第六十三話
やっと落ち着いてなんとか立ち上がって戻ろうとしたの。
けれど……その途中で足を止めたよ。止めざるを得なかった。
だって、狛火野くんがまだ素振りをしていたんだもん。
湯気がのぼる身体は冷える気配なく、振るう刀に淀みなく。
私ではまだまだ到達できないところに狛火野くんはいた。
「――……ふう」
構えて……そのまま維持。
不意に手を下ろした狛火野くんが私に気づいたの。
「やあ」
浮かべる顔は人なつこい彼本来の魅力あふれる笑みで、だから安心したんだけど。
同時に怖くもなったの。
これほど鍛錬に打ち込める人の本気って、どんなだろうって。
タオルで汗を拭って、脱いだジャージのジャケットを拾い上げて肩にかける。
無駄な筋肉も脂肪も一切ない。
絞って絞って必要最低限、磨き抜いた筋肉だけの身体。
もしかしたらギンよりも……凄い肉体。
「ごめん、たぶん今、ぼ……俺、汗臭いから」
困ったように肩をすくめる狛火野くんに「気にしないけど」と何とか言って、自分から近づいてみる。
汗に濡れた髪が目元に張り付いて、それを指で払う彼は私が何かを尋ねるよりも先に口を開いた。
「タツやレオと違って、俺は途中で止める気ないからね」
敵意とも、悪意とも違う。
「刀の力を使ってくれて構わない。刀の力も含めた、文字通り全力の君と戦いたい」
純粋な欲望を向けられる。
「なんで……?」
「こないだの戦いで、君は俺に稽古をつけてと言ったけど……正直、今の俺にはまだ早い。とても……稽古なんてつけられないよ」
だって俺は君に負けたんだ、と呟くの。
「刀の力も借りられず、君との戦いを楽しんでしまう……俺はまだまだ未熟者だから」
だから今はまだ、と呟いて鞘におさまる刀の柄を見下ろす狛火野くん。
私は彼になんて言葉をかければいいのかもわからなかった。
今は十兵衞もタマちゃんもいない。
真実、彼の前にいるのは私だけ。
どうしよう……適当なことを言ってこの場を離れる?
無理だ。
入学式に行くあの時、私を助けてくれた男の子なのに。
何もせずに離れるなんて……出来ない。
「ここだけの話なんだけどね?」
そっと手を伸ばして、狛火野くんの刀の柄に触れる。
私の二本よりもおぼろげで不安定な、けれど底に秘めた巨大な力を感じさせる柄の内の刀身。
怯えるような魂を感じる。その名を聞くべき存在は私じゃない。
「私の刀は二本ともお節介なの。運動音痴の私を放っておけず、うまく振る舞えない私を放っておけない二本の刀」
私の愛する大事な半身たち。
「狛火野くんは卑下するけど、私は十兵衞とタマちゃんの力を借りてやっとあなたと踊れるの」
柄から指を離して、彼の手を取る。
「自信ないなら出してほしい。入学式に行く前に狛火野くんに助けてもらわなかったら、こんな風に過ごせてなかったし」
それに……それに。
「三対一でやっときみに向き合えるの。私の手にした二人は胸を張れる二人だけど……もし狛火野くんが、きみとその刀に自信を注げたら勝負はわからないと思うの」
気持ちそのまま、彼の刀と彼の手を繋げて願うの。
今の私がそれをするのはおこがましいことだけど、それでも。
彼がくれた笑顔の分だけ、ちゃんとお返ししたいから。
どうか、どうか……寄り添えるように、と。
すると、ぼんやりとした光が鞘の内側から放たれるの。
思わず狛火野くんが刀を引き抜いた。露が鞘からぽつぽつと浮かんで散らばっていく。
全身に心地の良い寒気が走った。
その刀身に雫の波紋が広がって、形が変わって――……空に雲がかかる。
私たちの熱を鎮めるような雨が落ちる。一粒、二粒。そして、数え切れないほどに。
朧に月夜の雨を浴びながら狛火野くんが囁いた。
「村雨丸……」
何気なく彼が振るった刀から水の飛沫が放たれる。
陶酔とは違う。
雨の雫が狛火野くんの目元に触れて落ちていく。
「……誰にも、いえなかったんだ」
愛しげに刀身を見つめるけれど、その顔は今にも泣きそうに歪んでいたの。
「こいつの名前が、ずっと知りたかった」
彼の頬を伝い落ちるそれが雨なのか、涙なのか……私にはわからなかった。
「明日、君と戦う。この村雨を手に……全力でいくよ」
鞘に戻された刀に雲は晴れ、雨は止み、濡れた彼は私を見つめてはっきりと宣言した。
「あのとき確かめてわかった。俺は君と戦いたいんだって」
そ、それは……出会いがいわゆるラブコメ的な状態から程遠いのでは?
そう思いはしたけど、もういっそ開き直って、
「どんとこいですよ」
私は胸を張りました。
彼が元気を出してくれて、自信に繋がりそうなきっかけができた。
十分じゃないか。私は狛火野くんにお返しできたのだから、それでいいやと思ったの。
「ああ」
さわやかに笑う狛火野くんを見てほっとして――たら、あれ?
「あ、あ、あ」
彼の目元が私の胸元に向いて、固まっている。
照明に照らされた彼の顔はみるみる内に真っ赤になっていきます。
なんだろう、と思って見下ろしたら……透けてたね。黒が。下着が見事に。
ああ、雨に濡れたもんなあ、くらいの気持ちでいたら……きゅう、と呻いて狛火野くんが倒れてしまいました。
ピュアか。ピュアピュアか。
タマちゃんがいたら大喜びしそうな反応だよ!
ちょっと嬉しいけど! 承認欲求的な何かがぐーんと満たされた感じするけど!
オチがこれなの大丈夫? そう思いながらも私は人を呼びにいくのでした。
つづく。




