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その刀を下ろして、帯刀男子さま!  作者: 月見七春
第七十二章 奪い汚す生者たち
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第八百四十一話

 



 夜半過ぎに宿を出る。エリザを通じて調べさせた。

 前情報によれば青澄春灯は明日、ゲネプロのため埼玉にいる。

 ひとりで宿主に目礼で挨拶を済ませる。支払いもとうに終えているので、都内に向かう車両に乗るだけ。

 しかし行きと違って少女とふたりで乗車する。リムジンとはいかないが、日本の高級車には違いない。黒塗りの車両の扉を開けて、少女を先に乗せた。

 彼女に設定した容姿はそのまま。青澄春灯そのものだ。

 己の欲の対象であり、願望の対象でもある。とはいえ彼女はもはや有名人。

 宿の主人がSNSに拡散でもしたら? 当然困る。

 しかし対処の必要はない。何度も利用してきたからではなく、己の力で操っているからこそ宿の主人は信頼できる。

 宿を焼き払うか、主人を消してもいい。

 けれどこのご時世に日本でそのようなことをすればむしろ目立つ。

 ばれない形での口封じが一番手っ取り早い。

 フロントミラーに映る運転手を見た。額の皮と骨の間で虫が這いずり回っている。

 一匹ではない。産卵し繁殖しているに違いない。それで問題ない。機能は維持されているのだから。

 隣に座る少女は最低限の知能しか持ち合わせておらず、外側だけを克明に再現したとして、内側や魂までは再現できない己の未熟を恥じる。

 ただの教授と名乗り、今日まで生き長らえてきた。

 たとえば明坂ミコと比べるとどうだろう。

 生まれてから今日に至るまでの間に流れた時の長さにおいて、彼女には敵わない。

 力においても同様だ。彼女のルーツは自分が生まれるよりもずっと以前、太古に遡る。人としてという前置きはつくが、それでも自分は彼女に敵わない。

 御珠だ。日本で言えば御珠。教団と名乗り活動する戦う修道者たちが保護に努める果実、あるいはシンプルにオーパーツと呼ぶべき力の結晶を手に入れない限り、かの夜の女王に勝てようはずもない。

 目の上のたんこぶは吸血鬼や教団に限らず他にもいる。神出鬼没のランプの魔人もいれば、大陸を中心に活動する忌まわしい香港の龍など、名前を挙げれば数え切れないほどだ。

 これまでしてきたことを考えたら、死した先に救いなどあり得まい。

 ならば悪魔とさえ交渉できるよう、天に召される前になんとしてでも力を手に入れなければならない。

 なのにどれほど奪おうと、汚そうと、殺そうと、なにも手に入らないままだ。

 忌々しい。

 盟主も盟主だ。

 こんな目に遭うために彼女に力を貸してきたわけではないのに。

 隣に座る少女の下腹部に手を当てる。迷わずブラウスのボタンを外す彼女の腹部の肉が裂けていく。中になにを宿そうかずっと考えたけれど、内臓が見えるだけ。

 これでいい。これでいいのだ。

 ウィザードも、憎たらしい邪女も明日は士道誠心の未熟な新米怪盗と遊ぶらしいが、それはあくまで余興だ。遊びたがりの彼らはふざけているとしか思えない。

 いまごろ青澄春灯たちも骨休めの最中だろうが、十代の少年少女と同じようなことをしていてどうするのか。馬鹿馬鹿しいにも程がある。

 自分にとっては少女を用いて青澄春灯から御珠を奪うことこそが本命なのだ。

 そのために少女を虐げてきた。

 ストレス解消はもちろんある。切実に欲したからこそ注ぎ込んだ。

 欲も願いもすべて魔力に変えて宿っている。

 いくつか考えた。


「青澄春灯を殺すならば、現世の刀を用いるか……いや、だめだ」


 彼女は鼻がいい。隔離世の刀と違う現世の刀の匂いをかぎ分ける。

 屍肉を用いて作った少女に殺意などあろうはずもなく、故に青澄春灯の不意を突きやすいとも考える。が、刀ではだめだ。あと一手というところで取り押さえられるのがオチ。


「ならば銃器は?」


 隔離世の銃器は緋迎シュウがいたら終わりだ。

 かの最強に遠距離攻撃は一切通用しない。爆風ですら見事に掌握してみせるだろう。

 万が一があってもやり遂げることのできる完成度の高い計画が必要だ。

 現世の銃器も、ここまでくると危うい。

 最近、東京で士道誠心の女子高生が雷のような速度で移動して人助けをしているという。

 彼女が青澄春灯のそばにいたら、弾丸をいくら放とうと避けられてしまう可能性がある。


「攻撃範囲が広く、気づいたら取り返しのつかない攻撃でなければ」


 となれば爆発物はどうか。

 火薬の匂いを探知されてはならない。

 鼻のいい獣憑きが多いため、彼女たちに気づかれてしまう可能性があるからだ。

 起爆装置、時限、遠隔、どれもまずい。

 作動させたら確実に破裂すること。そして敵に決して気づかれないこと。

 この二点を満たす爆発物を探すよりも、よっぽど手近な手段がある。

 教授には魔法がある。ユニス・スチュワートという魔法使いの小娘にさえ勝てない腕でも、人をひとり殺傷して内側に宿る御珠を露わにするくらいの爆発呪文を仕掛けることくらいはできる。

 けれどここでシンプルに飛びつくようでは、イレギュラーに対応できない。

 ユニス嬢や明坂ミコがもし気に留めたらアウト。

 それに魔力を用いると、気づかれる可能性が高まる。

 だから――……欲望と夢を注ぎ、ためる。

 屍肉を集めて作った少女の時限装置はただひとつ。

 そもそも素材となった屍肉も、そして彼女にした仕打ちもすべてからめて作った呪いこそ、自分の一手。

 あとはただ、紛れ込ませるのみ。

 青澄春灯の思いと魔力が最大限に高まったときに死んでもらおう。

 それしか己の生きる道はないのだ。絶対に。それ以外にあり得ないのだ。


 ◆


 朝方、早々に現世に戻ったんだ。

 なんせほら、今日はゲネプロの日だからさ!

 宝島の霊子の密度に比べると、現世は薄め。

 けど気にならない。むしろ現世に戻った生徒みんな、ハイテンションだった。

 それもそのはず、士道誠心の元特別体育館の鳥居がまさしく門になったの。

 タカユキくんたちが連れてきた女神さまのお仕事なんだってさ。ペロリちゃんたちが昨日いなかったのは門の設置のためだったんだとか。

 異世界の女神さまとアマテラスさまたちのご配慮で、宝島への移動は御霊の許しがあれば可能になるのだそう。ペロリちゃんたちは一足先に異世界に戻るそうで、いったんお別れになっちゃったんだけどね。いつでもまた会えるよっていう言葉を私は素直に信じるの。

 温泉にもまたすぐに浸かれると思えば! どんとこいですよ!

 高城さんの車で一度、会社に寄ってからすぐに会場へ。

 昔、お母さんのお友達の劇団さんのゲネプロに呼ばれたことがあるけど、今日やるゲネプロはそれとはちょっと雰囲気が異なるみたいだ。

 関係者だけを呼んでお披露目する特別公開、前日見せる完成バージョンというよりも、会場を使ったリハに徹する。

 曲順、移動、プログラム全体の流れなどなど。

 会場には既にキラリやマドカも、羽村くんたちも到着してスタンバってるようだし、トシさんたちも準備している模様。

 忙しくなるぞう!

 車内で意気込んでいたら、スマホが鳴ったの。

 ミナトくんからの通話だった。意外。ユニスさんとふたりでデートでもしそうな日だよ? どうしたんだろう。


「もしもし?」

『青澄さ、悪い。いまいいか?』

「まだ移動中だからだいじょぶだよ?」


 さすがに会場ついたらもう無理だけど。


『よかった! 八葉がどこにいるか知らねえ?』

「カゲくん?」


 あれ? なにかあったのかな。

 覚えはないけど。特に接触もしてないし。

 カゲくんが愉快なことをやらかすみたいな話も聞いてない。

 お姉ちゃんと遊んでいるとか、ありそうだけど。だったらミナトくんも混じっているほうが自然。三人そろってゲームの遊び仲間だからね。


「んー。わからないけど。なにかあったの?」

『日下部と柊もいなくてさ。シオリ先輩もいねえし……ユリア先輩はいるんだけど、ちょっと気になってな』

「ふうん?」


 我が校の誇る怪盗一味。もちろん本当に犯罪に手を染めているわけじゃない。

 かの有名な三世は人も殺す。正義の味方ではなく悪党なのさ! だけどカゲくんはそうじゃない。だったら誰かに知らせてからお出かけしても不思議じゃない。

 ミナトくんとは仲良しだし。カゲくんがつれない理由がもしあるとしたら――……。


「どこかで盗みをしようとしているかもって?」

『さすがに露骨に犯罪やらかそうとしているとも思わないけどな。あいつの場合、どこぞの三世と違って神出鬼没じゃいられないからな。俺たちに素性がばれてるし、学校をやめて旅にでも出ない限りは学生寮に戻ってくるわけだし』


 ミナトくんのご指摘ごもっとも!


『だってのに俺らに黙って出かけているのがちょいと気になって。もし四人一緒で、しかもデートってんなら別にいいんだが』


 いいのかな。それはいろいろアウトじゃないかな。

 普通に遊びに出かけているでいいんじゃないかな。


『なんか臭い気がしてさ』


 なるほどなあ。たしかになあ。

 でもこういうとき、マドカならいろいろぴんときそうだけどさ?

 私は高城さんとふたりなんだよね。

 ユウジンくんみたいに呼び寄せちゃうわけにもいかないし。

 んー? んー。あ!


「ちょっと待ってね?」

『おう』


 倒したシートの上にのっけている尻尾に手を伸ばす。

 でておいでー。あなたの活躍のタイミングですよー?


「よし!」


 掴んだ。ぐいって引っぱると「やーっ」といやがる声をあげるぷちがでてくる。


「ごめんごめん。ちょっとだけ。力を貸してくれない?」

「なあに? お礼次第ですけど」


 むすっとしたぷちは、宝島でぷちが大勢逃げちゃったときに見つけてくれた頼りになる子。なんなら理華ちゃんと繋がりを感じるぷちちゃんだ。

 カナタとの話を踏まえてぷちズの成長をするべく、どうしよっかな。名前をつけてみる?


「あなたの名前は今日からあいちゃん!」

「アイキュー高めなイメージか、さもなくばそうであればいいなー的な願望からあいちゃん?」


 バカにしてんの? っていうぷちの視線に汗だくになる私だよ!


「だ、だ、だめ?」

「だめ。舐めてる。いい名前つけてくれる約束したら働くけど」


 ちょろい!


「するする! めっちゃ約束する!」

「なんかなにもしないからって言いながら引き留めてくる男くらい信用できない」


 それ絶対だめな例じゃん!

 私の手の中から逃げて、膝の上に立って腕組みをするぷちに睨まれたので、両手を合わせて頭を下げる。


「お願いいたします。神さま仏さまぷちさま」

「……ちょろい」


 ん? いまなんて言ったの?


「スマホかして」


 ちっちゃなおててを伸ばしてくるから、スマホをそっと渡す。

 するとぷちは迷わずスピーカーアイコンをタップ。


「あのさー。えっち剣士さー」


 やばい。危うく吹き出しかけた。


「最近の事件とか騒ぎとか調べてさーあ? 怪盗のレベルアップになりそうで、かつ石川五右衛門とか、そもそも三世が好きそうなイベントないか探してみればよくない?」

『あっ』

「じゃ、そゆことで」


 ぷちって通話を切って、物凄くきらきらした瞳で私を見上げてくるの。


「じゃ、名前期待してるよ!」

「お、おう」


 シンプルにきちんと考える当たり前の手法を示しただけで、彼女は要求を通してしまった。

 おそるべし!

 ――……って、あれ?

 もしかして私があほなだけ?


 ◆


 先に言うと、事前調査のときと同様にシオリえもんのガチ協力は得られなかった。

 ミナトの野郎に気づかれないように学校を離れるところまでは成功したものの、柊と日下部ちゃんの間にいる少女を見るたび、胃がぎゅっと締めつけられる思いだ。


「立沢ちゃんさ。邪魔しないでくんない? キミはほら、山吹とかミナトサイドだろ?」

「そうですねえ……」


 左手の薬指を見つめる彼女は、走る電車の車内で扉に背中を預けている。

 繰り返すと柊、日下部両名に挟まれ、八葉カゲロウに逃げ場を塞がれている状態。

 にも関わらず、彼女は余裕。圧迫など微塵も感じちゃいない。

 二年生の威厳なんてそんなもんだよなあ……。


「理華はゲネプロ行きたかったんです」

「青澄さんの?」「今日でしたね」


 マモリちゃんも柊ちゃんも、ふたりともさ。乗っかると立沢ちゃんが調子出ちゃうでしょうよ。


「理華は今日、お仕事があるんで。埼玉には行くんですけど、まだ時間に若干の余裕がありまして」

「なにそのお布施狙いの口上みたいなの」

「八葉先輩、意外と古いネタ知ってるんですね?」

「意外とをつけるなら俺より年下の立沢ちゃんじゃね? 柊ちゃんもマモリちゃんもぽかんとしてるよ」

「笑う点の話はさておいて」


 腕を組んだ立沢ちゃんが、青澄ばりの自慢げな顔を見せた。

 青澄は特にそうだけど、立沢ちゃんもどや顔の主張の力がハンパじゃない。

 画像に残してスマホのホーム画面に設定するだけで吹きそう。最低でも一日に一度のレベルで吹きそう。

 短い無地の黒いスカートのポケットから出したスマホに、宝石店事件のネットニュースが表示されている。


「悪いことするんですか?」


 確信ついてくるなあ。

 ミナト。お前、先越されてるぞ。捕まっちゃった俺もだけど。

 ふたりの仲間が俺に目線を送る。

 わかってるって。だいじょうぶだから。

 肩を竦めはするが、本気でおどけたりはしない。


「悪いことをする奴をこっそり懲らしめにいくの。だから連携取れるふたりと行くのが精一杯ってわけ」

「――……じゃ、新宿につくまでの間、理華にお手伝いできることはないですか?」


 ミナト。この子めっちゃ気が利いてるぞ?

 お前ならやめろって言うところだろうけど。

 痺れるなあ。おいおい。


「とかいって、俺の弱味を握るのが目的だったりしない?」

「あはは! そんなの当たり前じゃないですかー。それにそれだけじゃないですよ? 一応は」


 かーっ! って声をだしそうになった。

 やばい。俺はどんな高校生だ。怪盗やっちゃう高校生だ。そうそういねえぞ? 落ちついて考えろ!

 あれこれ話してあとでネタにされるのはごめんだ。

 これは俺ら三人と、情報提供だけだけど協力してくれるシオリのヤマなんでね。


「じゃあ俺も昨日、日高の野郎が理華ちゃんを探して御霊に神水でべろんべろんにされてたから、聞きだしておいたふたりのなれそめなんかは記憶の片隅に追いやっておくかな?」


 両手首を腰につけて胸を張る。

 ハッタリではない。


「……なんのことですか?」


 すっと目を細めて声のトーンを落とす立沢ちゃんの迫力、尋常じゃない。

 こわっ。女子こわっ。

 柊ちゃんもマモリちゃんも「頼むぞ」みたいな視線を送ってくる。

 ようし、二年生の意地を見せてやる!


「聞いているんですよ、先輩」


 強めに足音を立てられて、反射的に言い返してやった!


「オボエテマセン」


 即座に仲間が失望を露わにした。いや、でもさ!


「そうですよね?」


 にこーっとする立沢ちゃんのドスがさ!?

 ききすぎていてさ!?

 無理だよ!


「思いだしたら、わかっていますよね?」


 つま先、顔、つま先、顔。

 いちいちわかりやすく目線を変えながら歩みよってくる立沢ちゃん、脅し慣れすぎてない?

 十五歳か十六歳だろ? 女子高生でしょ? どんだけ場慣れしてんの?

 江戸時代に行ったときからちょいちょい噂になっていたけれど、俺の想像をいつも超えてくるな。

 たんに俺がびびりな可能性もあるけれど。これでも俺とて青澄たちと一緒に修羅場をくぐり抜けてきた。主戦場にいなかったとして、命を賭けて戦ってきたさ。

 なのに、下手な化け物よりよっぽど怖いってどういうことよ。

 立沢ちゃん、何者なのか。

 いや、立沢理華っていう人を知っていくことでしか、その答えはわからねえのだ。


「わかりました」


 だから許して。これくらいのへたれは許して。

 お願いだから、マモリちゃんも柊ちゃんも、そんな「くそ雑魚さいてー」みたいなえげつない顔しないで。


「じゃ、冗談はさておいて話を戻しますと。気になることがあるんじゃないですか?」


 終始、立沢ちゃんのペース。

 理解した。これじゃあ二年生の威厳どころじゃねえわ。


「――……あったっけ?」


 すっとぼけているのではなく、心の底から疑問を口にしてしまう時点で情けない。

 当然、立沢ちゃんも焦れてくる。電車内でうるさくなりすぎないよう、声量にはもちろん気を遣っているけども、詰め寄った距離感のままでいままでより声を潜める。


「だからあ! 敵は誰かとか」

「そりゃあ、ウィザードのとこにいる奴だろ?」

「なら教授が出てきてなにかするんじゃないかとか!」

「あの野郎は関係ないだろ。この手のことに興味があるたちじゃない。いっそ、ゲネプロやってる青澄のほうがやべえだろ? だから仲間も岡島や茨も、先輩たちも集まってるわけで。警備会社だけじゃなく、警察の侍隊もばっちりついてるしな」

「――……先輩」


 あれ。勢いが止まった。なんで?


「むしろ理華が気をつけるべきこと、なにかありますか?」


 いや、俺に聞かれても。立沢ちゃんならてめえでなにするべきかイメージしてんだろ。


「強いて言えば、野郎は俺らの想定外かつ斜め下のゲスい手でくるだろうからさ。警戒するなら、立沢ちゃんの悪魔な視点で対処すればどうにでもなるんじゃね?」


 でもさ。


「これくらい、わかってんだろうけどな。俺からはこんくらいかな」

「――……背中を押すために言ってくれたんなら、先輩いがいとやばいくらいタイプかも」

「彼氏いるのにそういうこと言っちゃだめだろー」

「ね!」


 ねって、おいおい。悪気なく言っちゃうのかよ。日高も苦労しそうな子に射貫かれちゃったね。たいへんだね!

 にこっと笑って言ってくる立沢ちゃんが、ばしばしと二の腕を叩いてきた。

 なに。やだ。いてえんだけど。

 上機嫌な立沢ちゃんが不意によしと呟いた。電車が減速する。

 彼女の後ろの扉が開く。


「元気出していってきます。幸運を!」


 俺をびっと指拳銃で指差して、ばんと撃ってから降りていった。

 決め決めか。恥ずかしくないんか。俺は恥ずかしい。ってか気がつきゃ降りる駅だよ。

 おいおい。会話の時間も計算尽くとかいわないよな?


「こっわ。あの子こっわ」

「「 はあ…… 」」


 深いため息をつくふたりに腕を掴まれて、後ろのお客さんの圧に押される前に俺は引っ張り出された。立沢ちゃんの姿は他の降車客に紛れて、もう見えなくなってしまっていた。

 ま、いいさ。俺は俺らの挑戦のために、さっさとステージに向かうだけ。

 青澄はいまごろ歌ってんのかね?

 それともゲネプロって歌わないもんなのかね?


 ◆


 オケの音、マイクの音。

 スタンドマイクの曲もあれば、イヤモニマイクの曲もある。

 演出はかなり自由自在なもの。演出家やスタッフのみなさんに心からの感謝を捧げずにはいられないけれど、いまはまだ早い。

 金色を浮かべてアリーナの上、宙を駆ける。

 安全管理の都合上、私にとって万が一はあり得ず落ちるはずはないとわかっていても、客席の上を飛ぶのは主催側からしてみれば大いに問題がある。

 全力で動き回って既に汗だく。

 前髪が額に張り付いていて気持ち悪いけれど、指で払うので精一杯。

 金色を放つのは最初に考えた。

 けれど、客席の人がどう反応するかわからないっていうのと――……そもそも、歌で勝負できないようじゃ、後々の弾みに繋がらないっていうバンドメンバーの意見に私も賛成だったからさ。

 もっと違う形を考えたんだ。

 ステージに向かっていって、着地する。

 瞬時にオケが入る。

 オッケーです、と声が掛かる。

 薄手のトップス、ゆるめのライブTシャツ、膝丈のジャージ下。靴だってはき慣れたスニーカー。

 動きやすくて慣れた格好にしておいてよかった。

 流れの確認、通しリハ。やることまだまだたくさんある。

 突発でなんとか、本当にもうガチのガチで急いで仕上げた曲のお披露目も待っている。

 今日で自信を作っているようじゃ遅い。足りないと思う。

 だってビビる。

 さいたまスーパーアリーナ、超でけえ。

 前にも来たけどさ。

 ここは隔離世じゃない。

 現実だ。

 アリーナ席も入る。機材多めに固めて席を埋めて、少なくするような感じまったくない。

 何度も繰り返された。明日はがっつりお客さんが入るよって。

 来てくれたらだよね、とか。いまさら言っていられない。

 もしかしたら吹っ飛んだりしないかなとか、心のどこかで弱い私が思ってた。

 けどリハが始まって、実感が増す。

 ああ、マジで明日ほんとにやっちゃうのだと。

 とうとうその日が来ちゃったのだと。


「次いきますー!」


 声がする。いろんなところから音がするような気がする。

 耳鳴りがずっとしているような気もするし、めまいもする。

 気を抜いたら倒れそう。

 嬉しさとかよりも、プレッシャーのほうが強い。

 そして怖いと思う壁の先に行くための目的が、どんどんくっきりしてくる。

 楽しんでもらえるために全力を。

 シンプルに自分のすべてが変換されていく。

 楽しんでもらえるのはもう、大前提。それが果たせなきゃ、明日のチケット代の価値すら感じてもらえない。だから楽しんでもらうのは、やっぱり大前提。

 それを超えたなにかを感じてもらえるように挑むのが、明日。

 そしてそのための準備が、いま。ある意味もはやとっくに本番。

 ううん、むしろ毎日が本番。

 ホームラン打者だってすべての打席でホームランとはいかない。敬遠されたらそれまでだし。

 なら気を抜いていいってことじゃなく、毎回打つくらいの気持ちでいく。毎回打てるように鍛える。そういうもんでしょ?

 明日はすべて場外狙い。いや、別にお客さんの気持ちを場外に押し出すんじゃなくてさ。

 天国に昇ってもらえるような気持ちになってもらえたら。ううん。浸ってもらえたらいいな。

 それをするのだ。

 きてよかったなって思ってもらうの。

 報われたって思ってもらうの。

 すべての救いがある場所にするの。

 ただ楽しめたらいい。それだけで十分いい。

 あと二分足したくて、欲望も願いもましましもあもあ。

 二分じゃ足りないから止まらないしやめられない。


「はーい!」


 返事をして尻尾を膨らませる。

 九つあってもいまの私には正直とても足りないのだ。

 この場にすべてを満たすには。

 九つですら、足りないのだ。




 つづく!

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