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姫の乗馬 riding horse of princess

作者: tetsuzo

煙るような細かな雨が何日も降り続いている。家路はぬかるんで草履が泥にめり込み、もう長くは使えないだろう。川沿いの土手には柳が植えられており、細かな葉から雨滴が跳ねて飛んでいる。ひしゃげたように蹲る藁葺きの家は濡れそぼっていた。薄暗い家の中は何処も湿気でじめじめし、あちこちに黒いカビが生え嫌な臭いもする。石高三十石二人扶持の下級武士、伊藤一弥は城から戻ると、休む間もなくすぐに手内職の傘張りを始めた。破れた障子から雨滴が手元に飛び、紙が濡れ張り難い。一弥はたった一人いる郎党の鐡蔵を呼んだ。

「鐡蔵。鐡蔵は居らぬか。破れ障子では傘張りは出来ぬとあれほど申したに。一体いつになったら、修理するのか」

「さっきから、此処で傘の竹、裂いておりやす。油買えんから、雨降りだと昼間から薄暗ェ。障子の修理だと。わかっちょります。じゃが開いた穴塞ぐ紙なんかありゃあしねえ。便所の落とし紙も無ェから、竹べらで扱いておる。けつの穴、磨って痛ぐて堪らん。三十石取りとは申せ、半知で僅か十五石。おらはもう三年も殿から給金もらっていねえ。干上がっちまってこの着物三年も着てるからボロボロじゃ」

「文句を言うな。愚痴ばかり零しておらんで手を動かせ。儂は今までお城で御用をしてまいったのだ。御馬廻り下役として厩の清掃、飼葉の調達、お馬のお世話など様々な辛い仕事についている。お前はなんだ。儂が出仕している間、昼寝でも貪っているのでは無いか」

「とんでも無ェ。あちこちから雨漏りするこのボロ屋の繕い、破れた殿の着物の継ぎ当て、百姓に頭を下げて、米味噌野菜などの調達やらで、休む暇なぞこれっぽっちも有りゃしねえ」


ここは日本一の貧乏藩と云われる南部藩。東北の片田舎である。南部家は外様で表高は二十万石の大藩だが、蝦夷地警衛等難題が次々と幕府より課せられ内緒は豊かとは言えぬ。お城は盛岡の中心部にある。藩士の多くは惣門近くの穀町に住んでいるが、身分の低い一弥は北上川対岸の仙北町郊外に狭い住居が与えられている。城は川の対岸にあるため、出仕のたびに渡船を雇わねばならず、その出費もばかにならぬ。家の周りは一弥と同じような下級武士の屋敷が三軒、あとは皆百姓の家で、田畑ばかりの長閑な場所で、屋敷の前に北上の清流。雪解けの今は瀬音をたて、飛沫を上げて激しく流れている。お役目の馬廻り組は御手回組に属する小頭以下数人の役人が勤める小さな役所で、皆身分が低い。一弥の家は代々馬廻りの役につく小役人で、父親の弥ェ門は一昨年隠居して生まれ故郷の江釣子村に引っ込み、農業をしている。一弥は今年二十一歳。真面目で無口で、黙々と馬の世話をするのが好きだ。馬の目覚める早朝から厩に詰め、一日中馬の世話をしている。厩には二十頭の馬が飼われ、そのうちの五頭が一弥の担当だ。馬は夫々性格が違い癖もある。殿様の愛馬、早池峰号が孕み、子馬を生んだ。子馬は小早と名づけられ、一弥が担当となった。栗毛で頭に白い星があって可愛らしい。小早は一弥が厩に出向くと鼻を擦り付け、餌をねだる。一弥に良くなついていた。天気が良ければ馬場に出して走り回らせる。運動が終わると身体を水で洗い、丹念に束子で擦り、肌の艶を出す。小早は気持ち良さそうに目を細める。そんな時、貧しい暮らしや内職の辛さを忘れ、馬と共にある仕事が、楽しくて堪らない。殆ど人に会うことも無く、毎日馬と話して暮らす。人付き合いが苦手な一弥の性に合っていた。その日は梅雨の晴れ間で酷く蒸し暑かった。馬場で小早を走らせる一弥は、着物を脱いで裸になって馬と一緒に走り回っていた。

馬廻り組小頭は石山という五十絡みの老人で、一弥とは朝晩挨拶を交わすだけで、何の指示も出さない。厩には入って来ようともせず、日がな組座敷で煙草を吹かし、弁当を使い、厠に長い時間入って時間を潰し、黙然として過ごしている。六月のある日、石山は御手回組頭、森居健吾衛門に呼び出された。森居は二百石取りの上士である。

「石山。お前の組に小早という駿馬が居るだろう。世話をしているのは誰だ」

「はっ、はっ。確か伊藤一弥という若輩者ですが、何かお気に召さぬ失策でもやらかしましたか」

「あの馬、大殿の愛馬、早池峰の子供であることは、そこもとも承知しておろう。大事に扱っておろうな」

「はい。一弥メ、わが子のように慈しみ大事に育てております」

「実はな、石山。大殿様の御長女であらせられる、梨菜姫様があの馬に乗ってみたいと仰せられた。御台所里枝様より直々に伺った。梨菜姫様はご活発であらせられ、お部屋内でのご遊戯には飽き飽きしたとの仰せである。しかれど高貴な姫君である。万一お怪我でも召されたら、大変なことである。子馬とは申せ、木馬では無く、生きたる馬。暴れて姫様を落としたり、蹄で蹴りでもしたら、一大事。儂は御台所様にそう云って姫君に思いとどまっていただくようお願いした。じゃが、梨菜姫様はどうしても乗りたいとの仰せ。馬場でお乗せするなどもっての外。柔らかい芝の生えたお庭で乗って戴くのは如何であろう。無論馬番である一弥がつききりでお世話させていただくしかあるまい」

「やんごとなき姫様がご乗馬為さりたいなど前代未聞の椿事です。私は四十年も馬廻り役を勤めさせていただいておりますが、姫君を馬にお乗せするのは全く初めての経験。仰せの通り馬は生き物で畜生でございますれば、何が出来するか想像も困難です。一弥は馬扱いに長けているとは申せ、若輩者。万一粗相でもしでかせば、当人の打ち首だけでは済まされませぬ。小頭である私は勿論、組頭の森居様も切腹は免れますまい」

「ふむ。我等は必死で事に当たらねばならぬ。石山。一弥メを此処に呼び出せ」

「こちらへでございますか。ア奴は馬の世話で汚れており、臭いも致しますが」

「構わぬ。直ちにこれへ」

「は、はっ」

石山は慌てふためいて組座敷に戻った。座敷とはいえ、馬小屋の一角を仕切り、畳を敷いた粗末な部屋である。

「誰かある。一弥を寄越せ」

いつもは昼寝をむさぼり、ぼんやり表の馬場を眺めている石山の大声に、配下の馬番が丁度小早と一緒に走っていた一弥を呼びに走った。

「小頭。お呼びでございますか。伊藤にございます」

「貴様、直ぐに顔、身体を洗い、着替えてこい。恐れ多くも組頭様のお呼びである」

「げっ。組頭様が私を。一体何事でございますか」

「行けば解る。云われたことをせい」

身体を洗い、着替え、髪を櫛った一弥が石山と共に組頭の座敷に着いたのは小半刻後。組頭の部屋は堂々たる構えの御手回組屋敷の一角にある。広い座敷は庭に面し、障子は開け放ってある。森居はやり手の役人で四十代の働き盛り。太り獅子の身体を大儀そうに脇息で支え、胴間声のようなしゃがれ声で叱責する。

「遅い!何をしておった」

「は、はっ。こやつあまりに臭います故、湯を使わせました」

「石山。お前儂を甘く見るなよ。儂は直ちにと申した筈だ」

石山と一弥は平蜘蛛のように平伏し震えている。

「伊藤というのはお前か」

「は、はっ。い、伊藤一弥にござります」

「お前の如き軽輩と面談するは、許しがたいことだが、よんどころない事由で呼んだ。いいか、良ぉく聞け。畏くも盛岡二十万石十四代藩主南部利剛としひさ公ご息女梨菜姫様が、御愛馬小早号にご乗馬遊ばされたい旨、仰せ出された。伊藤。お前は小早と共に姫君の御前に罷り出、姫の御乗馬の手助けをせい。場所は馬場では無く、奥の中庭が良かろう」

「は、はっ。恐れながら申し上げます。馬は閉鎖された中庭のような場所では、追い詰められて暴れる恐れがございます。他の場所が良きかと存じます」

「生意気を申すな。小頭。どうであろう」

「はっ。伊藤の申す通りにございます」

「ふむ。御乗馬の場所は改めて検討することと致す。梨菜姫様は御歳十六歳。奥向きより外に出たことの無い、誠にやんごとなき姫君と漏れ承っておる。姫様が万々一、御怪我あそばされでもしたら、お前は斬首、儂も小頭も腹を切らねばならぬだろう。絶対に失敗は許されぬし、叉辞退することも適わぬ。天から降った災難である。伊藤。覚悟して掛かれ。こやつ、むさい格好をしておる。このなりで姫の御前に罷り出ることはならん。相応の身だしなみをさせろ。小早にも新しい鞍や鐙を整えよ。金子は幾ら掛かっても構わぬ」

「姫君様御乗馬の場所で御座いますが、二の丸前の広場は如何でございますか。緩やかな起伏はございますが、遮るものの無い広い芝庭で、普段家臣達やお女中衆も立ち入ることの無い静かな場所にござれば」

「軽輩のお前の意見など聞きたくないが、馬に関すること。今回限りお前の言い分を聞き届けて遣わす。日程は姫君のご予定を聞いて決める。それまで、斎戒沐浴、心して待て。御乗馬の場所周りの幔幕、ご見聞されるであろう御台所様、御上臈様、御中臈様たちの御座所の用意、おもてなしの茶菓の準備などは儂がご家老様と相談して準備致そう」

「は、はっ」

思いがけぬ重大な任務を受けた一弥は早々に城を辞去、屋敷に戻った。

「て、て、鐡蔵!大変な事になった。この儂が大殿様のご息女の御乗馬のお世話をすることになった」

「ま、誠にございますか。それは、それは名誉極まる任務でございます。代々馬方を勤めまする伊藤家始まって以来の出来事。早速江釣子のご両親様にお報せ申し上げます」

十日後、組頭より書状と支度金が届いた。書状には、御乗馬に先立ち、梨菜姫様をお世話する小者に予め会っておきたい旨のご下命があり、面談日は明後日午の刻という。改めて事の重大さを感じるが、如何して良いか見当もつかぬ。書状の着いた日には盛岡から十五里離れた故郷江釣子より年老いた両親が実姉弥絵を伴って到着、狭い家はごった返した。

「一弥。でかした。二百五十年続く伊藤家始まって以来の快挙である。父は甚だ名誉に感じ、近隣の村人達に触れ回っておる」

父親の弥ェ門は早くも目をしばだたせている。しかも、明後日姫君との面談があると聞いて、目を剥かんばかりに仰天した。母と姉は涙目で手を取り合っている。

「ひ、ひ、姫君様にお目通りされるのですか。ど、ど、どう致しましょう。お前は生まれてから、左様な高貴な姫君は勿論、女子ともロクに口を聞いたことも無く、礼儀作法もまるで知りません」

黒沢尻の書家に嫁ぎ、一児の母となった弥絵も慌てている。

「一弥。お前のおどおどした態度では、姫君様のご機嫌を損じるに違いありませぬ。背を伸ばし、キチっとした姿勢をしなさい。口べたでもあります。はっきり思ったことを伝えなければなりませぬ」

「母は徹宵してお前の着る肌着を縫いました。白絹で誂えた下帯、肌着、足袋です。叔父上様より小袖、袴、帯を頂戴しました。父上が草履と笠を編んでくださいました。印籠と扇子、小太刀は伊藤家伝来の品です。これを身に着けていっておくれ」

「は、母上様。ありがとう存じます」

「なんの、これしきの事。私と弥絵は三ツ石神社でお百度参りを致してまいります。弥ェ門殿、一弥にお辞儀や平伏の仕方、ご下問へのご返答の言葉遣いなどキチっと教えてくだされ。頼みましたぞ」

一弥は父より繰り返し、繰り返し辞儀や平伏の仕方を習い、ご返答の言葉を暗誦した。


面談の日がやって来た。朝から夏の強い日差しが照りつけ、蝉が騒がしく鳴いている。伊藤の屋敷門前の木立のある広場に出迎えの御中臈様のお駕籠が着いた。廻りの屋敷や近在の百姓ほぼ全員の人々が十重二十重で遠巻きに見守っている。御中臈様にはお女中衆二人が付き添っている。きらびやかなな一行を皆ひそひそと噂する。表使の少女が高声でお着きを知らせる。赤い巨大な番傘が差し掛けられ、御中臈様、お由紀の方が駕籠よりお出ましになる。御中臈には殿の側室候補で家柄や器量が良く、頭が良い女性が選ばれる。お由紀の方も例外では無く、相当な美貌である。屈んで門から玄関に通る。たった一つしか無い座敷には、朝早くから、湯を使い、姉上から丹念に月代を剃り、髪をくしけずって貰った一弥が、緊張の青白い面持ちでお迎えする。真新しい小袖、黒紋付の羽織、小倉の帯と袴を着け、顔を畳に擦り付けている。座敷は家族、郎党総出で清掃、障子、襖を張替えて、やや綺麗にはなったが、元々の襤褸屋。いかんともしようが無い。お由紀の方は上座に座ると、扇子を使った。

「本日はお日柄も良く、祝着でございます。お城に梨菜姫様、御台所様お待ちかねでございます。その方が本日姫様と面談なされる伊藤一弥殿であられるか」

「は、はっ。か、一弥に御座りまする。な、何卒よしなにお願い申し上げます」

一弥には駕籠が用意されていた。駕籠かきは美男揃いの若衆で揃いの半被を着ている。お由紀の方の駕籠と一弥の駕籠は大勢の人に見送られ、盛岡城に向かった。盛岡城は本丸、二の丸、三の丸の外、堀を隔てて藩主の住まう表御殿、中御殿、そして奥御殿が広大に広がっている。駕籠は表御殿には通らず、庭先から奥御殿に向かう。殿様以外男子禁制の場所である。身分の低い一弥がここを通るのは異例中の異例。出入りの商人が使う裏門より入る。程なく駕籠は下ろされ、大勢の奥女中の見守る中、由紀の方が先に立ち、静々と広いお廊下を進む。廊下はお庭沿いをいくたびと無く曲がって何処までも続く。最奥の広い座敷が御台所様、姫君様の御座所である。御座所前の座敷には、五人の御中臈様達が控え、一弥が座すところを目で示す。震えが止まらない。漸う座ると頭を畳に潜れとばかり平伏する。奥の御座所からたおやかなお声が伝わってくる。

「一弥殿か。もそっと近う寄れ。遠慮はいらぬぞ」

「はっ、はっ、はぁ」

「もそっとじゃ」

「ひ、ひぃ。た、た、只今」

奥女中に引っ張られるようにして、平伏したままで御座所前に。震えが酷く、緊張のあまり厠に行きたくなる。そろり、そろりと頭を上げ、上目使いで見る。御座所は一段高くなっており、絢爛豪華な打掛をまとわれた、御台所様、姫君様が並んで座っておられる。目のくらむ、凄まじい絢爛さ。お二人とも緋色に金の刺繍のあるお着物で、肌は雪のように白く、髪は筋目のまっすぐ通った長い漆黒の濡れ羽色。瞳は黒水晶のようにキラキラと光っていて、何か憂いを秘めておられるようにも見える。恐れ多いことだが、一弥は梨菜姫様が誠に可愛らしく、お美しく感じられ、何故このような高貴な姫君が、自分のような下賤な人間を引見なさるのか不思議でならなかった。姫君のお声は高く澄んでいて、金の鈴を鳴らしたようなお声である。一弥は命ぜられるまま膝行して御台所様、姫君様御前に罷り出る。言いようも無い高雅な芳しい香りに包まれる。

「苦しゅうない。表をあげよ」

「はっ、は」

「その方、名を何と申す」

「はっ。い、伊藤一弥と申します。御馬廻り下役を合い勤めておりまする」

「小早はその方が世話しておるのか」

「はっ、は。左様に御座います」

「供のもの。茶菓をこれに」

芳しい香りのする煎茶と見たことも無い菓子が運ばれ面前に置かれた。

「阿蘭陀渡りのかすてーらという菓子じゃ。食してみよ」

一弥が菓子を頂戴していると、姫君から様々なご下問があった。馬の乗り方、歩かせ方、小早の性格などである。一弥はよどみなく全ての問いに即座に返答し、姫は大層ご満足なご様子。憂いに満ち、眉をひそめていた姫は時折笑みを浮かべるようになった。

「一弥。そちは小早をこよなく慈しんでいるとみゆる。嬉しいぞ」

この姫の一言で高貴な姫君に対するわだかまりが消えた。姫君は何をお悩みになっておられるのだろうか。自分の馬に注ぐ情熱が少しでも、姫をお慰めできれば良いと思う。姫は思いもよらずご活発で、疑問な点はずけずけと突っ込んでお問いになる。一弥が小早の癖、鼻を鳴らすところを真似ると手を叩いて大笑いなされた。御台所様はにこにこ笑って、梨菜様の様子をご覧になっている。暫くすると姫は人払いを命じた。御中臈様やお付の奥女中は皆退出し、御台所様までもが出て行かれ、御座所は姫と一弥二人きり。妙齢の姫君が若い男性と二人きりで会うことなど、かって無い出来事なのである。姫が必死に押しとどめる奥女中頭を叱りつけるように追い出してしまったのである。

「私は父上から頂戴した遠眼鏡で、毎日お庭の高台にある東屋望岳亭から、馬場で小早を世話するお前を眺めていました。馬場を裸になって一緒になって走り回り、汗びっしょりになる。すると井戸で水を汲み頭から被っていましたね」

「面目ございません。姫様がご覧になっておられるとは露知らず」

「小早はとっても可愛い馬ですが、お前も見事な身体をしていますね。惚れ惚れ致しました」

「己の裸形が姫君様のお目を汚していたとは相すまぬことです」

「まあ。その逆ですよ。私は毎日お前の逞しい身体を見るのが楽しみでした。とっても素敵ですよ。人払いしたのは他ではありません。近くでお前の裸形を見てみたいと思い、母上に特にお願いしました。一弥。立ち上がり衣服を脱しなさい」

「は、はっ。如何に姫君様の命と致しましても、このようなご面前で身体を晒すなど許される訳もございません」

「いいから、脱げ。下帯ひとつになるのじゃ」

「お、お許しください」

散々嫌がっていた一弥も、姫君の度重なる命令に背けず、ついに衣服を脱ぎ下帯姿となった。姫が言うように、一弥の体躯は上半身、下半身とも凄まじく発達し、つややかに光っている。

「まあ、素敵。少し触っていい?」

「は、はっ。何処でもご遠慮なくお触りください」

梨菜姫はいとおしいように後ろにお立ちになられ、一弥の背中や首筋、下肢にも手を伸ばし、優しく触る。背に柔らかい暖かな感じがする。姫君が唇をお付けになられたのだ。

「ひ、ひ、姫様。そのようなことを為されますと、お口が汚れます」

「いいの。こうしたかったのよ。小早に乗りたいと言ったのは口実です。一弥。前を向きなさい」

前向きになると下肢、胸板、首に唇を這わせ、最後に唇と唇を合わせる。一弥は如何して良いかわからず、姫為すがままに任せるしか無い。姫の口付けの繰り返しに興奮し陶然となり、思わず呻き声を上げてしまう。

「はしたなき声を上げ、面目次第もございません。お許しくださいませ」

「目と口の保養となりました。普段奥に出入り致すはなよなよしたお小姓か、年老いた重職ばかり。お前のような逞しい男はおりません。一弥。本日よりわらわの友となっておくれ。乗馬は毎日してもおかしくは無い。明日から通うのじゃ」

「は、はい」

「私はノ、明年京の宮家に輿入れすることになっているそうです。わらわは京のような冬寒く、夏暑い気候は嫌いじゃ。それに輿入れ先の宮家は格式ばかり高く、内実は貧困。着物など購うこと適わぬという。そのようなところへ嫁入りするのは嫌だと父上、母上に申し上げているのじゃが、中々聞き入れてくださらぬ。今は嫁入り支度とて毎日お作法を習い、辛くてたまらぬ。乗馬やお前との語らいはわらわの気持ちを少しは癒してくれよう」

「私にはそのようなお悩みは解りかねますが、姫君の気鬱を少しでも癒せるなら喜んで御乗馬の手助けをさせて頂きます。私のような下賤なものが、毎日姫様とひと時を過ごすこと、許されるものでしょうか」

「父上に申し上げ、お前を私付きの馬廻り役として召抱えるようにしよう」

夢のような姫君との面会が終わった。一弥は空を飛んでいるような気分で、足が地につかぬまま帰宅した。家では老いた両親と郎党の鐡蔵が心配して待っていた。下手をすれば手打ちにあってもおかしくない。帰りが遅いので姫様に非礼を働き、無礼打ちになっているのではと困惑していた。晴れやかな表情の一弥が帰宅すると皆ほっとしてため息をついた。

「一弥。本日の首尾如何でござった?」

「は、はい。梨菜姫様、誠にご高貴なお方様であらせられながら、親しく面談仕りました。明日より毎日奥へ出仕し、御乗馬の介添えあい勤めます」

「な、なに。毎日姫様のご相手とな。お、恐れ多いことじゃ。長らく低迷雌伏しておった、我が伊藤家に春がやってきたようだ。目出度い」

「父上。早合点召されるな。姫様は私が小早という子馬を、厳しく鍛錬するのを、何処ともなくご覧遊ばされ、おん自らも乗ってみたいとの仰せ。決して出世したのではございません」

一弥の帰宅を追いかけるように城からご家老、安芸河鐡斎様より呼び出し状が届く。家老など雲の上の人だから驚き、慌てて城に引き返す。城の御用部屋に赴くと、組頭の森居が血相替えて飛び込んでくる。

「い、伊藤。ご家老様より直々のお達しである。下達『馬廻り下役伊藤一弥儀、本日をもって梨菜姫様直属の馬廻り頭を命じ、三百石を給ずる。役宅として穀町の元大目付宅を与う』以上だ。心してお受けせよ」

「は、はぁっ」

ご家老より叱責を受け、家禄没収もあり得ると思っていたが、なんということか、家禄は十倍、上士に列する。元大目付宅とは穀町でも最上級の広大な土地に建つ立派な建物である。仰天して家に走り戻った。

「ち、ち、父上。大変でございます。わ、私は三百石取りの上士に取り立てられ、穀町に屋敷を賜りました」

「な、何!さ、三百石とな。今の十倍であろうが。こうしてはおれぬ。和江。江釣子に早馬を出せ。近郷近在の村の衆に知らせ、急ぎ盛岡まで出向くよう伝えるのじゃ。大変な準備がいる」

鐡蔵は喜びのあまり号泣している。

「なんというお目出度いことだ。殿様が日夜お役目に必死に当たられた賜物。天は見捨てては居らなかった」

翌日より姫君ご乗馬の介添えである。一弥は馬廻りに相応しい、裸に短い定紋入りの半被、ぴったりした白い短跨。姫君の御座所に罷り出る。女臈達が出迎える。馬乗りの場所と定められた二の丸前の庭は紅白の幔幕が張り巡らされ、警護の役人の床几、見守る御台所様、御中臈様の毛氈を敷いた桟敷がずらっと並んでいる。太鼓が鳴り、女性達が席に着く。

「姫君様、御成りィ」

艶やかな桜色小袖、白い短袴の姫君が奥女中に手を引かれ入場する。長い髪を後ろで束ね、白絹で結んでいる。凄まじい可憐さだ。小早の手綱をしっかり握った一弥が頬を紅潮させ姫に続く。桟敷前の庭中央へ来ると、梨菜は御台所様に一礼し馬に跨る。小早は生後一年の子馬。一弥の手助けで難なく騎乗、女性達から一斉の拍手が挙がる。梨菜のお転婆ぶりに嬌声が上がる。一弥が手綱を引きゆっくりと歩む。梨菜様は満面の笑みである。

「少し走ってみたくなりました。一弥。後ろに乗り私を支えてくれ」

「そ、そのようなご無礼なことできかねます。お許しを」

「許さぬ。構わぬ。乗れ」

「は、はっ」

姫君の後ろに乗り、両手で姫の身体を支えると、いやでも密着してしまう。早足から駆け足に入ると、身体が弾み姫もびっしょりと汗ばむ。庭は一面に青や赤紫の紫陽花が咲き、芝が勢いよく伸び、梅林が葉を茂らせている。残雪を抱いた岩木山が遠くに見える。小早は二人を軽々と乗せ、駆け足で鶴ヶ池を巡り、忽ち桟敷から遠ざかった。

「楽しいわぁ。お前に抱かれるようにして馬に乗っていると、少し変な気になってまいりました」

梨菜姫はいきなり首を回して、墜ちないように姫の腰を抱いている一弥に口付けした。

「い、いけません。お女臈様に見られてしまいます」

「大丈夫よ。こんなに遠くに来てしまったし、木陰が邪魔であちらからは見えません。もっと口を強く吸いなさい。舌を入れるのじゃ」

「私は昨日初めてお目通りが適った下級武士でございます。宮家にお興入れなさる姫君が斯様なことをなさってはなりませぬ」

「いいの。わらわはお前が好きになった。良いか、今宵忍んで参れ。女中達は言い含めておく」

一弥は姫の言う言葉がまるで信じられなかった。口付けを何度も交わし、再び桟敷前に戻ると何事も無かったように姫は下乗した。一弥は姫君の前で平伏した。

「母上。とても楽しゅうございました。一弥のお陰で初日から上手に乗れました。鶴ヶ池の向こう側まで行きました」

「まあ、それは良かった。この頃姫は気鬱の日々が続きました。このような晴れ晴れした笑顔を見るのは久しぶりです。一弥。明日からもよしなに頼みますぞ」

見物の女性たち皆満足の様子。朗らかに笑う梨菜様を見てほっとしているのだ。一弥は呆然とし、歩くこともままならない。御乗馬が終わり姫君のお座敷に招かれ、茶菓を賜り、暫く談笑する。姫様から褒美の品が渡された。屋敷に戻ると家は引越しの準備で大童だった。何しろ五倍もの大きさの屋敷に越すのである。鐡蔵の手配で大勢の町人が手伝いに来ている。新しい屋敷に揃えるため呉服屋や瀬戸物屋、指物師などに大量の注文を出している。家来の募集も始まった。騒がしい家人たちを余所に、一弥は湯に浸かり髪結いを呼んで髪を整え、髭を当たってもらう。姫君から本日の介添えのお礼に真新しい着物を賜ったのでそれに袖を通す。馬方には思えぬ若武者ぶりだ。無理も無い。今宵姫君のお屋敷に忍んで参るのだ。凛々しい服装や身だしなみが必要なのである。房楊枝で丹念に歯を磨き、何度も口を濯いで、手鏡を見る。女性のような仕草だが已むを得ない。駕籠は目立つので闇に紛れて徒歩で城に向かう。裏門では門番に誰何されることも無く、奥へ通ることが出来る。裏玄関には姫様付お女中が待っていて、一弥を姫の寝所に誘う。寝所は二十畳ほどの広さで寝間の周りは紗の薄絹を張った御簾で囲われている。女中は案内すると直ぐに去った。一弥は薄絹の向こうに低く声を掛けた。

「一弥に御座ります。お近くに参って宜しゅうございますか」

「待ちかねたぞ。篤と入れ」

「は、はっ」

姫は白い寝着を着て、布団の中に横たわっておられる。一弥は傍らに端坐すると、ゆっくり足を布団に入れ全身を潜り込ませた。


翌日から天気が良ければ乗馬、悪ければ姫の御座所に罷り出、お相手を仕る。姫にとっても一弥にとっても素晴らしい毎日だった。ご乗馬では木陰に入り口付けを交わす。御座所では人払いしていちゃいちゃを繰り返す。夜寝所へ忍ぶことも度々である。このようなことで、大身へ出世し、広壮なお屋敷を賜るなど夢のような境遇に自身不思議でならない。


その年(安政三年)の秋、江戸参府の一年が終わり、美濃守南部利剛は将軍家定に暇を請い、行列を組んで国許盛岡に戻った。家臣達に帰国の挨拶をすると、表御殿に御台所里枝姫様、御息女梨菜様を呼んだ。

「殿。此度のご帰国ご無事にて何よりと存じます。この五月には国元で大きな地震がございました。幸いご城下ではさしたる被害も無く、安堵致しましたが、胆沢や水沢などでは集落が著しく破損、栗駒村付近では大規模な山崩れで多数の集落が土砂の下に埋まり、道や川が塞がれ通行不能になったと聞いております。ご道中でご覧遊ばされましたか」

「うむ。途次多くの地震被害の報告が挙がった。胆沢付近では土砂に塞き止められた川が氾濫、大きな被害が出たと聞いた。家老らが救恤の手を差し伸べ、復興の手筈は整ったと云う。儂の留守の間、その方達は息災で過ごしたのか」

「は、はい。私も梨菜も元気ですよ。殿。梨菜を見てお気づきになりません?」

「そう言えば、何やら表情が明るくなったような気が致すが」

梨菜が笑みを浮かべながら応える。

「父上。わたくし毎日乗馬の稽古をしております。適度の運動で心も身体も溌溂としています」

「それは良かった。宮家への嫁入りも近い。壮健が何より。ところで家老の安芸河が零しておったぞ。姫が伊藤とか申す若輩を取り立て、専属の馬廻り役に登用したとか。為に藩内では怨嗟の声が渦巻いている。御手回組組頭森居などは、顔を真っ赤にして儂に訴え出よった。無論貴奴の禄高を越える伊藤の立身に嫉妬してのことだ。儂は安芸河に捨て置けと申しておいたが」

里枝様が口を挟む。

「殿。梨菜が気鬱に陥っていたことご存知でしょう。梨菜は宮家への輿入れ望んでは居らぬのです。それどころか嫌で堪らないのです」

「父上。私からたってのお願いがございます。今母上の申したこと、本当でございます。私が嫁げと言われている華頂宮家は大変由緒のある名家で、その点では良きご縁と存じます。然しながらお相手の博経親王はつい先頃まで京都知恩院で落飾、門跡を努められた厳しいお方と伺いました。堂上衆は昨今徳川からの碌を削られ赤貧洗うが如き生活が強いられているとも聞きます。ですから堂上衆の子女は挙って武家に嫁いでいるのを、殿はご存知無い筈もございません」

利剛は聡明で美しい姫を目に入れても痛くないほど可愛がっており、幼少の頃より姫の望みは何でも適えてきた積もりだ。姫は涙を一杯に浮かべ、必死の表情で訴えている。母親の里枝はそんな娘の気持ちが充分解っており、駄目押しを加えた。

「殿様。梨菜には贅沢三昧の暮らしをさせております。貧困の公家の嫁になったならば、自害するかも知れません」

「お、脅かすな。わ、解った。華頂宮家にお断りの書状を送ろう。じゃが、この縁談を断って姫はどうする積もりじゃ」

「いつまでもこの家の姫でいてはならぬこと良く解っております。華頂宮の縁談が壊れましても、叉いつか他の大名家、公家衆よりの縁談が持ち込まれるに違いございません。ですが殿。時代は大きく動いています。隆盛を誇った徳川家も今の将軍家、家定公になられてから、瓦解の一途を辿っているように感じられます」

「おい。そのようなこと決して口にしてはならぬぞ。将軍は世情言われている如き暗愚では断じてない。いたって正常で普通の方である。それで姫。どうされたいのか?」

「は、はい。私は分家を立てていただき、新しい時代に相応しい家庭を築き、その御台所を務めたいのでございます」

「相解った。姫には好きな男が居るようだ。ふむ。して分家の長となるのは誰じゃ」

「はい。伊藤一弥殿にございます」

「な、なんと。あの者、最下級の下役だったと聞く。そのような男の妻になるなど言語道断。許さぬ」

「殿がお許しにならぬのなら、梨菜あの者と下世話でいう駆け落ちを致します」

「そのようなこと、大藩の姫に許されることでは無い。そこまで申すなら、その一弥とやらに儂が会ってみよう。儂の目に適う男であったら、お前の言い分を聞いてやろう。分家樹立を差し許す」

「誠にございますか」

「儂はこの南部二十万石を治める身じゃ。戯れを申す筈も無かろう」


姫はその夜一弥を呼び出した。

「一弥殿。今度帰国された大殿から呼び出しを受けるはずです。私が頼みました。大殿はその方が私の夫に相応しい男かどうか見極めるそうです。大殿が認められれば、分家をたてその長にお前が座り、私はその妻になれるのです」

「私が姫君様の夫でございますか。私はつい先日より姫様の御乗馬の介添えをさせていただいております。けれど元々下賤の身。姫様の夫などになれるはずはございません。このこと二度とお口にされぬようお願い申し上げます」

「何を遠慮している。私とそなたは既に情を通じました。そなた私が嫌いか」

「寝ても覚めても姫様の香しいお姿を思い浮かべております。大好きにございます」

「ならば大殿に気に入られるよう努めよ。事を内向きに捕らえず、どのようにしたら打開できるかを考えるのじゃ」

「はい。畏まりました。大殿様はどのような男が好きなのでしょうか」

「素のままでよい。お前は馬方でありながら、藩校明義堂に学び、剣術道場でも相当な腕前と聞く。文武両道を兼ね備え覇気もある。何しろ気鬱で沈んでいた私をこのようなはきはき物言いが出来る女に変えたのだからな」


大殿、美濃守南部利剛と面会する日がやってきた。一弥は目通りが適う上士となっていた。真新しい麻裃、羽織、袴の正装である。澄んだ瞳、秀でた眉、気品あふれた立ち居。眉目秀麗とはこの男を指す言葉と言っても過言ではない。大殿の御座所には苦虫を噛み潰したような渋い表情の家老、安芸河鐡斎が同席している。

「伊藤にございます。お呼び出しにより参上致しました」

「そこは遠い。近くに参れ」

「は、はっ」

「ふむ。中々良き面構えじゃ。聡明そうな顔をしておる。それに体躯も実に立派だ。流石我が娘の選んだ男だけある。儂は不明にして、そちのような優れた男が藩内にいることを知らなんだ」

安芸河が前に迫り出すようにして異議を申し立てる。

「殿。この男、元はたった三十石取りの下級藩士でござる。このような男が姫君の夫となったならば、まるで示しがつきません。姫君に甘言し取り入ったこやつの追放を要求します」

「馬鹿者!そのような事を申しているから、いつまで経っても南部藩は時代遅れの藩と陰口を叩かれるのだ。いいか、安芸河。幕府瓦解は目前である。そうなれば家柄などどうでも良くなる。儂はこの男に娘の梨菜を与えよう。伊藤一弥。今日からお前は南部家の分家、江釣子藩当主として梨菜と共に一家を建てるのじゃ」

「は、はぁ」


一弥のもとを去った弥ェ門と和江は故郷江釣子に戻った。暫くすると藩公よりお達しがあり、この地に南部藩分家を設立するという。弥ェ門は慌てふためいた。この地は百姓以外商人も居らず、果たして支藩としての街が築けるのだろうか。弥ェ門は江釣子だけでなく近郷の和賀、黒沢尻、石鳥谷、花巻などの諸村から村方総代、肝煎り、庄屋など主だった人々を呼び協力を求めた。普通の百姓屋より広い弥ェ門の屋敷は集まった大勢の村人で溢れかえった。

「稲刈りの誠に忙しい時期にこうして集まっていただき、感謝に耐えぬ。皆様方にお願い申す。我が嫡男一弥が、恐れ多くも南部藩主南部利剛様の御息女梨菜姫様と縁あって婚姻することと相成った。ご藩主様は更に二人に南部家の分家として一家を建てよ、その場所はこの江釣子だと仰せになられた。この地は南部藩でも辺境の南端で、広大な山地には往古よりまつろわぬ山賤などが跋扈、跳梁する地である。大殿は此処に新たな拠点を設け、平定し人心を安定させよとのご意志であると儂は信じている。一弥は若年であるが、この大殿のご意向を全うする勇猛さを持っている。これからは一弥はこの地を知行する藩主となる。皆様方のお力添えを是非お願いしたい。併せて藩主に相応しい城郭と住まい、武士や町人の住む城下町を新たに造成構築する必要がある。大殿からご下賜金を賜るがそれだけではとても足りぬ。このことも併せお願い申す」

「そんじゃ、弥ェ門さぁ、お前ェさんの息子の為おらたちに一肌脱げっちゅうこったか?ばが告くでねえ。百姓には城なぞいらねえ。それに藩主だがなんだか知ンねえが、そんなヤツに米作りに口出しされたら、たまんねえ」

「そだ、そだ。おまんの息子、一弥とか言ったかの。野郎滅法女好きだよって、南部様の娘っ子、かどわかしたんでねえの」

村人達は分家設立を一斉に非難する。協力を請うどころでは無くなった。弥ェ門は頭を抱えた。資金をどうしよう。弥ェ門は権高の態度を一変させ、土下座した。

「皆様の仰ること良く理解しました。直ぐに一弥に言って聞かせます。嫁御となられる梨菜姫様は誠に神々しく美しきご慈愛溢れる姫様と聞いております。姫君がこの草深い江釣子に参られれば、土地の風儀も改まり、皆様の暮らしも豊かになると思います。何卒若い二人を見守って、この江釣子のお殿様、御台所様としてお迎えくださらんか。弥ェ門一生のお願いだ。こ、この通り」

「村の皆様。弥ェ門が上からモノを言ってまっごと申し訳ごぜえませんでがす。一弥は真面目でとっても優しい子でごぜえます。生き物が大好きで、お城でも馬の世話をしておりました。毎日人が厭う馬糞を掻き出したり、三里も遠い山から馬の為草を刈り、飼葉をつくり、汗みどろで働いておりました。それを遠くより眺めた姫君が、ある日馬を世話している男は誰か。その者に会って見たいと仰せになられたのでございます。姫様は一弥がお世話している小早という馬に乗ってみたいと申されました。姫君は自分の意に沿わぬ輿入れを強いられ、気鬱に陥ってお出ででした。それが姫君をこの小早に乗せて差し上げると、すっかりお元気になり、一弥のことを見初めてくださいました」

弥ェ門が頭を土間にこすりつけ、切々と訴えるのを聞いて、村人たちは一応に肯き、賛同の意を示し始めた。次いで弥ェ門の妻和江が涙交じりにいきさつを話すと、最早一弥の藩主就任に異を唱えるものは居なくなった。


江釣子村のほぼ中央、鳩岡崎の広大な荒地に数千の群集があつまり、一斉に働いている。北上川から長い行列が続いている。もっこで土を運ぶ者、北上川で運んだ岩石を持ち込む者、材木を運ぶもの、土台や堀を作るため穴を掘る者。皆ここの村人だ。指揮監督しているのは盛岡城建設に当たった役人や職人達。人々の意気は上がり皆懸命に働いている。一弥と梨菜が出会ってから一年後の安政四年(1858)春、城郭と城、主な町割りが完成、新たに雇われた家臣や盛岡藩より遣わされた武士達の住まいが続々と建設されている。様々な商人が新しい町に店を構えた。工事に携わった職人達も住まいを求める。神社、仏閣も増えた。城下町の賑わいが出、遊女が集まり旅篭や茶屋が建ち始めた。人口がぐっと増えたのである。城は三層の天主を抱く白亜の堅固な建物、櫓や家臣の住居、長屋、藩主住居が設けられている。周りに回遊式の庭園が作られ樹木も植えられた。四周の堀は川原石で固められ清らかな北上の清流が導かれている。


晴れた朝、お触れ大太鼓が天主閣より響き渡る。今日は新藩主と奥方様のお国入りである。城や城下町の建設に労あった村人やその家族達総出で、到着を今や遅しと待ちわびている。お行列に先立ち、騎乗した武士達が大声で藩主入国を報せ、役人が群集を整理、平伏してお迎えするよう伝え歩く。喧騒で聞き取れぬから、叫ぶように命を出す。

「静まれ!静まれい!殿のご来着である。茣蓙の上に平伏してお迎えせよ」

「そこ!縄からはみ出ている。もそっと下がれ」

「ここは横切るな。お行列は近くまで来ておる」

遠くに殿の行列が見え始めた。騒いでいた群集も今は静まりかえり、寂として声も無い。感激のあまり早くも泣いている老婆もいる。無理も無い。長く辺境にあり圧制に苦しめられ、人減らしで身売りが絶えず、貧窮に泣く村にこの土地出身の英明な新藩主が南部藩公の一の姫を娶って遣って来るのだ。深閑として固唾を呑んで待っている群衆も、次第に湧き上がる興奮は抑えきれぬ。序序に雄叫びのような叫び声が上がり始め、行列がはっきり認められる位に近づくとごうっという大歓声が上がった。役人達が必死で制止するにも関らず、群集の殆どが立ち上がり小旗を振ったり、悲鳴のような叫び声を上げたりしている。最早誰も止めることは出来まい。驚いたことに新藩主と姫は騎乗である。二歳馬となり成長した小早号に二人して乗っている。前は華やかな桜花を鏤めた薄黄色の小袖をまとった姫君。髪には金簪の他に多量の菫草が束ねて差してある。後ろは大名髷も凛々しく、青い長着を着た新藩主。しっかりと姫君の腰を支えている。姫は鮮やかな紅を唇に差し、青い黛を目蓋に引き、大きな目をキラキラと輝かせて、誠に美しい。新藩主は眦高く、まっすぐ通った鼻梁は聡明さと実行力に富んだ若さに輝いている。手を合わせ拝むものも、号泣しているものもいる。騒然として激しく打ち鳴らす太鼓の音も聞こえぬ。村始まって以来の大騒動。蹄音を立て、行列は堀を渡り、大手門を潜ると右手に多聞櫓、左手に祈念櫓がある。奥に進み門を二度潜って鉤形に曲がると眼前に礎石に玄武岩の巨石を積み上げた三層白亜の大天守が圧倒的に屹立している。ここで新藩主と姫は下乗、城に入る。

「南部支藩江釣子三万石新藩主、陸奥守伊藤一弥狗羆様、御台所梨菜姫さまご入城であらせられる」

裃で正装した家臣達がずらっと天主御門前に平伏して出迎える。長い狭間や廊下、階段を通って最上階の謁見の間に到着した藩主と姫君は疲れも見せず、主だった家臣達の挨拶を受けた。ひと通り挨拶を受けると、二人は新装なった藩主住居、表御殿に引き上げだ。

「姫。お疲れなされたであろう。奥へ参りもそっと寛ごうではあるまいか」

「はい。一弥様。とっても凛々しく素敵でございますよ」

「姫。貴女の方こそ、お美しく、迎えの人々が驚嘆していました。私の妻になっていただけるのですね。嬉しくてなりません」

「私が見初めた最初で最後の殿方です。好きでございます。抱いてくださいませ」

奥の寝間に入ると、人払いして二人だけになった。姫は着ている着物を次々と脱して行き、薄絹だけになると、一弥を誘い御簾の中に入る。

「殿様。私の身体を見て」

姫はそういうと薄絹を下に落とし、全くの全裸になった。真っ白い華奢な身体が現れた。上向いて張り切った乳房が息づくように揺れている。引き締まった脚を僅かに開いて立って、静かに腰を前後させた。あまりの美しい肢体と可愛らしいお顔。黒い瞳は潤んで濡れている。逆手で腋を見せ、髪飾りを取り去った。艶やかな黒髪が顔と胸にかかる。一弥は耐え切れず姫を抱いて倒れこんだ。


江釣子藩新藩主伊藤一弥狗羆は長く郎党であった鐡蔵を側用人に起用、家老に盛岡から組頭だった森居健吾衛門を向かえ、その他有為な人材を大胆に登用、藩の態勢を作った。


北上市江釣子鳩岡崎。江戸末期に建てられ、僅か二十年足らずで取り壊された城郭を物語る遺構は何も無い。ただ深閑とした小高い丘と深い杜、僅かに窪んだ掘割の跡を残すだけである・・・



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― 新着の感想 ―
[一言] 面白かったです。 逆玉浪漫時代小説ですね。 雨天から物語が始まるところ、映画みたいで良いです。 高橋克彦の『火怨』や『天を衝く』なんかもいいけど、鐡蔵さんの書く小説もとっても素敵です。 江釣…
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