第五百二十一話
あきさんとふたりで下の部屋におりようとしたら、階下からミナトくんの声が聞こえてきたの。
「生徒会長、ひとまず立沢が目撃した、時間跳躍時に城から出てきたワトソンたち一年九組の六名に探りを入れたけどな。目立つイケメンが城に入っていくから見学くらいのつもりだったとさ。ユニスについていてもらって魔法を使って確かめたから、間違いない」
「そう……」
コナちゃん先輩の声がした。思わずあきさんを片手で制して聞き耳を立てる。
「カゲもラビ先輩も言っていたけど、脅迫された時任を監視している奴は本当に俺たち生徒に紛れているのか? そもそも、監視している奴なんて本当にいるのか?」
「春灯の尻尾が狙いなら、下手人はまだどこかに隠れている可能性が高い。教授に関しては対処が済んでいる以上、時任と同じように脅迫されている生徒がいるのか……それとも」
「……それとも、なんすか?」
「いえ、考えすぎね。時任自身に隠されているかもだなんて」
「――……ふむ」
「まあいいわ。ありがとう、鷲頭。引き続き、一年生の調査をお願いね」
「了解です」
足音が離れていく。私のそばで息を潜めていたあきさんが、ほっとしたように私に寄りかかってくる。
「緊張いたしました……なにやら、企てでもおありなのですか?」
「ああ、いえ。そういうんじゃなくて。私のいないところで行なわれている話や行動なんて、きっと世の中にやまほどあるんだろうなあって思って」
「まあ。そんなの、世の常ではございませんか?」
「……そうですね」
頷いてから笑っちゃう。たしかにね!
呟きアプリでの返信よりもっと先、エゴサしちゃうといやでも痛感するし、そんな話はネットにも現世にもやまほど転がっている。別に時代を現代に限定しなくても、この時代にだって同じようなことはあるだろう。たとえば将軍様の噂とかね!
けど別に、そういう意見と自分に関係が本当にあるのかっていうと、実はぜんぜんなくて。人は人の思惑で、私は私の思惑で行動し、しゃべるだけ。人の答えと私の答えは別だし、一緒でなきゃいけない必要性もない。だって、みんなと同じ答えを自分に押しつけて生きるのはすごく窮屈で苦しいもの。それは誰かの答えであって、私の答えではないの。
コナちゃん先輩の言うとおりかも。自分の言葉で語らないとだめなんだ。みんなの価値観に乗っかってあれこれ言う暇はない。少なくとも、今の私には、欠片も。
知らせないっていうことは、コナちゃん先輩にとってそれは周知するべきことではないんだろうね。いまの段階では、まだ。
どうであろうと私は姫ちゃんを大事にしたいし、それは誰が何を思おうと関係ないんだ。これが私の答えなのだから。
「十兵衞のもとに案内しますね?」
「よろしくお願いいたします」
あきさんに笑いかけて、ふたりで階段を下りる。
もうそこにはコナちゃん先輩もミナトくんもいなかった。
◆
上から数えて三階目。窓から海の中を眺める部屋に、十兵衞は村正さんと対峙するように座っていたの。千子さんも一緒だし、間に座っているのはノンちゃんとギン、それにメイ先輩とミツハ先輩、それにコナちゃん先輩だ。
緊迫した空気かと思いきや、十兵衞と村正さんは互いに盃を手にしていた。両者、睨みあいながら飲むことなく固まっている。
「のまんのか?」
「酒はよくないんでな。これは水だ」
「ならば飲め」
「お前が飲むのなら」
妙な意地の張り合いしてる……。
呆れる私の横をすたすたと通り抜けて、あきさんは十兵衞の隣に腰を下ろした。
村正さんは目元を顰める。けれど何も言わない。
手酌で盃に液体を注ぐあきさんが、くいっと飲んだの。そして「ほう」とため息を吐く。
「おいしい……どうぞ、女が飲んでいるのですから。ぜひ」
「「 む 」」
艶然と微笑むあきさんに促されて、男ふたりが盃を傾けた。喉の鳴る音がする。
ふう、と。深い吐息のあとに、男ふたりはお互いを睨みあい、笑いだす。
「酒がうまい。宗矩殿のせがれと見たが、飲めぬとは哀れ」
「冷えた水をうまく飲めるだけで、なに。満足だ」
ぶつかりあう視線に火花が散っていそうですね。
やれやれ。私もそっとノンちゃんの横に腰掛けた。すると村正さんが睨みつけてきたの。
「尻尾の持ち主がすぐそばにいても、ここがどれほど陸から離れた海の中かしれぬ。なるほど、俺は人質になったわけだ」
「そも……この時代に村正とは、穏やかではないな。三河に移った文珠派ではないのか?」
十兵衞の指摘に村正さんが顔をしかめた途端、千子さんが握り拳を口元に当てて微笑む。
「ふふ。だって自称でございますので」
その指摘にみんなして思わず固まったよね。うそやん!
「違うぞ、千子。正真の下男として、あれやこれやとされた結果がこのざまだ」
着物の襟を開いて歪な心臓を見せる村正さんに千子さんがアゴを引いてさらに笑う。
「人の邪悪を断つ外法の刀は、外法であれど法は法。世の理を守るためには必要でございますので。男として育てられ、刀を打った女のわたくしの力と知識と経験、活かしていらっしゃるあなたの刀工の血筋はまこと、村正のものでございましょう」
朗らかに語られた事実に自称村正さんがばつの悪そうな顔をする。
「ふん……外法狩りは己の仕事だ。これしかできぬのでな。刀も打つ。現金稼ぎには都合がいい。村正の名が広まれば、俺の外法の力も高まる」
「徳川さまに村正は捨てよと申されては、それも叶わぬでしょうが」
「包丁も打つし、村正に憧れる武士どもがいる。まだまだ需要があるわ」
「柳生宗矩さま、そちらにおられる十兵衞さまのような柳生新陰流のような剣術もございますれば、たんに刀で済む時代もいずれは終わりを迎えましょう」
「俺が生きている間は来ぬ!」
「……そうであればよろしいのですが」
ふたりの会話にただただ圧倒されちゃった。
江戸時代の、それも隔離世に繋がる力を持つ自称村正さんと千子さんの話す内容って、この時代のひとつの側面を伝えている気がしてならないの。なにより村正の中でも特別な名前でもある千子さんが、御霊として宿る男の人にいずれ刀の時代が終わるっていうのも、感慨深すぎる。
実際、鉄砲はもう伝来してたよね? 信長さんが合戦に使ったっていうし。となると、まさに変化が起きている時代に来ているのかもしれない。
十兵衞が不意に尋ねるの。
「柳生十兵衞光巌が尋ねる。本当の名は、なんという」
「……ふん。出身は忘れた。名もないと同じだ。三河には戻れず、公儀隠密に飼われて生きるのがせいぜいの男よ」
「京都を訪れた頃、この千子と縁を結んだ頃はいちと呼ばれておりましたね」
「千子、いちいち口を挟むな……意味などない。一番目というだけだ。ならば、俺がなんと名乗ろうと俺の勝手だろう。師事はした。追い出され、今に至る。千子を手に入れた俺の魂の名は既に村正よ」
開き直ってる! そして魂の名とか言っちゃうあたりに、いろいろとシンパシーを感じちゃうなあ。
「十兵衞さま、あなたのお父さまはとても怖いお方。我々は逆らえぬのです。千子はこの村正と共に、至高の一振りを鍛えてみたい……ただそれだけなのに」
深々と頭を下げてお願いを口にするの。
「どうか。どうか。こちらの村正をお生かしくださいませ。これほどの才、殺すには惜しいのでございます」
「――……さて、俺も賓客だからな。こちらの若い妖怪たちの意向次第だが」
アゴを指で掴んで撫でる十兵衞は村正さんを見つめる。
「お前さんはどうしたい?」
「聞くな――……これしか生き方を知らぬゆえ」
「そうではない。憎し恨みし世の理というではなく。もっと素直に思うことがあるだろう。自分の願いだ。恨み言ではなく。単純に、お前は、どう生きたい? 徳川憎し、忍び疎ましと言うだけか? そうではなかろう」
十兵衞に問いかけられて、村正さんが視線を一瞬だけ、それでもたしかにギンに向けたんだ。ギンが脇に置いた刀が気になるのか。瞼をぎゅっと伏せた。膝の上に手を置いて、痛いくらいに握りしめる。手の甲にそっと、千子さんがてのひらをのせたの。
「私を宿した時点で、答えはひとつでしょう?」
「たしかにな――……俺は、ただ、この世にふたつとない刀を打ちたい」
「私と同じでございます」
微笑む千子さんの柔らかい声に、深い吐息をこぼして村正さんが目を開ける。
「人は斬らぬ。斬るのは魑魅魍魎の類いで十分。試し切りもな。だが、俺の技は便利だ。おかげでこき使われてしまうのさ……甲賀にも伊賀にも、似たような連中がいてな。雇われて働いているが、中には不憫な連中がいる」
「助けたいか?」
「いや。それを求めるのならやぶさかではないが、奴らは公儀を引き受けることでしか生きられぬ。これは忠告だ。俺をどうしようとも、連中はこの場にいるすべての者を殺し、九尾を奪うであろうよ」
「――……さて。父を相手にするつもりもないのだが」
十兵衞が困ったように腕を組む。でもね。だとしたら、私たちが取るべき行動は簡潔だ。シンプルだよ。江戸時代のやり方がどうとか関係ないの。私たちがどうしたいのか、何よりまずそれが大事。そのうえで、それを貫くために何をするべきかを考えるの。
「コナちゃん先輩」
「わかってる。言われなくても、士道誠心の方針は簡潔。現代に戻る前に死人が出るのも殺人者が出るのもごめんだわ。それなら、時間跳躍で中断された――……あれをやるわよ」
「おおお!」
膝をぽんと叩いて、コナちゃん先輩が朗らかに宣言するんだ。
「江戸でぱーっと、お祭り騒ぎといきましょう! 江戸に妖怪がでる? 城に幽霊が出る? そんなのまるっとまとめて、解決してみせようじゃない!」
おーって唱和する私たちにあきさんは頬を朱に染めて、拳を掲げてくれた。千子さんもだ。
対して村正さんは渋い顔。
「……妙な妖怪どもに捕まっちまったな」
「いやいや、愉快ではないか」
朗らかに笑いながらも、欠片も隙を見せない十兵衞は不思議でならないけどね。
◆
ぴんぽんぱんぽん、と館内放送が聞こえるけれど、理華ちゃんたち一年生の関心は海の中にいるからこそ見える景色に向いていたよ。
そりゃあそうだよね。ハワイとかで黄色い潜水艦に乗ったり、水族館の水中回廊みたいなところで目にする景色が窓の外に広がってるんだもん。やばい。日が暮れていくと、ちょい怖いです。
それでもやばい連中が狙っているし、私の尻尾が狙われているというので、海の上にあがるまでにはまだ時間がかかりそうです。残念!
ご飯を食べ終わってお風呂も済ませた段階でお部屋に戻ると、一年生の子たちがみんなして限界って顔ですぐに眠り始めちゃった。理華ちゃんはいつも聖歌ちゃんと一緒で、なんだかんだで美華ちゃんもすぐそばにいる。朝おきると、よく理華ちゃんは美華ちゃんに抱きついていて、三人でひとまとめになっていることが多い。
そこへいくと姫ちゃんは詩保ちゃんと手を繋いで寝ていることが目立つ。ちょっと言い方がきつい詩保ちゃんは、実はとても友達思いで熱い女の子で、姫ちゃんを中心にクラスメイトの面倒をよくみているの。カナタと合流するまでの間に何度も詩保ちゃんがクラスメイトのフォローに回っているところを見たよ。
ちなみに私のぷちは姫ちゃんにぎゅってされたままなんです。なついているんだよなあ。戻ってくる気配がない。
マドカとキラリが布団についているのを見て、間にある布団に向かおうとしたけれど――……踵を返した。
話したくてたまらなかったんだ。
階段をのぼって、目的の部屋へ向かう途中でばったり彼と出くわした。
「ギン……刀を持って、どうしたの?」
「いやなに。ちょっと待ち人がいてな――……来た来た。ノン、こっちだ!」
とたとたと足音を立てて、ノンちゃんが後ろから歩いてきた。
ふたりして並んで、階段をのぼっていく。
「自称だろうがなんだろうが、千子と村正と話せる機会なんてそうはねえからな。ノンとふたりで会ってくるよ」
「ギンの力になると思うので」
それじゃあ、と言ってふたりとも向かっていくんだ。
私も目的は同じ。いそいそと進んで、襖の前で腰を下ろす。
「あら――……十兵衞さま、お客さまですよ?」
「入ってくれ」
失礼しますと伝えて襖を開けて、すぐに締めました。
目にした光景が信じられなくて。
恐る恐る、もう一度、今度はゆっくり開けてみるの。
そこにはね?
あきさんに膝枕で耳掃除をされてなんともいえない顔をしている十兵衞がいたよ。
「えっと……お邪魔なのでは?」
「いいと言ってもきかんのでな」
「当然でございます。あなたの種を欲する女でございますから」
「……すまん、聞き流してくれ」
へ、返事どころか思考がまるごと吹き飛ぶくらいの衝撃だったよ!
待って。待って!
「た、たたた、種って」
「何か説明が必要でしょうか?」
「い、いや、あの、でも、え? ええっ?」
「初心な娘さんのように恥じらっていらっしゃいますね」
まあ可愛いなんて言われても!
いや、でも、え!? 待って! 衝撃的すぎて受け止めきれないよ!
十兵衞の噂はたくさんあるみたいだけど、でもまさかそんな。いやいやいやいや。ない。ないってば。あきさんの顔が私そっくりだからって、ねえ? 十兵衞があきさんと? そしたら私、もしかしてもしかすると?
ないよ! そんなすごすぎる話、あったら絶対伝わっているはずだよ! でもお父さんからもお母さんからも聞いたことない!
てんぱる私に十兵衞が深いため息を吐き出して、説明してくれたの。青澄あきの企て、旅の目的を。思い人ではない、世の強い、これはと思う相手との間に子を設けて繋いでいく。
現代じゃ理解できない人のほうがよっぽど多そうです。どちらかといえば、それこそ戦国時代の武家の考えなのでは? まあでもその場合、強い男に嫁がせるとか、才気煥発な息子さんをもらいうけるとか、そういう方向性な気がしますけど。
青澄を繋いでいくために、名前と表面的な血筋はそのままに、あらゆる血を取り込むっていうのは……昔だからこそ、きわどいけれどぎりぎりな手段……なのかなあ? どう思う?
うーん。うーん。私の家系と絶対繋がっていそうで、それがそんな生々しい手段で濃く強くされていたんだとしたら……神水をお姉ちゃんにあげたお母さんだけじゃなく、お父さんさえ疑わしくなってくる。なんかめちゃめちゃ強かったりしそう。知らないけど。まあ、でも小学校のときの運動会でPTAリレーでぶっちぎりの一位ではあったかな。
あああああ! 十兵衞に無刀の構えについていろいろ聞きたかったのに、既にショックが強すぎる! 受け止めきれないよ!
「まったく……お前が混乱させるから。耳はもういい」
「かしこまりました」
微笑みながら耳かきを引っ込めるあきさんからすっと離れて、十兵衞が私を見つめる。
眼帯を嵌めているけれど、でも……現代で見たことがある。眼帯を外した十兵衞。両目のある彼の顔を。
「どうした、狐どの」
「あ、の……」
いろんな言葉が思い浮かぶ。
聞きたいことはやまほどあって、そのどれもが相応しくない気がした。
いま幸せかとか。お父さんとの仲はどうなのかとか。いろんなところを旅しているのは本当かとか。刀についてどう思うのかとか。
どれも違う。何かが違う。
「ほう。お主の手、たこがあるな。刀を振るうのか?」
「あ――……う、うん。二刀を、少々」
「噂に聞く武蔵どののようだな」
「わっ、私の刀は、そういうんじゃなくて……かつにんけん、のつもり……なんだけど」
「ほう! 活人剣とな! 一万を助けるために、ひとりを斬るか?」
「そうじゃなくて。一万を助けるために、ひとりを助ける……のは、だめ?」
尋ねた瞬間、十兵衞が腕を組んで大声で笑ったの。
楽しそうに、愉快そうに。
「――……はは。そうか。それもまあ、悪くない。殺さねばならぬと囚われてはならぬ。活かさねばならぬと囚われてもならぬ。わかるか?」
試すように、鋭い眼光で射貫かれる。けれど、怯まない。
「ただ、活かす。私の神がそれを求めるから。心も、身体も、そうあるの」
「ふふふ――……そうか、そうか。そうだろうとも。それもまた、よきかな」
優しい声で頷かれた瞬間、すべての曇りが晴れた気がしたんだ。
「何か俺に聞きたいことは?」
「十兵衞は、どうあるの?」
「俺は……そうだな。風の吹くままに、波に運ばれるままに、ただ、ここにある。それだけよ」
欲からも生死からも抜けだして、囚われず。大きく広い器として存在するのみ。
悪があれば斬りにいくというのですらない。
なるほど、強いと思ったの。宗矩さんの教えのままではなくて、あるいは十兵衞なりの信念をもって、誰かにとっての柳生新陰流ではなく、十兵衞にとっての柳生新陰流を貫いているんだ。
そう思ったら、いまより離れた未来で彼が宿ってくれたことの意味をもっと強く考えたくなった。あきさんと十兵衞のつながりとか、そういうのはもう遠すぎる私の知らないきっかけに過ぎなくて。そうじゃないんだ。
十兵衞が御霊として宿っていることの意味とか、私にとっての活人剣を探したり、無刀に対する意味をもっと見いだせたなら。
私は今よりもっとずっと強く太く、私らしくいられるのかもしれない。
勇気が湧いてきたんだ。胸の中のモヤモヤが晴れたの。そう思ったら、頭を下げていた。
「ありがとうございます」
「いや、なに。年長者のたわごとよ……ようく休め」
「おやすみなさい」
あきさんと十兵衞にお辞儀をして、襖を閉めて離れる。
歌だけじゃなくて。刀だけでもなくて。もっと精神的な心構えの話。
人生への立ち向かい方、戦い方。宗矩さんの本にもたくさん、そういう記述があったけれど、なにより大事なのは自分の心とのつきあい方なのかもしれない。
万物に宿る神、心のもっと手前にあるものが導きだす生き方、生き様とはなにか。
私のお仕事でいえば、楽曲のダウンロード数とか販売数とか、あるいはテレビとかネット番組のオファーの数とか、雑誌からのインタビューの数とか……呟きアプリのフォロワーとか、写真アプリのフォロワーとか。そういう目に見える何かに自分の価値を委ねている。
それは一面としては真実だ。まちがいないし、露骨なくらいわかりやすい。
けれど同じくらい、自分が自分で決める価値がある。世間に受け入れられたかどうかと同じくらい、自分が自分の行為に対する価値を決めることができて、それはときに交わったり、交わらなかったりする。売れているときはいいし、売れなくなるときもある。
トシさんがよくこぼしていたの。
「CDの販売がどんどんきつくなっているから言っておくけどな。どうなろうと生きていけるよ。業界が迷おうが音楽は太い。要するに数なんていうのは、受けたかどうかの目安でしかねえのさ。そこだけにしか価値観を持てなくなる奴は腐るほど多い。けどな? お前はそうはなるな。そこにお前の将来はないのさ……だから、他人の価値観に振り回されるな。他人の価値観を具体化しろ」
すぐにナチュさんが笑って補足してくれたっけ。
「商業的に成功したかどうかの数値でしかないんだよね。成功すれば儲かる。失敗すれば仕事がだんだん難しくなってくる。けど別に死ぬわけじゃない。レーベルから追い出されても音楽を奪われるわけでもない。実際、レーベルをうつって活動しているバンドもある。どうなろうと人生は続いていくんだよ……まあ、今の事務所で長く太く続けたいから数字の意味をできるだけ調べて、売れるための努力ならなんでもするけど。そこにしか意味を見いだせなくなったら、それはもはや作業でしかないんだよね。インスピレーションのない人生なんて、僕はごめんだな」
だから君とこうして一緒にやっているんだ、とナチュさんは遠い目をしておきまりのことを言うの。
「なんのために歌を歌うの? 売れるため? それとも自分を表現するため? 実は最初はどっちでもいいんだ。強いて言えばどちらかだけじゃだめなんだ。プロであるなら、どちらも叶えてもらわなきゃ困る。けど、だからこそ君には僕らがいる。まずはどちらかだけでも太くして」
君はどっち? と聞かれて迷わず自分を表現するためだと答えるの。
「それならそれでいいんだ。いいかい? 春灯ちゃん、きみに悩んでいる暇はないよ。自分が導きだした価値を磨くことしか、やる暇も余裕もないんだ」
かなり強烈なプッシュです!
「だから迷わず、常に自分の行いを省みるんだ。上下する数字とか世間の評判とかじゃなく他人が決めた基準に照らし合わせるのではなく、自分にとって自分の行いがどういう意味を持つのか意識して。自分が歌う意味を、ようく考えてね。それ以外は、君ができるようになるまで僕らがやるからさ」
カックンさんはいつだってお酒くさい息をめんどくさそうに出して、唸る。
「自分で自分の価値を見つけて大事にしなきゃだめなんだよなあ。それは自分以外の誰にも犯せないものなんだ。そしてどこまでいっても、自分のものでしかない。だからこそ、自分を認められるし、迷いやすい。肯定力より否定力のほうが強いように見えるのが、いまの世の中だからねー。否定するのはすごく楽だ。勝った気がする。そんなのはまやかしでしかないんだけどな」
もはや哲学的な話題だけど、大人の三人は渋い顔するの。
「自分の中で決めた価値が揺らぐとさ。そもそも自分のことさえ見失って続けられなくなるんだよなー。だから……他人にその基準の選択権を与えない方がいい。むしろ、自分の価値を基準に、目的とか、世の中に通す手段を磨くほうがいい。それができないと自分の仕事の意味を見失って引退したり、グループ解散なんて目にあうんだ。俺みたいにさ……そう、肯定力なんだよ、結局大事なのは。あーあ! それがわかってればなあ!」
まあまあとみんなでカックンさんをなだめるのがいつものパターンなんだけどさ!
一意な見方、それも自分じゃなくて周囲に行動を決められるのは、とてもストレスだっていうのはわかるの。
中学時代、ユイちゃんがキラリと揉めたときのことを思い出す。小学生のとき、中学生のとき、私たちは気軽に「それっておかしい」とか「それはみんなとちがうからだめ」って言っていたけれど、それが過ぎるといじめになったり、からかいの対象になったりする。
そういうの、ずっと嫌いだった。けどそれも……宗矩さんの書を参考にすると、囚われているんだよね。
みんながこうだからとか、こういうのじゃなきゃだめって思う人たちはもちろん、私でさえ囚われているんだ。いやだなっていう思いに。
ここで大事なのは、私はどうしたいのかという、その一点に尽きる。私に宿る神があるがままに何を求めるのか、それが大事なんだ。
私は私らしく笑っていられればそれがいいなーって思う。傷つけたり、凹ませるよりもっとずっと、優しくあればいいのになって思う。私のことが嫌いな人だって呟きアプリの返信を見る限りじゃいるし、しょうがないし、私にできることは、いやな相手を染めることじゃなくて、距離を保つこと。それが自然じゃないかなーって思う。ツバキちゃんや理華ちゃんみたいな私を想ってくれる子が大事なの。だからやっぱり、嫌いの数を数えるよりも直接かけられる優しい声が私を進めるし、私もそうありたいと素直に思うんだ。
つまるところ、私にとっての価値観は私が自分と世界に優しくあろうとすることに繋がっているのかも。
活人剣の定義が私にとって、一万人を救うためにまずひとりを救うというものなら。
私にとっての無刀の構えって、なんなのか。
大神狐モードの意味って、なんなのか。
指輪をあげられた意味って、なんなのか。
私の神はなにを求めているんだろう。神、万物に宿るもの。尻尾ひとつひとつにも宿っているにちがいなくて、タマちゃんと十兵衞も神に違いない。
右目と左目の力の意味さえわからずにいた。
だからこそ二年生の目標が見えたかもしれない。
私の中での答えを探す一年なんだ、きっと。
そっと階段を下りて、お部屋に戻る。襖をそっと開けると、初日の頃こそわいわい騒いでいたみんなはガチ寝の真っ最中。お魚さんをやまほどとって、近隣の村に売り渡して野菜とかお米とか買ったり、授業をやったり大忙しだもんね。
布団に入って横になると、寝返りを打ったマドカが侵入してきた。やれやれって思いながらささやく。
「待っててくれたの?」
「キラリもね」
いうなよって反対側からささやき声が聞こえたの。
見たらキラリが私に身体を向けていた。
「十兵衞との話し合いはどうだった?」
「んー。すっきりしたかな」
「柳生の技とか教えてもらった?」
「その必要もないかも」
腕にぎゅって抱きついてくるマドカの熱とキラリの労るような視線を受け止めながら、天井を見つめてささやく。
「私は私を知らないんだ。きっと、ちっとも……だから、それを知るところからなの」
そっか、と呟いてキラリが瞼を伏せた。マドカも深呼吸をして、眠りに入る。
私も目を閉じた。
自分の技も極めていないのに、十兵衞にあれこれと教えてもらえるわけもない。
要するに――……自分を知らない限り、現代の十兵衞は私を本当の意味で鍛えるつもりもないのかもしれない。生きて、見つけだせ。そう求められている気がする。
私の流派を極めろ。きっと、それが十兵衞の語らずにいたメッセージ。
トシさんたちが厳しく「気を抜くな」って私を叱りながら、それでも求め続けるのはただただ「私らしく歌うこと」でしかない。
私を認めてくれる人は、ずっとそうだった。ツバキちゃんがなによりだれよりそうだった。おかげで私はここまでこれて、カナタと出会えて。仕事もして、生きている。
なら、やることなんてひとつくらいじゃない?
待っててね。すぐに戻るから。そして――……見せられるようにがんばるから。
私らしく乗り切るよ。どんな荒波がきても――……それだけは、折れない私の心。
つづく!




