第五百四十九話
消えたと思っていた姫ちゃんの指輪が三つ、彼女の肉体が再生するにつれて輝きと共に左手についていく。七原くんの鍵は消えた。維持しきれるものじゃなかった。しょうがない。でもいい。
「真実か挑戦か」
生気を取り戻していく彼女が口を開いた。
映画にもなった小説の中でも使われていると言うが、それはアメリカで人気のあるゲームだという。
「真実。きみはどんな目標を胸に抱いて生きる?」
七原くんが問題を告げる。
姫ちゃんは答えなければならない。真実を。
挑戦であれば、どのような挑戦であろうと乗りこえる必要がある。
真実と答えても恥ずかしくてごまかしたければ嘘をつけばいいじゃない、というのが自然な発想だろうけど、それはルール違反。海の向こう側じゃみんなではしゃぎながら、どんな恥ずかしい告白であろうと真実を答えるという。誠実な人ばかりじゃないだろうけどねー。でもルールはルールだし、姫ちゃんはアメリカ暮らしが長い。
「あなたと恋をしながら、愛を育んで生きていく」
それゆえに迷わず答えている。ミュージカルとかラブロマンスの恥ずかしい台詞さえ、彼女にはとびきり似合いそうだ。
「ひとまずあと二回のデートと、そのときのハードルを越えるのが目標です!」
胸を張って言うにはちょっと恥ずかしすぎるんじゃないかな、と万感の思いで見つめながらも一年九組女子一同は心の中で突っ込んだ。いや、訂正する。聖歌はわりと瞳をキラキラさせてはしゃいでいるので、つっこむどころか感動してそうだ。
「真実か挑戦か!」
「挑戦だ! 姫、俺と共にこの窮地を乗りこえる準備は!?」
「もちろん!」
左手を前に突きだした。胸の内から杖が吐きだされていく。握りしめた姫ちゃんが振りかざした瞬間、それは鍵の形を取って――……さらに姿を変えて、刀になる。それだけじゃない。淡い光が二つふわふわと浮かんで、姫ちゃんの腰へ。瞬く間にふた振りの刀へと姿を変えるんだ。指輪ひとつに対して刀ひと振り。
「私がやらずに誰がやる!」
胸を張って言う頃にはもう、姫ちゃん完全復活だ!
一気に全力を出して私だけじゃなく、ルイも美華もからっけつ。
思わずへたりこむ私たちに気づいて、聖歌が駆け寄ってくる。けれど。
「ううううう!」
春灯ちゃんが悲鳴をあげ続けていた。尻尾の黒さは広まるばかり。私たちの指輪から黒いモヤが出てくる。当然、姫ちゃんの指輪からも。けれど。
「せっかく刀にしたけど――……戻って!」
彼女が掲げた刀に、ほかのふた振りの刀が一瞬にして光へと戻り、刀に結集する。見る見るうちにそれは鍵へと変わるのだ。
決意の表情とともに姫ちゃんが春灯ちゃんへと駆け出す。
「いつか抱き締めてくれたあなたの輝きを、私が曇らせるなんてごめんなの!」
鍵を持つ手を伸ばす。教授が見ていないわけがなかった。指を鳴らす音がする。
地面から手を突きだしてあらわれた大勢の死人が群がってくる。その手に持つ刀の鈍い光に姫ちゃんが怯みそうになるけれど。
「進め!」
七原くんが刀を振るう。
するとどうだ。真中さんの刀の光を浴びて露わになる彼の影が瞬く間に巨大化していくではないか。影にヒビが入る。がん、がんと何かが叩かれてすぐ、影から炎が吹き上げていく。
瞬間、咆吼が響き渡った。思わず耳を塞がずにはいられないくらい巨大な声をあげた主が、影を突き破って空へと羽ばたく。
赤い竜だ。翼のない、いわゆる蛇のような奴! 蠢くように長い身体を丸めて微笑む。
「いかように?」
しゃべるのかよ! しかも女子の声なのかよ! いろいろ意外だよ!
てんぱる私の指輪から飛び出るようにちっちゃい春灯ちゃんが出てきて、姫ちゃんに飛びついた。それに気づいて、七原くんが私を見て微笑む。
やべえ、嫌な予感しかしねえ。
「報われぬ死人は理華に任せよう」
的中したよ!
私にまだ働けと!? 姫ちゃんを助ける手助けでわりともう限界なんですけど!
モヤが体力ゴリゴリ削ってくし!
「姫をのせて春灯さんの元へ!」
「承りましょう」
頷いた竜は姫ちゃんのそばへと頭を寄せる。
戸惑う姫ちゃんの身体を片腕に抱いて、七原くんが飛び移った。
見せつけてくれやがって! いろいろ言いたいけれど、元気がなくて無理!
軽々と死人の群れを飛び越えて春灯ちゃんの元へと降り立った姫ちゃんにちっちゃな春灯ちゃんが叫ぶ。
「ねらいは!」
「わかってる!」
迷わず姫ちゃんは鍵を黒い尻尾に突き刺した。
そして左にぐいっと回す。その瞬間、黒いモヤが収束していく。姫ちゃんが鍵を刺した一尾へと!
どんどん回す。そのたびに黒い毛が噴き出て春灯ちゃんの尻尾から散っていく。舞い散る黒い毛はみるみる内に金色へ。
「理華、だいじょぶ!?」
聖歌が飛びついてきた。
いつしかモヤは消えていた。おかげでだいぶ楽になったからか、聖歌は迷わず私たちを抱き締めていく。それだけで妙に元気が戻ってきちゃうのが不思議だし、聖歌らしい力だなあとも思ったね。
ルイにも美華にも一切の躊躇なくはぐして、さらには大勢に群がられててんぱっているツバキちゃんたちに駆け寄っていく。
「ルイ、理華! 露払いだ!」
「へい!」
「ちょっと、黄門様のすけかくじゃないんだから!」
美華に言い返しながらも刀を手に走りだす。ルイはだいぶ冷静で、疾走して片っ端から死人の刀を蹴り飛ばしてから首根っこを掴み、私にぽいぽい投げてきた。迷わず刃を当てて成仏させる。
足りない。教授に差し込む一手が足りない。けれど、状況は変わりつつある――……そうとも。
彼女の尻尾に金色が戻っていくのだから!
◆
姫ちゃんが鍵を回しきってくれたおかげで、突然流れ込んできた気持ちの悪い感覚のすべてが吹き飛んだ。それだけじゃない。私の尻尾に潜り込んだ霊子はまるごと私のぷちへと変わっていくの。そうして尻尾に戻ってくる。
「春灯ちゃん、だいじょうぶですか?」
鍵を引っこ抜いて不安げにこちらを見てくる姫ちゃんを迷わず抱き締めた。
「大好き!」
「え……と?」
「ありがとね?」
頭を思いきり撫でまくりたいけど、大好きな男の子がいる前で髪型みだしちゃいけないよね。
だからはぐで伝えよう。めいっぱいの感謝を。
頼もしい後輩たちを見つめる。理華ちゃん、美華ちゃんに聖歌ちゃんや、一年九組のみんな。
ツバキちゃんと目が合った。やっちゃう? って聞いている瞳に笑う。
どうだろうね? 今夜の主役はどうやら私じゃないみたいだ。
ヒーローとヒロインを見つめながら、思いを馳せる。救われるために生きている。助けるために生きている。そうあれればどれほどいいか。悲しいけど、人類みんなが優しい生き方を選べはしないよね。当然だ。生きたいようにみんな生きるよ。求めるものに手を伸ばしながら。
男の子と女の子は手を繋いで寄り添っていた。
きっともう、今夜のとびきり大事な瞬間は終わったのだろう。
だけど華を添えるくらいならできる。
胸一杯に息を吸いこむ。
教授を見つめた。あの人との付きあい方に示せる答えを私は見いだせずにいる。
けれど、もしかしたら。あるいは、この子たちが見せてくれた輝きに未来があるのかもしれない。
感じるの。
尻尾を通じて、鼓動を感じる。
立ち上がりながら唇を開くの。
「――……」
お父さんがつらいお仕事のあとに必ず見ているアニメ映画があるの。
フォーミュラ、91。私が生まれる何年も前のかなり昔の映画で、しかもロボットアニメだから私にはぴんとこないことが多いけれど。でもエンディングに流れるあの歌は不思議と心に染み渡る。
死人と死臭と悲しみと未練。
漆黒をはね除けようとメイ先輩が刀をどんどん輝かせていく。
魔法使いの技に翻弄されながら、それでもユニスさんが魔法を炸裂させて光を足していく。
光を手にしたマドカが化け物じみた侍たちと渡り合う。ギンが、狛火野くんが、タツくんにレオくんが挑んでいくの。
羽村くんが茨ちゃん、岡島くんとともに人の妄念を断ちきっていく。
争いが満ちていく。
現世にさよならを告げられた悲しい人たちが、今こそ自分たちの死に場所を手にしようと刀を振るう。生き方が違う。けれど心はひとつ。願いはひとつ。納得のいく生と死を。
目の前のものに囚われちゃだめだと、主人公のお母さんが言うたびに私のお父さんが涙を流しながら「そうなんだよなあ」としみじみ言っていた。
戦いに囚われている、という見方にこそ囚われないで。感性を研ぎ澄ませて、感じてみて。
みんな、苦しんでる。救いを求めている。教授ですらそうだ。
ギンが刀を切り裂く。ガラスのように割れて散っていく。
「――……」
歌いながら思いを馳せずにはいられなかった。
ひとふりごとに物語があって。それを振るう人たちみんなにちがう人生があったはず。
教授が闇を吐きだすたびに死人は再生して、曇った瞳で挑んでいく。死に場所を求めて。
けれどね?
「まだまだいきますよ!」
「これはこれで妙な戦い方だけど悪くないっすね!」
日高くんに投げられた死人を理華ちゃんが刀で触れていくたびに、死人は瞼を閉じて安らかな顔をしながら天に召されていく。
泣きそうだ。けれど、私は金色ではなく――……ひたすらに青く澄んだ霊子を放ちながら願う。決して泣かないから。みんなを助けてみせるから。信じられるように歌い続けるから。
とびきり強そうな侍たちが私に群がってくるけれど、雷光が私を覆うように疾走して追い払う。
強い背中がいつだって私を守ってくれる。
トモに微笑みながら歌い続けるよ。
「――……」
理華ちゃんが伝えてくれる力を。姫ちゃんが願う祈りを感じるから、霊子にこめて広げていく。そうして――……ゆっくりと、伝わっていく。
ミナトくんと同じ剣を持った死人のひとりが振り下ろそうとした剣を――……そっと下ろして、理華ちゃんの元へと歩きだす。ワトソンくんと同じ剣を持った人が、刀を持った人が下ろして、ひとり、またひとり。
「な、なぜだ! 私の支配を越えられるものか!」
教授が黒いモヤを吐きだそうとしたけれど、それは青い霊子から噴き出た星が防ぐんだ。
刀を掲げたキラリが吠える。
「誰かの願いを歪めるなんて、自分の願いも叶えられないあんたには一生かかっても無理だ!」
「ぐっ――……」
歯がゆそうに表情を歪める教授をミコさんの大鎌が狙う。メイ先輩の刀が、逃げ延びた先に待つ。
敵が増えていく。教授は裏切られ、ひとりぼっちになっていく。
そういうやり方じゃきっと……痛みは増えていくだけだと知りながら、考える。
なんでそんな風に生きるのだろう。自分のためでしかないのかな。誰かのためなのかな。生きるのに必死だから?
それは、あの歌の最初のフレーズのように……まさに、悲しみの欠片そのものだった。
なまじ死を操れるから、どんどんはぐれていくの。
あなたの鼓動を、いまはもうたしかに感じている。生きているのにね。同じように笑えるはずなのにね。そうはならなかった。いつかあなたは命を落とす。本当の意味で、つけを払わされてしまうときがくる。傷つける道を選んだ、そんなあなたは……ひとりぼっちで死んでいく。
それを許してしまう私さえ、愚かな生き物なのかな。
悲しいな。悲しくてたまらない。ひとりぼっちのつらさをわかっているはずなのに、そんな私が助けられないひとりぼっちが目の前にいるなんて。
――……それでも、泣けない。泣いちゃいけない。
「――……」
歌っている私をキラリが見た。マドカも。
私の気持ちが痛いくらい伝わっているはずだった。
死人が消えていく。そうして孤独に陥った教授の悲鳴と傷つき叫ぶ声だけが響いていく。
劣勢は勝勢へ。手足を失い落ちたあの人が落ちていく。
歩きだす。
指を鳴らした。青は金へ。光へと変わる。
降り注ぐ中で、ミコさんとメイ先輩が止めを刺そうとおりてきたけれど、刀を抜いて受け止めた。敵意と憎悪、そして殺意のすべて。見上げて微笑む。
それだけでふたりは引いてくれた。だから刀を下ろして、鞘へと戻す。
屈んだ。
朽ちていく身体をそっと抱き上げる。きっともう、死はすぐそこに迫っている。
「きみは、なんだ……」
「いつかあなたにもわかる日がくる」
「――……きみ、は」
さらさらと土塊に溶けていく。
「わたしは、また、あらわれるぞ」
「そして大勢を悲しめて、傷つけて……こうしてまた、ひとりぼっちになるんだよ」
「――……そんなの、わたしにとっては……ずっと、かわらないげんじつでしかない……」
声がひびわれていく。
「わたしを、うけいれなければならないときがくるさ」
「ううん。それはない。それはないの」
そっと抱き締める。
「だれかを傷つけても未来はないんだよ。あなたが優しくするだけ、世界はあったかくなるの。寒くなきゃいや?」
「――……ああ」
「でも、あなた……いま、嬉しそうに笑ってるよ」
顔を見つめる。報われた子供のような笑顔をみせる彼を見つめながら、それでも涙は流さない。
私の瞳越しに自分の顔を見て、どんどんひび割れていく彼を離さない。
「あったかいほうが好きなくせに」
「……あ」
なにかを言おうとした。
呪いの言葉かもしれない。懺悔の言葉かもしれない。意味もなさない呟きかもしれない。
でも、心臓が露わになって、それは止まっていくの。最後の言葉に違いなかった。
どんな言葉を口にするのだろう。どんな人であろうとするのだろう。
「――……優しくして、くれたら、いいのに」
子供みたいなわがままで、だけどすごく素直なお願いで。
「あなたが拳を握らない生き方を選ぶのなら、私はこうしていくらでも抱き締めるよ」
「――……難しい、注文だ」
微笑みを浮かべて囁いた。
それを最後に砂に溶けて散っていく。浮かび上がる淡い黒いモヤがどこかへ飛んでいくの。
「逃がさず燃やすか?」
お姉ちゃんの呟きに頭を振って答えたよ。
「ううん、いいの。優しくさよならしよう」
見送るだけじゃなくて、この場に満ちる金色を彼に寄り添わせる。
未来が変わるとは思えない。これはたんなる自己満足なのかもしれない。
だけど、あまりに切実な彼の願いを聞かずにはいられなかった。
大人になっても未熟な人はいる。大勢いる。残念なだけじゃ済まない人の過ちを毎日のようにメディアやネットが叫んでる。友達とか仲間から聞かされる誰かの愚痴のように。
完璧な人なんていない。完璧な社会さえ幻想なのかもしれない。それでもどう生きるのか。私たちは常に問われている。
私の軸はもうとっくの前に決めたんだ。
刀を下ろして、生き様を貫く。生き抜くよ。そのためにできることをやり抜いていく。ただ――……拳を握るよりも、手を開いて差し出す生き方を選び続ける。
誰にでもある輝きを信じ続ける。闇に包まれてどうしようもなくなっている人ですら、願ってくれるのなら信じるよ。
そうじゃなきゃさ。あんまりにも、報われないじゃんか。
傷つけ合うことしか知らないで、敵意ばかり増えていくなんてさ。
そんなの、悲しすぎるじゃんか。しんどすぎるじゃんか。うんざりするじゃんか。
私はさ。ただ信じたいんだ。
どんなに心がくさくさしててもいいなって思っている店員さんにお小遣いを渡されるときに手をきゅって握られてどきっとしちゃうくらい、単純で。
大好きな人に「かわいい」とか「好きだよ」って言われるだけで弾んじゃうくらい、素直で。
好きな人や仲間と抱き締めあった瞬間、胸の中にじんわりと広がるぬくもりでくすぐったくなっちゃうくらい、さみしがりやでひと肌にもろい。
そんな人の心を、信じていたいんだ。
まぶたを閉じれば、ああ……本当に思い出せるよ。素敵な時間のすべてを。それだけで心がぽかぽかするの。そしたらちょっとだけ元気がでる。へこたれていても、涙を拭くくらいの気持ちになれる。もうだめだって折れそうなときだって、帰る場所がある。それだけで歯を食いしばれる。
そのおかげで今日だって心はどこかで通わせられるんじゃないかって信じられるんだ。
これからどんな未来があなたに待っているかわからない。
結末は変わらないと私は感じたけれど、でももしかしたら――……死んだ女の子が恋心で蘇っちゃうくらいの奇跡が許されるのなら。
あなただって、ひとりぼっちじゃなくなって、誰かを助けられる未来だって、あり得てもいいと信じずにはいられない。
いつかあなたが望んでいた金色を送ったよ。名残の光の風を浴びながら微笑みと共に見つめた。
「さよなら」
またねを言う機会は恐らくないだろうけれど。
幸を。あなたと、あなたに関わるすべての人に。
それをなす道がわかるように、私の金色があなたの行く先を照らしますように――……。
◆
侮っていたなあ、と素直に思った。立沢理華は見誤っていた。
春灯ちゃんは現代で教授を拒絶して苦しんでいたように見えた。教授の本を読んで、あいつが具体的に春灯ちゃんになにをしたかもちゃんと把握している。セクハラ、パワハラなんて生やさしいもんじゃない。春灯ちゃんは教授に拷問されたのだ。そんな相手に優しくできるか? できねえだろ! 少なくとも理華には無理!
けれど、違った。春灯ちゃんは彼を抱き締めて、癒やせる道はないか探ってみせてくれた。
聖歌が選んだ答えを取り込んで、迷わず選択した。
きっといまの聖歌にはすぐにはできないかもしれない。ううん、それどころか世の中の大勢が困難だと感じるだろう。その必要性すら感じないかもしれない。
でも、春灯ちゃんはやってみせた。間違いなく、私の理解の外にいて、聖歌の道の先にいる人だ。
おかげで聖歌が憧れの眼差しを注いでいるけれど、当の春灯ちゃんはとても切なげな笑顔で夜空を見上げていたよ。
とびきり巨大な月が見える。
「おねえさま!」
美華が駆け寄っていくと、明坂ミコは月に手をかざして指を鳴らした。
するとどうしたことか。一瞬で月は小さくなって、新月を晒す。赤く燃えるような血の新月。流血が終わったことを示すようにゆっくりと赤が抜けて、本来の月の色へと戻っていく。
「美華、がんばったわね。えらい」
「えへへ」
ゆるみっぱなしの笑顔を晒してミコさんに甘える美華を見ながら思う。どれだけ普段は猫をかぶっているんだか。まだまだツンツンしているなあ。あの針をどうにか攻略してやる。
それはそれとして、刀を消して尻餅をつこうとした。疲れすぎていたからさ。もう限界だっての!
なのに、背中から抱き締められた。ふり返るとルイが私を見つめていたの。
「お疲れっす」
「……んー。思ったより人は愚かじゃねえし、それでもやっぱり愚かなんすかね」
「どういうことっすか?」
ルイに抱き締められながら、羞恥心とか感じる余裕はもはやなくて。
ただただ落ちつくし、ほっとしちゃう。江戸の街中で大騒ぎをしたのに、もはや頭は働かない。限界だから! それにルイの腕の中が予想以上に居心地がよすぎるから。
「私たちは教育を受けて価値観をすり込まれていくじゃないですか」
「この状況で授業っすか?」
さすがに勘弁だと苦笑いをするルイに「彼氏なら付き合え」と言うだけで黙らせる。
「小一、早けりゃ幼稚園かその前からテストを受けて点数主義と競争原理に組み込まれて。悪は死すべしとあらゆるフィクションを通じて勧善懲悪にならされて。罪を犯せば叩いていいとメディアを通じて感じていく」
「人によるんじゃないっすかねえ」
「そうかなー。まあどっちでもいいんですけど」
脱力してルイに体重全部あずけてもびくともしない。さすが忍び。
「それ以外の価値観で動いている人も含め、本当の意味で人の価値を認める力って……実はたいしてないんだなって思ったんですよね」
「ああ……」
納得したようにルイが春灯ちゃんたちを見つめた。
「でも、そんなことないんじゃないっすか?」
「え……?」
予想外な返事に思わずルイの顔を見たよ。そしたら、無邪気に笑って言いやがったんだ。
「なんかいいなって思える気持ちがあれば、それがもう認めてるってことっすよ」
「――……そうですね」
シンプルな返し。でも真理!
いいね、その感じ方。やっぱりルイでよかったとしみじみ思いながら、甘えてみせよう。
「じゃあ理華へのはぐがいいなって思えるように、もっと強めに。はよう」
「え、ええ!? 急な無茶ぶり! み、みんながいるんですから!」
「人前でいちゃつけるようになってやっと半人前だぞ」
「一人前の定義とは」
「人前でいちゃつく必要さえなくなり、時と場所を選べるようになるけど、たまに感極まって抱き合っちゃうみたいな?」
「結局人前でいちゃついてるじゃないっすか」
「いまはいいの!」
無茶いうなと動揺しているルイに甘えてめいっぱいハグをしながら考えた。
なんかいいなって思う力。それを或いは感性のひとつとして捉えてもいいのかもしれない。
なんかいいなを具体化していけばさ? それは形になっていく。理屈に落とし込めとはいわない。むしろ感じる力を高めていくほうがずっと大事だと思う。
なにかを否定する必要は、実はない。なにかを肯定するためになにかを下げるなんていうのは、はっきりいうけど三流未満のやり方だ。なぜかって? 話のテクニックのひとつだよ。
みなさんはぴんとこないけど、あなたはちがう! この商品の良さがおわかりになる! って言うとすんげえ胡散臭くねえ? でもさ?
クラスのみんなはわかってくれないけど、あなたはちがうよね? って言われたら、うっわ重たってなるよね。クラスのみんなと一緒のほうが楽そうだなあっておもわね?
あの映画のシリーズの中でも新作は駄作でしたね! 一作目は最高なんですけど! なんて話はわりとよく聞くじゃん? でもそれってさー。新作のよさを見抜く力がないですっていう自白と、映画のシリーズを新作含めすべて愛している人とか新作を単純に気に入った人をまるごと敵に回しているし、だいたい一作目を選ぶ俺の眼力すごいっしょっていうイキリにしか見えないんですよ。要するに、がき丸だしなんですよね。そんな風に思われるの、損でしょ?
繰り返すけど。
何かを落として何かをあげる論法はあるんだけどね。それを効果的に使える人は実はそんなにいない。
何かの好きを語るときは、好きなものに対する思いだけで語れないようじゃそもそもお話が成立しないのだわ。
比較をするときにも注意が必要だなって思ってくれたあなたは賢明な人! その通り、比較をするときは比較対象を落とす必要は欠片も無いのだぜ。
良さと良さを比較して、さらに主題となっているものが際立つように話して初めて心地よく成立するのだぜ? だってそうでしょ?
いまだってさー。私が注意が必要だなって思ってくれたあなたは賢明って言ったけど、そう感じなかった人はむっときてない? 私ならくる! それが自然な反応だと思うね!
こんな感じで否定を織り交ぜると、相手がむすっとするんだよ。
だからやめたほうがいいんじゃね? っていう問題提起に続けて話をするけども!
ミジンコの知能に比べてあなたは賢いですねって言われて嬉しい人がいる? そんな比較おかしくない? 相手にとって同じ分野で認められる範囲で素晴らしいものと比較して、そのうえで「あなたのここが素晴らしい」と言えるほうがよっぽど相手をくすぐれるんじゃね? だいたい、たとえば野球選手にサッカー選手みたいに動けるんですねって言ってもしゃあないべ?
認めてもらいたい、ないし、評価されると嬉しいことを、それに類する分野で相手にとって価値があると思えるものと比較して、さらに素晴らしいと認められる一言を伝えるからこそ響くんであって。
あれはだめですよねって話は余計だし余分だし、ゴミでしかないんですよね。事実を言って論破して気持ちいいのはあなただけ。言われた相手は気分を害するだけ。
ちなみに世の中でめちゃめちゃ評価されているものと比べてだめだっていってみたり、逆にすげえ評価されてないものを並べてだめっていうのもそれはそれで雑な中傷レベルの域を超えない時点で無駄な会話でしかないし、ヘイトを稼ぎ合ったりヘイトをぶつけあう発展性のない意味のない時間にしかならない。それをせずにはいられないときもあるけどね。ついつい話しちゃうときだってやまほどあるけどね。
でもオススメはしないかな。それをしちゃう時点であらゆる可能性が閉じちゃうぜ? 呪いは自分に返ってくるものだからさ。
私の場合は鮫塚さんにチョップを食らったり、通いなれたお店のマスターたちから脇腹をつつかれたりして気づかされる。心がブスになってるよって指摘されるたびにはっとする。
いやだ! 可愛くなりたい! 心のブスは困る! だって心のブスは自分でいくらでもなれちゃうものだもん。それだけはごめんだぜ!
さてと、横道に逸れてきたんで話を戻しますけども。
ヘイトに構っている暇はない。欠片もない。いいと思えるものを、どれだけ具体的に考えられるかどうかが大事。いいと思えるところ、だめだなって思うところを捉えて、後者はゴミ箱ないし今後の対策箱へ。いいと思えるものをより強く、より大きく、より鮮明に拡大していく。
人や物に対するヘイトを語る姿勢はその時点で信用できない。相手にできない。構っている暇さえない。その対象は、自分も含める。
いいところを具体的にして伸ばしていく。それしかしている暇は立沢理華にはない。人生には他者と関わり、他者と通じ合いながら自分を伸ばす以外、している暇が欠片もない。
だって私は最強になりたいからさ。輝きたいからさ。あがる人たちとの絆を結びまくりたいからさ! それしかしたくねえんですよ。単純だし簡単でしょ?
でもねえ。私も未熟者。そういう意味じゃ、私はクラスのみんなに対しても、春灯ちゃんに対してすらも、いいなと思うこの感情を具体化できてない。整理さえできてない。ちっともね。
それじゃあ見誤る。
今回は春灯ちゃんが私の予想を上回るくらいすげえ人だったから乗りこえることができた。
未来を信じて突き進む力が爆発したときのノリと勢いだけじゃない。
「くっついてるのずるい。私も!」
「わっ、ちょ、ちょっと!」
聖歌が私とルイに抱きついてくる。
迷わず行動しちゃえる意思の強さとか、シンプルなルールの強さみたいなものを今日はやまほど感じた。
聖歌を通じて春灯ちゃんが見えてくる。
もっと具体化してかないと、今回のような窮地でし損じるとみたね。いやあ、この未熟に気づけた私えらい! すごい! かしこい! さすが理華ちゃんじゃね!?
よし、自己肯定ターンひとまずひとつ完了。率先して自分を褒めていくスタイルでいきますよ。今日はがんばったからね!
「にしても聖歌。くっついているっていうなら、姫ちゃんと七原くんのところにいけばいいのに」
横目で見たら、聖歌はむすっとした顔を左右に振った。
「だめ。あつあつすぎて溶けちゃう」
どういうこった?
ちらっとふたりを見たら、なるほど。すぐに納得した!
七原くんが姫ちゃんの腰を抱いて、新月を見上げていた。
血が抜けて、明るい黄色を見せる月に思いを重ねて――……たがいに顔を見あわせて、口づけあう。
たしかにあつい。でも今日くらいはやっかみもなし。
救われた女の子と、救った男の子。きっとこの光景こそ、私たちが勝利を掴んだ結果に違いないのだから。
血が落ちる。新月が輝く。新たな恋路が花開いていく。それでいい――……。
つづく!




