第五百六十話
石畳にふたくみのシャワーと蛇口。公衆浴場にあるタイプのそれとおんなじやつだよ。
そしてヒノキ風呂。左右は白いモルタルみたいな壁だけど、ヒノキ風呂側の壁は一面ガラスなの。夜だから海の中は真っ暗かと思いきや、誰かの遊び心か光が浮かんでいてお魚さんが見えるよ。きらきらして綺麗なんだ。
「あれって、なんで必要だと思う?」
「んー……」
ふたりでシャワーを流して背中を流しあいながら話すの。
適温、四十度! 冬はシャワーは高めに設定したくなるけどね。春みたいな気候なので、四十度でじゅうぶん。
「移動にかかる費用と、そもそも移動自体がたいへんな負担だから、幕府に逆らう力が削がれちゃう。あとお城は一国一城になっちゃったんだっけ?」
「時代がすこし前後したな。ちなみに一国一城令以外に思いつく単語は?」
「ぶ、ぶっ、武家諸法度!」
「……高校生、がんばれ」
「勉強苦手なんだもん!」
「はいはい……さて、参勤交代だが。各地の大名の正室と世継ぎは江戸にいなければならないなど、いろんな制約があってな。そのおかげで各地の幕府は不満もあろうが、軍事的な儀礼は効果を示したわけだ」
どうしよう。もう頭の理解が追いつかなくなってきた。
「土井は引いてはおけない存在でな。怖い男だが、同時に人情に厚いという噂もあってな。彼がいるから、徳川の世が盤石になる道が築かれたという見方も、或いはできると思う」
「……つまり、あのう。どういう?」
色気とかよりも普通にあらいっこで満足しちゃう、そんななにげない過ごし方もおおいにありだよなあと思いつつ尋ねると、カナタが困ったように首を傾げた。
「逆に言えばそれをする必要があるくらい、制御するべき存在がいたんじゃないか?」
「……危ない人たちがいて、そういう人は私を殺したい?」
「恐らくは俺たちもな。あの映画の老中、覚えているだろ?」
「けっして引かぬのおじさん?」
「まさしく。老中といえど危うい男がいれば、そいつが春灯を狙う可能性もある。となると」
「イケメン忍者が襲ってくるのか……私は渋いおじさん忍者を仲間にするべき?」
「話がそれてる」
ほら、風呂に入るぞって言われて素直に手を引っぱられてお風呂へ。
尻尾が水を一気に吸うけれど。横を見たら、カナタは立ったままだったの。蛇口をぐいぐいひねって掛け流しのお湯の出る量を増やしている。
「すこしだけ湯を増やすぞ?」
「どしたの?」
「……ちょっとだけ、恥ずかしいけど。俺の修行の成果を、現世で最初に見せたくてな」
そう言ってカナタが手をぽんと合わせた途端、カナタのお尻から二本の尻尾が生えたの。
前は一本だけだったのに! 一本増えてる! すごい!
「ど、どうしたの!? わあ、増えてる! 増えてるよ!」
「まあな。お前に比べたら……数はすくないけど」
「私はだって先輩お狐さまを宿して鍛えられてるから九尾なだけで、カナタは自力なんだよ? とってもすごいよ! その二尾にはぜったい意味があるよ!」
「――……ああ」
満ち足りた顔でうなずいて、すぐにお風呂に浸かるの。
やっぱり水位がぐっと変わったけどね。じょぼじょぼお湯が出続けているから問題ない。
「「 ふう…… 」」
ふたりでため息を長く吐いて、肩を寄せあった。
どちらからともなくキスをして、見つめあう。
「夏休みにお邪魔したカナタの実家のお風呂を思いだすね」
「さすがに本当の意味でふたりきりにはなれなかったけどな」
「火の番が必要だもんねえ。サクラさんは結婚しない限り、許してくれそうにないし」
あはは、と笑ってしまおうと思ったんだけど。
カナタから強い視線を感じて、ちらっと見たらね?
「いっそ、結婚できたらいいのにな」
「え――……」
冗談かなって、最初は思った。
「女性の結婚年齢を、男性と同じ年齢に引き上げるだろ?」
「ああ……うん。十六から十八になるんだよね」
「でも、これまでの人生を思うと、きっとこれからもやまほど大変なことが起きる。絆だって試されるだろう……今日はつらかった」
「カナタ……」
「いつかした契約をもっと先に進めるなら、引き上げられる前にこういうきっかけからするのもありかと思った」
深呼吸をしたカナタが私に身体を向けて、手をそっと取るの。
「今すぐに答えを出してくれとは言わない。ただ……考えてみてほしい」
冗談なんかじゃない。カナタは本気だ。
「もっと現実的かつ具体的に、俺たちの絆を深めることを」
「――……うん、と」
嬉しくないかって? 嬉しいよ。めちゃめちゃ嬉しい。
でもはない。ただただ、幸せな瞬間に違いなかった。
でもじゃなくて、だからこそ。
「映画の上映もまだで、私も初めてのドームライブが待っていて。高校卒業してすぐに仕事するならまだしも、大学に行くなら仕事と学生の二足のわらじだよ?」
「ああ」
「それに……ふたりで過ごすと、それってきっと最高だけど、同時にすっごく大変だよ? いまほど私、家事できなくなるかもしれないし。カナタだって同じだからさ。寮で一緒にいる頃ならまだしも、その先を思うと生活が荒れちゃうかも」
「ああ」
「仕事はきっと忙しくなるばかりで、そしたら……ひどいけんかもたくさんしちゃうかも」
「ああ」
「……私、九本の尻尾のおかげでどうやら目立つみたいだから。変な人に目を付けられて、いろんな目にあってきてるし。まともに生きられなくなるかもしれないよ?」
「ああ」
「それでも……それでも、私でいいの?」
「春灯がいいんだ。俺には――……春灯が誰よりも特別で、最高で、唯一の存在なんだよ。昨夜から朝にかけての特訓で思い知った」
「カナタ……」
「完璧な人はいないとメイ先輩たちをはじめ、みんなでよくいう。なんなら刀鍛冶にとっての標語でもある。侍が完璧に見えても、そうでない部分に目を向けよという意味でな」
まさしく侍に対する刀鍛冶に必要な心構えだ。
「そういう点で、俺は……自分の完璧じゃないところに気づかされることも多い。このところは特にな」
「そんなの……私だって一緒だよ?」
「そう思える春灯と俺だからこそ、先に進みたいんだ」
そっと口元に私の左手を引きよせて言うの。
「青澄春灯。俺と結婚してくれないか?」
全身の毛穴が今度こそぶわって広がる。
「最初は完璧じゃないかもしれない。つらいときだって、いままでのように何度だってあるかもしれない。けど俺は春灯のためならなんだってできる気がする。隔離世の侍にとって、これほど強い力はないだろう?」
「――……うん」
「その力を――……俺は誰よりも何よりもまず、お前に注ぎたい。俺たちふたりの未来に使いたいんだ。だから――……俺とふたりで幸せにならないか?」
一瞬でいろんなことが頭によぎる。
お金のこと。お互いの両親のこと。会社のこと。仕事のこと。ファンのみんなのこと。学校のこと。呟きアプリのことも、お部屋の家具とかふたり暮らしのこととか、緋迎家とうちの家族の付きあいとか、もうやまほど。
答えはね?
「サクラさんとうちのお母さんだけじゃなくて、お互いのマネージャーや社長、番組のスタッフさんたちとか……本当にいろんな人にオッケーもらわなきゃいけないよ? カナタ、へこたれないで私とふたりでがんばってくれる?」
「そりゃあ怯んだり悩んだり傷つくこともあるだろうけど、構わない。それくらいは覚悟の上だ」
「信用情報が足りなくておうちを借りれなかったり、保証人になってもらったりしなきゃだし、電気ガス水道とかの契約、ゴミ出しとかだけじゃなくて……私がご飯をつくったら必ず褒めてくれる?」
「いつだってそうしてきた」
「私がへこたれて疲れて帰ったときにはおいしいご飯つくってくれる?」
「そうじゃなくても作る。春灯ほどじゃないにせよ、俺だって料理はできる」
「洗濯は? 私の下着を手洗いできる?」
「お前が許してくれるのなら。掃除も好きだぞ?」
「知ってる……うちの親族、めんどくさいけどだいじょうぶ?」
「それは初耳だけど。いまさらそれくらいでめげるか」
胸を張るカナタを見て、笑っちゃった。
「じゃあ……すぐ結婚できなくても、ちゃんと待てる?」
「さすがにふたりだけの身体じゃないからな。それも当然、覚悟の上だ」
「……婚約成立?」
「春灯が頷いてくれるのなら――……じゃあ、答えは?」
期待と不安に包まれるカナタを見て過ぎるの。
これまで私が見てきたひとりぼっちの人たち。その中にはなにより最初に私がいて、そうしてキラリやユイちゃんがいて、タマちゃんたちがいて、高校になって知りあった大勢のひとたちがいて、江戸時代で会った家光さんもいる。
ひとりきりのほうが気楽だったりするかもしれない。最悪ひとりになる時間があればいいやって思っちゃうときがあるっていうのは、寮で同棲組の共通の愚痴だったりもする。
でもふたりでいるから見えてくる感情とか、熱とか絆とか。そういうものに触れて、ひとりを越えよう。ふたりになっていこうって思えるのかもしれないなあ。
理解して広がっていくあったかい気持ちのまま、幸せと友に言うよ。
「もちろん、イエス!」
「よし!」
おもわず喝采をあげるカナタに抱き締められたの。
高ぶる気持ちのままに、ふたりでキスをした。
用意はなくてもいい。
いま、あまあまに浸らずにはいられない。
孤独から見えてくるもの。愛情や友情、他人との付きあいに願うもの。
人それぞれに、時と場所によって変わるのだろうけれど。
私はいつだって――……彼とふたりになって願ってきた。
カナタと幸せになりたいなって。
現実に戻ってからの課題も増えた。なんならお母さんには怒られるか止められるかするだろうし、サクラさんからももしかしたら手厳しいことをたくさん言われるかもしれない。
社長やトシさん、高城さんたちからもなにを言われるだろうかと考えると怖い。
まだ絆の浅い、勢い任せに繋がるファンの人たちと離れるかもしれないのも、ほんとはとても怖くてたまらない。
けど、同時に楽しみでしかたないの。
たしかに未来が変わっていく。勇気を持って、変えていく。それが幸せに繋がるかもしれない。
あとはもう――……覚悟と行動あるのみ。とはいえ、
「ゴム、ないよね」
「それなんだが――……お前の獣耳の裏に、ほらゴムが」
手品みたいに愛用しているそれを取りだしてみせてくれたの。
まんま、ここのところはまっているコメディドラマの宇宙飛行士になった彼みたいなお茶目さに笑っちゃった。私、あの人も大好きなんだよね。最初の頃よりは、自分の振るまいに気づかされてキスを迫ってお鼻を殴られたときからかな。
ちなみに宇宙ステーションのトイレ騒動はかなりのお気に入りエピソード。大爆笑だった! まさにビッグバン……!
「じゃあ……する?」
「春灯がよければ」
「答えはもちろん!」
耳元でささやいたよ。イエスだよって。
愛しあう。この幸せにひたる時間のすべてが最高なんだ。
ふたりして蕩け顔で廊下に出て、岡島くんがあたためてくれた雑炊を食べながら思いを馳せた。
仮に家光さんが本当に男色だったとして、最高のあまあまを過ごせたと思っても、あとでそれが出世のためと知ったら……そりゃあ大いに傷つくはずだ。裏切られたと思うだろう。
そうしてどんどん心を塞いでしまうんじゃないか。
私は幸せ。カナタがいてくれて、彼と出会えて。ふたりで進めてこれたから幸せなの。
これまでも、これから先も。苦難があろうと乗りこえていくだけ。
家光さんもそんな人と出会えるようになりたくて、まずは素直になれる場所を求めてやまないのかもしれないね。
「ねえ、岡島くん」
「なんだい?」
「人と情で繋がるのって、難しいのかなあ」
食器の片付けもするよと言ってくれて、そばにいてくれる彼に尋ねたらさ。
岡島くんの膝枕で寝ている茨ちゃんの髪をそっと撫でるの。
彼の髪が不意に青く染まっていく。角が生えた。霊子が満ちていく。肌にびりびりと感じるのは酒呑童子の霊気。
「狐娘がなにを困っているか知らないが……妖狐に呼ばれて霊力にものを言わせて辿ってきてみれば、妙な時代にきてるもんだ」
深々とため息を吐いて、岡島くんを通じて鬼は笑う。
「最後は情だ。俺の宿主も、俺も。愛する絆を、愛せる価値のある絆を求めてやまないが……それは結局、自分で作るしかない」
「酒呑童子……」
「茨木を愛する。それが俺の価値だ。茨木にとってもな。利用するだのしないだの、人は面倒なことを考える」
どういうことだろう。
「関係ない。裏切られようと愛するならば、それもまた価値。そりがあわずに離れるもまた、価値。上等か下等か決めるのは常に己の選択よ」
「……でも、相手が自分を傷つけ、殺す存在なら?」
「そも、それこそが相手にくだす価値。石ころを愛する必要はない。なくても愛するのも、それもまた選択」
堂々巡りだ。
「やれ、限界だ……なつかしい霊気が心地いいが、一度戻る」
すぅっと青髪が黒髪に戻る。
変化に動揺などせず、岡島くんは優しく語りかけてくれる。
「彼は情で繋がりたければ繋がればいい。どこまでそれを貫くかも、その人次第って言いたかったんじゃないかな」
「……そっか」
きびしいし、優しい。どんな選択をし、どんな行動をしようとも、それは他人によって評価されるべきではないし、本人にとっての評価や価値を見抜くことなどできるものでもないというのだろう。
当然だ。自分と他人はちがうし、自分さえ一日の積み重ねによっていろいろ変わっていくのだから。
本人次第。どこまでいっても。
それならひとりを越えるのは、勇気次第だし、それはやっぱり簡単な問題じゃないんだね。
カナタとの未来に思いを馳せても答えは変わらない。
彼を愛し続けていく。
私はそれにとびきりの価値があると思うし、変わらないって思ってる。
たとえカナタがおじさんになってお腹がぽよって運動不足になって健康診断で肝臓の数値が悪くなっちゃったとしてもね。
失業したって、自暴自棄になったとしたって、信じてる。
がんばりやのカナタはいつだって最後には必ず苦境を乗り越えられるって。私がそばにいれば、それはもっと力強く成果に繋がると信じているし、行動するつもり。
だから……やっぱり。
「出会いなのかなあ」
どうやって出会うのがいいのか。
将軍さまにとって、どんな形の恋ならありなのか。
私はいろんなお話をしながら探ればいいのかもしれない――……。
つづく!




