其の壱・常磐の圭佑
山を彩る桜の薄紅色が風に散り、入れ替わるように新緑の色が濃くなると、松本の季節は春から初夏へと移り変わる。本来なら一年の中で最も爽やかで過ごしやすく、人々の心も我知らず心浮き立つような時期ではあるが、そんな中でも厄介な騒動は発生するらしい。
「お願いです、返して下さい!それは大切なものなのです!」
多くの人々が行き交う大通りの一隅で、そんな声が響き渡る。何事かと通行人が顔を向けると可憐な女学生が櫛を持った学生服姿の若者に向かって哀願を繰り返している姿があるが、何しろ若者は大柄で、しかもひどく興奮している様子なので人々も下手な手出しは出来ないと見て見ぬ振りをするか、せいぜい遠巻きに成り行きを見守るしか出来なかった。ごく稀に若者を諫めようと進み出る者も居たが、関係ない者は引っ込んでおれ!と当の若者に凄まじい迫力で怒鳴られると引き下がるしかない。やがて若者はいい加減にせい!と叫ぶと取りすがってきた女学生を容赦なく振り払った。よろよろと力なく道路に崩れ落ちる女学生の姿、直後。
「その辺にしておけよ」
いつの間に現れたのか小柄な学生服姿の少年が男の手からひょい、と櫛を奪い取る。一瞬、何が起こったか判らぬままギョロ目をしばたたかせた若者は、少年の手に櫛が握られているのに気付いて何事かを吼えながら掴み掛かった、しかし。
「信乃!」
少年が素早く櫛を若者の手の届かない方向に放り投げると、信乃と呼ばれた学生服姿の若者が危なげない動作でそれを受け止める。一瞬だけ若者の注意が逸れた隙に少年は若者の手が届かない場所まで軽業師のように蜻蛉を切って離れ、頭に血が上ったらしい若者が櫛を受け取った信乃にも構わずその姿を追おうとした時。
「優吾!」
少年の叫びに答えるように進み出た、やはり学生服姿で体格の良い若者が突進してきた相手を見事な返し技で投げ飛ばした。
「が……はっ!」
「この場は引け、橋本。例えどんな理由があろうと、このような場所で女に手を出した時点でお前の負けだ」
優吾と呼ばれた若者が道路に叩き伏せた相手にそう囁くと、周囲からどっと歓声が上がる。それは若者を制した三人組が被る学帽に輝く校章に一同が遅ればせながら気付いたせいでもあった。
松葉をあしらった旭日の中心に『高』の一文字。
「やっぱり松高の学生さんか」
「大したモノだな」
周囲の囁きも無理はなかった。明治三十二年よりの悲願だった官立高等学校開校が紆余曲折の末にようやく大正八年に実現して以来、松本高等学校の学生と言えば『末は博士か大臣か』と讃えらえれ、将来的にはこの国の未来を背負って立つ筈の存在と認識される、市民にとっては畏敬の対象でもあったのだ。
橋本と呼んだ若者から優吾が手を離すと、相手は立ち上がるなり睨み殺さんばかりの視線を優吾に向けてから、それでも無言のまま大股でその場を歩み去って行く。
「何だ優吾、あの松商生と知り合いか?」
小柄な少年に問い掛けられた優吾が無言で頷く傍らでは、信乃が女学生に手を貸して立たせてから先ほどの櫛を差し出して尋ねていた。
「これはお嬢さんの櫛ですか?」
「は……、はい。ありがとうございました」
そんな問い掛けに女学生が夢見るような表情で答えるのも無理はない。人形のように整った顔立ちの信乃が柔らかく微笑みながら見詰めれば、大概の相手はその美貌に心奪われるのだ。それではお返ししますと櫛を手渡されると、女学生は何度も信乃に向かって礼を述べる。信乃はそんな女学生に向かって鷹揚に微笑んで見せてから小柄な少年に向き直って言う。
「さて圭佑、俺達を使ってくれた以上は相応の物を要求させてもらうぞ」
すると圭佑と呼ばれた少年は事も無げに答えた。
「鯛焼きで良いか?」
「手を打とう」
「それじゃ縄手に行こうぜ、優吾も来るよな?」
「うむ」
そのまま三人は連れだって縄手通りに向かって歩き出す。
痩身優美な信乃がすっきりとした動作で、大兵肥満の優吾が揺るぎ無い足取りで、そして小柄な圭佑が二人に遅れぬよう早足で歩み去る姿を、女学生を含む周囲の人々はその姿が見えなくなるまで見送り、やがてそれぞれの方角に散っていった。
* * *
松本城が築城された頃からの歴史ある町人屋敷町である本町通り。
なまこ壁、或いは白塗りの土蔵造りの建物が数多く整然と建ち並ぶ目抜き通りにある中でもひときわ大きく重厚な店構えを誇る、黒瓦に設えられた屋根付きの看板に『神倉屋』と記された店の暖簾を、圭佑は元気良く潜り抜けた。
「ただいま、秀一兄ちゃん」
すると、店に座って煙草盆を傍らに置いた姿で煙管をふかしながら大福帳に何事かを書き付けていた二十代半ばに見える男が、筆を止めてから圭佑に向かって微笑む。
「おや圭佑、今日は町で見事な大立ち回りを演じたそうだね」
「ええーっっ!何で知ってるの兄ちゃん?」
驚きを隠せない弟に、秀一はロイド眼鏡の蔓に手をやってから答える。
「ちょうどウチのお客さんがあの騒動に居合わせたのさ」
あまり危ないことをしてはいけないよなどど口では諫めつつ、その実は弟の活躍が愉快で堪らないらしい秀一に向かって、圭佑は自慢げに答える。
「大丈夫だよ、信乃も優吾も一緒だったから」
「そうか、あの二人が居れば安心だな」
眠い猫を思わせる糸目を更に細めながら呟く秀一。現在は神倉屋の番頭として父を扶けて働く彼は、家族の中でも特に年の離れた弟である圭佑を溺愛していた。
「そう言えば、お前が助けたお嬢さんは女子職業学校の学生だったのかい?」
煙草盆の灰落としに煙管の灰を落としてから問い掛ける秀一に、圭佑は素直に頷いてみせる。
「うん、そうだよ」
「実はね、今度父さんの勧めでお見合いをすることになったのだけど、相手はまだ女学生だと言うんだ」
ひょっとしたらお前が助けた娘さんがそうかも知れないなと笑う秀一に、何故かいきなり難しい表情になる圭佑。
「うーん、だとしたら、ちょっと嫌だな、おれ」
「おや、どうしてだい?」
普段は温厚極まりない秀一の、眼鏡に隠れた瞳が奇妙に底光りするのにも気付かぬまま、圭佑は続ける。
「別に礼を言って欲しかった訳じゃないけどさ、あの女学生、信乃にばかり礼を言って、おれと優吾には見向きもしなかったんだ」
そりゃ信乃は奇麗だから見とれて他の男が見えなくなっても仕方ないけどさ。などと唇を尖らせる圭佑に、秀一は普段通りの瞳に戻って促す。
「おっと、そろそろ夕飯の時間だ。一度部屋に戻って鞄を置いてきなさい」
「うん!そう言えば何だか腹減ってきたよ」
先程まで縄手通りで信乃や優吾と共にさんざん鯛焼きを喰らってきたとは思えぬことを呟きつつ奥の間に消える圭佑の背中を見送りながら、秀一は再び煙管の吸い口を咥えてから大福帳に筆を走らせ始めた。
「うーむ、『松高の、三羽烏の飛ぶ空は』……かな?いやいや、どうもしっくり来ない」
* * *
旧制の学校制度は現代と違って様々な中等、高等教育機関、更に軍学校が存在した。
例えば尋常小学校を卒業した後には中学校(五年制)、七年制高校、高等女学部、高等小学校、実業学校などの進路が複数存在し、更に高等学校(旧制高校)専門学校、高等師範学校、陸軍兵学校、海軍士官学校などに分岐していく。
なお官立大学、更に最終学府である大学院に入学するには七年制高校、もしくは高等学校を卒業する必要があったが、旧制高等学校の在籍者数は当時の同世代男子の1パーセントにも満たなかったという。
ここで話は松本高校に戻るが就学年数は三年で学級は基本的に四十人編成、文科理科共に甲・乙類のクラスがあったと言うので全生徒数は四百八十名ほどの計算だろうか。甲類は第一外国語として学ぶのが英語、乙類は独語となる。文科と理科では若干授業内容が異なるが、国語・漢文、歴史、地理、哲学、数学、物理、化学、心理、体操など今日でも馴染み深い学科の他に修身、自然科学、図学など聞き慣れないものも存在する。
いずれにしろ学生らは週に三十二から三十四時間をそれらの勉学に費やす計算となる訳だ。ざっと計算すると月曜から金曜までの五日間は六時限、土曜日は三時限編成と思われる。
それはともかく、この物語の主人公である三人は文乙、つまり文系で第一外国語は独語選択クラスの二年生である。授業内容は高度であったが『教わるのではなく学生自らが考え、そして学ぶ』をモットーに数多くの名物教授が個性的な講義を行う興味深いものであり、学生の入れる茶々で授業内容が脱線することも珍しくなかったようだ。
* * *
その日、優吾は授業が終わるとすぐに寮の自室に戻って袴をはいた和装に着替えると、学帽も被らぬ下駄履きで校門を出た。見上げると空は未だ明るく澄み、山の端に一掴みほどの雲が浮いている以外は地上に降り注ぐ陽光を遮るものはない。そのまま、町には向かわず校門前の通りを左に折れ、すぐ側にある松本商業学校を目指すと、橋本は約束通り、校門からやや離れた場所で優吾を待っていた。
「待たせたか?」
「……いや」
口数少なく問い掛ける優吾に、やはり口数少なく橋本が答える。そのまま二人は連れ立って歩き出すと、すぐ側を流れる川縁の道を東に向かって遡るように進んでいった。
やがて人家はまばらになり、傍らに苗が植えられたばかりの田んぼが延々と続く道から人の姿が絶えた辺りで、無言のまま河原に降りる優吾に、やはり無言のまま続く橋本。そのまま川縁に座り込んだ二人は、絶え間なく音を立てて流れ去って行く水の流れに目を向けたまま微動だにせずに長い時間を過ごすばかりだったが、こうしていても埒が明かないと判断した優吾は、二人の間に横たわる屍のような沈黙を思い切って自分の方から踏み越えた。
「この前の騒動は、お前らしくなかった」
「ああ、俺もそう思う」
優吾の言葉に対して素直に頷いてから、橋本は、やや途切れがちにではあったが話し出す。
「あの女学生は、俺の妹の先輩だ」
だが、俺が職人見習いの友人に頼んで妹の為に作って貰った特別誂えの櫛を差し出すほど、仲が良い相手ではないと思う。そんな風に続いた橋本の言葉に対して流石に眉をひそめる優吾。
「あまり、こういうことは言いたくないのだが、証拠はあるのか?」
「妹が櫛を無くしたと泣いて俺に謝った次の日、あの女が同じ意匠の櫛を髪に飾っていた。だから俺も頭に血が上った」
「それは難しいな」
呟いてから黙り込む優吾。やがて今度の沈黙を破ったのは橋本だった。
「俺のことは良い、それより知りたいのはお前についてだ優吾」
一体、どのような理由で柔道の世界から身を引いた。そんな橋本の問い掛けに優吾は無言のまま俯く。
「この前俺を投げ飛ばしたお前の技に衰えは感じなかった。それなのに何故だ」
更に続く橋本の言葉に、優吾は無言で立ち上がると周囲を見回してから呟く。
「ここでは足場が悪い、余所に移るぞ」
* * *
其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山。
(其の疾きこと風の如く、其の静かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざる事山の如く)
これは信州松本にも深い所縁のある、甲斐の虎と称された武田信玄が旗印として使用していたという孫子の兵法書である軍争篇の一節だが、かつて柔道を志していた頃の優吾は更にこの後に続く言葉、つまり、
難知如陰、動如雷震
(知り難きこと陰の如く、動くこと雷震の如し)
を含めた姿で称され、近在の柔道者に恐れられた負け知らずの存在だった。橋本も実は公式、練習、更に野試合を含めて、ただの一度も優吾に勝てたことはない。
何しろ柔道の才能だけでは無く体格にも恵まれ、それでいて決して奢らず地道な練習を欠かさない、更に対戦相手を恐れず且つ侮らず、ただ揺るぎない巌のように対峙して機会を得れば疾風のように迫り、更に燎原の火を思わせる勢いで攻め立て、仕上げに雷撃のような決め技を放ってくる何とも図りがたい化け物。
それでも橋本は決して諦めずに優吾に向かっていき、優吾もそんな橋本とやがて僅かだが言葉を交わし合うようになり、いつしか二人の間には、友情と言うには余りに堅苦しい関係が何となく築かれていくことになった。橋本にとって優吾はいずれ並び立ち、やがては越えるべき目標であり、それ故に日々研鑽を重ねていたのだ。
だが優吾が中学三年になる少し前、彼の母親が亡くなって間もない冬の頃。優吾は突然道場に通うのを辞め、学校の柔道部も退部し、当然のように試合にも一切出場しなくなる。周囲の動揺と慰留は相当なものだったが優吾の決心は揺るがず、何故柔道の道を断念したかについても自身からは一切説明しようとしなかった。
* * *
答えが知りたいのなら、遠慮せずにかかって来い。
そんな優吾の言葉に、橋本は己の頭に血が上るのを感じながら組み討ちを挑む。しかし、次の瞬間には地面に転がされていた。
「これで終わりか?」
橋本を見下ろす優吾の視線はあくまで穏やかでありながら何故か哀しげで、それ故に更に橋本を逆上させる。
「舐めるなあぁぁっ!」
何度も何度も地面に転がされ、視界が霞んで足下も覚束なくなってもなお優吾に挑み続けながら、橋本はやがて奇妙な違和感を覚える。
「優吾……お前、何故、自分からは仕掛けてこない」
すると優吾はようやく気付いたかと言わんばかりに俯き、重々しく呟いた。
「己はもう、自分から相手に技を掛けられんのだ」
「馬鹿な!」
一体何だってそんなと呟いた橋本は、自分を見下ろしてくる優吾の、まるで殉教者を思わせる瞳に胸を突かれたように黙り込んだ。優吾が柔道を思い切るに当たって周囲は様々な憶測を元に数多くの無責任な噂を流したが、その中には聞くに堪えない誹謗中傷も含まれていて、最も酷いのは、優吾が昔から折り合いの悪かった義父を己の柔道技で投げ殺したというものだった。もっとも、優吾の義父は酒浸りで博打打ちで乱暴者という、それこそ絵に描いたような鼻つまみ者だったので、優吾の母親が亡くなってからすぐ村から姿を消したと知った周囲も『あんな男、 たとえ殺されたとしても自業自得だ』と、概ねは優吾に対して同情的な意見ばかりであったのだが。しかし。
「俺は、俺は認めんぞ、優吾」
もはや立っているのもやっとの状態で、それでも優吾に掴み掛かりながら橋本は吼える。
「俺はまだ、お前に一度も勝てていない、それなのに、お前はオレの前から消えると言うのか!」
「……今、此処で己がお前に投げ飛ばされれば、お前は気が済むのか?」
「ふざけるなぁ!」
優吾の言葉に激昂し、最後の力を振り絞って技を掛けようとした橋本は、次の瞬間、実にあっさりと地面に叩き伏せられる。それでも何とか必死に立ち上がろうとしたのだが、流石に限界だった。気力や根性だけでは決して埋めることの出来ない実力の差を嫌と言うほど思い知らされ、畜生と何度も呻く事しか出来ない橋本を見下ろしながら、優吾は厳かと言って良い表情と口調で宣言する。
「己はもう歩むのを止めたが、お前が諦めずに歩み続けるなら、いずれ必ず今の己が立っている場所より先に辿り着けるだろう……だから、結局はお前が勝つ事になる」
勿論、それを逃げと言われても反論は出来ないし、今の己には済まないと謝罪する以外の事は出来ない。そんな優吾の言葉に橋本は再び吼えた。
「謝るな!
お前は本当に謝らねばならような真似をしたのか!そうでなければ謝るな!」
叩き付けるような言葉に対して、優吾は不意に橋本から顔を背けて自らの頭上に視線をやった。釣られるように橋本が見上げると、夕暮れ時特有の白みがかった青色をした空は奇妙に寂しげで、所々に浮かぶ雲だけが薄紅を差したように輝いている。
「済まない……、済まない……」
そんな風に何度も呟くばかりの優吾が、今の自分の顔を見せたくないのだと気付いた橋本は我知らず地面に己の両拳を叩き付けながら叫んでいた。
「謝るなぁぁぁっ!」
結局、俺は優吾の事など何も知りはしなかったのだと思い知らされながら、橋本は嗚咽を繰り返す。そして優吾も又、空を見上げたままの姿で、随分長い間微動だにしないまま立ち尽くしていた。
* * *
優吾が橋本を呼び出した数日後。
その日の天気は上々だったので、生徒達は昼休み時間に教室を離れ中庭やホール周辺の屋外で弁当を使う者が多かったが、圭佑や信乃、それに優吾の姿もその中にあった。
寮暮らしの優吾はホールで買った業者搬入の弁当を、他の二人はそれぞれ家から持ち込んだ弁当を敷地内の立木の枝葉を初夏の爽やかな風が揺らす中で広げ、いつものことだが圭佑は三人の中でもひときわ嬉しそうに箸を動かす。松本でも有数の大店の息子である圭佑の弁当は量だけでなくおかずの内容もなかなかに豪華なもので、信乃などはこれだけの量の飯を日常的に喰らっている筈の圭佑が、どうして縦にも横にも伸びずに小さい躰のままなのかと疑問に思ったりするが、当然ながら口に出したりはしない。
「ああ、そう言えば二人とも、今度の日曜って何か予定あるか?」
ふと思いだしたように尋ねてくる圭佑。
「いや、特には無いが」
「己も無い」
信乃と優吾が答えると、圭佑はにんまりと満面の笑みを湛えてから提案してくる。
「それじゃさ、ちょっと良い料亭で一緒に昼飯なんてどうだ?」
「何かあるのか」
今までの経験上、圭佑がこういう表情をするのは大概が碌でもない騒動の発端であると知っている信乃が一瞬だけ優吾と視線を交わし合ってから呟く。
「実はさ、うちの秀一兄ちゃんがお見合いするんだよ。でさ、父さん達には内緒でおれ達三人にご馳走してくれるって言うからさ」
「俺達三人に?」
「信乃と優吾には色々おれが世話になってるから、こう言う機会にお返しをしておきたいって兄ちゃん言ってたぜ」
「世話に、ねぇ」
別に世話をしてやっているなどと言う気はないが、確かに圭佑と連んでいると面倒ごとに巻き込まれる頻度は相当に高い。そんなことを信乃が考えていると、同級生の一人が三人の存在に気付いたように近寄ってきて声を掛けてくる。
「おい圭佑、羽柴先生が職員室まで来いって呼んでたぞ」
何かやったのかお前、と続く級友の言葉に思い当たる節でもあるのか僅かに表情を引きつらせる圭佑が救いを求めるように信乃と圭佑に視線を送るが、二人は自分の弁当から視線を外すことはなかった。
「取りあえず行って来い、お前の弁当には手を出さんから」
優吾が重々しく呟くと圭佑も観念したように立ち上がり、すぐ戻るからな!と叫ぶなり小走りでその場を駆け去って行く。
「……それにしても圭佑の兄さんが見合いとは、とうとう覚悟を決めたのかね」
信乃の呟きに優吾も頷く。
「元々から、大店の跡取りとしての責任を果たさねばならぬ身ではあっただろうが」
秀一兄ちゃん、何か女性が苦手なんだって。おれが小さい頃に何かあったらしいけど、詳しくは教えてくれないんだよね。
以前、圭佑が行っていた言葉を思い出しながら頷き合う二人。圭佑の兄である秀一とは何度も会った事があるが、さすが大店の番頭を勤めるだけあって人当たりが良く、眠たがっている猫を思わせる少しばかり締まりのない印象は拭えないが、顔立ちも悪い方ではない。故に秀一が現在まで女性を遠ざけるに至った、圭佑の言う『昔あった何か』は相当に深刻な事件だったと容易に察することが出来た。
「まあ、わざわざ圭佑や俺達を見合い現場に、しかも親に内緒で呼びつける辺り、何かはありそうだが」
「確かにな」
根っから坊ちゃん育ちの圭佑と違って平穏とは程遠い、はっきり言ってしまえば相当に屈折した幼少時代を送ってきた信乃は旨い話を額面通りに受け取るという習慣を持たないし、優吾は信乃とは別の意味で他人の好意に甘えるのが苦手だ。しかしそれ故に、何度か世話になっている秀一が圭佑と二人を巻き込んで何かを企んでいるというのなら、むしろ積極的に乗るべきではないかとも思えるのだった。
「とりあえず、今度の日曜か」
信乃が呟き、応ずるように優吾が頷いてすぐ、先生との話を終えたらしい圭佑が『おれの弁当~っ!』と叫びながら二人の側に駆け戻ってくる。
* * *
そして日曜日。
学生帽を被った学生服姿で黒革靴を履き、更に膝丈の袖無し外套を纏った圭佑、信乃、優吾が松本でも名のある料亭である翡翠亭に到着すると、心得たように仲居が現れて三人を離れに案内してくれた。とにかく女性には愛想良くが習い性になっている信乃が笑顔で礼を述べると頬を赤らめ、それでも失礼にならないような動作でその場を去って行き、やがて料理が運ばれてくる。昼日中、しかも成人前の学生に出す膳として流石に酒は無いが、料理は川魚や季節の山菜だけでなく卵や山鯨(猪)などを使った豪勢なものだった。
「お前の兄貴、今日は随分と張り込んでくれたようだな」
感嘆とも呆れとも付かない呟きを漏らす信乃と無言のまま料理を見詰める優吾に、圭佑が凄いだろうと嬉しそうに自慢していた頃。
圭佑の兄、秀一は翡翠亭の中庭を見合い相手を伴って散歩していた。
* * *
型通りの挨拶が終わり、あとは若いもの同士でと言うお定まりの言葉と共に大人連中が退散したあと、秀一は自分の眼前で控えめに俯いている着飾った娘を中庭に誘う。その柔らかな笑顔と穏やかな物腰に緊張がほぐれたのか、娘のほうもぎこちなく微笑みながらそれに従った。
敷地自体はそれ程広くないのだが、巧みに配されて上手い具合に視界を覆う植木と、岩や石塔を傍らに置き石橋を渡した池の存在で実際より遙かに広く感じられる庭園を進みながら、秀一は娘に向かって話し掛ける。
「優香さん……でしたか、貴方もわたしのような年の離れた相手とお見合いとは災難でしたね」
当然だがこの時代、自由恋愛などと言うものは存在しないに等しい。子供の結婚は親同士が決め、極端な場合は式当日までお互いの顔を知らなかったりもした。ましてや秀一のように大店の跡取りともなれば、本来なら相手は引く手あまたで年齢的には既に家庭を構えていてもおかしくはない年齢と言える。
「そんなことありませんわ!確かにお目に掛かるまではどんな方かと不安でしたけれど、想像していたよりずっと素敵でしたもの」
なかなか積極的な褒め言葉に秀一が笑顔で応じると、優香は再び控えめな、しかし探るような口調で言い添える。
「でも、確かにこんな素敵な方が今までお一人だったのはとても不思議ですわ」
「昔、鬼隠しに遭ったのですよ」
一瞬だけロイド眼鏡に隠された眼に強い光を宿しながら呟いた言葉を聞き取り損ねたのか、戸惑いの表情を浮かべる優香に、秀一は再び柔らかく微笑んでから囁いた。
「ところで素敵な櫛ですね、拝見しても宜しいですか?」
生まれて始めて父親以外の男に、もしも接吻を求められたら逃れることの出来ないほどの間近に顔を寄せられ、優香は上気した表情で頷いてみせる。細やかな動作で優香の髪から櫛を抜き取った秀一は、しばらくの間黙って櫛を眺めていたが、やがて優香に向き直ると櫛を手にしたまま尋ねる。
「夢二がお好きでなのすか」
はい、と答える優香。大正浪漫のシンボルと称される当時の流行画家の作品は、美人画の他にも挿絵、商標、それに日用品のデザインなど幅広く、優香の櫛も明らかに『夢二のいちご』と呼ばれる絵柄を元に細工が施されているのが判った。秀一は手にした櫛を矯めつ眇めつ眺めやってから笑顔のまま続ける。
「実はウチの店には様々な職人の出入りがありましてね、特に修行中の若い職人は良くわたしに自分の作品を見せてくれるのですよ」
彼の言わんとすることが判らないのか曖昧に微笑む優香に、更に言葉を重ねる秀一。
「その中に面白い男がいましてね、依頼を受けると細工物に一見では判らぬような印を入れるのが得意なのです」
例えば依頼主が櫛を贈る相手の名前をローマ字で図柄に入れ込むとかね。そんな言葉に一瞬だけだが優香の表情が醜く歪む。
「ところで、『MUTUMI』と言うのはお友達の名前ですか?」
既に蒼白と言うべき顔色となった優香に、心底から残念そうに秀一が言葉を掛ける。
「個人的には、その外面の良さも底意地の悪さも含めて貴方のことはなかなか気に入ったのですがね。商家の人間として他人のものに手を付ける相手を伴侶に選ぶ愚は犯せないのですよ」
迷いの無い動作で櫛を己の懐に仕舞い込み、とても残念ですと言い置いてから歩き出す秀一に、優香は追いすがることも出来ぬまま一人小刻みに震えながらその場に立ち尽くしていた。
* * *
秀一にとってはともかく、圭佑たち三人にはどうと言うことなく終わった見合いの日から数日後。
その日の圭佑は授業中に相当な空腹を覚えて授業の終了時間まで待ち切れず、つい教科書で隠しながら手持ちの饅頭を引っ張り出して齧り付くという所業に及んでしまった。小柄な圭佑の座席は黒板が見やすい位置にあり、当然ながら教壇に立つ先生にとっても見やすい位置にある。
「倉上、起立」
不意に掛けられた独語講師の声に、圭佑は一瞬だけ動作を凍り付かせながらも迅速に口中の饅頭を飲み込み、元気良く起立する。
「倉上、起立しました!」
何をやっているんだあいつはと信乃が頭を抱える中で、現場を押さえた講師だけでなく不手際をやらかした級友に対する緊張を含んだ周囲の視線すらものともしない、居直りとも取れる圭佑の態度に、ドイツ人であるパウエル講師は日本人と殆ど変わらぬ端正な発音で質問してくる。
「倉上、君は随分と饅頭が好きな様だな?」
「はい!饅頭は大好きです!どれ位好きかというと素晴らしいドイツの歌曲と同じ位に好きです!」
これは音楽を得意とするパウエル講師に対する、言ってしまえば追従に近い発言だったが、そんな圭佑の答えに対してパウエル講師は不吉な微笑みを口元に浮かべながら断言する。
「それでは、君の好きなドイツ語の歌曲を、何でも良いから一曲ここで歌って貰おうか」
パウエル講師にとっては、自分の授業中に不真面目な態度を取った学生に軽いお灸を据えてやるつもりだったのかもしれないが、途端に圭佑の目が輝いた。
「それでは僭越ながら、『シューマン作品29「3つの詩」より第3曲、流浪の民』を歌わせて頂きます!」
Im Schatten des Waldes, im Buchengezweig,
da regt's sich und raschelt und flüstert zugleich.
Es flackern die Flammen, es gaukelt der Schein
um bunte Gestalten, um Laub und Gestein……
現在はロマと呼ばれているジプシーたちが、故郷を離れた旅路の中で過ごす一夜の情景を歌った力強いながらもどこか哀しげな歌曲を、未だ完全な変声期を迎えていない圭佑が想像していたより遥かに明瞭な発音で歌う姿に、パウエル講師も思わず感心して歌声に聞き惚れる。
……fort zieh'n die Gestalten, wer sagt dir wohin?
Fort zieh'n die Gestalten, wer sagt dir wohin?
Fort zieh'n die Gestalten, wer sagt dir wohin?
Wer sagt dir wohin?
最後の歌詞まで見事に歌い切った圭佑に信乃や優吾を含む級友たちが惜しみない拍手と歓声を送り、当の圭佑も自慢げに軽く上げた手を振りながら『いやいや抑えて抑えて』などと周囲を宥める中、授業終了のベルが鳴り響いた。
「それでは、今日の授業はこれで終了とする」
教科書を片手に教壇を降りたパウエル講師は、しかし、急場をうまく切り抜けて得意になっているらしい圭佑に向かって厳かと言ってよい表情を向けると、実に重々しい口調で宣言してみせた。
「そうそう、先ほど歌って貰った『Zigeunerleben(流浪の民の原題、ジプシー暮らしの意)』だが、発音には問題が無かったから次回の授業までに歌詞と日本語対訳を筆記して提出する様に」
最後の最後で完全勝利を逃した衝撃から呆然とする圭佑に、教室を出て行く講師の背中を見送った信乃が声を掛ける。
「まあ、せいぜい頑張るんだな」
ちなみに俺は家の用事があるから今日は真っ直ぐ帰るぞ。そんな信乃の言葉に対して残念そうに頷いてから今度は優吾に声を掛ける圭佑だったが、優吾からも読みたい本があるので寮の部屋に戻ると答えが返ってきた。
「何だ、つまんねーの」
ぼやく圭佑に、優吾が窓の外を見ながら忠告する。
「空模様が怪しい、雨が降る前にお前も早く自分の家に帰った方が良いぞ圭佑」
ええーっ、雨?おれ傘持ってないよとぼやく圭佑に『なら早く帰れ』と殆ど同時に突っ込みを入れてから教室を出る信乃と優吾。やや遅れて校門を出た圭佑は特別課題提出を命じられた傷心を癒やそうと、最近では珍しく一人で縄手方面に向かう。
そして、いつもなら決して遅れない夕飯時、更に夜半をとうに過ぎた時間になっても家に戻らなかった。
* * *
夕空は厚い雲で覆われ、大粒の雨が叩き付ける様に町並みを濡らしては道端に濁った水溜まりを拵えていた。通りを進む人は疎らで、誰もが雨の当たらぬ場所を目指して足早に進んでいる様子が伺い知れる。
そんな中、学生服姿の小柄な少年が足早に家路を急いでいた。級友の忠告を無視してカフェーで珈琲など頂いていたら雨に降られ、一向に止む気配も無いので仕方なしに走って帰ることにしたのだ。普段は栗鼠の様に敏捷な少年なのだが激しい雨に視界を遮られ、足元は洪水の様に水が流れている状態では大して早く走れる訳も無く、時折小声で何事かをぼやきながら道を進んでいくしかなかった。そして、それ故に普段なら即座に気付いたであろう突発的な事態に反応するのが遅れたのだ。
いきなり路地から伸びてきた手に鼻と口元を押さえ込まれ、そのまま路地裏に引きずり込まれた少年は反射的に右肘を自分の背後に叩き込んで手応えを確認すると殆ど同時に反動で相手の手を振り解き、次の瞬間には蜻蛉を切りながら離れ去る。
「なんだお前ら!」
足場が悪いせいか普段通りの奇麗な着地とはいかず、慌てて体勢を立て直す少年は自分を路地に引き摺り込んだ相手に複数の仲間がいて、しかも今度こそ確実にこちらを絡め取ろうとしていることに気付いた。既に退路は塞がれ、この雨では叫んでも助けが現れるとは思い難い。そして何故か酷く体が重かった。
このガキ!と、どうやら彼に蹴り飛ばされたらしい男が向かって来たが、他の男に止められる。
「焦るな、動けなくなるまで待てば良いんだ」
その不吉な予言通り、自分の意識が瞬く間に霞んでいくのを抑え切れなくなる少年。先ほど鼻と口を塞がれた時に薬を使われたのだと気付くが、既に手遅れだった。
耐え切れずに体勢を崩して倒れ込む少年の体が完全に動かなくなったのを確認すると、やがて一同の中でもひときわ体格の良い男が進み出るなり軽々と小脇に抱え、羽織っている合羽で隠すようにしてから仲間たちと連れ立って歩き出す。
* * *
寝床から飛び起きた秀一は、先程まで視ていた不快極まりない光景の一部始終が自分の夢であることに気付いた。寝間着は酷い寝汗でじっとりと濡れ湿っていて、あまりの不快さに井戸水を浴びてから着替えことにする。
数日続いた激しい雨はようやく止んだが雲は未だ切れ切れに空を覆い、その隙間から差し込んでくる月の光もどこか朧だ。
「圭佑……」
神倉屋の末子が行方不明になって、一番初めに壊れたのは秀一や圭佑の母親だった。床に就いたまま次男の安否に心を痛め続ける姿に、夫である店主の状態も不安定にならざるを得なくなり、皮肉にも二人のそんな状態を支える必要から、長男である秀一はどうにか平静を保っている状態と言える。ただ、圭佑が失踪した件についての手がかりらしきものは既に発見されていて、実は結果的にそれが更に事態を拗らせるだけ拗らせていた。
秀一兄さんと金崎のお嬢さんが祝言を挙げるまで帰りません。
店の小僧(この場合は年季奉公中の子供を意味する)が「番頭さんに渡すように言われました」と持ってきた包みを開けると、中には表紙に圭佑の名前が書かれたノートが入っていて、最後の頁には明らかに圭佑の筆跡では無い字でそう書かれていた。包みを受け取った小僧に秀一が詰問すれすれの口調で問い詰めても、十歳にもならない小僧は半泣きで「手拭いを被った若い書生さんから受け取った」としか答えられず、考えあぐねた末に相談した父は既に正常な判断が出来なくなっていたらしく、圭佑が帰ってくるならばと一度は破談とした優香との縁談を再び纏めようとした。
ただ、これに酷く反発したのが金崎家の当主で、愛娘に対しての酷い侮辱だと言う理由で縁談を拒絶してきた上、最後には秀一の父と掴み合いの喧嘩にまで発展したのだった。 そんな訳で金崎のお嬢さん、つまり優香が圭佑の失踪に何らかの関与をしているのはほぼ間違いなかったが、優香の父親が臍を曲げ、圭佑捜索に対して一切の協力を拒んだ結果として膠着状態に陥っている。
ちなみに、秀一は警察を介入させる手段を最後の最後まで使いたくなかった。かつて似たような騒動が発生した際に警察沙汰になった結果として大店が一軒潰れ、多数の周辺業者が巻き添えを食って破産や夜逃げの憂き目に遭ったのを目の当たりにしているのだ。それに予想通りに優香が首謀者だとしたら、よもや攫った圭佑を殺したり酷く傷付けたりする度胸があるとも思い難い。
もちろん秀一としても自身の経験から女の浅知恵に因る愚行が時としてどれ程の惨劇を引き起こすかは良く知っているので、適切な対応を、しかも迅速に行う必要性は充分に認識しているつもりだ。
「いずれにしろ……今度は私が助ける番だよ、圭佑」
雲の隙間から差し込む月光に反射して輝くロイド眼鏡の縁に手をやりながら、秀一は独り呟く。
* * *
あの、二・三度叩き殺した位じゃ死んでくれそうにない元気者が何日も学校を休んでいるんだ。見物に行かない手はあるまい。
いつものことながら、そんな信乃の暴言に含まれた真の意味を正確に察したらしい優吾は憤慨した様子も見せずにうむ、と頷いて同意を示してきた。
やがて授業終了と共に連れ立って校門を出た二人は、しかし見覚えのある小僧に呼び止められる。
「信乃さんと、優吾さんですよね」
「そうだが、お前は神倉屋の小僧だな」
おいらを知っているのですかと驚く小僧に、信乃は事も無げに以前店で働いているのを見た覚えがあると答えた。
「それより、俺達に何の用だ?」
「番頭さんから手紙を言付かって参りました。出来れば、ここでお返事を頂くよう言われております」
「秀一さんから?」
とにかく手紙を開封してみると、前略から始まる短い文章には今度の日曜朝九時頃、信乃と優吾の二人に和装、無帽で圭佑に会いに来てやって欲しいと綴られていた。
「これはこれは……」
あからさまなまでの訳あり文章に呆れ果てながら、回された手紙を読み終わった優吾が自分に向かって躊躇無く頷いて見せるのを確認した信乃は、傍らで不安げに答えを待つ小僧に向かってきっぱりと言い放つ。
「承ったと、伝えてくれ」
* * *
そして約束の日曜日。
時間通りに無帽の袴姿で神倉屋の店先に立った信乃と優吾は、先日手紙を届けに来た小僧に案内され、こっそり裏口から屋敷に上がることになった。本来なら憤慨するべき応対なのだろうが二人の表情に憤りは見られない。そのまま雨戸がしっかりと閉じられた薄暗い圭佑の部屋に通されると、待っていたのは秀一だった。
「こんな形で呼び出したのは申し訳ないと思ってますが、いささか事態が込み入っているのですよ」
「圭佑の姿が見えませんね」
座布団に着くなりいきなり斬り込んできた信乃に、秀一は軽く溜息を吐いてから呟く。
「さて……、どこからどの辺まで話したら良いものか」
「まだ昼前です、時間は充分にあると思われますが」
あくまで追及の手を緩めない態度の信乃を、秀一は眼鏡の蔓に中指をやって位置を直してから見据えると、普段の物柔らかな態度からは想像もつかない乾いた口調で言い放った。
「それで君は一体何を、どれだけ知っているのです?」
相対しているのが常人だったなら平静を保つのは難しかったであろう秀一の変貌に、しかし信乃は怯みもせずに答える。
「俺も、優吾も、元々は松本の人間ではありません。だから余所者が地元の人間から聞き出せる程度の噂と、かつての事件について記された複数の新聞記事の内容程度ですよ」
「成る程……さすがは松高生ですね、予習は欠かさないと言う訳ですか」
それでは、『神倉屋のてんにんご』という言葉は聞きましたか?そんな風に尋ねてくる秀一に信乃は頷いてみせる。
* * *
てんにんご、敢えて漢字を当てるなら天人児。
これは倉上家の屋号である『神倉』の元になった伝説から生まれた呼称で、良くある話なのかも知れないが神倉屋を興した先祖は天女を己の妻として娶ったのだそうだ。ただ通常の伝説と異なり天女は男と子を設けた後も天に還らず、地上で人としての生を全うしたと伝えられている。
「……それ以来、神倉の家には時折、あたかも天人であるかのように人並み外れた才能と幸運に恵まれた子供が生まれるようになったのですよ」
「それが圭佑ですか」
信乃の言葉に、秀一は何故か口元を引きつらせてから答える。
「私はね、昔は自分がその『てんにんご』だと思っていたのです」
自分で言うのも何ですが、私は昔からそこそこ出来の良い頭脳の持ち主で、更に言うなら今より遙かに愚かだったので、周囲の大人達に持て囃されていい気になっていたのですねと、秀一の言葉は続く。
だが、そんな甘ったるく居心地の良かった世界は圭佑が産まれた事で完膚なきまでに叩き壊された。
「実は圭佑は産声を上げずに誕生し、三つになるまで全く何も喋らなかったのですよ」
通常なら、次男とは言え商家の息子であれば決して歓迎されないそれを、しかし当時存命だった祖父は手放しで喜んだ。てんにんごは必ず五感の何処かにその『印』を宿して産まれ、先代のてんにんごだったとされる祖父の大伯母も長い間目が見えずにいたが、ある日突然千里眼に近い能力を発揮するようになったというのがその根拠だった。
「それにまあ圭佑の場合、喋れないと言っても昔からあの通り人好きのする子でしたから、てんにんごの件も含めて周囲にとても大事にされながら育ちました……私以外には、ですが」
流石に眉を顰めた優吾の気配に気付いたのか、秀一は微かに微笑んでみせる。
「周囲の目も有りましたから別に明確な虐待を行った訳ではありませんが、なるべく早く死んで欲しいとは常に思っていましたね。てんにんごは往々にして寿命が短いと聞いていましたし、実際に大伯母も二十歳前に亡くなっていましたから」
あまりの発言に溜まりかねたのか何事かを口にしかける優吾を軽く手で制し、信乃はその人形のように整った顔に柔らかな、だが凄惨極まりない笑みを浮かべながら断言した。
「ただし、それも『鬼隠し』に遭った貴方をあいつが……圭佑の奴が見付けるまでは、ですね?」
「ええ、その通りです」
* * *
秀一が今の圭佑とほぼ変わらぬ年頃だった昔、彼には幼い頃より親同士に定められた婚約者がいた。そこには当然ながらお互いの意思は介在していなかったが、秀一自身は大店の跡継ぎという己の立場を充分承知していたし、何より華やかで明るい雰囲気を持つ婚約者の美登利に不満はなかった。ただ一つの懸念材料と言えば幼い圭佑が何故か美登利に近付こうとしなかった事だが、むしろ秀一にとってはその方が有難かった。成長するにつれて自分に懐いて来るようになった弟を、当時の秀一は毛嫌いしていたのだ。
「しかし、流石に美登利から『どうしても大金が必要になったけれど、貴方以外に頼る相手がいない』と縋られた時は戸惑いましたよ」
大店の跡取りとは言え若輩の秀一に大金など有る訳が無い。かと言って商家の跡取りとして厳しく躾けられた彼に『店の金に手を付ける』いう行動は思考の埒外だったし、何より現実的に不可能だったろう。
それでも秀一は何とか必死に自力で掻き集められるだけの金を用意して、誰にも気取られぬように細心の注意を払いながら美登利との待ち合わせ場所に向かった。
「そして私は、待ち合わせ場所に指定された県境に通じる峠道で何処か見覚えのある男に刃物で刺されて財布を奪われ、程近い林の中にあらかじめ掘ってあったらしい穴に埋められた訳ですが……男の傍らには美登利が居ました」
物言わぬ骸が土中で腐りながら蟲に喰われて肉と腸を失い、やがて白骨と化しても決して消え去る事のない憎悪。
人間にこのような表情が出来るのかと、優吾などは己の背筋を伝わってくる痺れに似た冷気に身震いを禁じ得ないらしいが、信乃は相変わらず悠然と微笑んだまま尋ねる。
「確か真相は、大店の令嬢が下男と駆け落ちする際に、逃走資金を得るのと時間稼ぎに本来の婚約者を陥れたと言う辺りだったそうですが」
「結局は、そういうことだったらしいですね」
実にあっさりと冷酷な事実を認めてから、それでも『全く女は怖い』などと笑ってみせる秀一。
「そういう訳で、私は本来なら大店の跡取りという重責に耐え兼ね、許嫁を連れて駆け落ちした大馬鹿者の烙印を押されたまま山の中で埋まっていた筈なのですが」
「何故か、そこに圭佑が現れたと」
早急な信乃の態度に秀一は言葉を止めて眉を顰めたが、すぐに一人納得したように頷いてから再び話し始める。
「実際、三つになったばかりの子供が家の者に気付かれぬまま、しかもほんの僅かな時間でどうやってあんな山奥まで辿り着けたのかは未だに解らないし、圭佑も覚えていないそうなのです」
そして結論だけ言ってしまえば、『兄ちゃん、兄ちゃん』と山道で泣いていた圭佑を見付けた通りすがりの木樵が半死半生の秀一を掘り出し、美登利と下男は獄舎に入る事になったのだった。
「病院で一部始終を知らされて、その時ようやく私は圭佑が紛れもない『神倉屋のてんにんご』で、私もまた圭佑にとっては守るべき存在だったのだと……ようやく気付かされたのですよ」
圭佑が喋るようになったのは、その事件以来でしたと話を締めくくる秀一。
* * *
「何というのか……正真正銘の化け物だな、あの人は」
昼食の誘いを断り倉上邸を辞した後、取りあえずは何処かで蕎麦でも手繰るかと連れ立って通りを進む途上でふと優吾が呟くと、それに関して異論は無いと答える信乃。
「しかし、お前も相当だぞ。あの人を前に一歩も引かないで渡り合えるとは」
我知らず喉の辺りに手をやる優吾に、信乃は極めて不本意そうに吐き捨てた。
「アレは平気だった訳じゃない。とにかく喰われないようにと気を張っていただけだ」
しかも向こうはそれすらお見通しと来ている、実際敵う相手じゃないな。そんな風に続く信乃の言葉に優吾も頷く。
「……ところで優吾、お前は『名は体を表す』というのが本当だと思うか?……もっと露骨に言ってしまうと、秀一さんと俺は似ているか?」
優吾の方に視線を向けぬまま投げかけられる信乃の問いに、優吾は敢えて己の歩む足を止め、数歩ばかり先行してから驚いたように振り向いて優吾を見詰めてくる信乃を見据えながら答えた。
「お前が自分の名前を嫌っているのは知っているが、今回の騒動の元凶になった女学生の名前は『優香』だ、俺の『優吾』という名前と大して変わらん」
第一、今はお前がそんな事で悩んでいられる状況では無いと思うぞ。秀一さんには策があると言っていたが、あれは本当か?
そんな優吾の言葉に信乃は一瞬だけ胸を突かれたような表情になったが、やがて普段通りの柔らかな笑みを湛えた表情に戻ると、殊更に余裕を含んだ口調で断言する。
「勿論だ」
* * *
平成の昨今では殆ど聞かれなくなったが、『バンカラ』という言葉がある。やはり最近は聞かない言葉となった、西洋風の身なりや文物を求める『ハイカラ』(high collar 、シャツの高襟に由来する)の対義語で、敢えて弊衣破帽、つまり着古した学生服に破れたマント、学帽を纏い、荒々しい振る舞いを行う事によって表面を取り繕う事無く真理を追究する態度を示した、ある意味では武士道的精神を含んだ禁欲的な行動様式と言えるだろう。ちなみに漢字を当てるなら『蛮殻』若しくは『蛮カラ』であり、昭和時代の少年漫画に登場する『番長』との混同から『番カラ』と記される場合もあるが、これは誤りだそうだ。
そしてバンカラの集団と言えば、何と言っても高校の全国的普及に伴う校外対抗試合の応援役を担う、つまりは応援団の存在が大きい。
「徳性ヲ滋養シ学芸ヲ講究シ身骸ヲ鍛錬シ以テ本校の校風ヲ發揚シ教育ノ資助トナサンコト」
これは、第四高等学校の校友会である北辰会の会則だが、応援団とは『徳性を育み、学芸に励み、身体を鍛錬する事によって自校の校風を輝き顕し、教育の助けとする』事を目的に組織され、組織的かつ規律的な応援活動を通じて集団的連帯感情を育て、最終的にはそれを「善良ナル校風ノ発揚」にまで高めるのが目的であったとされている。
* * *
さて、当然ではあるが松本高等学校にも応援団は存在していて、放課後ともなれば熊髭と綽名される容貌魁偉な団長の指揮の元、校庭の隅で打ち鳴らされる太鼓の轟音に併せて応援歌やエールをがなり立てる団員達の蛮声が喧しいことこの上ない。
だが、その日太鼓の傍らで団員達の指揮を執っていたのは、普段は影の様に団長に付き従うばかりの無口な副団長だった。何も知らない団員は珍しいこともあるものだと思いつつも、日頃から炎のような蛮声を張り上げる団長とは違い、まるで氷の巌を思わせる太く重い副団長の声に僅かな怯えを覚えつつも通常通りの練習に励む。勿論、彼らは誰一人として現在の団長が部室内でどれだけの修羅場の只中に在るのかを知らなかった。
* * *
普段は汗臭い男達の部室に漂う、甘い花の香り。
決して広くない部室の上座に位置する壁際近くに置かれた椅子に腰掛けた応援団長が色々な意味で全身を硬直させているのを、優吾は敢えて見ない振りをしながら此処にも化け物が出たかと嘆息する。ちなみに優吾の認識する『化け物』は百合を思わせる薫香を漂わせながら、流れるような動作で団長の背中に回るとその両肩に軽く手を置くと、何やら耳元に囁きかけている真っ最中だった。団長が恐る恐ると言った態で僅かに視線を横に向けると、優吾が信乃と呼んでいる化け物は、普段のぞんざいな口調とは打って変わった柔らかな言葉遣いの元、まさに妖艶としか称しようのない闇と毒を含んだ笑顔で応える。
「団長、いえ笹井先輩とお呼びしますね。俺は別に貴方に対して、それ程無茶なことをお願いしている訳ではないと思うのですが?」
「あ……ああ……しかしだな」
弱々しい抗議はしかし、団長の肩に置いた指に軽く力を込めた信乃の動きに容易く封じられた。雷にでも撃たれたかの様に一瞬だけ痙攣してから力なく垂れる両腕。
「詳しくはお話し出来ませんが、これは松高の学生を一人、救う行為でもあるのですよ」
「そ、そうなのか……」
喉の奥が貼り付いたような口調で呟く団長に対して、信乃は更に畳み掛ける。
「そうなのですよ、ですからこうして笹井先輩にご協力を仰いでいる訳なのです」
ご理解頂けますか?などと、殊更に団長の顔に向けて己の頬を寄せながら囁く信乃に、とうとう団長も陥落せざるを得なかったらしい。
「判った言う通りにする!だからもう離れてくれ!!」
「そうですか、では、くれぐれも手順に粗相や遺漏の無いようお願いしますね」
呟くなり軽やかな動作で団長から離れる信乃。そして椅子に崩れ落ちる団長の身体。
「頼むから……今すぐ此処から出て行ってくれ!」
団長の悲痛すぎる叫びに優吾は僅かに眉を顰め、信乃は悠然とした微笑みを崩さずに傍らの机に置いてあった自分のマントを優雅な動作で羽織り、学帽を被ってから部室の扉を開いた。即座に優吾もそれに続く。そのまま二人が応援団が練習している付近まで近付くと、信乃の姿に目を留めた副団長が何とも言い難い複雑な視線を向けて来たが、当の信乃は相変わらず微笑みを崩すこと無く学帽の庇に手をやりながら一礼するばかりだった。
「団長とは、どういう知り合いなんだ?」
そんな優吾の問い掛けに、昔少しだけ一緒に歩いたことがあるのですよと、柔らかな言葉遣いを崩さぬまま答える信乃。つまり、詳細を語る気はないのだなと判断して黙り込んで空を見上げる優吾は、自身の経験から他人に対して不躾な過去の詮索を行うのが時としてどれ程に相手を傷付けることになるのかをよく知っていた。
彼らの頭上に広がる空は人間達の小さな企みなど知らぬげに、普段通りの霞んだ青の端々に白い雲を輝かせている。
* * *
松本と市街を接する旧本郷村には”犬飼の御湯”とも呼ばれる有馬温泉があり、古くから歴史ある湯の町として知られている。藩政時代には松本城主や家臣の湯殿として、明治期には蚕種取引客の逗留宿として、そして大正以降は信州観光の行楽基地として隆盛しているこの地は、当然ながら松本に住む豪商が建てた別宅なども数多く存在した。
ココからは俺一人でやる、くれぐれも手はず通り頼むぞ。
目指す郊外の森を背にした邸宅を見据えながら、秀一に貸して貰った懐中時計の一つを優吾に渡した信乃はマントの乱れを直し、学帽の庇の角度を正してから歩き出す。
書生風の男が憮然とした表情で案内してくれた先では、相手が信乃であるとあらかじめ聞かされていたらしい優香が笑顔で待っていた。
「秀一さんからの手紙を預かっていらしたのですって?」
「ええ……でもその前に……」
宜しいですか?と呟くなり遠慮なく優香との距離を詰める信乃の姿に、傍らに控えていた書生が身を反射的に身を乗り出しかけるが、優香はそれを手で制すると無言のまま部屋から出て行くように促す。憮然とした表情で躊躇いがちに男が姿を消すと、信乃は優香の髪に凝った意匠の櫛を挿しながら甘い声で囁く。
「貴女には、初めてお目に掛かった時に身に付けていらした櫛より此方の方が似合うと思いましてね……俺の母の形見です」
「そのような大事な物を私に下さるのですか?」
上気した表情で問い掛けてくる優香に、信乃はあくまで笑顔のまま答える。
「ええ、あの時からずっと俺は、貴女が俺の母に良く似ていると思っていたのですよ」
「まあ!」
男が女に対してこのような言葉を投げかける一般的な意味を、当然ながら優香は知っていた。確かに秀一との婚儀は最重要事項ではあるが、人形のように整った顔立ちの松高生に熱烈な感情を向けられる立場に今はひたすら酔いしれる。それにこの男を自分の元に寄越したのは秀一自身だ、何があったとしてもそれは秀一の責任だと決めつけているらしい優香を見詰めながら、信乃は更に言葉を続ける。
「本当にそっくりですよ、己の幸せの為なら笑顔のまま周囲を、自分の息子の人生をどうしようもなく歪めることすら厭わない身勝手さが」
あくまで甘い口調のままで囁きかけてきた言葉の意味を捉え損ねた優香が信乃の顔を見詰めて小首を傾げると、信乃はやはり笑顔のままで言い放った。
「それでは用事も済みましたし、あとは圭佑を連れて帰ります。
ああ、櫛は差し上げますよ、どうせ沢山ある内の一つですし餞別代わりですよ」
それと圭佑のところに案内して頂けないのでしたら、まあ大体の見当は付きますから勝手に捜させて頂きますけれど、などと微笑みかける信乃の真意にようやく気付いた優香は大声で書生を呼ぶ。すわお嬢さんの危機かと血相を変えてやって来た数人の書生に囲まれても、しかし信乃は動じることなく自分の右耳に軽く手をやった。
直後、その場にいた全員の耳を打つ太鼓の音。
「松本高等学校ぉぉぉ、寮歌ぁ、『雲に嘯く』斉唱-ぉぉぉーっ!」
血は燃えさかる朝ぼらけ
女鳥羽の岸に佇みて
君よ聞かずや雪溶けを
春は輝くアルペンの
真白き肌に我が胸に
いざ朗らかに高らかに
歌いて行かむ野にみつる
大地の命踏みしめて
いつの間にやら屋敷の前に十数人ほど並んだ松校応援団は、団長の指揮の下で日頃の練習の成果を充分すぎるほど発揮してみせる。
「あの寮歌は三番までありましてね、それが終わるまでに俺が圭佑を連れて戻らなかった場合、我が校の応援団がこの屋敷にストームを掛ける事になってるのですよ」
ちなみにストームとは、言うなれば青春の滾りを蛮声や暴力行為で発散するガス抜きのようなもので、本来は様々なルールの元に行われる半合法行為だ。
具体的には寮や通りを舞台に鳴り物付きで奇声を上げながらのスクラム及び行進、硝子窓などの破壊などであったが、当然のように破壊した硝子は参加者全員で弁償する事になる。数百枚の硝子を破壊した結果、75円50銭の弁償を告知された寮生が一人当たり2円の支払いを命じられた記録も残っているが、単純に1円1万円と換算しても学生にとって結構な痛手と言える。
我々の所業は『若気の至り』で済ませて貰えるかも知れませんが、官憲が介入した際に言い訳が立たないのはお嬢さんの方ではありませんかね。そんな風に微笑んでから信乃は屋敷の奥底に設えられていた座敷牢まで足を運び、両手足を縛られ猿轡を噛まされた姿で長持ちに押し込まれていた圭佑を見つけるなり言った。
「ここに居たか圭佑、帰るぞ」
* * *
行方不明になっていた圭佑が信乃と優吾に伴われて自宅に戻ってから数日後。
「松高の……三羽烏の往く道は、と。うん、これで良いな」
いつものように煙草盆を傍らに置いた姿で店に座っていた秀一が、達筆とは言い難いが下手でもない癖のある筆跡で大福帳に上の句を書き付けてから、さて下の句はどうしたものかと考えていると。
「ただいま、兄ちゃん!」
いつものように圭佑が元気良く店に入ってきて声を掛けてくる。
「ああ、お帰り圭佑」
結局、一連の騒動は圭佑が神隠しに遭っていたと言うことになった。実際、首謀者の優香と、圭佑拉致の実行犯となった優香の家の書生達以外が泥を被らずに事を治める方法はそれしかなかった。何より倉上家では使用人を含む誰もが、これこそ圭佑が真の『てんにんご』である証であると帰還を喜ぶばかりで、事件に関する様々な不審点に目を向けようともしなかったのだ。
ちなみに当の優香は事件発覚直後に新しい縁談が持ち込まれ、即座に東京に住む男の元に嫁いで行った。何でも彼女と親子程も年の違う、更に彼女より年上の子供が数人いる男の後妻だそうだが、相手は結構な金持ちと聞いているから玉の輿だろうし、ああいう根性の持ち主のお嬢さんなら、ひょっとしたらそんな環境でも上手いことやっていくかも知れない……などと縁談を設定した秀一は無責任に考えている。
「そう言えば兄ちゃん、ちょっと前におれが街で立ち回りを演じた事があったろう?
さっき、あの時に優吾が投げ飛ばした相手が女の子と一緒に歩いていたんだ」
優吾が二人は兄妹だって言ってたけど、妹の方が……うーん、美人じゃないんだけど凄く可愛い子でさ。どうせなら兄ちゃんのお見合い相手があの子だったら良かったのにと思ったね、おれは。
「おや、そんなに可愛い子だったのか?」
秀一のロイド眼鏡に隠れた瞳が底光りするのに気付かぬまま、圭佑は無邪気にうん!と頷いてみせる。
「それなら私も色々と考えなければならないな……とにかく、夕飯だから部屋に鞄を置いてきなさい」
わかった!と答えるなり家の奥に入っていく圭佑の背中を見送りながら、秀一は優香から取り戻した櫛を何処にしまっておいたかを思い出すことにした。
松高の、三羽烏が往く道は 其の壱 常磐の圭佑・終