第五百二十六話
正式な賓客として幕府に迎えられることになって、直ちに問題が生じたの。
「なんでスマホの充電がまだできないんですか!?」
「テレビもたまにしかやらないの、退屈すぎます!」
「だいたいいつまでこんな目に遭わされなきゃいけないんですか!?」
一年生の中で不満が膨らんできていて、とうとうコナちゃん先輩に直訴する子たちがあらわれたんだ。それも仕方ない。みんな不安だし、それは上級生がどうにかしてくれるべきだって思っても、責めることはできない。自分たちで解決できるようになるんだよって説くべきタイミングが今ではないことくらい、傍目で見ている私でもよくわかる。
「元の時代に戻れるよう、全力を尽くしているの。スマホに関しては後回しだったけれど、対処を考えてみるから。テレビもね。さあ、ほかに不満がある人は?」
集まってきた一年生が次々にあれこれと口を開くけれど、コナちゃん先輩は辛抱強くみんなの話をできるだけ聞いて受け止め続けた。いい加減、見ていられなくなって間に入ろうか悩んでいたら、マドカに袖をくいくいって引っぱられたの。見たら、首を左右に振られちゃった。
今は口を挟むべきじゃないっていうメッセージ。わかっているけど、歯がゆい。
みんなが口々に不満や不安をぶつけるの、そうするしかないと思っているからだろうけど。
だけど――……他力本願じゃ、どうにもならないのに。
モヤモヤする気持ちでいたら、だんだんだんと畳を強めに踏みならして歩いてくる子がいた。彼女が口を開く。
「あのう! ちょーっと、いいですか? すみません! 先輩たちもがんばってくださっているんですから、理華たちも打ち合わせてまとまっていくっていう話だったので、そろそろ落ちついて、一区切りにしません? 一度にわーって言っても、わからないでしょ? ほら、理華が最初になんて声を掛けたか覚えている人、います? いませんよね?」
はいはい終わりですよって手を叩きながら集まった一年生を解散させちゃう。ただまくしたてるんじゃなくて、抑揚から声の張りに身振り手振りを交えてまでして、みんなの注目を集めて勢いをつけちゃう。
渋々離れていく生徒たちを見送ってから、理華ちゃんは極上の笑顔でコナちゃん先輩を見て――……ハリセンを突きつけられた。
「立沢。あなた、けしかけた? あるいは見逃した?」
「……やだなあ。なんのことですかね?」
修道服姿の理華ちゃんのスカートの内側から、ぴょこんと尻尾が出ている。悪魔の証だ。
「一年生の不満をあなたが解消するリスクと私にぶつけるリスクを計算して、私に押しつけたんじゃない?」
「知らないなあ。そうなんですかあ? まあ、生徒会の仕事としては適切だと思いますけど!」
すっとぼけてる! 私にもわかる。理華ちゃんはこっそり動いて生徒会に誘導したか、あるいはこうなることを望んでいたっぽい。尻尾が嬉しそうに揺れているあたり、ごまかせてない。ごまかす気もないのかもしれない。
「……まったく。もういい」
ハリセンを下ろしたコナちゃん先輩に理華ちゃんはたたみかける。
「それじゃあ提案なんですけど! ガス抜き、必要じゃありません? 離れの屋敷に押し込まれて、褒美が決定するまで待機せよ! なんて言われているみたいですけど、退屈だなあ?」
「……江戸の町でも見てきたいって言うんじゃないでしょうね?」
「さすがは生徒会長! 察しがいいですね!」
「諦めないわね……お金も褒美に期待しているから、無理に集めてくる必要も今のところはないのよ?」
「いつもは先生たちにお任せするしかない旅ですが、これは理華たちが能動的に社会見学をできる素敵な機会ですから! 逃したくないんですよねー。江戸の町、歩かせてくださいよー!」
朗らかに笑う理華ちゃんの尻尾が引っ込んでいく。
ツッコミと成敗のためのハリセンを消して、コナちゃん先輩がジト目で理華ちゃんを睨みつけた。
「本当に歩きたいだけ?」
「もちろん! 一年生を気晴らしに連れ出して、護衛に強い先輩を何人かつけてください。おいしいものを食べて、知らない物を見て、歩き回ればストレス解消になりますよ? お得でしょ?」
「……次からは、あなたが直接、大勢が動きだす前に私に会いにきなさい。それが条件よ」
「だからあ、なんのことかわからないなー?」
「立沢」
厳しい声で名前を呼ばれてやっと、理華ちゃんは頭を下げる。
「私の手落ちでご迷惑をおかけしてすみませんでした。今後は気をつけます」
「……もういいわ。あなただけの責任じゃないのだし。一時間で支度させて」
「はあい」
失礼しますね、と笑顔で私たちに告げて、そそくさと立ち去っていく。
尻尾が消えた小さなお尻が見えなくなってから、コナちゃん先輩は深いため息をついた。
「一年生の不満を浴びせてから、それをどうにかするっていう伝え方は……なしじゃないけど、やりかたとしては悪辣。立沢の限界があるからか、それともあの子自身が私たちに不満を持っているのか……どちらかわからないけれど、自主的であるところが怒りにくい」
「まあまあ……お茶でものんで」
ラビ先輩がすすす、とお茶を差し出す。すっかり冷めている。見守っていた副会長を生徒会長は理華ちゃんに対するより険しい顔で見据える。
「どうして援護してくれないの」
「いやあ……僕、甘えん坊の相手って苦手なんだよね」
「……あなたも悪戯っ子側だったわね。シオリ、進捗は?」
隅っこで静観を決めこんでいたシオリ先輩を見たら、うつらうつらと頭を揺らして寝ていたよ。
「シオリ?」
がくん、と前に倒れてあわてて顔をあげると、シオリ先輩はコナちゃん先輩のいる方向を凝視した。なぜだか眼鏡を外していて、それだけじゃなくて疲れているのか目がぼやけて見えないのかも。じーっと凝視しながら、シオリ先輩は言うの。
「えと。寝てない」
「まったくもう! 別にいいけど……進捗は」
「え、っと……タブレットを隠していた奴を見つけた。説得して、外付けSDカードリーダーを柊と作成中。今週中にはなんとかする予定」
「よろしい! 春灯、あなたの予定は?」
いきなり振られてどきっとしたけど、胸に手を当てて答える。
「将軍さまのお誘いでお城に行く予定です!」
「精一杯、媚びをうってきなさい! 褒美にいい影響が出るようにね!」
「……はあい」
すぱっと言われても困るけど、拒否権はないよねえ。この場合はさ。
江戸時代に滞在している間の活動のしやすさがかかっているんだもん。
お金がっぽり、領地なんかいただけたりしたらもう万々歳! さすがにそれはないかな。でも居場所をもらえたら、そしてお金をもらえたら、すっごく助かる。
だめならだめで、当初の計画どおりお店をやる。その許可をもらっちゃおう、というのが、あの夜を無事に乗りこえた私たちの出した結論だった。
とはいえ、シオリ先輩の準備も着々と進行中。そろそろ戻るきっかけが欲しいところだ。
どうしたらいいのかな?
◆
はーっ、やべえ!
生徒会長のガチの怒りを向けられてすこしちびりそうでした。
立沢理華、ちょっとこすい手も平気で使うほうですが、さすがに今回のはないな。同じ方向性の手段はもう二度と使えないと考えるべきだ。悪い印象を与えて一年を過ごすのはしんどいからなあ。どうにかして挽回するべ。
いやほんとさー。まじで、一年生全員を掌握するには時間がかかる。現代ならまだいくらでも動きようがあるけど、江戸時代にいる状況じゃあね。みんな不安と緊張に晒されているから、グループ化しやすい。その垣根を越えるのは、なかなか繊細で大変だ。結局、何度も止めたり阻んだりしたのにも関わらず、生徒会長に直訴しにいく連中が現われたんだから。
まあ、それを利用してフォローしたんですけどね。疑われた以上はあれこれ言っても仕方ない。どこかでこうなればよかったと思っていたのも事実だし。
先に戻っていた連中を含めて一年生が集まる大広間で周知する。
準備と言われても持ち歩ける荷物なんかそもそもないから、みんなは厠にいったり水を飲んだりして過ごすだけ。
ストレスがたまっている顔ばかりだ。水洗便所ではないし、そもそも洋式トイレでもない。
軟禁状態に入る前なら、最低限、先輩たちが作ってくれた現代施設で過ごせたけれど、お城入りしてからはそれも無理。そりゃあうんざりしてくるよね。
なかにはさ?
「江戸の町……ご飯、気になる」
「私は――……花魁道中が見てみたいかな」
聖歌や美華みたいに脳天気な連中もいるけどね。にしても、花魁道中か。
「美華はどちらかといえば潔癖なほうだと思ってた。意外ですねえ」
「別に? ただ……興味があるだけ」
あれ? 妙な手応えだな。反論してくるか素直に教えてくれるかだと思っていたけど、流そうとするなんて。
「会いたい人でもいるんですか?」
「――……知らない」
顔を背けて、ついでに立ち上がって詩保と姫ちゃんのほうへ行ってしまった。
怒らせちゃったかな? でも理由がわからない。まさかこの時代に知りあいがいるわけでもあるまいし。ねえ? なんだろうね?
「理華はなに食べたい?」
「聖歌はぶれねえなあ。んー、そうだねえ」
腕を組む。江戸の食といえば江戸前なんて言葉が浮かぶし、江戸前のなになにと呼ばれる類いの食事はいくつか浮かぶ。寿司、うなぎ、穴子。西に行けば明石の鯛とかたことか言いますけどね。東京といえば、まずは寿司かなあ。さすがに江戸時代の食の事情に明るくはないから、むしろ社会見学ツアーでそのへんをばっちり見ておきたい。
食いだおれだ! わりとテンションあがらねえ?
「まあ、片っ端からうまいもん食うべ」
「お肉あるかなあ」
「よかったねー。生類憐れみの令が出る前で」
きょとんとする聖歌に笑いながら、ふと思いついて周囲を見渡す。
すると、すぐに見つけた。離れたところでクラスの垣根なく男子連中で固まっている。私たちを監視している武士のひとりと仲良くなった男子の先輩がもらってきた花札で遊んでいるのだ。
「おら、四光! こいこいだ!」
「ふっ……五光狙いっすね? 後悔するっすよ」
「ほざいてろ。今夜の飯のおかずを全部奪い取ってやらあ」
「そうはいかないっす! ほれ、かす! これであがりっす!」
「おまっ!? それはないだろ!」
「勝ちは勝ちっすよ!」
スバルに勝ってどや顔をするルイを見つめた。たくさん人がいる状況下で最初に彼を見つけたわりには、ありがちな不整脈も鼓動がどうこうなる変化もない。
気のせいだって。うんうん。私はあんな奴に心を奪われたりなんかしてない。そうとも。冷静になってみれば、全然気にならないし!
「理華、最近よくルイを見てるよね」
「うえ!? な、ないない。ないってば。ちっともないですよ。やだなあ」
「でも一日にたくさん見てるよ? いまだって」
「ちがうから!」
思わず言い返してみたら、聖歌が私をなまあたたかい顔つきでゆるく見つめてくる。
「手を握ってなにも感じなかったって言うなら信じる」
「どういう振りなんだ、それは」
「素肌は嘘つかない」
「……私の口は嘘つき?」
「だって見てるもん」
断定口調で何度も攻められると、白旗をあげちゃう。
「……まあ、そりゃあね。あの日、助けてもらったからさ」
春灯ちゃんが江戸城の異変をおさめてから、もう一週間が過ぎた。
それでも克明に思い出せる。観戦しにいって、私たちに毒をもった不穏分子の連中に命を狙われたのだ。あとで調べて判明した事実の結果は、賓客の命を狙う不届き者は打ち首だというから江戸時代こわいし、私たちのストレスもやばい。
そんな連中からルイが助けてくれたんだ。心を揺らされた。でも待って? 鮫塚さんとか、いろんな大人に助けられたことが何度もある。なのにルイが特別ってわけじゃない。ないはずだ。
だいたいもしこれが仮に恋愛に至るなにかだとしたら、まずいだろ。日常とはかけ離れた危機的状況でどうこうってさ、日常の部分が見えない分、そこを受け入れられるかどうかが勝負になってくるけど。ルイと私の日常のかみ合わせがいいかどうかなんて、ちっともわからない。
恋愛は理屈だけじゃないだろうさ。条件だけでもないだろうさ。心が離れたとき、それでも繋がっていられる理由があればいいなあとも思うさ。離れたらまたくっつけばいい。そうなるための、ふたりでいる根本的な理由が作り出せるかどうかが大事だと思うわけさ。
それは聖歌の言うような素肌同士の答えでも、個人的には全然ありだと思う。むしろひとつじゃだめだと思う。多いほどいい。ひとつがだめになってもすぐに修復できる力があればいい。それはよく愛情だと表現されるけれど、要するに相手と一緒にいたい気持ちでしかないなあとも思う。
どうかなあ。ルイと絡みたい気持ちはまだある。たくさんある。むしろ膨らむばかりだ。もうこの時点で私の魂はどうしたがっているのか明白な気がするけど、保留。待って。のぼせるな。落ちついて!
わかんないから。ちっとも。恋愛とかさっぱりだから!
手を握りたい? わかんねえ!
ハグしたい? わかんねえ!
キスとか、そのさきは? ちっともわかんねえ!
経験してみないとわからないことが世の中にはたくさんあるのよ、と鮫塚さんに紹介されたソープの女王は私に言っていた。別に初物信仰なんて私にはないつもり。
でも、まあ、悩む。それを許すべきなのか、どうか。
抱き締めたいなんて言われたのは……別に初めてじゃねえな。
婚約指輪を左手の薬指に嵌められそうになったこともあるし、そもそも襲われかけたことだって一度や二度じゃきかない。薬を盛られて頭ふらふらになって酷い目にあったこともある。
いつだって受動的。
私から、それをしたいかどうかを考えたことなんてない。一度もない。
春灯ちゃんが彼氏と出会ったときみたいな異変が起きてくれたら、いっそ素直に決められるのに。命を助けられたあの瞬間ですら、私は答えを出せなかった。
「聖歌さー。もし、肌をあわせるタイミングがあるとしたら、それってすべきかどうかわかるもの?」
「理華は変なこと言うね?」
いや、私からしたら聖歌のほうが面白いこと言うけど。
「手を伸ばせば触れる。そしたらわかる。それだけだよ」
それよりご飯たのしみだねって自分の興味の話をし始める聖歌に苦笑いしながら、内心で頭を抱えたよ。
いや、できないから困っているんだってば!
◆
和菓子とお茶を出されて、向かい合う。お菓子を出されたのは私だけ。
カナタもお姉ちゃんもトモさえもいない。ひとりで将軍さまと向かい合う。後ろにはおじちゃん侍たちがずらりと勢揃い。中にはお寺から来た天海さんまでいるんだよ?
居心地の悪さは尋常じゃありません。
それでも甘味の誘惑は強くて、必死に食欲と戦いながらゆっくりとちまちま食べた。本当なら手でがっとつかんでがっと食べたい。でも無理。にこにこされながら見つめられているとね!
やっと食べきってお茶を飲んで、ごちそうさまでしたとお伝えしたら、将軍さまが口を開いてくれた。むしろ喋ってくれたほうがいいなんて思う日がくるとは。
黙って食べているところを見守られるのは恥ずかしいことを思い知りましたよ……。
「はるひ……そなたの身分を尋ねたい」
最初に聞くのがそれ?
後ろからぴりぴりした空気が伝わってくるのですが。
「え、と……身分と申しますと?」
「平人か、それとも高貴な血筋の身分か。地獄でも天でもよい。お主の立場を明らかにせよ」
「……それは、その」
現代でいえばただの女子高生ですし、歌手を少々やっていますけど。ううん……。
平民って言ったら、まずそうな空気だよねえ? これってきっとさ。
それじゃあ……そうだなあ。
「双子の姉は地獄の姫でございますれば、妾はさしずめ天の姫かと」
すっとぼけたこと言っちゃおう。どうせわかんないだろうし!
「それも頷ける美貌よの……それで、じゃ。はるひ、そなたたちには褒美をやらねばならぬ」
きたきた! 待ってましたよ、その言葉!
「ありがたき幸せにございます」
「五日市で悪徳に身をやつした庄屋を懲らしめたと聞く。ならば、五日市をそなたたちに渡してもよい――……条件つきでな」
内心で身構える。なんだ。どんな条件なんだろう。
ラビ先輩もカナタも、ユウヤ先輩も相手の出方に気をつけろって言っていた。家康、秀忠、家光で徳川の世を長く続けるための三代に渡る総決算をしている最中だとか。各地の大名の姫や妹を江戸に住まわせて、今から十年か二十年後には参勤交代を始めるという。徳川の世のためなら、なにを言い出してもおかしくないって言われたの。
どきどきしながら、尋ねたよ。
「条件と申しますと?」
「余の側室になる気はないか」
「――……えっと」
固まった。そくしつって……側室? それってつまり、大奥とか、そういうので、それって要するに、その……。
「しょ、将軍さまに嫁げと?」
「どこの出身の者かわからぬと頑迷に申す者もおるのでな。江戸に屋敷を構えよ。余の呼びかけあれば共に寝屋で過ごせ」
ど、ど、ど、ど、ど!
ドストレートに口説かれてるんですけど!?
こここここ、これはさすがに予想外すぎるのですけど!
「そ、そ、それは……その、いろいろと、問題があるのではございませんか?」
背中のぴりぴりムードの理由がわかった!
将軍さまが私を側室に、なんて考えたら、そりゃあぴりぴりもするよ!
「余はそなたの自由闊達な気風が気に入った。芸がいい。そなたの声は、余を安らかにする。そばに置いておきたい」
真正直に口説かれるのは、そ、そりゃあ嬉しくないわけじゃないけどさ!
私にはカナタがいるのだし、受け入れられるわけもないよ!
「断れば――……先日の城を前にしての騒ぎを看過できぬという家臣の言葉を受けて、無罪放免とはいかぬのだ。これは恩情である。さあ、どうする?」
人質を取って、私は残れだなんて。無茶苦茶だ。だけど、それがこの時代の当たり前なのかもしれないし、現実なのかもしれない。
「猶予はない。ここで直ちに答えよ」
追い込まれる。私ひとりにこさせた理由は明白。逃げ場を失わせるための手だ。
窮地だからこそ、タマちゃんが教えてくれたいろんなことが思い浮かぶ。十兵衞が言外に私に求め続けた姿勢も、決して揺らぐものじゃない。
考えるまでもなく、小娘扱いされている。この時代から考えればそれも仕方のないことかもしれないけれど。タマちゃんなら絶対に許さないはずだし、十兵衞は私の思いつきをいつだって後押ししてくれた。なら、やってみるか!
微笑みを浮かべて尋ねる。
「申し訳ないのですが……わたくしとの子が欲しいと? 狐とまぐわうなど、天下の大将軍にそぐわぬ愚かな行為かと存じますが」
「そなたは天女であろう。天に連なる娘となした子ならば、天下泰平に一役も二役も買うのではないか?」
「困りましたねえ」
頬に手を当てて、かすかに声を混ぜて吐息を漏らす。
「ふう……そのように思っていただけるのは光栄なのですが。妾も気軽に嫁げる身ではありませぬゆえ。地獄でいずれは王になる者と恋仲にございますれば、人の子とまぐわうことはできかねまする」
「待て――……直ちに肌をみせよと迫っているわけでもあるまい? それにはるひはこの世におる。ならば人と生きるのが、当たり前というものではないか」
うわあ! 諦めてくれないぞ!
「地獄の王がなんだ。そなたはもう地獄にはおらぬ。余の前におる。頭を垂れよとは申さぬ。ただ余のそばにいろ。いずれは心も変わろう。余はそなたが欲しいのだ」
後ろのおじちゃん連中のぴりぴりムードが増していく。
うううううん。私が逃げても受けても怒りそうな気配がする。
天海さんがいるのも地味に気になる。お茶はなにごともなかったけど、次のお茶に神水が混ぜてあったら……気がついたら寝所で裸なんてことになりかねない。
まいったなあ。まいった。すっごくまいったぞ。
こういう体験は初めてだった。まあ、そうそうないと思う。大将軍に口説かれるなんて。
嬉しくないけど! カナタと出会ってなかったら迷ったかもしれないけど!
でも怯んでもいられない。
相手の提案を受けなきゃいけないけど、それは裏切りの道。断ったら私たちは逃げ続ける羽目になる。それはだめ。要するに、どっちもアウト。なら、どうするの?
勝負に出てみるか。
「であれば……五日市と当座の食料と金はもちろん、わたくしの住処を江戸にくださいませ」
後ろで怒りが膨らんでいくけれど、将軍さまは笑っている。だからたたみかける。
「しかし、まだ嫁ぎませぬ」
「なに?」
「九度、私を訪ねてくださいませぬか? わたくしの心が動けば、喜んであなたのものになります。そのときには、いくらでもお抱きになってください。願い通り、あなたの子を産みましょう」
「――……そなたの心が動かなければ?」
「わたくしは五日市に参ります。訪ねていただいても構いませぬが、九度の訪問で失敗したのですから……それはもう、わたくしの心は月のように手の届かぬところにおりましょう」
「吉原の花魁ですら三度で股を開くというのに、お主は九度と申すか」
「わたくしは天女でございますれば、尾の数だけ人の一生を背負って過ごしておりますゆえ」
嘘です。口から出任せです。
「口説いてはくださいませぬか? 徳川の大将軍としてではなく、ひとりの男として」
後ろで怒りのムードが膨らむ。けれど、将軍さまは破顔して頷いた。
「この徳川を試すと申すか。よい、怒るな……愉快、愉快よの! 人並み外れたことを成したのだ。いいだろう……そなたの言うとおりにしよう」
内心でガッツポーズ。よっしゃあ! これでみんなの無事はもちろん、九回、袖にすれば私は無罪放免!
「お待ちくだされ」
ひえ!?
宗矩さんの声に肝が縮みそう!
「なにか不服か?」
将軍さまの問いかけにヒヤヒヤする。
あっさりひっくり返されてもおかしくない。なにせ、相手は十兵衞のお父さんだ。
とっても怖い人が相手なんだもん。
それだけじゃない。きっと海千山千の猛者が集まっているはずだし、天海さんもいるんだし。
いまさらながら、無茶しすぎたかな!?
はらはらする私の後ろで、宗矩さんは力強い声で言うのだ。
「天女どのの住処はもちろんながら、姉君が地獄の姫でいらっしゃるのであれば、ただの住まいではいけませぬし、天女どのひとりでも困ります。五日市の住居の建築、およびしかるべき屋敷と、天女どののお仲間少数を滞在させる必要があるべきかと心得ます」
……えと? ど、ど、どういうこと?
予想さえしていない角度の言葉にてんぱる。ああもう! こういうの、私は苦手なのに!
「委細任せる。よきにはからえ」
「はっ!」
天女さま、こちらへ……そう案内されて、将軍さまの後にさがらせてもらうの。
私を見るおじちゃんたちの目は、好奇、興味、侮蔑、嘲笑……いろいろだ。
仕方ないかもしれない。気に入ってくれる人もいれば、そうでない人もいる。それだけのことだ。
それにしても、宗矩さんの言葉、あれはいったいどういう意味なんだろう?
士道誠心を待機させるための屋敷に入って報告したら、コナちゃん先輩は渋い顔で唸った。
「やってくれるじゃない。要するに、大工と称して監視役を私たちにつけるつもりなんだわ」
「それよりも!」
カナタが詰め寄ってくる。
「どういうつもりだ!」
あああ……怒ってる。怒るよねえ。でもしょうがないじゃない。
「そんなに怒らないでよ。断れば逃げられるし、嫁ぐつもりもないし。みんながちょっと我慢すれば窮地を乗りこえられるの。我ながらいいアイディアだと思ったんだけどなあ」
「だめだ! 天海に神水を飲まされて、ころっと眠ったことを忘れたのか! お前ひとりを手籠めにするくらい、連中にとっては朝飯前なんだぞ!?」
正気か、みたいにめちゃめちゃ怒ってるカナタを見て、思いつくままに言うよ。
「だったらカナタがそばにいて私を守ってくれればいいじゃない?」
「な!? あ……え!?」
あ、予想外の一撃だったっぽいよ? よしよし!
「私が心変わりしないことくらい、カナタは知っているはずだし。だったら、あとはもう私がヘマしないように、私のそばで、私と一緒に私を守ってくれればいいじゃない?」
「――……そ、そうだけど」
怯んでる。しめしめ!
「じゃあ問題解決だね? だめだよ? 大事な話をしてるんだから、怒っちゃ」
「あ、ああ……あれ?」
ラビ先輩がカナタの肘を取って引っぱっていくの。そして私を見てウインクしてくれた。
ようし、いい感じだ!
「それで、コナちゃん先輩……あのう。なんでなんともいえない顔して私を見るんです?」
「玉藻の前を宿すだけの素質はあるのだなあ、と思ってね。まあいいわ。あなたをひとりで残すつもりなんて、こちらにはないのだから。それよりも」
腕を組んでコナちゃん先輩は呟く。
「誰も将軍を止めないってことは……春灯に心を奪われて、囚われていて、それを厄介だとみんなして思っているからでしょうね。まさに傾国の美女」
「褒められてます?」
「どちらかといえば呆れてる。男が国を治めたとき、女によって滅ぶなんて……ねえ? 家光の美少年好きの噂も鑑みると、本当に複雑な気持ちだわ」
ねえって言われましても。
あと、さらっと爆弾発言なのですが! え? 家光さんって、そうなの!?
「家臣も頭が痛いでしょうね。やっと冷遇していた正室以外の女子に興味を持ったかと思えば、それは彼らにとって天女か妖怪かわからない出自不明の女の子だなんて」
マドカの呆れた声にコナちゃん先輩はため息混じりに頷く。
「ほんと、同情するわね。まあいいわ。あちらさんが住処と飯と金を用意してくれるなら、すくなくとも私たちは生徒の強化に集中できる」
まさしくそれこそ、私の狙いのひとつだった。
現代に戻るために方法を探らなきゃいけないし、生徒を鍛えなきゃいけない。
逃げながらじゃ限界がある。幕府とはうまくやっていかなきゃいけないの。
「それに柳生宗矩が春灯をひとりにするべきじゃないって言った真意を推測するに、将軍以外は破談を期待している気がするのよね。本気で落とさせたいなら、あなたをひとりにするほうが楽なはずだもの」
そっとマドカが口を挟んだ。
「神水を盛れば既成事実だってすぐに作れたのに、そうしなかった。一度は眠らせた春灯に会いに天海さんがわざわざ出てきながら、神水を使わず春灯を昏睡させたりしない時点で、恐れられてもいるし、害する気のないアピールですかね?」
「なんとも言えないけれど、少なくとも春灯と将軍の縁を取り持つ気はなさそう」
頷くコナちゃん先輩の言葉に考えてみる。
言われてみればたしかにそうだ。
まさしく交渉するときのように私をひとりぼっちにすれば仲間といるより簡単にことを成せたはず。神水を飲ませればいくらでも私を寝かせて好きにできただろう。
でもそうしないように仕向けた。それはなぜか。
人質に取りたいからとか? んー。その可能性もなきにしもあらずだけど。
どうにかして私を将軍さまとくっつけたいっていうよりは、将軍さまに気づかれないように遠回しに破談に持っていきたがっているような気がするの。
理由はねえ。強いて言えば、私の後ろに控えていたおじちゃんたちのピリピリムードかな。
そうなると、ちょっと将軍さまが可哀想だ。
「まさに……孤軍奮闘の恋心かあ」
「共感しないでよ? あなたがカナタを捨てて残るなんて言い出したら、面倒でしかないんだから」
「あはは。それはないんですけど」
なんか寂しいなあって、ちょっと思ったんだ。
天下人は天上人。徳川の将軍さまといえばこの時代にとっては神さまみたいな存在じゃないかなあ。それはいいすぎ?
とにかくさ。私を求める気持ちはまっすぐだったし、気持ちに応えられないとしても私にできることがなにかあるんじゃないかなあって思わずにはいられなかったの。
恋心に応えることはできないけどね。もし私を求めることを通じて成したい何かがあるのなら、それをお助けすることくらいはできないかなあ。
あとさ? 将軍さまから口説かれてるからタイミングが難しいけれど、カナタとくっつけたらいいなあ。怒らせちゃったあとだから、ちゃんと謝って機嫌を直してもらいたいもの。
でも、ふたりきりになれる場所がないし、タイミングもない。
どうしたらいいのかな?
この時代の人たちは、どんな風にあまあまを満喫しているのかな?
つづく!




