第五百十三話
木々にのぼって飛び移りながら、足下を見おろす。
七原が追いかけてきていた。忍びとして訓練を受けた日高ルイに、軽々と。
めんどくさいっすねえ、と思いながら、遠くで聞こえた悲鳴に笑う。舐めてたから当然だな。
男子は数えて六名。女子六名。合わせて十二名が一年九組となる。
女子は華やかな人が揃っていた。対して男子はどうか。
日高ルイこと自分、七原ヨゾラ、ランスロ・ワトソン。ワトソンにいつもくっついているぽやっとした男子は岡田シンゾウ。そして初日にケンカしたふたり。
全身が筋肉の塊になった、一見ふくよかな男子は藤堂キサブロウ。ゆるめな見た目に反して、いくつもの哲学に基づき行動する男だ。あれで格闘技をかじっていて、手強い。
対する染髪した男子は天王寺スバル。ケンカっぱやくて闘争心旺盛。女子とは一定の距離を保ち、初日にケンカしたキサブロウとよく絡んでいる。思慮は浅い。恐らくは本能で生きているタイプ。
スバルが真っ先にやられた。ざまあみろ、とは思わない。むしろ、繰り返すが当然の結果だとも思う。
ただ、予想していたよりも早かった。
「日高! そろそろ降りてこないか!?」
大声で呼びかける七原に舌打ちして、細枝を飛ぶのを諦めて着地した。
そして睨みつける。
「ばかなんすか! 相手はめちゃめちゃ耳がいいんすよ!」
「鼻も利くと見ている――……伏せろ。土に身体を擦り付けて。そこの穴に落ちるぞ」
静かに語りかけてくる七原の意図にすぐに気づいて従う。
穴に音もなく落ちた直後のことだった。
「――……すんすんすん。あれ? おかしいな」
頭上から鼻を使う少女の声が聞こえてきた。山吹マドカ。青澄春灯の友人でもあり、内心でかなり危険な相手だと結論づけた女の子。めちゃかわいいけど、彼女の尻尾はイヌ科のそれと同じに見える。となれば、匂いをかぎつける力はそうとう高いに違いない。
なるほど、七原の言うとおりだった。危うく見つかって、おにぎりを奪われるところだった!
米と野菜とかいう質素な食事に、実は男子部屋でそうとうな不満が噴出していたのだ。肉は? あの肉はどこへ? と。味つけにしても味気ないにもほどがある。料理している先輩たちはかなりがんばってくれはしたけれど、それでも……食べたい。うまい飯が食べたい!
最後の砦でもある、異様にうまいおにぎりまで取られてたまるか!
「匂いが……しないなあ。おっかしいなあ……男の子の匂いくらい、しそうなものなのにね? それこそ――……日高ルイくんと、七原ヨゾラくんの匂いが!」
名指しで呼ばれて反射的に仕込み道具の球を放った。
七原をぐっと掴んで迷わず出口から飛び出す。おくれて弾けた球が煙を吐きだした。
ぼふっ! という音と勢いよく周囲を隠す煙に驚いてくれたらいいのだが。
「すごいね! 面白い道具をもっているんだね!」
真横に彼女がいて、しかも木々を飛び移っている自分についてくるんだからたまらない。頭領や若いくの一の中でも特別な時雨くらいにしか、同じ芸当をされたことがない。
まじかよ! とかいろいろ叫びたい気持ちは未熟そのもの。里のじじい連中に口を酸っぱくして言われているから、迷わず地面に着地した。素直に従って委ねてくれる七原は、こちらの意図を悟って飛び退き刀を構える。
遅れて着地した彼女もまた、刀を抜いていた。
「自己紹介が必要かな?」
「いらないっすよ、マドカさん」
「なぜならばルイは金光星の誰が好みかで、三人ともいいと、それぞれの素敵なところを列挙してましたからね!」
「ちょっ! ヨゾラ、おまっ、黙って!」
めちゃめちゃ恥ずかしいこと暴露しないで!
「ちなみに容姿でいくと青澄さんはかわいすぎて無理で、天使さんは美人すぎて高嶺の花だけれど、山吹さんは可愛さも美しさも奇跡的なバランスで両立していて親近感が湧くところが魅力だから、断然山吹さん派だとのことでした」
「ばっ、ばばばばば! ばかじゃないっすか! なに全部いっちゃってんすか!」
「ちなみにうちのクラスの女子で山吹さんに近いと個人的に思うのは立沢であり、ルイの好みは気さくに話せてこちらの心をくすぐってもくれる女子という傾向があるようです」
「だだだだだ、誰も聞いてねえし!」
飛びついて口を手で塞ぐ。
それから恐る恐る山吹さんを見た。
「できれば私のことを好みって言ってくれた日高くんに免じて見逃してあげたいところなんだけどー。ちなみにヨゾラくん、きみのタイプは?」
うわ。やばい。嘘でもあなたですって言わなきゃいけないところだ。
俺の手をそっと外して、ヨゾラは高らかに言った。
「愚問ですね――……山吹さん。俺にとって、目の前にいるすべての女性がもれなくタイプです!」
「ばっ、ばかっ、おまっ、ばかっ! いろいろぶっちゃけすぎだから、女子にはそういうの受けないから! ほらもうやる気になっちゃったじゃん! 逃げるぞ!」
「はっはっはっはっは!」
高笑いをするヨゾラを抱えて全力で逃げる。
刀をしまって四肢で駆けてくる山吹さん、めっちゃ早いんだけど!
「あああああああああ!」
「はっはっはっはっは!」
悲鳴をあげる俺とヨゾラはいったい、なにしてるんすかね……。
◆
西の山から聞こえてきた悲鳴に、腕に抱いたツバキが自分を見つめてくる。
「いいの?」
「いいの」
翼を出して空を飛べれば楽だと思ったけれど、早々に見直しを求められた。
飛んではいる。一直線に山頂に行けると信じていた。そのはずだったのに――……ふり返ると、天使キラりが空に星を放ち、そのうえを駆けて追いかけてくる。
涼しい顔をして、限界なんてなさそうな顔をして。
憎たらしい。吸血鬼の主、夜の女王たるお姉さまから聞かされてはいた。青澄春灯はもちろんだけれど、天使星も憎たらしい。山吹円までいくと、縁の無い力すぎて興味は湧かなかったが。
キラリ。名前を口にして、歯を噛み合わせる。圧倒的なビジュアル。明坂29の中でも屈指のビジュアル組が揃って彼女を絶賛していた。別の事務所の新人なのに、まるで自分たちの愛する後輩みたいな口ぶりで言う。ライバルで、彼女が活躍したら自分の仕事が減るかもしれないのに、むしろ競える相手が増えていいのだと胸を張らせて……聖美華よりも可愛がっている。
ああもう。ああもう!
「どうしてそんなにきらきらした力で追ってくるの!」
「羽根を生やして逃げるあんたもなかなかだ」
軽々しく言われて歯がみした。
「み、美華ちゃん。ボク、おりるよ?」
「だめ! あなたは士道誠心中等部にいて、青澄春灯を見守ってきた人! いろいろ知ってるだけじゃなく、作詞家で、私はあなたを手放したくない!」
ぎゅっと抱き締めて、飛ぶのを諦める。迷わず落ちる。加速するままに、真っ逆さま。
「――……っ」
「信じて」
囁いて、軌道を逸らして思いきり羽ばたく。
直ちに翼を消して走る。縦横無尽に軌道を変えられるだけじゃなく、直線になるとあの天使は異様に早い。障害物のある山のほうがまだましだ。どうせ鼻は利くんだろうし、耳もいいのだろうが。それにしたって!
指の腹を噛みちぎって血を刀にして構える。
「くそっ!」
当たり前のように刀を伸ばしてきた彼女の攻撃を防いだ。重い。とても。
「面白い芸当だな……明坂だけに、あの吸血鬼女の技?」
「お姉さまを悪く言うな!」
思いきり腹部を蹴り飛ばしてやろうとしたけれど、避けられた。
くるくると回ってしなやかに着地する。まさに、猫。
「別に悪く言う気はない。美華は強そうだ。触るのは骨が折れるだろうが……ツバキ、あんたは守られるだけか?」
「――……ボクは」
「あんたの兄貴なら知ってる。春灯に支えられ、その何倍も支えていることも。けどさ。ツバキ、あんたは何のために刀を抜いた?」
腕の中で身じろぎをする。降りたいのだろう。させられない。
彼女はたしかに刀を持っている。でも、それだけだ。天使星や青澄春灯だけじゃない。お姉さまのもとで眷属として戦ってきた自分よりもずっと、彼女は弱い。
弱きを守るのが、お姉さまの矜持だ。あの北海道で青澄春灯の歌を聴かされたあの日、お姉さまは眷属に戻してくださった。なら、私はこの力で彼女を守る!
「ツバキ。今はまだ、その時じゃない」
「――……でも、ボクは」
「落ちついて! ……戦い方も知らないで挑んでも、怪我をするだけの相手。私が時間を稼ぐ」
「でも!」
「おにぎり、たくさん食べたいじゃない? さあ、行って」
「――……っ!」
悔しそうに顔を歪めたから、下ろした。言うとおりにしてくれると信じて。
けれど、彼女は刀を抜いて構えた。
「どうせご飯を食べるなら、ボクはみんなと一緒がいい――……ボクだって戦えるんだ!」
気迫になんて言えばいいのか迷う私と違って、天使は微笑んだ。
「そうこなくちゃな。さあ――……あんたたちの星を見せてみろ!」
鬼ごっこの鬼である以前に、彼女は戦士に違いない。
熱血だなあ。そういうの正直、仕事のときくらいで十分なんだが。
仕方ない。
「ツバキ、どこまでいける?」
「美華――……!」
「感激してるところわるいけど。後から理華たちが追いかけてくる。それまで粘るよ。いいね?」
「うん!」
さて、どこまでもつかな?
正直、自分自身――……欠片も自信がないぞ。
◆
詩保とふたりで声を弾ませて走っていた。
山の頂上を目指して、ひたすらに前へ。
「なんかあちこちから悲鳴が聞こえるんですけど!」
「……ほかのクラスも、実習中、かな」
姫まって、と言われたけど、止まれない。
力が欲しかった。こんなことになっちゃったのはぜんぶ、私のせいだ。理華は違うと言う。私を追いつめたのは教授のせいだし、私が周囲を頼れなかったのは私と周囲にそれぞれ問題があるからだし、私が理華を襲っちゃったのは理華が原因を作ったからだという。
でも、私がやったことには違いない。そして、力を手に入れたら、元の時代に戻れるかもしれない。この鬼ごっこがそのきっかけになるなら、全力でやりたかった。
「姫っ、姫ってば!」
「急いで」
「そうじゃなくて! 上っ!」
え、と呟きながら見上げた。そして鳥肌が立った。
やまほどの火が浮かんでいる。数え切れないくらいの、青い火。
遠くから聞こえてくる。笑い声。私を抱き締めてくれた、優しいあの人の声。
詩保が悲鳴さえ失った。
「――……たくさん、いる」
呟きながら、冷や汗がにじんだ。
周囲にいた。青澄春灯。ひとりじゃない。大勢いる。
木の枝に腰掛けたり、洞穴から顔を出したり。あちこちから私たちを見ている。すべからく九尾。一尾の欠落もなく、炎を刀に変えてこちらに近づいてくる。
「時任姫ちゃん。それに平尾詩保ちゃん」「あなたたちふたりは士道誠心に何を求めてきた?」「話題の学校だから来ただけ?」「それとも不思議な力が手に入るかもって思って?」
あちこちから春灯ちゃんの声がして詩保がすっかり震えていた。
それでも彼女は強いと思う。
「か、輝いてやるって思ったんです! 輝きたいし、輝かせたい! ほかの学校じゃできないこと、できると思ってきたんです! なにか悪いですか!」
惚れ惚れする。かっこいいと思う。
拳をぎゅっと握って必死に訴えている。
「悪くないよ。素敵な理由だと思う……姫ちゃんは?」
問われて心が揺れる。
「それは、」
あなたに憧れたから。言えない。今の自分にはもう、その資格がない。
「だって、」
国が変われば偏見も差別も増える。構わず歌えたあなたの勇気を手に入れたいって思った。言えるわけない。そんな勇気が少しでもあれば、江戸時代にタイムスリップしたりすることもなかっただろうし、捜査官に助けを求めることだってできたはずだった。やはり、資格などない。
「――……私は」
「言ってよ、姫!」
「詩保……?」
「びびってたまるか! わけわかんないことの連続で正直もういろいろ限界だけど! でも、知ったことか! しっ、士道誠心のモットーは! 強くあることなんだ!」
自分を庇うように前に出ている。震える身体で、私を守ろうとしている。
心が揺れて下唇を噛んだ。
「怖いけど! 怖くない!」
すごい勢いでたくさんいた春灯ちゃんが炎に変わって消えていく。
ただひとり、正面にいる春灯ちゃんだけが残される。
「可愛く美しく! 生きるために私はここに来たんだ! だから、姫! 一緒に行こうよ!」
目に涙が浮かぶ。溢れて止まらない。頷いて、差し出された手を取り、一緒に見つめる。
私たちの前にやってきた未来の姿を見つめて、言うんだ。
資格とか、そういうことじゃない。友達がそばにいてくれるんだ。だから、言うんだ。
今こそ言うんだ。言わずにはいられないはずだ。
「私は!」
心が叫ぶままに。喉が震える。身体中も。詩保が片腕で腰を抱き締めてくれた。
顔を見たら詩保は頷いて、春灯ちゃんに視線を向けた。
見たよ。笑ってた。私の言葉を待ってくれていた。
言おうとして、それでも言えないのは自分に勇気がないからだ。いつだってそんな自分が嫌いだった。大嫌いだった。ずっとずっと変わりたかったんだ。
「私がそばにいる。だいじょうぶ」
それは詩保の言葉だったのか、それとも春灯ちゃんの言葉だったのか。
きっと、どっちもだ。それこそきっと、私の壁を壊す力に違いなかった。
砕けて溢れるままに。
「強く生きる勇気が欲しい!」
叫ぶ。
「生きてもいいって思える力が欲しい!」
願う。願わずにはいられなかった。ただただ、いまこそ、そのひとつが欲しくてたまらなかった。でももう、それは叶ってた。
腰をぎゅっと抱いて、寄り添ってくれる友達がいるから。私の言葉を受け止めてくれる人がいるから。
だから。
『求めよ』『私たちを』『今こそ呼んで』
願うのは。本当に今こそ願うべきなのは。
『さあ、私たちの名前を呼んで』『勇気を抱いて』『過去、現在、未来を求めて』
「私は!」
『私たちを!』『求めて!』『時任姫――……そなたが求める力は!』
「運命をこの手に掴みたい!」
『『『 契約の時は来た! 』』』
左手を伸ばした。人差し指と中指、小指に春灯ちゃんから金色の光が噴き出て集まり、指輪へと姿を変える。春灯ちゃんがよろめく。けれど構わず、こちらを見て微笑んだ。
すぐに私は詩保を見た。彼女もまた、意を決した顔で頷く。
「掴みたい! 手を伸ばした先が輝く力を! 胸を張って笑わせることのできる力を! 私が求めるのは!」
詩保が私のように手を伸ばしてすぐ、春灯ちゃんから噴き出る金色の光が花びらへと変わる。それは一瞬にして詩保の手の薬指に集まって指輪へと変わった。
春灯ちゃんがよろめく。死んでしまいかねない息をする春灯ちゃんの尻尾が、三本だけになっていた。動揺する私たちに、春灯ちゃんは微笑む。
「だいじょぶ……先に、行って。頂上へ。男の子たちを追ったユリア先輩に捕まったら……おにぎり、ぜんぶ取られちゃうくらい、狙われるよ?」
姫、と呼ばれて詩保に手を引かれた。行かなきゃって思ったけれど。
それでも言わずにはいられなかった。
「ありがとうございます――……」
「うん! さあ、いって。これくらい、屁でもないから……追いかけるまで、休むからさ。ほら、行って! ふり返っちゃだめだよ?」
促されて、走りだす。
詩保とふたりで目指すのは、ただただ頂上。
急ぐ。急ぎながら、手を見た。たしかに指輪が三つ、そこにはあったのだ。
◆
姫ちゃんと詩保ちゃんが指輪を手にした光景を笑って見守って、ふたりを見送って――……前のめりに倒れた。やばい。身体の中からごっそりもっていかれたの。なんで?
理華ちゃんのときもそうだった。私の中から抜けていった。霊子? それとも霊力? わからない。ただ――……寝返りを打って、林の向こうに見える青空を見上げて笑う。
「つらくない。むしろ……なんでかな、清々しいのは」
獣耳が何かを捉えた。
足音だ。そう気づいて顔を向けると、メイ先輩だったんだ。
私を見おろして、首を傾げるの。
「ハルちゃん、だいじょうぶ?」
「あはは……すぐにはちょっと立てそうにないです」
「そっか。ミツハから、神水もらってある。ほら――……飲んで」
すぐに膝枕をしてくれて、酒瓶を口に運ばれた。迷わず傾けられた瓶から流れた水を飲みこむ。抜け出た何かが満たされていくの。おかげでだいぶ元気が戻ってきた。
それでも減った尻尾はすぐには増えない。
いつだったかなー。私は霊子の量と霊力とがつりあってないみたいなことを言われたことがあったと思うんだけど。こういうことがあるたびに、ちゃんと考えたほうがいいよねって反省するよ。ひとまずメイ先輩から瓶を受けとって、ミツハ先輩の神水を飲み干した。
「うぃっく……もうだいじょうぶなのれす!」
「めちゃめちゃろれつまわってないし! とてもそうは思えないから! いい? 館に戻って休んでて。私は頂上に向かうふたりを見守るから」
「理華ちゃんと聖歌ちゃんたちのもとにいくのれす!」
「あっ、ちょっ、まっ――……」
メイ先輩が止める頃にはもう、私は全力で駆け出していた。
ふらふらだけど。元気もまだまだ足りてないけれど。それでも、やれることがまだあると思うんだ。
「まっているのれす!」
それにしても、頭がぽかぽかするのは……気のせいかなあ?
「まあいいのれす!」
尻尾が暴れたがってる。私自身もだ。
とはいえ……。
「……もういっぱい飲みたいなあ」
カナタ、置いてってくれたらいいのにね。
◆
鼻がむずむずして思いきりくしゃみしたら、仲間と冬音がふたりして離れた。
すまない、と伝えると、ふたりは距離を保ったままで問いかけてくる。
「風邪ですか? うつさないでくださいよ」
「それとも噂でもされたか? 意外と人望あるんだな」
……こう、なんていうか。
女子のこの、さほど興味のない男子への辛辣さって、ときにひどくないか?
いや、まあ、男女どちらにも言えることかな。ただ心配してくれる春灯が恋しい……。
「風邪じゃない。噂でもされているんだろう」
いい噂だといいんだが。これで春灯が神水くらい置いてけなんて思っていたとしたら、ちょっと寂しい。神水ばかり求められることになるのはつらい。多くの刀鍛冶が頭を抱える問題と向きあうことになりそうだ。特に強い侍ほど神水を気に入る傾向があるからな。
それはさておき。
「冬音、目的地は?」
「我とカナタは江戸だな。強い奴に会いにいく。トモカは立花宗茂に会いたいと言っているから、必要とあればそれこそ日本中を駆け回るそうだ」
すぐに仲間が補足する。
「今が何年なのかわかったら、彼の居場所もすこしは推測できるかな、と。江戸か京都か、それとも筑後国か、あるいは将軍に連れられてどこかに出かけているのか。ともあれ、私はこの時代の雷切を見たいんです。道雪の死後、養子である宗茂が受けとったと聞いているので」
「なるほど……」
長い旅路になるかもしれない。
となると、気がかりなことがある。
仲間が目覚めたばかりの能力だ。
歌を覚え始めた春灯のように、仲間も新たな力に目覚めはしたものの、いまだ安定しておらず。とつぜん倒れたりしても不思議はない印象だった。
「コユキは許可を出したのか?」
「日に一度、コユキの神水をひとくち飲むこと。一日に走っていいのは三分まで。それさえ守れば問題なし!」
頼もしいことだ。
ふたりの少女を連れて、刀を帯びて進む旅路。仲間は己の刀を背負っている。遠く離れたところをゆるりと歩いているのは、クウキだ。冬音と我々の監視役なのだが、しかし関わる気はなさそうだ。
現代では冬音と特別仲がいいというのに、江戸時代の彼はまるで別人だった。何があるのか知らないが、気になるな。冬音が何も言わないから、俺が口を出すべきことではないのかもしれない。やれやれ。
一度、まずは山中から五日市街道へ抜けて江戸を目指すことになった。
あぜ道を歩いてようやく見えてきた茶屋に顔を出す。それなりに人が集まっていた。みな団子と茶を楽しんでいる。正直かなり羨ましいが、金がないのでは買えもしない。
地獄の沙汰は金次第というが、この世の原理に近いな。もはや。
「誰か、すまない――……その、ああ、そこのお嬢さん。つかぬことを伺うが」
「なんだい? あら、あんた男前じゃないか! どうだい、今夜」
胸に手を触れて微笑む茶屋の娘さんに苦笑いを浮かべる。
「あらま。うしろのお嬢さん方が睨んでるよ! ずいぶんと気が多いんだね……それでなんだい? お侍さん」
「ああ、その……」
仲間と冬音の冷たい視線を背に浴びて苦笑いを浮かべながら、娘さんに尋ねる。
「いまの徳川って言うと、誰が将軍さまだったかな」
「は? あんたおかしなことを聞くもんだね! 江戸に行くのかい?」
「あ、ああ……なにか、まずかったか?」
「秀忠さまが家光さまよりも大勢を従えて上洛したっていうじゃないか。あたしゃね、あちこちから来た連中の噂をようく聞くんだよ。結局みんな、家康さまが長生きしてくれりゃあね、なんて思っているんじゃないかって。たとえばね!?」
ひそひそと話す彼女が、さらになにかを言おうとしたときだった。
「はっはっはっは!」
誰かが豪快に笑ったのだ。
男の声だった。それよりもっと驚くべきことがあったのだ。
「東照大権現が相手では、さすがの大名のお歴々も些か分が悪い! そこのべっぴんさんをふたりも連れた野良侍。悪いことは言わん。茶屋の娘の噂などでことを確かめようとするものではないよ」
朗らかにそう言う、人好きのする笑顔を浮かべている男を俺は知っていた。
「――……十兵衞?」
「む? 妙なこともあるものだ。お前に会った覚えもないが……あき、お前絡みか?」
十兵衞が向かい側にいる女性に話を振って――……彼女がふり返って、今度は俺ばかりではなく冬音も仲間も息を呑んだ。
「さあ? それより十兵衞さま、お酒はよろしいのですか?」
「和尚からくどく言われていてな。俺はどうも酒が悪いのだ。勧めてくれるな」
「酒のひとつも嗜めば肌も恋しくなりましょうに」
「よせ」
渋い顔をする十兵衞に話しかけている女性の顔には見覚えしかなかった。
「「「 ハル!? 」」」
「……え? ええと、どちらさまですか? わたくしは、あきでございますが」
「積もる話がありそうだ。そら、惚けているよりもこちらへ来ないか。茶でも飲みながら話そうではないか」
十兵衞の誘いに戸惑いながら頷きつつも、しかし彼女に目を奪われていた。
訝しげにふり返った女性は、俺の彼女に……そう、青澄春灯にとてもよく似ていたのだった――……。
つづく!




