第五百十話
ワトソンくんを探して歩き回ってみたけれど、上にいるっぽいなあと見当をつけたときには張り切った顔をした先輩たちが降りてきちゃったよね。
指示されるままに移動せざるを得なくなった。
あーやばい。疲れは人を曇らせるね。理華は寝ることを選ぶよ。
期待させて裏切るなって? しょうがねえなあ……。
ごめん!
はい、終了。さあつぎいくぞー。
大部屋だらけの仮想湯屋。三十人近くで雑魚寝するような部屋割りになったんだ。
なら、七組から九組までの同じ学年でまとめられるのかと思いきや、縦割りクラス別ってことに。まあ、そのおかげでさ。
「おっきな声でアロハ、みたいなノリのテイストがいいのかな? ツバキちゃんはどう思う?」
「ん、と……子供向け、家族向け、だから。メッセージはシンプル、普遍的。あがり、続く。曲調もラテンのノリだった、と思う。なら、気持ちががむしゃらに走るような、めちゃめちゃ繰り返しちゃう、ノリ。あと、アニメの文脈、使えると便利」
「たしかにね!」
春灯ちゃんがツバキちゃんとする次の曲の打ち合わせなんていう、めちゃやばい話を聞けちゃうんだけど! 役得でしかないんですけど!
「方向性は悪くないのかな?」
「えと……うん。エンジェぅの例の歌なんかは、そう。思わず身体が動いちゃう音と繰り返しの焦らしとか、思わず一緒に歌いたくなっちゃう、あがるフレーズがたくさんある」
「まんまやれないしなあ。でも大好きなんだよなあ。そうだなあ――……」
春灯ちゃんが口ずさみ始める。現役歌手のアニソンだよ?
理華でも知ってるその曲に、眠そうな顔してうとうとしている人たちみんなが視線を向ける。うるさいからじゃない。本物だからだ。
みんなが聞いているその空気の中で、
「――……」
聖歌が突然まざりだす。
びびった。え、まじで? と思った。すげえな! とも思った。すくなくとも、私には絶対むりだ。春灯ちゃんの歌に混ざろうっていう発想自体がなかったから。
でも春灯ちゃんはうれしそうに笑って歌い続けるし、聖歌も幸せそうに続けるし。
ふたりに最初に触発されたのは、美華だった。
意地があるのかもしれない。
口を開く。けれどためらう。水中でもがいて溺れるように、何度も声をだそうとして――……空気ばかりが漏れ出ていく。
めっちゃ楽しい曲なのに。私だってテレビを相手に気軽に歌えちゃうような、そんな曲なのに。苦しくて沈んでいく美華の闇がよくわからなくて、手を差し伸べたくてもやりかたが見えなかった。戸惑いのほうがずっと強かったから。
こわばり続ける美華の背中に、そっと手を置いた人がいる。
キラリちゃんだ。マドカちゃんに目配せするの。
歌を邪魔しないように声をあげず、美華の前にそっと座って胸の谷間に手を置いた。すると、どうしてかマドカちゃんの手が光り始めたの。
そっと引くマドカちゃんの手は、もう光を失っている。けれど代わりに美華の喉がぼんやりと光り始めた。
まさにその瞬間だった。キラリちゃんが美華の喉に手を触れて、引き抜いたんだ。
黒い泥が噴き出る。喉から。裂けてもいないのに。光から影が吐きだされていく。そして地面に落ちる前に黒が金へ。星に変わって畳に落ちて、跳ね返って消えていく。
戸惑い惑う美華の耳元でキラリちゃんがなにかをささやいた。
はっとした顔をした美華にうなずく。
ふたりの歌は最後のサビに差し掛かっていた。
見つめていたよ。ふたりとも、美華を。
「――……」
歌は続いている。美華は口を開く。
けれど、今度は挑まない。いや、挑めないんだ。
不安のほうが強いから。
だめだったらどうしようっていう……呪いをきっと、美華は自分にやまほどかけているんだ。
気づいたら、美華の手を握っていた。
ええい、どうにでもなれ!
「――……」
歌ってやったさ。ああ、そうとも。聖歌はうまいからいいよ? でも私はふたりに比べたら、正直そこまでじゃない。恥ずかしくて泣きそうだ。
でも、そんな呪いなんてどうでもいい。
ああ、もうほんと、そんなんどうだっていい! 関係あるか!
全身全霊で歌ってやる。
さあ、あがる場面だぜ? わかるだろ?
おおきな声で歌ってくれよ!
気持ちをこめてみたら、真っ赤な顔をした美華が思いきり息を吸った。
「――……!」
最後のフレーズを、でも、きっととびきり最高のフレーズを美華は歌った。
まさにそれが、美華にとって本当の意味で、はじめての挨拶に違いなかった。
なんでかな。そう思ったよ。感じるままに浮かんだ心の声に自分でうなずく。
うん、わるくないんじゃない?
だってほら。美華、めちゃめちゃプライドたかそうなのにさ。
涙をぼろぼろ流しながら、また一番から歌い出しちゃったからさ。
春灯ちゃんも聖歌も迷わず一緒に歌う。
三人の笑顔が答えだよ。美華の涙が答えだよ。それでいいじゃん!
強いて言えば――……あがりすぎて、今日は眠れる気がしねえや!
◆
それからはまじで耐久カラオケコースだった。
誰より最初に混ざった聖歌は誰より最初に寝たし、私は意地でも春灯ちゃんの歌声を聴きたくて粘ったけれど、美華と春灯ちゃんの歌と睡魔という均衡はあっさり初日の疲れにより睡魔に軍配があがったよね。
力尽きて目覚めたとき、私は聖歌のお乳に顔を埋めて抱きついて寝てた。ちなみに私の腰を思いきりぎゅうって抱き締めてすやすやと寝ているのは美華だ。
なんだかなあ。初日にしては仲良くなりすぎじゃね? それって頼もしすぎじゃね? 私らどこまでもいけそうじゃね?
「つうか、かわいい寝顔すぎじゃね?」
ああくそ。スマホの充電が自由なら撮影すんのになー。いや、するべきじゃね? だってめちゃめちゃかわいいし。きっとたぶん、美華の無防備な寝顔とかプレミアムレアすぎるレベルで可愛いし。
そういえばアメリカの映画に、レビューでこてんぱんにされたシェフが別れた女房の息子と仲間と三人でフードトラックの旅をして幸せを掴むってやつがあるんだけど。息子が旅の途中でショートムービーを撮ってつなぎ合わせてひとつの動画にしてたっけ。
あれやるか。やべえことに巻き込まれて江戸時代にきた。そんなの、楽しんでやらなきゃもったいなすぎるでしょ!
枕の下にあるスマホをだして自撮りする。
「ふたりの天使に囲まれてまーす。幸せ!」
ささやきなのにハイテンションアピール。絵面は最高だった。絵面だけじゃないぞ。なにより聖歌の甘い香りに包まれながらってのがやばい。つうかこの子、どうしてこうもいい匂いがするんだか。石鹸なんてなかったのにな。同性の匂いとかっていうんじゃない。気になるなあ。
まあ、いいや。お乳やわらけーし。
そう思ってスマホのカメラアプリをそうそうに落として、ふたりの体温に任せて二度目を決めてやろうと思ったんだけどさ。
すすす……ぱたん、と襖が動く音がしたから、中断した。
足音が近づいてくる。私の頭の先にある布団に、女の子がくる。横になる彼女に気づかれないように、そっと見上げた。
同じクラスの子だ。名前は時任ヒメだったかな。時を任せるお姫さまとかやべえ、と思って覚えていた。しかもこれがまた、キラリちゃんや美華ばりの美人なんだよね。忘れろってほうが無理。
「――……はあ」
深いため息に強い疲労のにじむ声が混じっていた。
覚えがあるよ。親がろくでなしで逃げ出して、東京のソープで働きながら苦労してるお姉さんの自殺一歩手前の吐息に、とてもよく似ていた。
「おはよ」
「ひっ!?」
うわ、露骨に悲鳴だされるとか。
ないわー。傷つくわー。
まあ驚かせたのは理華ですけどね! あは!
さあ、私のターンだ。
「悩み事? めっちゃ重たいため息だったけど」
「――……べ、べつに」
「美人のため息はよくないなあ。薄幸の美少女より、笑顔の美少女のほうが理華は好きですよ」
「な、なんでもないって。なに、そんな……い、意味わかんないし」
そういう下手なごまかし、よくないと思いますよ-。
気になるだけじゃないですかー。もうやだなー。ほっとかないぞ! こいつめ!
「昨日のアニソンの敵キャラじゃないですけどね。クラスメイトで仲間なんで、もはや一蓮托生、連帯責任。死活問題って以上に、大事にしたいんで。教えてもらえません?」
「あ、う――……」
聞こえた逡巡に「お、いけるか?」と思ったけど。
「る、ルナさま、きて。もって、なくて。それで、その」
えええ……そういうごまかし、卑怯じゃね? 本当だったら気を遣うしかないし、嘘でも気を遣うしかない。
やっべ。時任ヒメ、侮れない。さてはお前……その答えを用意していたな?
まあ、そんくらいで怯む理華じゃねえですけど。
「それはあとでどうとでもするんで。はよう」
「え――……」
固まっちゃった。
まじかー。朝っぱらからじゃ無理か? フリーズしちゃう?
んー、それなら。
「あれでしょ? 士道誠心に来て、しょっぱな江戸時代とか意味不明な目にあって、いろいろてんぱって困ってるんでしょ?」
肯定しやすい話をまず振る。すると?
「……う、ん」
これなら頷いてもいいや、と判断しちゃったら……それは落とし穴だからご用心。
気持ちが揺れたら、あなたの足下はふらつきはじめる。
「なにが起きてもおかしくないですからねー。スマホの充電が切れたり、ルナさまきちゃったり、石鹸がなかったり、髪がごわごわになったり――……」
思考をフル回転させながらあれこれ列挙しつつ、たまに、
「なのに男子と一緒に行動せざるを得なくて、しかもひとりになれる時間が極端にすくなそう! トイレくらいしかなさそうですよねー。息むくらいしか休める暇がないって最悪じゃね?」
「ん……そうだね」
しょうもないネタを挟んで共感を誘う。笑ってくれたらしめたもの。
話してくれたらもう最高! でもヒメちゃんはガードが堅かった。黙り込んじゃう。
そうとう厄介な何かを抱えているとみたね。
江戸時代に飛んじゃうような、この状況下でやばいことねえ……んー、そうだなあ。
ひとまず、一番やばい可能性を伝えてみますかね。
「それこそみんなをこんな目にあわせちゃったとか、それくらいのことをしでかしたら……気が休まる暇もないですよね?」
呼吸する音さえ聞こえなくなった。代わりに、
「――……っ」
首を絞められたよ。全力で。体重をかけて。
ターンはもはや、私じゃなくてヒメちゃんのものだった。
死にそうな顔をして、私を殺すとかそういう思考さえなく――……ただただ、追いつめられた人間として、衝動的に。
殺意とかじゃない。鮫塚さんに教えてもらったことがある。刑事さんにも。
人は追いつめられると獣に戻る。理性とか、そういうことじゃない。それが働いている内はまだ人間。でも、本当の意味で追いつめられると――……獣に戻されてしまう。
そうなったら逃げろ、と。ふたりとも同じ言葉をまったく違う立場のくせに言っていたっけな。
つうかのんきに考えてる場合じゃないぞ! やばい! ガチで痛い――……!
浮かぶ涙に言葉が浮かぶ。すぐに消える。
「パパが殺されちゃうの。パパが。パパが。ママみたいに。私がうまくできないから」
「――……か、ふ」
漏れ出るとかじゃない。悲鳴さえ出ないなんて。
締まる。締まって、いやな音が聞こえてくる。
「悪くない、わるくない。私は悪くない。パパが殺されちゃうんだもん」
やばい。やばい!
映画ならお腹の上にのってくれるところで、それなら足でいくらでも押せるのに。ちがう。頭の上にいるから無理だ。手を必死に伸ばす。押す。けど、だめだ。上から押しつけるほうがずっと強くて、下から押し返すのはあまりに無理すぎて。
だから迷わず聖歌と美華を叩いた。全力で。
「――……っ」
おきろ! ただちに!
「ん……ん、んん……いたい」
「やめ……やめて、ちょ……お姉さま、そういうのは、ちょっと……」
ねぼけてんじゃねー!!!!
「――……っ、ぁ」
かぼそく息がでた。やばい、もう――……。
「んん……ん? ちょっ!?」
べちべちと叩く音が届いたのか、叩いたふたりよりも早く春灯ちゃんの声がした。
意識が遠のいていく。痛くて、苦しくて、吸おうとしても無理で。念仏のように「私は悪くない」って唱えてるヒメちゃんがマジで極まりすぎていて、そんなヒメちゃんを文字通り体当たりではじき飛ばした春灯ちゃんが見えた。
「かふ――……げほっ! げほっ!」
何をするよりもまず、思いきり息を吸いこんだ。咳き込む。涙も鼻水もでてる。あと一歩おそかったら、冗談抜きでおしっこくらい漏れそうだった。死んだらもっとひどいことになる。
構うもんか。生きるぞ! さあ、一刻も早く息を吸え!
「ごほっ! こほっ! うぷ――……うっ、くっ」
吐き気がする。止まらない。それでも必死に息を吸う。
だめだ。期待するより入ってこない。なら一度吐いちゃえ。
「ふっ、ふうう! すうううう! ひっ、はっ、げほっ!」
おえええ、と吐きそう。
吸うより吐くのに夢中になってるような、妙な錯覚。吐けば吸えるし、吸えるなら吐ける。
息をする自由って大事な! 生きるうえで最低限の権利のひとつな!
「はっ、はっ、はっ――……はああああ、はあ」
首をおさえて呼吸をなんとか整えて、まだ寝てるふたりのほっぺたを思いきりつねった。
「「 いひゃい! 」」
仲の良い悲鳴をあげるふたりを睨むより、下手人を見た。
「やだ。やだ。パパが死ぬ。死んじゃう。終わりだ。もうだめだ。だめだよ、こんなの」
春灯ちゃんが刀を抜いて構えている。対して――……ヒメちゃんはいまにも死にそうだった。青ざめていた。じわ、と顔から汁という汁をだして、がくがくとやばいくらいに痙攣していて。
「私は悪くない、私は悪くない、私は悪くない!」
そうやって必死に自分に言い聞かせなきゃ、そもそも生きる資格さえないんだって特大の呪いをかけている。責任転嫁をしているような表面よりもっとずっと深刻で瀬戸際の魂の叫びに違いない。
まさにいま、追いつめられている。そっちが本題。
故に、さあ、思考しろ。立沢理華。なぜ、彼女は追いつめられた?
私が引き金を引いたから。薄氷を渡る危うい道のりを見て、彼女のいる湖を思いきり叩いた。だから彼女は行動に出た。そして、間違いなく彼女にとっては大きな失敗を犯した。
私を殺せなかったからじゃない。それだって、表面的に過ぎない。
大事なのはむしろ……彼女が追いつめられてしまったという、そこだ。それこそが本題だ。
結果として彼女は今まさに必死になって自分が生きる理由を探してる。
なぜか?
見失ってるからだ。きっと、あらゆるものを。
そこまで追いつめられるって、相当だ。
ピースはある。
ママみたいにパパが殺される。
つまり、ママは殺されているのだろう。何者かによって。
そしてパパが殺される。ヒメちゃんが失敗したら。
親の命を突きつけられて、彼女は行動していたのだろう。
私の推測があたっていたのなら、士道誠心を江戸時代に飛ばすくらいのことをして。
誰にだってわかる。入学式兼始業式で学生を死ぬかもしれない、戻れないかもしれないタイムスリップに巻き込んだらどうなるか。
そりゃあ恨まれるだろう。それくらいで済めばいいけど。刀を持っている先輩たちや、昨夜の妖怪騒ぎを見ていたら恐怖したはずだ。殺されるかもしれないって。それくらい、春灯ちゃんたちと一緒にやった作戦はど派手だった。
やらかしたことの大きさと、それによる周囲の反応。
地獄だね。端的に言って。
浮かぶなあ。ひとつつまずいたら、もうすべてが悪循環に見舞われてしまう。そんな不幸に生きる、理華がこれまで会った大勢の人たちの顔が、どうしたって思い浮かぶ。
怒ってないのかって?
そういうの、あとでいくらでもできるから。
今はそういうタイミングじゃねえんですよ。
だいじょうぶ? 頭、働いてる?
問題はいま。まさにこのとき、彼女をどうするか。
酸素が回ってきて、思考が加速していく。
私の推測が正しいなら、ヒメちゃんは江戸時代に来た理由に絡んでる。あるいは下手人そのものかもしれない。
彼女に死なれたら困る。正気でいてもらわなきゃ困る。元気でいてもらわなきゃ困る。
だって戻れなくなるかもしれない。
それはマジで最悪の結末だ。回避するべきだ。全力で。
ほらね? 怒ってる場合じゃないでしょ?
なによりも、見てみろ。
「悪くない、悪くない、悪くない。悪いのはあいつだもん、いやだ、やだ、やだ!」
金切り声をあげて絶叫する。明らかに尋常じゃない。
そんな女の子を追いつめるのが、本当にいまするべきこと?
親の命の選択権を突きつけられた女の子を殺すようなことが、本当に人としてするべきこと?
私にはとてもそうは思えないよ。
だってさ。
「ママ! ママ! たすけてよ! ママ! ママぁあああ! ああああああああああ!」
絶叫しはじめたよ? しかも母親に助けを求めるってよっぽどだよ?
それってもう、人にとって最終防衛ラインを越えちゃってるってことだ。
今すぐ舌を噛みきるか、突然走りだして窓から飛び降りて死んでもおかしくないくらい。
時任ヒメは壊れかけていた。間違いなく、心が砕け始めていた。
こういう瞬間に手を差し伸べられたら天使確定で、斬りつけたり責めたら悪魔確定だ。
わからない。どうしたいか。
なりたいのは天使。その一択。
でも私が救える方法がわからない。
助けたい。素直にそう思った。自分を褒めたいけど無理だった。
なにもできない。どうしたらいいのか、マジで、欠片も想像できなくて。
必死に呼吸に縋る私には。気圧されている私には。
けど、彼女はちがった。
「ごめん、ごめんね。こわかったね。いたかったよね」
大勢が起きて、なにごとだって顔をする。必死に自分を抱いて金切り声をあげるヒメちゃんを、刀を下ろして春灯ちゃんは抱き締めた。
聖歌が言っていたことを思いだした。私はとんだばかだ。ぐず! まぬけ!
答えなんて、たったひとつじゃないか。
『私、あなたを抱き締めたい!』
『私わかった! やっとわかったの!』
心の底から幸せそうな顔をして、聖歌が言ってただろ? 私を抱き締めてさ。
『抱き締めて欲しかったの! それがわかったの! わかったから、抱き締めるの! 理華が寂しそうだから! 私は抱き締めるよ!』
春灯ちゃんはヒメちゃんの背中を撫でて、何度だって優しく声をかけ続けてる。
「もうだいじょうぶだよ。私がそばにいるよ。ひとりじゃないよ」
声を上げて泣き始め、縋るヒメちゃんから決して離れようとはしなかったんだ。
春灯ちゃんにはわかっているんだ。
ヒメちゃんがずっと求めていたこと。
助けてほしい。ひとりじゃ立ち向かえないことに、壊れかけた心は限界で。
痛感した。暴くんじゃ、追いつめるだけだ。
そりゃあ事態は先に進んだかもしれないけどさ。
春灯ちゃんが起きなかったら? 私の首がもたなかったら?
私のやり方だと、ヒメちゃんを殺しかねず、引いては私自身を殺しかねないのは、首に残る痛みが物語っている。
その先に待つ結果を思えば、喜劇すぎて悲劇。
全員が江戸時代で死にかねなかった――……。
大事なのは、その場で感情的になることじゃない。
選択の先にある未来だ。どんな未来に、どのようにたどりつきたいのかだ。
迂闊には選べないはずだ。本来なら。
それこそ自分の人生を左右しかねないから。
けれど理性だと迷う。堂々巡りになる。それだけでも足りない。
心と頭。なにより魂がなにを選びたがっているのか、見極めることだ。
なにより、優しくないのが最悪だよね。
それは人を追いつめるだけだし、追いつめた先にあるのは胸くそ悪い現実でしかない。
見えているから、捨てる生き方はしたくない。抱えきれないくらい人の笑顔と幸福を集めたい。
だってさ?
世界が変えられるって信じたいじゃんか。
ヒーローになれるって信じたいじゃんか。
私だってその気になればヒーローになれるんだって信じたいじゃんか。
だったら、もう……みんな丸ごと救っちゃったほうが、かっこいいじゃんか。
敵がいなきゃ成立しないヒーローなんかに興味はねえんですよ。
私が関わる人間まるごと幸せにできちゃうヒーローにこそ、興味があるんですよ。
なのにさ。救い方がわからないなんて、ほんとばか。
ただ抱き締めりゃあいいだけじゃんか。
怖がってたまらない女の子を抱き締めることほど、簡単で素直にできることはないだろ。
――……あたしって、ほんとにばかだな。
みてみろよ。
ふたりの尊さを。
撮らねえよ? そこまで空気を読めない人間じゃないつもりさ。
だって撮ったらばっちり残るからな。
春灯ちゃんの優しさはいいよ? そりゃあな!
けどヒメちゃんのつらさは残すべきじゃない。ただ本人がケリをつけるだけ、それだけの問題。声高に指を差して広めたり記録することじゃねえよ。
罪は憎むが、人は憎まねえ。暴いた罪が私にもあることを知っているからね!
要するにこいつは人の心の話だ。
わからねえなら回れ右だぜ。まじで。
「もう誰もあなたを傷つけないよ。私が守るよ。だからだいじょうぶだよ」
思わずヒメちゃんが言うんだ。
ごめんなさい、ごめんなさいってさ……。
泣きながら何度も謝るヒメちゃんを、春灯ちゃんは決して責めない。
自分が見たいように見る現実をヒメちゃんに押しつけて苦しめることがヒメちゃんと自分たちの進みたい未来を作ることはないって、きっと春灯ちゃんは知っているんだ。
寛容が未来を作る。
言葉にすれば単純だ。
けどね? そういう理屈はもうどうでもいいんだ。
困っている人がみんなと明るく笑って生きられるように救われる。
こんなハッピーエンドが、私はただただ好きでたまらないんだ。
目の前にいる人を笑顔にしたいんだよ。ただね。それだけなんだ。
だから天使になりたいんだ。
だから困っている人に話しかけるんだ。
暗い顔をしていたら見逃さない。抱えている問題が大きいほど放っておかない。
笑ってくれよ。
私はそれだけで幸せになれるんだぞ?
大勢の人と繋がって、みんな幸せになりたい。
ハッピーエンドの数が多けりゃ多いほど、私は救われるのさ。だって、私も幸せになってるから!
なら――……ああ、やっぱりさ。
抱き締めりゃいいんだ。
こわがって不安になって、それこそ人を殺しかねないレベルで追いつめられた女の子に対する答えは?
救うよ。殺したくない。殺されたくもないし、友達になって笑いたい。
シンプルだ。とても。
春灯ちゃんはわかってた。
きっと単純なルールだ。
生きていきたい、笑っていたい、そのために自分がどうしたいのか。そのためのルールは明快。
望むのはただ、ハッピーエンドだけ。
それって最高だし、あっぱれだ。到達したら胸を張って笑えるんだ。
どうだ。私はこれだけの笑顔を引き出してみせたぞ? 悲しみを広げずにな!
どや顔で言いたいじゃんか。
あなたを助けるために私はあいつを殺しました、ではなくて。
あなたを助けてみんなも幸せにしちゃいましたよ! って。
そのために、自分はなにをする?
壊れかけた女の子をさらに追いつめる? いいや、断じて否。それだけはあり得ないだろ。
みてみろよ。
春灯ちゃんは壊れかけた女の子を抱き締めて、優しく語りかけているぞ。
「たくさん泣いていいよ。思いきりぎゅってしていいよ。叩いてもいいよ、びくともしないから。ぜんぶ受け止めるからさ……だからもう、あなたはだいじょうぶなんだよ」
そんな風に言えちゃうんだから――……ああ、やっぱり春灯ちゃんって天使なんだなって思った。
私がなりたい未来が、掴みたい未来がまちがいなく目の前にあったんだ。
輝きを掴みたい。抱き締めたい。
何度だって確認していこう。心の感じるままに。
私は悪魔じゃなくて――……天使になりたいのだから。
誰かを不幸にしなきゃ成立しない幸福じゃなくて、関わる人みんな救える天使になりたいんだよ。それを示してくれる春灯ちゃんのそばにいたくてたまらないんだ――……。
というわけで!
いきなり天使になれるとは思わないからさ。
まずは小悪魔から目指してみるぜ!
案外、悪くないとおもわね? 思わねえか! まあいいのさ。
らしくいくよ。
目指したい目的はすぐそばに存在するからね!
というわけで、立沢理華でした! またね!
つづく!




