07:黒
物陰から現れたそれはただ『黒い』としか言いようがなかった。
胴体であると思わしき黒い塊から伸び地面と接地する4本の脚のような部位からそれは四足歩行であり、体から伸びる尻尾のような長いものとその反対側についた頭部と思わしき3つの突起が付いた丸みのある塊から、それは森に生息するハウンドドッグと同じか似たような犬の形をしていると思われる。だがそれ以上の情報は無く、ただそこには一切の光を反射せず、空間を切り取ったかのような『黒』が存在していた。
その『黒』は民家によって死角になっていた場所から飛び出すと共に気を失ったユウリに大剣を振りかざした兵士を押し倒し、腕や肩などに噛みつく。押し倒された兵士は突然の事に持っていた大剣を落としてしまったが、ただ無抵抗に噛み付かれていたわけではなく振り払おうと懸命に暴れたが、その『黒』は意に介することはなく、遂にはそのまま兜ごと頭を噛み砕かれ兵士は絶命した。
『黒』は兵士が死んだのを認識してか一度周囲を確認するような素振りを見せると、その場で天高く吠えた。その遠吠えに呼び寄せられたのか次々と木の陰や草叢から同じような犬型の『黒』が現れ、最初の一匹目を中心に村に居る人々を囲む。
「バルログ…」
誰かが呟いた。それはその『黒』を指す名だ。"バルログ"はユウリの前世のゲームに登場したモンスターであり、以前村の大人達が紙芝居をした物語に出てくる怪物でもある。そのためゲームの知識を持つユウリ程ではないが、村の大人や冒険者達だけでなく子ども達も知っている怪物である。
その特徴は『影絵のように黒い』事その一点のみであり、それ以外は個体によって様々な生物の姿をしているため、こうして群れになって出てくるまで物語に出てきた怪物とは誰も結びつかなかったのだ。当然その姿形ごとに使う技や能力値が違うため、ゲーム終盤のバルログが大量発生するエリアでは様々なモンスターと同時に戦う事の出来る装備を整えておく必要があった。
そんなゲーム終盤に大量発生するモンスターであるバルログが何故この場にいるのかといえば、バルログは破壊神と同じ邪神の眷属であり、言わば小型の破壊神であるため"どこそこに生息している"というような存在ではないからだ。
ゲームであれば特定のエリア以外ではエリアごとに設定された条件を満たした場合に1匹しか現れない特殊モンスターであるバルログであるが、現実では1匹しか出てこれないような制限はない。一匹目のバルログがもう一度吠えたのを合図に全てのバルログが走り出し村人も冒険者も兵士も全て関係なく人々に襲い掛かる。
ジャレッド達自警団の人々や冒険者達がする事は相手が変わっただけで先程までしていた事と同じだ。だが、人から獣になった事で勝手が代わり、また相手が以前から村の周辺にいるハウンドドッグという魔獣とよく似た姿をしている為幾分かは戦いやすい。
相手が人から獣に変わった事によって自警団以外の村人も戦いに加わるようになったことも理由の一つだろう。普段は畑弄りをしている農夫や森の木を育てている樵が鍬や斧を振り回してバルログを斃しているのだ。倒されたバルログは黒い靄のようになり何処かへと飛んでいくが、また戻ってきているのではないかと思うほどに数が減らない。
モヨモト達子どももバルログと戦っていた。普段なら村に居る時には武器を持たない彼らだが、ダレス達が攻めてきた事で念のため武器を持っていたのだ。そこにはフウカもおり、フウカは他の同い年や年下の子ども達を護りながらモヨモト達と共に戦っている。
彼女はバルログが現れてすぐにユウリの元へと駆けつけようとしたのだが、その前に他のバルログに阻まれ追い返されてしまったのだ。その際ユウリはバルログの群れに隠れて見失ってしまったので仕方なくモヨモト達と合流したというわけである。
「我が身を護る盾となれ【アースウォール】!」
子ども達全員で1匹のバルログを相手にしているのだが、これがなかなかに困難である。バルログは普段森の中でみるハウンドドッグによく似た形をしているのだが、全身が影絵のように真っ黒であるがために距離感が掴みにくく、正面と背後の区別が付きにくい。
突進に対するカウンターを狙った突きが思っていたよりも早く出てしまったり、正面から頭を狙った攻撃が実は背後から尻尾を攻撃していたりとあまり効果を得られていない。またハウンドドッグよりも遥かに強い存在であるようで、ハウンドドッグならば数度攻撃を防いだり、進行妨害をすることの出来る土の壁がたったの1撃で破壊されたり、逆に利用されたりとしてしまっている。
それでも苦戦するだけに留まっているのは一撃で破壊されてもバルログの勢いを殺す事には成功している為であり、またどういうわけかバルログが子ども達に対しては1匹しか襲ってこず、子ども達の迎撃態勢が整っている時にしか攻撃してこないためであり、それ故に子ども達が交代して対処に当たる事が出来る程度の多少の余裕がある為である。周囲のあちこちで悲鳴が挙がっているが、それはどこかくぐもったような声が多く、村人や冒険者よりも兵士達の方が被害が大きい事が見ずともわかる。
あまりにもはっきりとした差に他の子と交代して後ろに下がったフウカが周囲に目を向けてみれば、大半の冒険者は他者に狙いを付けたバルログの相手をする程の余裕があり、村人は一人か2人いれば対処できるほどの数のバルログにしか襲われていない。
数は多いが一匹ごとにそれぞれ違う強さであるようで同じ数でも村人達に対処可能な弱いものから熟練の冒険者達でも苦戦している程強いものまで居る。それとは別に何らかの法則性に従っているのか一部の冒険者とダレスの兵達は尋常でない程の数のバルログに襲われており、明らかに狙われている事が彼らの悲鳴が多い理由の一つだろう。
そんな中、一人の兵士が多数のバルログを相手に奮戦していた。彼は襲い来るバルログをその大剣で斬り飛ばしダレスをたった一人で護っていた。
初めは彼以外にも多くの兵士が戦っていたのだが、バルログは数が多い事に加えて脚が速いのに対してダレスの兵は重装備であるがために動きが遅く、装備の重さにバルログの動きに追いつけていない事からすぐに多くの兵士は倒れ、バルログが現れてから30分程した頃には既に彼一人だけになっていた。
そんな彼を無視するかのように後ろのダレスに飛び掛かった複数のバルログを薙ぎ払うように斬りつけ、その隙を突いてダレスに噛み付こうとした個体を武器の遠心力による回転も交えて前へと蹴り飛ばす。それは彼ではなく彼の後ろに居るダレスを狙った行動であったからこそ出来た事ではあるが、それによってそれまでダレスを狙っていたバルログ達がその兵士へと向かうようになった。
それでも彼は怖気付く事なく薙ぎ払った個体を別の個体にぶつけたり、あえて大剣を一時的に手放し近場で倒れていた他の兵士の武器を拾って使ったりとする事でその無数のバルログを相手に善戦していた。その姿はまるで物語に出てくる英雄であるかのようだったが、しかし彼も生物である以上無数の敵に延々と戦い続ける事は出来ず、また集中力も続かない。故にバルログが現れてから数時間経った頃、1匹のバルログに噛み付かれた。その痛みに一瞬硬直した隙を突かれ彼の持っていた大剣が噛み砕かれ、それでもなお近場に落ちている槍や斧等を使い戦い続けたが、それらも壊されてしまい武器を失った彼は地に伏した。その後その兵士は多数のバルログに押し倒され、後には全身の鎧と腹部を失った彼の遺体が残されていた。
「そんなバカな…!」
ダレスは信じられない。と言った風に崩れ落ちた。先程までダレスを護っていた兵士は彼がよほど信頼する者だったのだろう。ショックのあまり地面に座り込んでしまったダレスにバルログ達はゆっくりと近づいて行く。
「ひっ…くるな…!くるなああぁぁぁぁ!」
ダレスが悲鳴のような叫び声を上げるが誰かが助けに来ることはなく。兵士という盾を失ったダレスは情けない声を出しながら土や石を投げつけながら後ずさる。が、しかし彼の抵抗空しくバルログの1体に押し倒された。そして倒れたダレスに複数のバルログが集り四肢に噛み付き、先から肉を引き千切るように喰らう。
ジャレッド達からはダレスの姿は殆ど見えないが、血と肉が周囲に飛び散る度にバルログの体から僅かな光が放出され、ダレスの傷が治る。それは止血のみを目的としたものであるようで失われた部位が再生することはなく。肉が失われたことで凸凹になった歪な身体が形成されて行く。
「ひっ、ひいいいぃぃぃぃ!」
そしてダレスを押し倒したバルログがダレスの頭に食らい付こうとしたその時―
「…は?」
バルログは突如霧散して消え、ダレスは呆然としたまま固まってしまった。
「終わった…のか?」
突然消えてしまったバルログに唖然としながらジャレッドが呟く。
周囲を見てみればジャレッドやダレスを襲っていた個体だけでなく、全てのバルログが居なくなっており、"終わった"と称するのが正しいかのような有様であった。
先程までバルログの群れと戦っていたのが嘘であるかのように唐突に居なくなってしまった事に一部の者達は幻でも見ていたのではと狼狽えるが、バルログが消えた後に残された煤のような黒い靄と彼ら自身から流れた多くの血や遺体によって作られた凄惨な光景が彼らにそれが現実であることを突きつける。
また、靄は少しずつ何処かへと流れて消えて行くが、遺体はそうはいかない。故に後で亡くなった者達の埋葬や村の清掃等をしなければならないのだが、彼らはとりあえず生き残った事に歓喜し互いに喜びあった。
◇
「…知らない天井…ではないね…」
後日、ユウリは今生の自分の家の自室で目を覚まし呟いた。部屋にはユウリ以外誰も居なかったようでそれに反応する者はいない。自室とは言ってもフウカとの共用部屋でもあるのだが、以前とは違い知らない場所に居るという事は無いので転生ではないのだと考える。
その後、倦怠感を感じながら起き上がったユウリの目にまず飛び込んできたのは外の光によって緋色に見える血の跡が大きくついたままの窓だ。そこから見た村の中は、あちこちに血の跡や人以外の足跡が大量にあり、自身が気を失った後にも何かがあったのだとユウリに伝える。
「ユウリ…!目覚めたのね…良かった…!」
一体何があったのだろうかと思いながら窓の外を見ていると後ろから声を掛けられた。振り返るとコップと水の入ったボトルを盆に乗せたリディアが扉のすぐそばに立っていた。リディアはユウリが起き上がっている事に驚き、駆け寄るようにしてユウリを抱きしめた。その際にリディアは近場の台に盆を置こうとして落としてしまったが、盆には何らかの仕掛けが施されているようで上のコップどころか水も零すことなくふわりと着地する。
「あの後どうなったの…?外が凄いことになってるんだけど…」
感極まったリディアに抱きしめられた事に戸惑いながらもユウリは問う。その後ユウリはベッドに座りコップに入った水を飲みながら自身が倒れた後の話を聞いて驚愕したが、ユウリはバルログが現れる直前に気を失ったので無理もない話だろう。
バルログが消えた後、ダレス達は侵略者としてその責任を問われることになるはずだったのだが、ダレスが襲撃後の翌朝にはどのようにしてか村から居なくなっており行方不明になっている為、今現在ジャレッド達は国へと報告するための書類を作っている。
バルログによって肉を削がれ、凸凹になったダレスの手足では自力で逃走したとは考え辛く、生き残った兵士達の中から居なくなった者もいないので、何者かに連れ去られたのではないか。というのが現在最も有力な説だ。
それでもダレスは賊として手配される事にはなるだろうが、ダレスが持っていた偽の公文書に書かれていたというカストール男爵の関わり次第でどう扱われることになるかは村人達には判らない。
村は前回のディストの件と今回のバルログの件で家々はボロボロになったため、幾つかの家を除いては建て直す必要があるが亡くなった者は戻らず、受けた傷も癒えるまではなくならないので当分はそのままだ。
また、亡くなった者の内の大半はダレスの兵であった者ではあるが、冒険者や村人も勿論居る。当然亡くなった者の中には子や家族が居る者がおり、その死を伝えれば悲しませることになるだろう。死なずとも受けた傷の度合いによっては稼業を辞めなければならない者もいる。
冒険者はタグかカードのどちらか残っている方を近隣の町の冒険者ギルドへと持って行けば良いのだが、ダレスの兵だった者は家族に対してその死を伝える立場に居るはずのダレスが行方不明である。なので仕方なく代理を立てて行く事にしたのだが、生き残った兵達に話を聞くと生き残ったのは寄せ集めの兵のみであり、正規の兵は全員死亡したようなのでそもそも誰がどこの出身の兵士なのかも判らないという事だった。
判ったのはダレスがラモーナという街で募集していた事だけであり、その時にダレスと共に立っていた兵士のみが彼らが唯一知る正規の兵だったのだが、その兵士はバルログによって殺されている。生き残った兵士曰く最後までダレスを護って戦っていた兵士がそうであるらしい。
一部の冒険者によるとバルログは森で採取ばかりをしていた彼らを避ける様に行動しているように感じたという。子ども達や非戦闘員の村人達も同じようで、バルログという一つの脅威に対して共に闘っているはずであるにも関わらず、あまり殺生をしていない彼らには他者を助ける余裕があったのだという。
バルログが現れた直後からずっと放置されていたユウリだが、流石にバルログをかき分けて探す程の余裕は無かったようで誰もが諦めていたのだが、バルログが消えた後に探すと兵士に殴り飛ばされた時のまま家の傍で倒れていたそうだ。
バルログが現れる前の兵士との戦闘中に意識を失った者も殺されていたらしく、ユウリが襲われなかった理由については良く分からないが、バルログの標的となる何かをユウリが全くしていなかったのではないかと言われている。
バルログの標的とこのハウレルの森近辺での殺生と何らかの形で繋がっていた。という事までは確定しているのだが、非戦闘員であると思われる人物の中で唯一ダレスに対しバルログは誰よりも強く敵意を向けていたので、それだけではない何かをダレスが短期間で他の冒険者やジャレッド達自警団よりも多くしていたのだろうという憶測が立てられていた。
最後に村で起こっていた異常とバルログの事だが、これについてもよくわからないという事らしい。バルログが消えた後、自警団と冒険者の幾人かで森の調査に入った所。以前までは頻繁に見つかっていた魔獣の死骸は無くなり、ゼライムも見なくなっていたらしい。その為ゼライムが増えていた原因も謎の死骸が増えていた理由も不明であり、全てバルログが関わっているのではないかと言われている。
そのバルログは靄となって消えた後、その靄も何処かへと飛んでいってしまったので判らないそうだ。ただ、飛んでいく所を見ていた人によると「風も無いのに全て同じ方向に飛んでいったように見えた」とのことだ。
ユウリは奇形になったダレスの処分やバルログによって惨殺死体となった人々の事はあまり子どもに話すような内容ではないのではないかと思ったが、どうやら年齢で区別するような事ではないらしい。それよりも知らない事で危険を回避出来ない事の方が重要なため、親が子どもに色々な事を教えるのは普通の事であるようだ。本当かどうか気になったユウリは後でフウカやシュナに確認すると「同じ事を言われた」と答えていた。
「どれくらい寝てた…?」
そう言えば。と、ユウリは問う。
「2日間ずっと寝ていたのよ」
「2日もっ!?」
ユウリは自身が2日間も寝ていたのだと聞いて驚いた。
たった2日と思うかもしれないがこの村には点滴や人工透析等と言った医療はない。街に行けばあるかもしれないがここにはなく、故に寝ている状態にある人に栄養補給をする事は不可能である。そして人の体は3日から1週間程水分を摂らなければ死んでしまうのだ。
ユウリはここは異世界なのでもしかしたら前世の知識とは違う事があるかもしれないとは思いつつも、ゾッとするような話であった。後にこの世界の医療について聞いた際に大体4日から9日程という回答が得られた。実際には魔術によってもう少し長く生きられるのだが、あまり変わらないので気を付けなければならない事に変わりはない。
それとは別にこの本人の経験によって伸びる【ステータス】がある世界において2日という時間は重要である。「2日間も寝て過ごしてしまった分を取り返さなくては!」と勢いよく立ち上がったユウリはしかしそのままふらついて倒れてしまった。そんなユウリをリディアはゆっくりと抱き上げると「病み上がりなのだから休んでなさい」とベッドへと運び、ユウリを寝かせて部屋から出て行った。
部屋の外ではユウリを除いたフェイル家の子ども達がユウリの身を案じる声や無事を告げられ喜ぶ声が聞こえて来ていた。その後ユウリの所に行ってもいいかと問う子ども達をリディアが止める声なども聞こえてきたが、日が暮れてアルトが帰ってくると彼の声も混じるようになっていた。
リディアが部屋から去った後、ユウリは自身の【ステータス】を確認して現在の体力を示す枠の中の赤色の棒が50%近くまで減っている事を確認し、がっくりと項垂れた後、呟いた。
「体力が足りない…」
と…