どうにもならない事は多々あって
どこで訓練をしようか、それとも一度冒険者ギルドへ行ってみようかと考えながら校舎を出た十夜は、誰かに呼ばれた気がして振り返った。
その瞬間、胸のあたりに軽い衝撃を受け、反射的に抱きとめた。
何があったのかと下を向くと、水色の髪のような物が見える。
十夜の胸に顔を埋めるようにしており顔は見えないが、白を基調とした学園指定の女子制服を着ている所を見ると女子生徒なのだろう。
咄嗟の事だったので両腕を抑えるつもりが空振りしてしまい、十夜の両腕は女子生徒の背中へと回り、女子生徒の腕もまた十夜の背中に回っているため、傍から見れば互いに抱き締めあっているようにしか見えない。
十夜は背の高い方ではない。それでも十夜の胸に顔を埋めている事から、腕の中の人物は背が低い事が分かる。
特徴的な水色の髪は光に透き通るような神秘的な輝きを放っており、芳醇な髪の匂いと、少女自体の体臭が混ざり合い、なんとも言えない色めいた匂いが十夜の鼻腔を刺激していた。
その特徴から連想する人物が一人だけいたが、十夜の考える人物がここに居るはずがない。
なぜなら、その人物が冒険者であって学園生ではないのだから。
もし、万が一にでも実は学園生でもあったとして、十夜の立場を知られてしまったら。そして他の人と同じような蔑む視線で十夜を見たならば。
そうなってしまったら耐えられる自信が無かった。
そうした恐怖が十夜の中からその可能性を摘もうとする。
しかしその一方で、もしかしたら彼女たちなら自分を認めてくれるかもしれないと、淡い期待を抱かざるをえない。
どれほどの間そうしていたのだろうか。一瞬にも思えるし、何十分だったとしても納得してしまうような奇妙な感覚の中、腕の中の人物が声を上げた。
「ふえ?」
抱き締められると思っていなかったのか、それとも何が起こっているか分かっていないのか、腕の中の人物は顔を上げ水色の髪の隙間から十夜を見つめた。
髪と揃いの水色の濡れた瞳が十夜を見つめており、そのまま瞳の中へと吸い込まれたくなる。
よく見れば左目の下に小さい黒い点が付いており、完璧な容姿の中に親しみやすさを感じられる。
何度見ても小さい顔だと十夜は思った。
「ってほんとに雫!?なんでここに?っていうか何!?」
きっかけは些細なアクシデントだったとは言え、十夜と雫は現在進行形で抱き締め合っており、お腹のあたりに感じる決して小さくない膨らみだとか、布越しに感じる僅かな下着の感触だとか、匂いに体温など雫の存在を十夜は全身で感じていた。
混乱に混乱を極めた頭で必死に考え、なんとか体を離そうとするが、思いの外強い力で抱き締められており、余計に締め付けを強くしてしまうと言う結果に終わる。
十夜は悪い意味での有名人である。
学年最下位。落ちこぼれ。赤目の劣等生。欠陥品。
十夜を示す蔑称は数知れず。その数だけ十夜が目立つ存在である事を指し示している。
そして雫はどこからどう見ても、偽り様の無い完璧な美少女である。
十夜が知らなかっただけで、恐らくは非常に目立つ存在なのだろう。
事実、七瀬雫と言う存在は恵まれた容姿は言うに及ばず、成績優秀で面倒見もよく、冒険者としても活動している事から分かる通り実力にも目を見張るものがあり、色々な意味で目立つ存在なのは間違いない。
そんな目立つ二人が、正々堂々と校舎の前で抱き合って居れば目立たない筈は無い。
偶然見かけてしまった生徒達は何事かと足を止め、十夜を見ては顔を顰め、相手が雫だと分かれば驚きに目を開く。
交互に二人を見直しては、決して交わらない筈のカップリングに何事かと、二人の動向が気にせずには要られない。
背中に回した手を外し雫は十夜のシャツを握りしめるように掴んだ。
顔を上げた雫の大きな瞳が十夜を真っ直ぐに見つめ、何かを訴えようと綺麗な形をした桜色の唇を震わす。
息が掛かる距離の中で二人は見つめ合い、雫は爆弾を落とした。
「……お願いです、十夜さん。もう……貴方じゃないと、十夜さんじゃないとダメなんです」
十夜は時が止まったのを確かに感じた。
決して大きな声ではなかったが、雫が投下した爆弾は二人の周囲へ確実に届き、動揺と悲鳴が波のように広がった。
そして、ある者は殺気が混じった視線で十夜を睨みつけ、ある者は魔法を唱える準備を始める。
しかし、それが実際に放たれる事は無かった。
なぜならーーー。
「花月十夜!あんたに決闘を申し込む!!」
決闘の申し入れと同時に類まれない豪腕により放たれたソレは、真っ直ぐに、そして的確に十夜の顔を捉えていた。
生命の危機を感じた十夜は反射的に避けようとするが、雫が抱き着いているため上手く動けない。
ならばせめて直撃だけでも避けようと首を傾けようとするが、視界の向こう側に白い髪を振り乱す般若を見た気がして、十夜はほんの一瞬だけ動きを止めてしまった。
その一瞬が生死を分ける。
当たる直前になって十夜の動体視力がようやく捉えたのは、カチカチに凍った皮靴だった。
革靴は寸分違わず十夜の顔面を踏みしめる。
ゆっくりと傾きながら十夜は咄嗟に雫を強く抱きしめた。
吹き出す鼻血が十夜に抱き着いていた雫へと降り注ぐ。
雫とともに地面に倒れた十夜の前には、美しい顔を血に染めた雫が唖然としていた。
その表情は無垢な少女を穢してしまったという罪悪感と高揚を胸に抱かせるには十分で、唇の端から流れる赤い雫は猟奇的でありながらも退廃的な美しさを醸し出している。
十夜を押し倒すような格好になった雫は体を起こす。馬乗りになったまま周囲を見渡すと、状況が把握出来ていないのか、再び十夜を見ると引き攣った顔で笑顔を作った。
何がどうなったのか全く理解していないが、もうどうにもならない事だけを察知した十夜は、諦めと共にそのまま天を仰いでため息を付いた。