第五百二十二話
朝食を食べながら理華が不満をこぼしていた。
「この段階になったらもはや江戸で荒稼ぎは後回しになりそうですねー。狙われているからとかなんとか言って、許可もらえなそう」
横目で離れたところにいる生徒会長たちを眺めて、ふくれ面をする。
美華も聖歌も特に語らずにのんびりお茶を飲んでいる。ふたりはとてもマイペースだ。
「姫、もうほとんど出がらしだけど、おかわりいる?」
その代わりに詩保は気遣い屋さん。ぜひお願いと頷いて、湯飲みを差し出した。
みんながのんびり、クラス別の部屋でくつろいでいる。聞こえてくるのは、
「そろそろ勘弁だわ。スマホが死んでるのつらすぎる……」
「江戸時代もなー。旅行だってんなら、あとふつかが限界っすわ」
「そう? 私は楽しいけどなー。食事も馴染みなくて面白いし」
「帰れる保証があるなら、まだまだいけるけど」
「「「 それな 」」」
みんなの不安。帰れるのかどうかわからない恐怖と、現代に比べてとても不便なこの時代へのうんざり感。それは容易に拭えるものではなくて、その原因は私に――……時任姫にある。
教授が目を付けたのが、たまたま私だったというだけ。そういう逃避ならいくらでもできる。けれど、解決にはならない。
みっつの指輪を眺める。左がいいのか右がいいのか悩んで、日替わりで左右を交代しているけれど、それにどれほどの意味があるのかわからない。
膝上に抱いたぷちちゃんが私の右手に両手を伸ばした。
「にぎるーっ」
足をばたばた揺らして暴れるから、すぐに手を引いてぷちちゃんの両手に握らせる。
上機嫌そうに鼻歌を口ずさむぷちちゃんを見て、隣に座る七原くんが笑った。
「姉妹みたいだな。妹はわがままなようだ」
「かわいいけど」
「扱いに困っていそうだ」
彼の指摘に胸がぎゅっと苦しくなった。痛くて堪らない。
無邪気すぎるぷちちゃんは、アメリカ時代の幸せだった自分に重なって見えるときがある。
それがとてもつらいのだ。
「……そんなことないよ?」
言えるわけがない。一部の生徒しか知らない事情を、打ち明けられない自分の弱さを、いいなと思っている男の子に伝えられるはずがなかった。
なんとかごまかそうとする自分を見て、彼がぷちちゃんをそっと抱き上げる。そうして、隣にいる日高くんにそっと渡すの。
「ルイ、こいつを頼む――……時任。すこしいいか?」
「え……」
決意の表情で私を見つめる彼に詩保や理華たちが微笑むし、スバルくんが何かを言おうとしてキサブロウくんに脇腹を肘で突かれていた。
戸惑う。何かをしてしまったのだろうか。わからない。
答えられずにいる私に彼は手を差し伸べてくる。
「ふたりきりで話がしたいんだ」
迷わず握れたらいいのに。
いろんな考えが浮かんで、手が出ない。
そんな私に、日高くんの膝から飛び降りたぷちちゃんが駆け寄ってくる。
「すきならとるといい」
そんなことを言って、私の手を取ってぐいって持ち上げた。すぐに七原くんが私の手を握る。そして引っぱるの。
「え。え、えっ」
「いってらっしゃーい」
ぶんぶん陽気に手を振るぷちちゃんと理華ちゃんたちに見送られて、私は赤面しながら七原くんとふたりでその場を離れた。
廊下に出て、一階の隅の誰もいない部屋に入る。襖を閉めて、彼はやっと私の手を離した。
ふたりきり。周囲に人の気配はない。まさしくそれを確認するように、
「ここには俺と君しかいない」
彼がそんなことを言うから、緊張するばかり。
「だから……俺の勘違いかもしれないが、聞かせてくれないか?」
「――……なにを?」
怖くてたまらない。
「すまない。怖がらせるつもりはないんだ。ただ……学校で出会ってから今日までずっと、きみは悩んでいるように見えて」
「そんなこと、ないよ? どうして?」
ばれないように、みんなの前では外面を完璧に取り繕っていた。そのつもりだったのに。
「俺のそばによく来てみんなの話に笑ってみせてくれるけれど、きみは心の底ではずっと泣いている気がして」
「――……」
答えられない。そのとおりだけど、指摘されると自分の無理はあまりにいろいろ露骨すぎる。
要するに助けを求め続けている。それだけ。名前通りにしても、ちょっと弱すぎる。他力本願な私が透けて見えるから、頷けない。
「別にいいじゃないか」
「え……」
「俺は無実なのに長い間、牢獄にいた。きみには伝えておく」
急な発言に混乱する。わけがわからない。ただ、聞いたことだけはあった。入学に際して話題になっていた。有罪判決を受けた少年の無罪が確定して、都内の学校が受け入れるという。噂では士道誠心に入学するというのだ。
彼が、そうなのか。
「実感するのは……助けを求められるなら、求めたほうが得っていう当たり前の真実だ。きみを救うのは、きみを責める声じゃない。きみを助ける声だけだ」
もし彼が、本当に無実の罪で投獄されていた少年だというのなら……たしかに、彼の言葉には説得力があった。きっと誰もが彼を責め続けたはずだ。世間の悪意をぶつけられる人生を過ごしてきたはずだ。それでも彼はこうして、自分の目の前に学生として存在している。
いや、自分と彼は違う。彼は無実。自分は――……。
「俺はきみを助けたい。時任、きみはどうしてほしい? ほっといてほしいか? それとも――……自分を助けたいか?」
顔が曇る。
そりゃあ助けたい。その一心だ。それにみんなを元の時代に戻せるのなら、戻したい。みんなと一緒に憧れの学生生活を過ごしたいし、パパとママだって助けられたならどれほどいいだろう。
夢物語だ。そんなのは、すべて子供の夢見る幻や童話の類い。そんな希望が叶うなら、悲劇なんてそもそも起きない世の中にいくらでもできるはず。現実はそうはいかない。そんな楽なもんじゃない。わかってる。わかっているけど。
「姫、お前はどうしたい?」
夢を見た。アメリカで、誰も興味を持っていないステージに立って、たったひとりで堂々と歌った女の子の勇気に憧れた。あんな風になれたら、どんな場所にいってもやっていけるはずだ。
差別は世の中にごまんとある。日本人だけど中国人と間違えられたり、過去のことで罵倒されたり、某国が暴れるたびに揶揄されたりもした。自由の国ですらそうだ。日本に来ても帰国子女とか、中三の一月の転校生という違いから遠ざけられたり無視されたりもした。
わかってるんだ。現実はそんなもんだって。でも。それでも――……夢を見たいじゃないか。
どこかに自分が輝ける場所があるかもしれないって。みんながそれはここじゃないって自分を遠ざけても、胸を張って生きられる場所はここだって言えるほうが、よっぽど前向きに強く生きられる。
つらい現実を思い知りたいわけじゃない。夢のような現実に変えて笑って生きていたいんだ。
王子さまがいないなら、自分の好きな人を王子さまに。シンデレラよりずっと、美女と野獣に惹かれるのは――……夢物語じゃなくて、現実を夢に変える魔法が眠っていると信じているから。
なら、どうしたいかなんて、答えはひとつだけ。
「――……助けたい」
助けてっていうんじゃなくて。
助ける手助けをしてってお願いしよう。
「私も、みんなも。私……私、ひどいことをしたの」
口を開いて思いを言葉に変えたら、ずっと流してきて枯れたはずの涙が溢れてきた。
戸惑う彼にそっと歩みよって抱きつく。この衝動がおさまるまで、彼は私を連れだした手際からは想像もできないくらい、おっかなびっくりとした手つきで背中を撫でてくれた。
◆
やっと落ちついて事情をすべて話したら、七原くんは迷わず断言した。
「旅のはじまりが姫の時計なら、旅の終わりは姫の力だといいな」
「――……私の力?」
「理華にしろ、美華にしろ……或いはツバキたちや、先輩たちにしろ、ルイにしろ。みんなそれぞれ、自分というものを刀や素質を通じてどう表現するのか問われている」
「自分を、表現?」
「青澄先輩の光、山吹先輩の他者への理解、それに天使先輩の星みたいに。きっと、御霊を通じて自分を見つける旅なんだ。これは」
自分を見つける旅。もし七原くんの言うとおりだとしたら、私の勇気を探す旅なのかな。
「それってなんだか、私が巻き込んだのにひどい気がする」
「ちがうよ、姫。むしろ逆だ。きみが自分を変えるからこそ意義が生まれるのさ」
不意に襖に歩みよっていくの。
「俺を責める過去の可能性や現実よりも、俺を未来に進める俺の意思と、それに応えてくれた人たちのおかげで、きみと出会えたし」
「「「 わっ!? 」」」
そして勢いよく開いた途端に、理華たちクラスメイトがなだれ込んでくる。
下敷きになっている日高くんたちから直ちに離れて余裕たっぷりの顔で理華が手を振ってきた。
「やっほー。いやあ、クラスメイトの密事は見逃せないですからねえ。来ちゃった!」
「いや……面倒な彼女みたいに言ってんじゃねえよ。あとキサブロウ、重てえ!」
「男子の下敷きにされなくてほんと不幸中の幸い」
スバルくんに美華ちゃんも、苦笑い。
みんながそろって私を見つめてくる。七原くんも、ちらちらと視線を向けられていた。
聞かずにはいられなかった。
「どこから聞いていたの?」
私の問いかけに詩保をはじめとするほとんどの人はばつの悪そうな顔をしていたけれど、理華ちゃんだけは笑っていた。
「ぶっちゃけ、わりと最初からですね。いやあ、姫ちゃん……かわいい泣き声でしたよ!」
あまりの恥ずかしさに、いっそ殺してくれと思ったし、きっとしばらくはこのネタでからかわれるのだろうと覚悟した。まったく、もう!
それにしても――……ひとりだけ見当たらない。ワトソンくんはいったいどこにいるんだろう?
◆
ユニスが苛立たしげに呼び出し相手を睨みつけていて悩ましい。
ランスロ・ワトソン。授業で面倒を見たこともあるし、一年下の後輩の顔はもう覚えている。
ランスロってのは、聖剣を手にした鷲頭ミナトにとっちゃいかにもすぎて笑えないけどな。
「それで? 俺たちふたりを名指しで呼び出して、いったいなんの話だ?」
「あなたがたふたりには、盟主よりきちんと自己紹介をするように伝えられておりまして。なかなか、クラスメイトの目が離れるタイミングがなかったものですから」
「そういや……岡田ってのに懐かれていたな」
「彼は素敵な少年ですが、あなたが私を監視をする際の妨げでもあったのではないかと」
いやになるね。俺たちの監視に気づいていやがったのか。
まあアメリカで目にした戦闘集団の一員ってなれば、すくなくとも勘の鈍い奴ではないってことだろう。
カゲとかラビ先輩とかについてきてもらえばよかったな。
それか、キラリとか? いやあ……ユニスがへそを曲げるな。私がいるのに天使が必要な理由ってなに? みたいなノリで。最近、妙に苛ついてんだよなあ。やっぱあれかなあ。実家に連れていったら組の連中が「ぼっちゃんの初彼女記念っすから」とかいってカメラ回し始めたのがよくなかったのかなあ。鮫塚め、止めてくれりゃあいいのに。
しょうがねえ。この場にいない連中に頼っても意味がない。
「それで? どんな自己紹介なんだ? 本当の名前があるとか言い出すなよ?」
「あいにくそういったものはないのですが、日本で言う刀のようなものを持っていまして――……みんな、出ておいで」
ワトソンが指を鳴らした瞬間、彼の影から手が生えた。三人分の手が畳を掴み、それから必死に力をこめてやっと、すぽっと頭が出てきた。幼い少女か少年か。中性的な子供たちは白い布を身に纏ってぴょんぴょんと飛びはね、それからワトソンの身体に飛びついてよじのぼる。
両肩にそれぞれひとりずつ、後頭部にしがみつくのがひとり。
「だれこいつ」「なんてやつ?」「魔力のにおいがする」
好き放題にしゃべる声は幼い子供のもの。みな同じ響きだ。区別はなく差もない。
「ほらほら静かに。ミナトさま、どうか聖剣をお見せくださいませんか?」
「お前の自己紹介は?」
「聖剣あれば叶います」
またずいぶんと意味深なことを言うな。
ユニスが俺を不安げに見つめてくる。本をぎゅうって抱き締めるときは気持ちを堪えているサインだ。まあちがうときもあるけど、だいたいそう。
「ユニス」
「……彼が嘘をついている可能性もあるんじゃない?」
「そうだけど、疑ってもきりがねえしな。いいぜ――……こい!」
右手を掲げる。
持ち歩いてはいない。去年度の出し方はもう飽きたからな。
ワトソンの子供たちのように影から飛び出た剣が回転しながら頭上を飛び越えて、手の中におさまる。持ち替えて畳に剣先を向けた。
目を輝かせんばかりに見開き、潤ませて、ワトソンが跪く。訝しげに見つめる俺とユニスの目の前で、子供たちが飛んだ。一瞬で光の球へと姿を変えて、ひとつに重なる。それは剣となった。浮かんでいるそれは、さび付いてはいたものの、刃こぼれのひとつもない見事な代物だった。鍔は金、何かの石をはめ込む飾りがあるが、あいにくと石はなくなっている。
「――……それは」
「精霊の授かり物です。聖剣の持ち主が持てば、あるいはと思ったのですが」
なにかを期待されていたみたいだが、あいにくとワトソンの剣に変化はない。
いたたまれない空気になる中、ユニスがそっと歩みよってきた。胸に抱いた本が震えて、次いで跳ねるようにユニスの腕から離れる。けれど、ユニスは構わず剣に手をかざす。
空中で本がひとりでに開く。ばらばらばら、と忙しなくページが捲られていく。
あるページを開いて本の動きが止まった。代わりにページに記された文字が七色に煌めく。
俺の剣とワトソンの剣が同時に同じ光に包まれた。そうして、ワトソンの剣のサビは落ち、水の飛沫が剣から浮かび上がって水晶へと変わり、飾りにおさまっていくのだ。
見違えた剣に驚いていると、ユニスが脱力して倒れかかってきた。あわてて腕を広げて受け止める。
「だ、だいじょうぶか?」
「――……なんだか、身体が勝手に」
「おいおいおい。オカルトはごめんなんだけどな……って、邪退治をしている俺らが言える台詞じゃねえか」
畳に聖剣を突き刺して、落ちてきた本を掴む。
そして、生き生きとした目で自分の剣を見つめるワトソンを見つめた。
「つまりあれか? これが……俺とユニスとの繋がりを証明して、剣を変えるのがお前の自己紹介だと?」
「おわかりいただけたようでなによりです。できれば、私にあなたの配下に加わる許しをお与えくださいませんか?」
「――……それでずっと跪いてんのか。あのなあ! ゲームだアニメだ映画でおなじみだけどな、いまはそういうご時世でもねえの!」
「ですが今は江戸時代におりますし」
「……そうだけど。ランスロで聖剣に……いや、その持ち主に縁があるお前の剣っていったら、俺は不安が拭えないよ。過去は捨ててくれないと困る」
「念のため伺いますが、それはなぜですか?」
「――……ユニスはやらねえぞ?」
思わず片腕で彼女を抱き締めながら言ったら、頬をつねられた。
「いててて! ちょっと、あの、ユニスさん!? これはいったいどういう」
「誰がいつあなたのものになったの? 女は男の所有物なんて、時代遅れもいいところ」
「わかったから! これじゃ格好付かないから、お許しを!」
「……ふん。ワトソン、はっきり言っておくけど。あくまでも現世に生きているのは私たちなの。精霊や内に宿る神のものじゃない。それは承知していて?」
きついねえ。もうすこし優しくしてやってもいいんじゃないか?
青澄ほどとはいわないけどな。この旅路でわかったけど、あいつは蕩けそうなほど激甘だから。俺としちゃ天使やコマチあたりがちょうどいいと思うんだがね。どうなんですかね。言えないですけどね。へそを曲げるんで。
ワトソンもユニスの気むずかしさはすぐに見抜いたようだ。
「もちろんです。ほら、ミナトさんは推理がお好きだとか。であれば、ワトソンっていう姓はとても都合がいいのでは?」
「それもあなた本人の意思とは無関係」
「これは手強い。ミナトさんは苦労していらっしゃるのでは?」
よくおわかりで。理解者が増えて俺は嬉しいよ。
「ユニス、いいから。ただの良い奴ってんじゃ面白みがねえし、さっきのちび三人の精霊?」
「ええ」
「精霊こみで、これから付き合っていきゃこいつの個性も見えてくるだろ。な? 判断のときに常に百点でなきゃならないっていうなら、そりゃしんどい生き方ってもんだ」
「……ふん」
彼女がご機嫌斜めだよ。あーもう。
本を俺の手から取り上げて、ユニスがさっと離れる。
天使が猫の尻尾を獲得したけど、ユニスにも生やしてくれねえかなあ。
さすがにそれはないか。ないな。
「それじゃ、これ……返すぜ」
剣を渡す。立ち上がるワトソンはそれを直ちに受けとり、掲げた。三つ子に変わり、影へと飛び込んで消える。精霊ってのは便利なもんだな。
まあいいさ。畳に突き刺した剣の柄を指先で弾く。光に変わって消えていく。俺の魂の中へと戻ってくる感覚がある。いつでも引き出せて戦えるってのは便利だ。
彼女の心もこれくらいわかっていたらいいのにな。
「なあ、ワトソン。とりあえず……女性関係に詳しかったりしないか?」
「申し訳ありません。恋人を作ったことがないので」
「……俺と同じか。そりゃあ頼もしい」
江戸時代にきてまで、俺はいったいなにやってるんだかね。
いっそあれか? 円卓の騎士の時代にユニスと飛んだら、ちっとはましになるか?
いや、ないな。それこそ当時の男連中に惚れることはあっても、俺を見直すことにはならないだろう。
難敵が相手だ。だからこそ燃えるんだが。
そう思ったときだった。
「メイ! 待って!」
「ルルコ離して! やっぱり待ってなんていられない! 先輩に会いに行く!」
なにごとだ?
急いで部屋の外に出ると、廊下に卒業生の真中先輩と南先輩がいた。真中先輩は背中から抱きついている南先輩に構わず刀を抜いて掲げる。
「だめだってば! コナちゃんが江戸で作戦を行なうの! せめて作戦が終わるまで待ってよ!」
「~~っ! ああもう!」
たまらず怒鳴って、刀を下ろす真中先輩が囁いた。
「先輩、無事ですか……?」
ワトソンと顔を見あわせる。
真中先輩にとって、先輩と呼ぶ人間はひとりだけだ。
暁カイト。アリスの兄貴だ。
殺しても死にそうにないしぶとい見た目幼女の不思議ちゃんだが、アリスは心配だった。
元一年十組一同、誰も口にはしないが気にしている。案外、ユニスが余裕ないのはそのあたりも理由なのかもな。
放っておけないけど、さすがにアリスが連れていかれた場所が場所だ。
とはいえ、諦めるにはまだ早いか。しょうがねえ、そろそろひと肌脱いでみますかね!
◆
根の国というのはどういうところか?
ひとことで言うと、臭い。それに気持ちが悪い。蛆がそこらじゅうにいたり、石の壁だと思ったら急に肉の壁に変わって脈を打ったり。亡者がそこら中に溢れているし、邪に飲まれてさ迷いこんだ霊界とは何もかもが違う。
それでも、たどりついた。骨と肉の玉座に腰掛ける彼女を前に、跪く。
「――……俺の妹を返していただきたい。時代も空間も、別の場所から迷い込んだ迷い子なんだ。気に障ったなら謝るが、いまはあなたの寛大さが必要なときだ」
「ずいぶんな物言い……我が憎むべき男の匂いがするな」
ロウソクの灯りしかない広間で、彼女は立ち上がる。見目麗しい女性が歩くたびに、姿がぶれて見えた。骸骨と蛆だらけの女王。けれどここで顔を歪ませるのは間違いだと知っている。
「お前から殺してやろうか? ここの住民をひとり増やすくらい、わけはないぞ?」
「……妹を返していただければ、私は去ります」
「私の一部を手にした娘はもはや私のもの。彼女もそれを理解しているから、私の元にきた。お前の元に帰る道理がない」
「――……妹は助けに来てと言いました。あなたの願いを叶え、同時に立ち去る理由を現世に残したのです。私は妹を取り返す」
「……まあいい。できるものなら連れ帰ってみせよ。くく……奴の一部を手にしたお前は、必ずや妹を手放すだろうよ」
笑う彼女が俺の前まで来て、頬に触れた。強烈な腐臭と甘い香り。硬いような柔らかいような錯覚にめまいを覚えながら、頭を垂れる。
すぐに俺から離れて彼女は玉座に腰掛けた。代わりにアリスを連れ去った奴が部屋の隅からぞろぞろと歩いてきた。神輿を担いでいる。腰掛けているアリスは、黒目は白く、肌は病的に色白くなってぼうっとしている。俺に気づく気配もない。
神輿が下ろされた。敵は離れる。迷わずにアリスの元へと行き、抱え上げる。
何も言わない。俺を見ようともしない。けれど、手に感じる熱とそばにきて感じる空気は間違いなくアリスのものだ。変化は露骨だけれど、ここで問うても答えは得られないだろう。
女王へと尋ねる。
「妹への用は済んだのですか?」
「いや、お前が用を済ませるのさ。連れ帰れるものなら連れ帰ってみせろ。さすれば望みは叶うだろう……ただし、お前にできるのなら」
「……あなたがどれほど残酷な仕打ちをしようとも、俺の決意に変化はないさ」
「ならば急ぐがいい。現世では江戸で面白い見世物が見られそうだぞ? 見逃しては置いていかれる。それこそ、荷物を捨てる覚悟がいるな?」
「――……俺は何も捨てない」
間違いなくアリスに何かをしたのだろう。
けれど構うものか。この場にはいられない。
急いで立ち去る。長い道のりだ。ここに来るまでに何日もかかった。帰りも同じだけの時間がかかるだろうが、気にしていられない。
「アリス」
「――……あ、う」
口を開いた彼女の喉から蛆がたくさん湧いて出てきた。
それは一瞬でアリスの小さな身体を包み込んで、肉を食らい尽くしていく。
悲鳴はない。俺の身体を食いもしない。アリスの重さも熱も変わらない。それでも、蛆が落ちたアリスは骸骨になっていて。すぐに骨の表面に肉が浮かんで元の姿に戻る。かと思いきや、肉が育ちすぎて巨大な肉の塊へ。重さは変わらない。象ほど巨大な赤子になって、肉が弾ける。血と臓物が派手に飛び散り、神輿に運ばれてきたときのアリスに戻る。
うつろな瞳がただただ意味もなく上を見上げていた。俺を見る気配はない。
ひたひた、と足音が聞こえてふり返る。
亡者が俺の後をついてきていた。ひとりやふたりじゃきかない。数え切れないほどいる。通路を埋めつくす勢いだった。
「おいてけ」「おいてけ」「おいていけば食える」「おいてけ」
ぞっとしたし、アリスに宿った彼女の狙いも見えた。
醜いと思えば捨てろ。捨てれば縁は切れ、死が訪れる。
なら――……このルールはわかりやすいし乗りこえやすい。
「悪いけど、妹がどうなろうと俺は連れ帰るよ」
抱き締めて、進む。
メイたちを連れてこなくてよかった。誰にも見せたくはない。
俺だけでいい。アリス、絶対に連れ帰るからな。
「ゆっくり休んでいて」
告げて、急ぐ。
地上へ戻るだけじゃ足りなそうだ。メイたちに何かが起きるのかもしれない。
探るべきはすべてを叶える選択肢。どちらかだけではなく、すべてを選び取るためにこそ、まず知恵を廻らせる。
どこにも捨てる選択肢はない。だから、アリス。早く目覚めて。
つづく!




