アベノミクスと10連休
序:筆者の立ち位置
まず、私は自民党信派である。
評論、分析、予測。それも、自国の政治と経済に関することで、如何なる論者も、中立の立場を持ちえない。にもかかわらず、〝中立〟を気取る論者の、如何に多いことか。
ましてや、自身の立ち位置に従い、それを正当化乃至は対立思想への攻撃材料に使う者さえいる。
自分は安部信者である。故に、アベノミクスは成功していると論じる。
自分は反安部信者である。故に、アベノミクス失敗の論拠を並べる。
そんなモノは、評論でも分析でもない。ましてやそれに基づいた未来予測など、一体何の役に立つだろうか。
だからこそ、私は今回の論題に関し、まず自分の立ち位置を表明する。
その為、「自分は反安部信者である。だから、安部総理を批判する内容でないのなら、読む価値がない」と思われている読者は、以降読まないことをお勧めする。
一:アベノミクスは成功か?
アベノミクスは成功したといえるだろうか、それとも、失敗だったのだろうか?
私は、その答えは一つしかないと思う。それは、
「まだ、失敗していない」
だ。
政策の失敗は、すぐにわかる。それが経済政策なら、あっという間に経済情勢が悪化し、外交政策なら、あっという間に国際関係が悪化するからだ。
けれど、政策の成功は、容易にはわからない。その恩恵を被った一部の者は、政策は成功していると言い、その恩恵を受けていない多くの者は、政策は失敗していると言うだろう。
現実を見ずに統計だけを見て、数値が上がっているから成功していると言う者もいるだろうし、いやその数値は捏造されたものだから、それこそが失敗の根拠に他ならないと言う者もいるだろう。
そして政府も、政策が失敗であるのなら、それを取り止め新たな政策を模索するだろうけれど、失敗しているといえる状況でないのなら、その政策を取り下げる理由もまたない。
つまり、もう六年以上「アベノミクス」と通称される政策が継続しているというのなら、それはまだ失敗したというだけの状況になっていない、ということだ。だが、終わらない政策はなく、そして「成功したまま終わった政策」はこの世に存在しない以上、いつかは「アベノミクス」も終焉の時を迎える。その時には、「アベノミクスは失敗して終わった」と言われるだろう。
二:経済格差は政権の責任?
アベノミクスが失敗だ、と主張する人の論拠で最も大きいのは、「だって俺たちの生活は楽になっていないじゃないか」、だ。私も、給料が大して増えておらず、だから経済成長率何パーセントだの、戦後最長の好景気だのと言われると、どこか別の世界のことのように思えてしまう。
けれど、これにはいくつかのファクターがある。その最も大きいものが、「小さな政府の限界」だ。
昔は、政府が国家を主導していた。だから、政府の政策ひとつで、企業が栄え又は吹き飛んだ。
今は、企業の自主自立に依存している。政府は、補助金や優遇税制で企業や特定事業分野を支えこそすれ、基本的には「企業が栄えるのも滅びるのも、経営者の腕一本」となっているのである。
これは、「川の上流と下流」に例えられる。
昔は、川の上流に水を増やせば、川の下流にも水が行き渡る。だから、政府の政策が、下流の田圃が潤うか否かを決定付けていた。
けれど、今は川の上流で水を増やしても、それが下流にまで届かない。だから、川の上流に住む金持ちはどんどん裕福になり、けれど川の下流に住む一般市民は何も変わらないどころか以前よりも苦しい生活を強いられるのだ。
川の上流と下流を隔てたものは、一体何だったのだろう?
三:日本型資本主義の限界
この問題を読み解く前に、日本型資本主義と、アメリカ型資本主義の違いを確認する必要がある。但し、ここでいう「日本型資本主義」は、旧財閥支配を意味する事ではないと理解する必要がある。
昔、高度成長期の日本では、平社員として入社し、係長・課長・部長と位階を上げ、やがて取締役になり、常務になり専務になり、そして社長になるという道があった。終身雇用の中にあり、それは競争社会でもあったが、だから意欲のある社員は、残業し、休暇も返上して頑張った。それは、いつか管理職となり、経営に携わることになる為の、一種の試練だったのだ。
そして経営者たちも、自分たちもかつては一社員だったから、彼らの苦労をよくわかっていた。だから福利厚生を充実させ、結果トップに立てるのはごく僅かであっても、それを支える「同期」を大事に守ったのだ。上司は先輩であり、部下は後輩だったから、先輩から受けた恩を後輩に返すのは、当然のことだった。
株式も、同業他社並びに取引先、そして年金基金と従業員持ち株会。この四者が主たる株主であった為、未処分利益は株主配当よりも有事に備えた内部留保に、役員賞与より従業員給与に、それぞれ使われていた。資金の流出より、内部資金の充実の方が重要であるというのが、資本家・経営者共通の認識だったのだ。
だが、それは甘えを生んだ。
終身雇用と社員福祉優先政策は、驕りと手抜きに繋がった。上昇志向のある一部を例外として、「何もしなくても給料は増える」。ましてやバブルと呼ばれる時期には地価が狂乱的に高騰し、その為それを担保にした金融投機は倍々ゲームどころでなく異常な資金を市場に撒き散らし、結果。「努力するのは莫迦の所業」という時代になってしまったのだった。
バブルが弾けた時。企業には資金がなく、そして意欲ある社員も少なくなってしまっていた。今や不良債権となった福利厚生施設の維持管理費が経営を圧迫し、しかし社員は従前の環境から悪化することを良しとせず。
その為企業が考えたのは、年功序列の破棄と、成果報酬型企業経営だった。
けれど、これまで三十年、「経験こそが最も大きな財産」として学んできた中間管理職社員が、部下の業績を、公平且つ厳正に評価する事が出来ただろうか? 自分が目をかけて育てている部下の業績は過大に評価し、気に喰わない部下の過失は針小棒大に取り沙汰し。
かくして、「成果報酬型企業経営」は、単に上司が「好きな部下を優遇し、嫌いな部下を切り捨てる」為の口実になってしまったのである。
中途半端な改革は、事態を悪化させこそすれ好転させることはない。
その為、抜本的な改革の必要に迫られた。それは、社内の改革ではなく、経営者自身の改革だった。
四:「超資本主義(Supercapitalism)」とは?
アメリカ型資本主義。これに「超資本主義(Supercapitalism)」と名付けたのは、Robert B. Reichだった。企業と経営の、完全分離。
経営は、その専門家を外部から招き、高額の報酬を以てそれに専念してもらう。
企業は、経営者の指示の下、会社利益を最大化させる為にそれに専念する。
それが、本旨である。
実際、優秀な営業マンが、優秀な経営者になるとは限らない。営業成績優秀でも、企業から齎される給与に満足出来ず、退社して起業し、自己責任でその報酬を得たら。むしろ事業管理分野のコストを抑えられず、また営業に必須の書類事務(これまでは会社の事務員に任せていた)に不備が生じ大きく報酬を削られ、結果社員時代の倍以上の労働時間に対して半分以下の収入になった、などという人もいる。
いくつもの特許を持つ技術者が自分で会社を興して、けれど経営を管理出来ず大企業の食い物にされた挙句、企業にその特許を売り渡すことになったという人もいる。
なら、営業も、技術も、経営も。餅は餅屋とばかりに、専門家がそれに専念するのが、一番合理的だというのも、ひとつの真理だったのだ。
資本家と企業に二分するのが「資本主義」なら、資本家と、経営者と、企業に三分するのが「超資本主義」。これは、欧米ではそれなりに機能していたシステムだった。
ところが。日本企業に超資本主義を導入した場合、大きな問題があった。それは、高額の内部留保だった。
経営者が凡俗であっても。内部留保を取り崩して株主配当に回せば、投資家は喜んで株を買う。年金制度の事実上の崩壊から、年金機構の持ち株比率が下がり、株式の持ち合いが社会的な問題になると、それだけ株が一般投資家の手に渡る。そして、外部から派遣された有期契約の経営者と、所謂「物言う株主」の利害関係が、ここに一致してしまったのだ。
株主配当を厚くすれば、別に業績が向上しなくても株価が上がる。つまり資金が集まり、新しい事業投資が出来るようになる。その事業投資の結果が出るのが先であっても、失敗していなければ市場の評価は上がり、更に投資家は株を買う。内部留保が枯渇した時、或いは事業投資が失敗した時、その前に経営者としての任期を迎えていれば、『失敗者』の烙印を押されるのは、後継の経営者だ。機関投資家もまた、それまでに株を売り抜ければ損はしない。
経営者にとっての新しい事業投資。自分の任期中に成果が出ないものは、前述の通り「挑戦していることで企業評価が向上するもの」に価値があり、逆に成果が出るものは、「短いスパンで目に見える評価に繋がるもの」に価値があった。だから長期間を要する研究開発より、一年で結果が出る応用研究の方を重視された。
そして今、会社の内部留保が枯渇し、また長期の研究に資する研究者がいなくなったタイミングで、「リーマンショック」が起きたのだ。
五:川の上流と下流
リーマンショックで、最も大きな影響を受けたのは、日本国内では大企業経営者と投資家である。
マネーゲームに興じていた彼らは、一夜でその財産を失ってしまった。
だから、守りに入った。無茶な投機は避け、堅実な配当目当ての長期保有にシフトした。
これは、形だけ見ると、日本型資本主義に回帰したように見える。しかし、相変わらず経営と企業は分離されている。株式の持ち合いも、原則禁じられたままだ。にもかかわらず、カネが市場に出回らない。だから、政府が企業にカネを落としても、そのカネは動かない。
にもかかわらず、経営者は変わらず高額で外部から招聘しなければならず、また株主の機嫌を伺う為に配当金を減らすことも出来ない。結果、その皺寄せは下請けと、従業員に来るという事だ。
川の上流と下流を隔てるもの。それは、現在日本型資本主義、と言わざるを得ない。
六:10連休に見る、責任転嫁の構図
今年、2019年4月末から5月にかけての10連休。社会では、「サービス業者を殺す気か!」と大騒ぎしている。が、サービス業がどうのこうのではない。「日本の中小零細企業全体が」、この10連休に殺されるかもしれないのだ。
どういうことか。
多くの企業は、月末に入る売掛金(売上代金の入金)で、月初の支払い(仕入れや家賃、給料等)に充てる。そして、支払日が週末に掛かる時は、前倒しにするのが通常の商慣行だ。
が、10連休。言い換えると、「月末月初に、三分の一ヶ月金融が止まる」のだ。すると、何が起こるか。
支払いは、連休前(4月26日)。入金は、連休後(5月7日)。
そんな資金計画を立てられる、中小零細企業は、一体どれだけいるだろう?
実際に給料をもらう立場で考えてみると分かり易い。コンビニなどは、それが大手であっても、給料を払う経営主体は各店舗。彼らも零細企業なのだから。
家の家賃は、連休前の4月26日までに払わなければならない。
でも給料は、連休後の5月7日まで振り込まれない。
この条件で、暴れない勤め人は、どれだけいるだろう?
「連休前に給料を払えないというのなら、そんなの経営者失格だ!」
おそらくネットでは、そういう声が大勢を占めるだろう。けど、それが出来る経営者は、どれだけいるだろう?
大企業は。それが出来るだろう。けど、賭けてもいい。給料は連休前に払うだろう。が、下請けに払う受注代金は、連休後、売上金が入金されてから、というところが多いだろう。
そうなると、下請けは。売上金が、連休後に入金されることになる。そして、やっぱり給料は連休前に払いたい。なら、材料費の支払いは、連休後にするように取引先に要請するだろう。或いは、元請けである大企業に、一部金だけでも連休前に入金してもらえるように交渉するのだろうか。
そして、その次の、材料を供給している会社。こちらも以下同文となる。
何が言いたいのか。
下請け、取引先、そして従業員。
一番立場の弱い者が、連休後入金というジョーカーを引かされ、それ以外の者は、連休前支払いというカードを他者に押し付け合う。
そして、一番弱い立場の者。それが中小企業経営者であれば、消費者ローンに頼ってでも仕入れ代金を支払い、また従業員に給料を払う。
一番立場の弱い者が従業員(アルバイト)であれば。なけなしのカネで家賃を工面し、空の財布を抱えて10連休に突入する。
これが、現在の日本経済の縮図という事だ。
結:政府の政策と日本経済
アベノミクスが成功か失敗か。それは、現在の日本経済には何ら意味がない。
政策で庶民の生活が潤うには、企業の力が強くなり過ぎているからだ。
その一方で、かつての民主党政権のように、川の下流に直接水を増やそうとすれば、それは一部特定の田圃だけにしかその恩恵はなく、上流で水を増やすより効果は小さく終わってしまう。その挙句、その〝特定の田圃〟を巡り、業界間・企業間で文字通りの「我田引水」をし合うことになってしまうのだ。
では、政府には一体に何が求められている?
その答えは、2012年末の株価にある。
その前日、2012年12月16日の、第46回衆議院選挙で、自民党が圧勝し、政権与党に復帰した。
ただそれだけで、株価は急激な高騰に転じ、28日には年間騰落率プラス22.94%という数字を記録した。
当然、この期間に安倍総理は何かをしたという訳ではない。
ただ、国民が、投資家が、「終わりの見えないトンネルの、遥か彼方に光が見えた」と感じたのだ。
それが、結論。
現在の株式投資では、結果が出てから投資したのでは遅すぎる。その予兆を掴んで投資することが求められている。だから。
良い兆し、未来への明るい希望、可能性。
それを見せるのが、国家元首と政権与党に求められた責務なのだろう。
その意味では、安倍総理も6年前の輝きに陰りが見えているのかもしれない。
けれど、それでもそれ以上の輝きを国民に予感させる政治家が、他にいないというのが現在の日本の、最大の問題点なのかもしれない。
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参考文献:
Reich, Robert B. “Supercapitalism” 『暴走する資本主義』雨宮寛、今井章子 訳、東洋経済新聞社、2008年
青野貴礼“民主主義と企業責任”、2008年