第四百八十八話
成田空港近く、ホテルの外が騒がしい――……。
集まる人々はよくわからずに騒ぎ続ける。その結果、喧噪を無視できずに夢から覚めた少女は瞼を開けた。
「う、んん――……」
身体が重い。のしかかられている。
中年太りのおじさん。会社の社長だとかどうとか言っていたけれど、正直あやしいし、どうでもいい。乱暴をせず、妙な性癖もなく、ただ身体を通じて愛してくれるのなら……別にいい。
押しのけるのは諦めて、這い出て身体を起こす。
脱ぎ散らかした下着に手を伸ばそうとして、やめた。
ちゃんとしたホテルだから時計がある。まだ夜だった。
朝まで時間があるから……どうせ脱がされるし、このおじさんは裸が好きみたいだし。代わりにベッドから下りて、リモコンを手に取る。
テレビをつけた。金色の髪をして尻尾を生やした少女が歌っていた。楽しそうに。幸せそうに。自然と心が弾む。
「きんぴか……きんぴか」
口ずさんで、欠伸を放つ。それからふり返った。
おじさんは寝ている。いびきがひどい。たまに無呼吸になる。放っておいたら死ぬんじゃないだろうか。
左手の薬指には指輪が嵌められていた。長く時を経て傷ついた指輪。決して外されない契約の証。最初ははずそうとしていた。すっと滑らかに動いた指輪に「いいよ、つけてて」と伝えた。よくはずされているだろう契約の証をそのままにしてもらいたかった。獣のように求められては困るから。
テーブルに置かれた荷物の中でスマホが光を放つ。見たらおじさんの奥さんからの電話だ。
放っておこう。触らぬ神に祟りなし。ああでも……夜、ふたりきりのホテルでお互い裸で寝ているんじゃあ、説得力はないか。
別に家庭を壊したいわけじゃない。そのきっかけにはなりたくない。ただちょっと一緒にいる、それくらいでいい。一夜限りの相手で十分。
この人も“アウト”かもしれない。そう内心で結論を出して、バスルームへ。
鏡を見た。士道誠心学院高等部に入ることが約束された自分が映っている。
――……中学を卒業したばかりなのに、春を捧げる自分に居場所はない。世界中のどこにも。自分を求める人の横にしか、ない。
だからだろうか、寂しそうな顔をしている。自覚してしまうほどに。
表面的には地味な見た目だと思う。
寝起きにしたって癖の強い髪はぼさぼさ、整えればだいぶマシになるけれど。よくいう「そういうことをしそうな子には見えない」見た目。意識して作っているつもりだから当然だ。しかし、その内側は、たとえ一度も直に誰かを受け入れたことがなかろうと、どろどろなのかもしれない。おじさんでとうとう百人切り達成だし。
いま思うと、年上の家庭教師のお姉さんにいたずらされてこじらせて遊びまくっているお兄さんが最高だったし、最悪だった。
彼と出会って、この遊びを教えられて、遊び方を仕込まれて……気がついたら、はまってた。
それだけ。
それだけだったはず。
なのに、いつからだろう。熱がくれる錯覚と……自分を求めてくれる相手が行為を通じて執着してくれる、一瞬のかすかな愛情が、たまらなく自分を癒やすと気づいた。
癒やされたあとに、余計に寂しくなると気づいたのはいつからだろう。
いたたまれなくなって前髪をくしゃっと握って気づいた。
「……また、色、かわってる」
黒い前髪の内側、僅かな量だけど生え際が桜色に染まっている。
黒との取り合わせは最悪だ。放っておくと桜色に染まる現象は、士道誠心の入試に行って変な球ころを見たときから。
放っておくと桜色に染まってしまって大変なので、家から持ちきれるだけ持ってきたお金は最初、ヘアカラー代に消えた。けど変色が髪以外の体毛にまで及ぶようになり、ますます消費は早くなった。もう、お金はない。
シャワーを浴びて、部屋に戻る。
やっぱり無呼吸になっていたおじさんを優しく起こす。
死なないで。一緒にいる間だけ愛をください。
高い薬を飲んでまでして自分と遊んでくれるおじさんに求められるまま、朝まで遊ぶだけ遊んで――……最後はホテル代だけ出してもらって成田で別れた。
奥さんには出張する日にちをごまかして伝えたという。渋谷で声を掛けたら日にちを指定して会ってくれた。自分と火遊びするだけじゃなく、出張先のタイでもっと遊ぶ予定らしい。
ろくでもないけど……ろくでもない人間にも、それなりの居場所があるものだ。
何度も断ったけれど、彼は十枚ものお札を渡そうとしてきた。だから、もうこれっきりだと頭を下げて離れる。
お金が欲しいんじゃない。春を売りたいわけじゃない。捧げるから……夜、ふたりでいるときに愛が欲しいだけ。
もらっておけばいいよ、と何度も説得してきたけど、そこは踏み越えたくない一線だった。“消費”してほしいんじゃない。ただ、そばにいるときに“共有”したいだけなんだ。誰もわかってくれないけれど。
もう、限界かもしれない。
電車を乗り継いで移動する。
うちには帰らない。気のない感情のまま、スマホを確認した。メッセージがやまほどたまっている。多くは親からの罵倒と、帰ってこいという命令で締められている。
「誰が帰るもんか」
呟きにそばにいる男性が顔を向けてきた。ちらちらと見られて、逃げるように隣の車両へ移動する。見られてる。男性からは欲を、女性からは軽蔑を。年長者からは侮蔑を。年の近い人からは嘲笑を。構わない。自分の歪さならわかっている。けど、無理だ。心が悲鳴をあげている。
最初の人にこの遊び方を教えられて、週に七人と寝た。日替わりで。必要なら外泊もした。大勢と一度に遊んだこともあるし、性別なんて関係ない夜もあった。およそ思いつく限りの遊びを通じて――……でも結局、平凡な夜を誰かと愛しあうのが一番いいと知った。
勉強も運動も芸術関連も、どれも平凡。突出しない。みんな、よくて中の下。あるいは下の上。なんにも取り柄のない自分には若さがあり、性があった。その市場価値はかなりのものだとはじめての男に気づかされてからは……世界が変わった。よくもわるくも。
期間限定のダイヤモンド。
愛でてもらわなきゃ……期限が過ぎたら、見向きもされない。容姿だって、よくて中の下、あるいは下の上。自己評価だから、世間的にはもっと低いかもしれない。
でも遊べる。遊べるから、遊び尽くす。
報酬はなにか。
お金が欲しいんじゃない。居場所が欲しい。愛が欲しい。愛のある夜が欲しい。それだけ。
それに面白かった。裸になると人はどこまでも露わになる。素直になる。年も立場も性別すらも、いろいろ越えて遊んだ。
当然、罰は下された。
家に押しかけてきた人のせいで警察沙汰になり、少女の行動は明るみのものとなり――……引っ越しを余儀なくされただけじゃなく、親から醜い称号までいただいた。
繰り返されるカウンセリングと、恥辱にまみれたたくさんの検査。そして調査。自分に手を出した最初の男への社会的制裁。それによる不愉快な時間と嘲笑、侮蔑。
誹謗中傷はあまりにひどく、転居を余儀なくされた。
世界は一変した。現在の自分の市場価値があったとしても、その価値はどうやら輝く世界に住む多くの人にとって不快で許せないものらしい。
すべてが終わった、そう安心していた親に自発的に遊んだことがばれて、事態はより深刻なものになった。
母は泣いたし父には叩かれた。ばかばかしい、と思った。
酒はやってない。タバコも薬もだ。誘われたことは何度もあるけど、一度だってしなかった。病気だってもらうようなヘマはしない。自分を守れる状態でしか遊ばない。それだけは厳守した。なぜなら、そうしないと価値が下がるからだ。呆れるくらい、最初の人はそれを教え込んできたから……それだけは徹底して守っているし、直せるところは直している。
そんな少女の生き方にほとほと嫌気がさして、それでも親としての責務を果たすべく、両親は奇策に打って出た。
青澄春灯の音楽を好んで聴く少女を、寮制度のある士道誠心に通わせるというものだ。
寮に入れれば、それも体育会系の学校にいれれば、性根は鍛え直され、夜遊びもできなくなるだろう。両親の思惑は透けて見えるようだった。
だが士道誠心の入試には特殊なハードルがあるという。なら、平凡まみれの自分にはどうせ無理だろうとたかをくくった少女の予想は裏切られた。
なぜか合格してしまったのだ。
わけがわからないけれど、まあいい。遊べなくなるまでの期限が短くなってしまったのなら、せめて入学するまでの間に楽しもう。あと僅かしかない時間を、精一杯。
やがて自分は燃え尽きる。影の中で……誰にも愛されなくなって、死んでいく。同じ行為をしても喜ばれなくなり、ただ消費されるだけのガラクタになる。
緩やかに死んでいく。それくらいがいい。何もいいところのない自分には、それくらいがちょうどいい。
鬱屈した気持ちでいたら、スマホが振動した。画面を見る。母親からのメッセージ。
『お姉ちゃんが悲しむとは思わない? お願い、セイカ……帰ってきて』
心がひどく冷めていく。
姉がいた。明るく元気で人当たりがよくて、誰にでも愛される人。未来と名付けられた姉だった。自分にも優しくしてくれた……世界で誰より大好きな年の離れた姉は、医療活動のために海外の紛争地帯の病院に行って――……空爆によって、あっけなく殺されてしまった。国際的にみても、ひどい事件だったという。
両親にとって自慢の娘で、自分にとっても自慢の姉だった。
いつだって姉が中心で、ありとあらゆる人に姉と比較されて、それをうっとうしく感じていたけれど。
みんなに愛される姉は、誰よりも自分に深く濃く愛情を注いでくれた。
命は急に終わる。誰にも価値を認められた姉ですら。
怖くなったし、孤独を感じた。
母は常に姉のことを思って泣いていたし、父は世間に世の非情を訴える活動をしている団体に協力を始めた。
姉のくれた愛情はなくなって――……家には姉がもういなくなってしまった空白と、からっぽになった自分が残された。
以前、三週間ぶりに帰ったとき、泣きながら怒鳴る母親に本を押しつけられた。
本にはこう書いてあった。女の価値は知性とか、若さだとか……いろいろ。すこしだけ、どきっとしたから読んだけど――……やっぱり理解できなかった。
姉の価値は知性でも若さでもなく、有り余る愛情と優しさだと思うからだ。
たとえば若さを武器にすると、若さを求める人しかよってこない。
そういう人は私自身を決して見ようとしない。
気づいていたから、理解できなかった。
条件を武器にしたら、条件としか付き合わない。その先はない。自分自身と繋がる、お互いに認めあえる価値を持たなければ、先はない。
気づいていた。実はずっと前から。
最初の男がそうだったから。
少女が何も知らない子供だったから、自分好みにできるまでの間だけ、少女に価値を見出していた。そんな男だったから、社会的制裁もかなりきびしいものになったみたいだけど。
それから先の相手はずっと……若さだけ。五年たって、十年たって、二十年たって……そうしたらもう、今の絆はひとつとして残っていない。それくらい、わかっていた。
自分を本当の意味で求めてくれた人なんて――……姉しかいない。
いや、待て。春を捧げた相手の中に、ただひとりだけ例外がある。
冴えないおじさんだけど優しくしてくれた人がいた。まあ百人中ひとりだけだから、お察しだ。
――……さみしい。
期限切れになる前に一生分の熱をもらって、からっぽになった心をなんとかしたい。
「きんぴか……きんぴか」
口ずさんで、駅を下りた。東京、渋谷。
たまたま見ていた、はじめての青澄春灯のゲリラライブ。注がれる金色に触れて、そのあたたかさに……どうしてか涙が止まらなかった。
もしかしたら、はじめての人に抱かれて愛されたと錯覚してしまった、あの日のように高ぶった瞬間だったのかもしれない。どこかよそよそしい関係の中で、ただがむしゃらに愛情を求めていただけなのかもしれない。
繰り返すけど、優しい人はいた。まるで恋人にするように抱いてくれた人がいたのだ。はげてて撫で肩のさみしいおじさんだったけど。一番みたされたのは、あのひとだった。
青澄春灯は、それよりもっとずっと強い熱を少女にくれたのだ。
姉がくれたような――……たったひとりのおじさんがささやかだけどくれたような、たしかに自分を癒やしてくれる熱だった。
あの金色にもっと触れてみたい。そう思って渋谷に通い詰めて、親とはどんどん険悪になったけれど……別にいい。一度だって自分をちゃんと抱き締めてくれたことのない人たちだから……別にいい。
おかげで金光星のゲリラライブを見れたから。
最後の瞬間、金色をもらえなかったけど……たしかに必死に手を伸ばす私を、彼女はばっちり指をさしてくれた。
勘違いかも。そう思って不安になって、自分を指差したら、飛んですぐそばに来てくれた。頬に触れてくれた――……離れていった。
呟きアプリと動画サイトの動画にちゃんとうつってた。だから夢じゃない。本当のこと。
幸せだった。きっと自分は主人公にはなれない。ヒロインにもなれない。そんな自分でも、一瞬だけでも“本物”に触れることができたから……満足。
「きんぴか。きんぴか」
歌は下手かどうかもわからない。音楽の授業なんて久しく出てない。好きかどうかだってわからない。けど青澄春灯の歌は別。特別だ。
口ずさんで像の前に歩いていく、まさにその途中だった。
肩がぶつかった。相手がすぐに謝ってくる。
「いった……――ごめんなさい、だいじょうぶ?」
相手を見て、身体中の毛穴が広がったことを少女はすぐに知覚した。
あの日……あの瞬間、金色を一粒だけもらった女の子が、すぐそばにいた。なぜか大学ノートを手にして、三月に春の装いをして。
近くにあるビルのブランドで統一した彼女は、モデルかアイドルのようだった。
青澄春灯のように綺麗で、輝いていて、明らかに本物のオーラを纏っている。
きっと彼女は、いくつになっても愛されるだけの“力”と“価値”を既に持っているにちがいない。そう理解して、頭を左右に振ってみせる。
浮かべてみせる笑顔は処世術における潤滑油。心が嘘じゃなければ。
問題ない。自分は下、彼女は上。それだけのこと。
「気にしないでください」
「いや、それだと理華の気持ちが――……あれ? ううん?」
顔をぐっと近づけてくる。しかし、近すぎる。思わず身体を引くと、彼女は笑った。
「ああ、やっぱりそうだ! 最近話題になってる子! ちっちゃくて明らかに子供なのに、あんまり派手にナンパしまくっているから、警察も……それに風俗絡みをしきってる人たちも、あなたのことを探してますよ。ほら、あそこ」
「――……え」
ぴっと指差された先を見た。
喫煙所の壁に背中を預けて、ちらちらと……自分がよく引っかけるために待機場所にしている像の周囲をにらんでいる人がいる。見覚えがある。最近、待機していると見かける。追いかけられたこともあるから、気をつけるようにしていた。見間違えたりしない。明らかに危険信号が灯っている。けっこういい場所だったのに。
像の周囲には大勢の人が集まり、待ち合わせや時間を潰す場所にする。絶えず行き交う人混みにまぎれることができるから、自分を隠しやすくて都合がいい。
うるさすぎるけれど。
交番がすぐそばにあるそこは都合がよかった。
大人が集まる喫煙所が見える。行き交う人の流れが見える。
これほどよさそうな人を探すポイントはない。
やばいと思ったら叫べば警察が助けてくれるのだから。
隙があって遊び上手そうで、いけないことをしたがっている人を物色し、あとを追いかけて、問題なさそうな場所でナンパする。そういう手順だ。待機場所にしているからこそ……目を付けた誰かが襲ってきたら、すぐに助けを求められるこの場所はすごく便利だったのに。
さすがにそろそろ限界みたいだった。
「……どうも。それじゃ」
短くお礼を言って、JRの改札に向かう。
渋谷がだめなら新宿。池袋。ビジネス街は無理。断られる率が高い。なにせ自分は浮いてしまう。浮いている少女にナンパされた相手も浮く。それだと断られる確率をあげてしまう。
でも手はある。居酒屋が多くてひとりになる帰り道とか……いろいろと用意してある。成功率は、決して高くはないけれど、低くもない。
さっさと居場所を探そう。そう思って改札に電子カードを当てたときだった。
警告音と共にゲートが締まる。チャージ金額不足――……財布の中身はすっからかん。成田からの移動代で、とうとうお金が尽きてしまったみたいだ。
おじさんがくれようとした十枚が恋しくなる。けれど首を振る。
初めて事情を知ったときの父の言葉が浮かぶ。
『未来がなくなって一年が過ぎてお前がすることはこれか!? 娼婦か売女にでもなったつもりか! そんな淫乱な娘に育てた覚えはない! 出ていけ! 商売女にでもなんにでも好きになるがいい!』
父の罵倒を思い返して頭の奥底がかぁっと熱くなる。激昂して堪忍袋の緒が切れた父を母が涙ながらに必死になだめた。
けれど、じゃあ、自分は? ――……父が言い過ぎを遠回しに詫びてくるまで、放っておかれた。母も自分と距離を取るばかりだった。
結局どうでもいいのだ。二の次でしかない。姉の死で壊れたうちは、もう終わり。愛されないし、自分は姉の代わりにはどう足掻いてもなれないのだ。両親にとって理想の娘はもういなくなってしまった。もう、彼らの娘ですらないのかもしれない。
それでも、意地はある。
春は売らない。捧げるだけ。
お金はもらわない。絶対に。
お金はもらわない。なにがあっても。
そう決めたから。
初めて自分から人に声を掛ける前から決めていた。ずっと。
――……それでも、だからこそ、自分はもう限界なのかもしれない。
うんざりしながら踵を返したら、彼女がそこにいた。
思わず身構える少女に、彼女は笑う。
「そう警戒しないで。ちょっとだけ、話でもしません? 奢りますよ?」
「――……」
百人切りを達成するまでの仮定で何度も危険な状況を経験した。そのときに働いた勘が少女に叫ぶ。今すぐ逃げろ、と。彼女は本物で、自分などどうにでもできる強者に違いない、と。
けれど――……彼女に手を取られてしまった。
「……離して」
構わず彼女は引っぱっていく。少女を恵比寿へ、迷わず一直線に。
「やめて」
「まあまあそういわず! 光って星を届けたいんですよ、私も」
それでも彼女は鼻歌混じりに歩いていく。
金光星……少女の大好きな歌を歌って。
世界は自分を中心に回っている、と。そう思って生きられる人の人生はどれほど幸せなものなのだろう。ふとそう思って、少女は力を抜いた。自分は脇役、主役には逆らえない。そう理解して諦める。
薄暗くなる道。ふたりで歩いていたとき、不意に彼女が尋ねてきた。
「見たところ理華と同い年くらいなのに……なんで春を売ってお金もらってないんです?」
「……売ってない。売ったことは一度もない」
「じゃあ、寝てるだけ?」
「……何か変?」
「べつに? 要するにたんなるナンパなわけか。いやあ、荒稼ぎしてるから問題になってると思ってたんですよ。でも、売らないって不経済じゃね? それってもったいなくね? 身体を好きにしていい時間をあげて、代わりになにをもらいたいんですかねー」
「……愛」
「わお、まじ?」
信号で立ち止まった彼女が、本気で不審そうな表情を浮かべて鼻がぶつかるくらい顔を近づけてきた。
「え、無償の愛と性欲の愛のテーマでも抱えてんの? どっちも否定しないけど、身体を売って愛してくれるピュアな男子っていまどきいないんじゃね?」
「……ひとりだけいた」
「何人中?」
「ひゃくにん」
「うっわすっげ! まじ!? え、百人としたの!? セクシー女優か! え、実は表向きにできないやっばいなにかと絡んでるとか?」
「……趣味」
「趣味!? まじで!? 親の愛に飢えてるとかじゃなく!?」
彼女の指摘が深く心を抉ってきて、思わず少女は怒鳴った。
「ちがう! ……ちがう」
「おーけー、わかった。この話はここでお終い。ね? もう突っ込まないから。理華ってピンポイントでたまに当てちゃうんですよ。すみません」
心底申し訳なさそうに言うけれど、その言葉が真実ならばやはり違う世界の人間だと少女は思った。深呼吸をしてから、呟く。
「……私の勝手。これしかないの……これしかないけど、そんなにだめ?」
縋るような声になってしまった。それでももう、あらゆる終わりが近づいてきていると知って呟かずにはいられなかった。だから、
「べっつに? それが未来のあなたの笑顔に繋がるんなら、いいんじゃね?」
明るく笑い飛ばせる彼女の笑顔に惹かれてしまった。
「たぶん日本中を探しても、あなたのような生き方ができる人なんて、そうはいないよ。統計とったことねーからしらねーけど。ちなみに前に調べた限り、十五歳未満で性体験を経験する率は5%前後、十八歳……つまり高校生の内に経験する率は30%前後だそうです。とある女性誌調べだったかな~」
「……私、いま十五歳」
「同い年か――……わお!」
心底面白そうな顔をして言う。
「聞かせて聞かせて! やっべ、すっげ! 久々に春灯ちゃん以外でガチでテンションあがった! え? え? いろいろ聞きたいんだけど! 根掘り葉掘り聞きたいんだけど、いーい?」
「……私とするなら、いいよ」
「うわお!? まさかの剛速球! 待て、落ち着け。ああでも無理! すっげ、おもしれ! ねえねえ、彼女! 寝る気はないけど、この縁を大事にしたい。だから、名前聞かせてよ!」
「――……私は、根無し草の、ただの野良猫。名前とかないし」
「くうううう! なんだそれなんだそれ、あがる!」
その場で足踏みをする。そばにある街灯に照らされた彼女の頬を赤く染まっていた。
「やばっ、鼻血でそう……じゃあ野良猫さんに自己紹介ね。私は立沢理華」
「……りか」
「ん、理華だ! それで、野良猫さんを仮に呼ぶならどうすればいーい? 野良猫じゃあ、ほら。警察に見つかって補導されちゃうかもしれないじゃん? どう見たって……家に連絡されるのはいやがっていそうな風体だけど? ほら、首輪ついてないし」
冗談交じりにちくりと刺されて少女は俯く。
「……じゃあ、その」
「なになに? はよう」
「昨日、今日、明日。どれがすき?」
「かわりいく私かな」
「……?」
「小首傾げられてる! わかってた、みなまでいうな。カラオケで熱唱しまくる鮫塚さんのせいだ……えっと!」
咳払いをして、私の手を引いて歩きだす。
「私の答えがあなたの呼び名になるんなら、明日……ってよりは、未来かな」
少女は思わず立ち止まった。目を見開いて彼女を見る。
それは本物の名前だった。自分のものとはちがう……大好きな、愛の塊を意味する名前だった。
引いていた手に抵抗を感じた彼女がふり返り、不思議そうな顔をして尋ねる。
「あれ? またしても当たり引いちゃった? それとも大事な人の名前とか?」
「――……なんで、未来?」
「まあ答えはいいや。仲良くなってからで。そうだなあ」
困った顔をして首を傾げた彼女は、はっとしてすぐに笑みを浮かべた。
「未来にひとつ、いやなことがあるのなら。それと同じくらい、ひとつはいいことがある! ……それを探す生き方のほうが、すっきりするらしいよ? うちのママの受け売りだけど。そんでもって、野良猫さんは理華にとって今日のいいこと! あなたとの未来は楽しそうだから、ひとまず未来がいっちゃん似合ってる!」
「――…そう」
「ううん。響かないか-。じゃあ、どうすっかなー」
困った顔をして、それでも自分の手を離さない彼女を――……立沢理華を見つめて、少女は俯く。
「今は……ミライでいい」
「そ? じゃあねえ。ミライお嬢ちゃん、どんな店がお好みだい?」
「……ホテル?」
「そういう方向性じゃなくて! 飯! ご飯! 腹へってねーの?」
「……ホテルでも食べれる」
「色欲極振りかよ! やっべ。こいつは久々の難敵だ! だからこそ滾る! えーっと」
肘を組んできた。密着する。そうして彼女は導く。
「しゃあねえ。久々にガチでうまい店いくか。肉は好き?」
「――……だいすき」
「よかった、わかりやすく肉食女子で。っしゃあ、いくぞ! すんげえうまいもん食わせちゃる! 寿司があるんだよねー。焼き肉、しゃぶ、肉に飽きても任せろ! なんでもどんとこいだ!」
ふんふんふん、と鼻歌を口ずさむ。そのフレーズすべて、少女が大好きな青澄春灯の曲のもの。けれど、きっと……居心地がいいと感じるこの不思議な状況は、歌だけが作っているわけじゃない。彼女の善意がなにより心地いい。
「それでさ、それでさ。ミライはどうして愛が欲しいのさ。語ろうぜ、愛を。恥ずかしげもなく、思春期にあるまじき前向きさでさ!」
明るく笑う彼女の力によるものだ。すぐに気づいたから、笑う。そもそも初対面の人と距離感なく付き合うのには慣れているから、ただただ少女は受け入れるだけ。
それでも疑問に感じずにはいられなかった。
「……なんで、理華は私に構うの?」
素朴な疑問で、いまこの時、確かめずにはいられない問いかけに――……彼女はしれっと言い返す。
「だって私の知らない人生を、寂しそうな顔して……それでもひたむきに生きてるから」
その言葉は正確に、一撃で少女の心を貫いた。
「そういう人は好きなんだよね。可愛い女の子ならなおさら! ――……って、なんで泣いてんの?」
ぼろぼろとこみあげてくるまま、涙が次から次へ溢れて止まらない。
いつかおじさんが言ってくれた。ただひとりだけ、真摯に大事に抱いてくれたおじさんが。
『さみしそうで……なのに一生懸命いきてるから』
付き合いたいとかじゃないけど、でも……この人いいなって思った。おじさんは借金で首が回らなくなっていた。携帯も解約していた。だから次の日以降、連絡が取れなくなってしまった。それっきりの縁だった。
でも、あの一言で思いだした。
よく、姉が言ってくれたんだ。姉に「なんでお姉ちゃんはこんな私に優しくしてくれるの? 妹だから?」と聞いたときは、とくに。
『あなたの人生を、全力で生きているから。だから私はあなたを放っておけないんだよ……愛しくて、とうといと思わずにはいられないの』
そう言ってよく抱き締めてくれた。あの熱――……あの優しさこそ、ずっと、欲しいもの。
誰よりずっと……身体を重ねた人たちみんなに言って欲しかった。それにきっと……両親にこそ、言って欲しかった言葉。
姉を失い、絶対にもう、二度と、なにがあろうと言ってはもらえないだろう言葉。
不意打ちすぎて、我慢できずに大声で泣いた。もうなにも我慢できなかった。
けれど立沢理華は決して、少女をひとりにはしなかった。
道の途中にある小さな小さな駐輪場の塀に座らせて、自販機で買ったホットコーヒーを渡してきた。泣き止むまでそばにい続けた。或いは案外、それくらいの熱で十分人は癒やされるのだと証明するかのように。
やっと落ちついた彼女に笑って、わけも聞かずに手を差し伸べる。
「ほら。ご飯たべにいこうぜ? 腹ぺこだろ?」
「――……うん」
「そうこなくちゃ」
鼻を啜って、手を繋ぐ。歩いていく。
両親のように罵倒したり、否定するのではなく……知らないものを拒もうというのではなく。知らないからこそ愛したいという人の熱と優しさを、もう二度と手放したくはなかったから。
つづく!




