手で顔を覆ってしまった。決して、泣いているのではない。ただ、弱り切った顔をよく知らない相手には見せたくないだけなのだろう。そう思わせてしまっただけでも、シャムエルの胸は痛むのだけど。
「でも、貴方たちは私たちが嫌いではなくて? 努力もしないで、神から賜った才に頼っていると思っているのでしょう?」
「こちらこそ、神の加護がない卑しい者と思われていると信じている者も多いです。だから──お互いに歩み寄りが必要なのではないかと」
迷った末に、シャムエルはリシアの肩にそっと触れた。無礼は百も承知でも、今の彼女はただのか弱い女性にしか見えなかったから。少なくともリシアは怒ることなく、彼の手を振り払わないでいてくれた。白い手の隙間から、少しだけ落ち着いた調子の呟きが漏れる。
「私、そろそろ潮時かと思っていたの。マリシュカの企みに乗っても良いかしら、って」
「もう少しだけ、居座ってください。貴女でなくてはできないことが、まだあるはずです」
「図々しいと思われるわね。聖女の地位にしがみつくのかと、後ろ指を指されそう」
「でも、僕は分かっています」
掌でくぐもった笑い声が、シャムエルの耳をくすぐった。肩を震わせて、リシアはしばらく笑っていた。断じて泣いているのではないはずなので、シャムエルは辛抱強く彼女の発作が止むのを待った。
「そうね。どうせ嫌われているのだもの、多少噂が増えたところで変わらないわね……!」
そしてやっとリシアが顔を上げた時、彼女が浮かべる笑みはこの上なく晴れやかで美しかった。シャムエルの記憶に残る朧げな聖女の面影よりも、ずっと。
「ありがとう。貴方と話せて良かったわ」
「……こちらこそ。とても、光栄です。」
どの患者から聞いたよりも、リシアの言葉はシャムエルの心に染みた。この方の聖女としての在り方には、治療が必要だったのだ。医術師風情が聖女を癒すことができるとは、なんて不思議なことだろう。この瞬間のために、きっと彼は医術師を志したのだ。
聖女リシアは世間の悪評に耳を貸さずに、長くその地位に居座った。冷酷かつ怠惰な聖女に代わって、辺境や農村では医術師が活躍するようになる。癒し手に頼らず治療を行うために、医学も薬学も大いに進歩した。
民に愛され信頼される名医術師といえば、やはりシャムエルの名が上がるだろう。知識や腕を乞われて街から街へと旅を続ける彼の傍らに、銀髪碧眼の麗しい助手がいるのを見た者は多い。けれど、その助手が名医術師にとっての何なのか、知る者はいないのだった。