第四百七十一話
それはお兄ちゃんの卒業式に出ていた時のことだった。
エンジェぅが歌って、卒業生がお返しをして、感激するばかりで。
ボクは思いだしていた。
ナチュさんが言っていたこと――……。
『ツバキ。春灯ちゃんの仕事は増える……引いてはきみの仕事も増える。だから問題だ』
それは金光星の作詞を終えて、エンジェぅの収録が終わってほっとして――……帰る間際、呼び止められて言われたこと。
『きみの歌詞は片思いの歌詞。けど春灯ちゃんは両思いのただ中にいる。そして自覚的な片思いに慣れてない。どういうことかわかる?』
――……ボクの素直な歌詞じゃ、エンジェぅは輝けない?
『そういうことだ。金光星は幸い、両思いの歌詞だけど……きみが自然に書くと片思いの歌詞になる。これまでのリテイクでだしたNGの意味がここにある』
……ボクの素直な気持ちじゃ、だめ。
『春灯ちゃんに恋をしている?』
……もう、終わった気持ち。
『男として彼女を抱きたくない?』
……抱き締めたいと思う気持ちと、犯したい……汚したいという気持ちは重ならない。
ボクの中にはない。ただただ輝いていて欲しい、という願いだけ。
『なら……きみはなにと両思いになる? 誰に満たされたい?』
――……わからない。
満たしたいという気持ちを注ぐボクの中の空っぽを、いったいなにが満たすのか。
わからない。わからない……どうしても、答えが見つからない。
『新しい仕事が増える。答えが見つからないようじゃ……きみを下ろすしかない。だから探しておいで。必要なら呼ぶんだ。いいね?』
そう言って頭を撫でてくれた。
頬が熱くなった。いつだって必死に生きてきた。褒めてくれたりする人はたくさんいたけれど、でも……異物として。
ボク個人を受け止めてくれたのは、エンジェぅだ。ほかの誰でもなく……あの人がボクを導いてくれた。あの人が輝くためになら、ボクはなんだってする。
でも、じゃあ……ボクは?
わからない。わからないけど、エンジェぅのためにがんばったボクをエンジェぅ以外で誰より認めて褒めてくれるのは、ナチュさんだった。
お兄ちゃんも、うちの家族もみんなボクの仕事を認めてはくれたけど、それが一生の仕事になるだなんて思ってくれていない。当然だ。作詞家ってどんな人生を過ごすのか、ボクもお兄ちゃんもパパもママも知らない。
でもボクはこの道を選んだ。今までよりもっとずっとエンジェぅのそばにいられるこの道を。
手を引いてくれたのも、そもそも見つけてくれたのも……優しく褒めてくれたり、きびしく叱ってくれるのも……ナチュさんだ。
この気持ちの正体がわからない。ただ――……ボクを満たしてくれるこの人に寄せた気持ちが騒ぎ出す。
卒業生が立ち去っていく。お兄ちゃんの門出。拍手で見送りながら……ステージの後方で見守るナチュさんを見つけた。顔がかぁっと熱くなったの。
「だいじょうぶ?」
隣にいた子が――……エンジェぅのファン友達の理華ちゃんが声を掛けてくれた。
ボクはだいじょうぶって答えたよ。けど……胸の中の昂ぶりはごまかせなかった。
エンジェぅに寄せるよりもっと汚れて醜くて爛れて……この身を焦がすような熱の正体は明白だった。
◆
解散を告げられて、小走りでバンドメンバーのみなさんの元へと駆け寄ったの。
「あ、あの……お疲れさまです」
ボクを最初に見つけてくれたのは、ここでもナチュさんだった。
「やあ。そういえばツバキもここの中等部だっけ。次はここの高等部?」
「……はい」
「いいね。高校生か。いやー、若いよなあ。トシさんとカックンは女子高生好き?」
笑ってふたりに振る。対するふたりは渋い顔。
「それ、好きなら公言したらアウトだし、好きじゃないと言って許される場所じゃねえだろ」
「たしかに。個人的にストライクゾーンはタメからプラマイ五つくらいかなー。トシさんは?」
「――……まあ、ガキは趣味じゃねえな」
冷めた顔で胸ポケットのタバコを取り出そうとしてカックンさんに止められているトシさん。ふたりに通りすがる中学生の子たちが目を奪われている。
けどボクはナチュさんに思いきって歩みよった。
「な、ナチュさんは……どういう人が、好きですか?」
「僕? んー、そうだなあ。うちのボーカル以上に死ぬほどめんどくさい子か、僕の奴隷になってくれる子かな」
「ど、奴隷?」
思わず怯むボクに大声で笑うナチュさんを見て、トシさんは鼻息を漏らした。
「ふん……ツバキ、絡むのはやめとけ。そいつが捨てた女の数は俺らの比じゃねえぞ。なんの参考にもなんねえよ」
「ちょっ、トシさん! ナチュラルに俺も数に入れないでくださいよ! 俺は元アイドルですからね! 付き合ってなんかないですよー!」
「嘘こけ。タメ年の女優とよろしくやってんだろ? 週刊誌にすっぱ抜かれても、ずっと付き合ってるってもっぱらの噂だぞ」
「ないないないない! えーやだ怖い。なんの話カナ?」
「スカウトキャラバングランプリ受賞者との熱愛発覚。ありゃあかなりセンセーショナルなニュースだったよなあ。同棲してんの?」
「ちょ、ばか! まじでやめてくれます!?」
あわててトシさんの口を手で塞いでいるカックンさんの顔色が悪い。
前は誰とも付き合ってないって言っていたと思うけど。もしかしたらすごい女の人と付き合っているのかな。本当は……秘められた恋をしているのかな。それってなんだか素敵だ。
でも、じゃあトシさんは? ……ナチュさんは、どうなのかな?
「まあ……カックンのリアルはさておいて、なあに? ツバキは僕の話を参考にしたいわけ?」
「……ま、まあ、その」
頷いておく。あなたが気になってます、なんて言えない。そう思っていたら、スタッフさんが「撤収します!」と呼びかけてきた。カックンさんにトシさんが引っぱられていく。きゃっきゃとはしゃいで楽しそうにしているふたりを見ていたら、ナチュさんが耳元に唇を寄せてきたの。
「――……僕狙いなら、今のきみじゃ抱く気にもならない。女の子になって出直しておいで」
「――……っ」
「じゃあね」
ぞくっとする声で囁いて、ふわっと香る甘い花の匂いを残して行っちゃった。
腰砕けになりそうだった。鼻歌混じりにふたりに合流して車に乗って行っちゃった……。
みんなが離れていく。学校から出ていくの。エンジェぅたち高等部の生徒はみんな学校に戻っちゃったし、けどボクは帰る気にならなくて。
真っ赤になった顔で俯いていたら――……聞こえたんだ。
『――……キ……ツ……キ――……ツバキ』
足が自然と動いた。引きよせられるように向かっていく。
中等部にいたころから……ここ最近になって、ずっとボクを呼ぶ声。
気がついたら特別体育館の中にいた。扉は開いていたんだ。なぜか……わからないけど。
神社にたどりついた時だったの。
『ツバキ』
はっきりと聞こえた。神社から――……神社に置いてある、球から。
お兄ちゃんから聞いたことがある。御珠。あれが、神さまや幽霊、妖怪たちが住まう世界につながる穴。あるいは魂の結集。誰かの願いの固まり。
誘われるようにすぐそばへ。鼓動がやけにうるさい。そっと触れた。
『――……なにを望む? そなたは神を産んだ。青澄春灯を――……』
胸がざわついた。叫び出す。なに。なに。どういうこと。
『ならば……次になにを望む。男としての勲か? 注ぎたいか? 命を孕ませたいか?』
心に染み込んでくる声に頭を振った。
ちがう。ちがうよ――……ただ、ただ……ボクがエンジェぅを愛するように、誰かにとびきり愛されたいだけ。
『――……それが願いか』
だめ、かな。
でも……ボクだって、愛が欲しい。
『青澄春灯の愛か?』
――……もう、十分すぎるくらいもらっているし、満たされる距離感でいられるから。
いまはもう、ちがうんだ。
ふっとナチュさんの言葉が浮かんだ。身体の熱が噴き出てきた。
『――……その願いを叶えよう。さあ――……我が名を呼べ』
もう――……この身体と心の向かう先に答えを出すときが来たのかもしれない。
それなら――……いいよね。もう……いいよね?
「お願い――……カミムスビ。ボクに示して! 未来を!」
掴んだ――……引き抜いた瞬間、指先から全身に熱が広がる。
変わっていくんだ。光に包まれて――……きっともっとずっと昔からなりたがっていた、女の子に。
さ迷い歩いてきたけれど――……ボクが注いだ熱はもう、あの人の輝きに変わった。
なら、今度はボクの番。やっと……そろそろ、ボクはボクのために動き出す。
手にした刀を掲げた。傾ける。輝きを放つ刀身を――……いつまでも見つづけた。
◆
中等部の挨拶もしてくれているから、その人のことはよく知っていた。
学院長先生が、なぜか特別体育館を出たボクを出迎えてくれたの。ほかにもいる先生がたが「今年はこの子ですか」と言っていたのは、どういうことなのかよくわからない。
ただ、刀を預かってくれたんだ。
お兄ちゃんと合流する前にシャツのボタンを開けた。胸が苦しくて仕方なかった。
報告したら飛び上がるように喜んでくれたし、しみじみ頷かれちゃった。「やっぱりこうなったのか」って。
うちに帰ったらもう大騒ぎ。ママは泣いて喜んで、パパは複雑そうだったよ。
でもこういう時のために用意された女の子の服を着て下着屋さんに行ったの。
住良木が買収した海外の有名な下着ブランドの専門ショップ。すごくたくさんのサイズがあって、いろんなデザインがあって……しかもサイズを計ったらその札を渡して放っておいてくれるお店。お母さんが張り切っていろいろ用意してくれたんだけど、ボクの好みかっていうと複雑。
いろいろ選んで、店員さんに着方を教えてもらって――……準備はできた。
そうして――……運命の日。
打ち合わせに顔を出したとき、ナチュさんはボクを一瞥したけどなにも言ってくれなかった。ぴりぴりしているムードで構ってくれる人はそういなくて、エンジェぅすら忙しそうでそれどころじゃなくて。
たいして変わってないのかな? ボクってそもそも女の子すぎたのかな。見た目的な意味で。
へこたれながら、ナチュさんと一緒に次の楽曲について仕事がきた旨を聞いて、トシさんやカックンさんと打ち合わせをして……それが終わってリハに行っちゃうふたりを見送ったときだった。
ナチュさんがボクを見て言うんだ。
「……ひとつ、確認していい?」
「はい?」
「……きみの変化、どういうこと? 露骨に体付きや声が変わっているんだけど」
表情はない。なにを考えているのかわからない。
すごく迷って、素直に伝えることにした。
御珠から刀を抜いて――……ありのままの姿になったこと。
そしたら、ナチュさんは腕を組んでボクを見た。
「――……僕が言ったから変わったとか?」
すごく張り詰めた空気だった。ふたりきりの会議室の、その雰囲気をどう表現したらいいのかわからない。
「そ、そうだったら……だめ、ですか?」
「――……だめじゃない」
そう答えてくれて、すごくほっとした。
けど、なんでだろう。ナチュさんの顔がすこし赤い。
「そう。そうなんだ……ねえ、ツバキ。意味わかってる?」
「……え、と」
「春灯ちゃんに最初に見せた歌詞くらい、露骨なメッセージだ。これはさ……ほかの誰にもできない、きみにしかできないメッセージだ」
「…………その」
そこまで言われて気がついた。
「否定する? できないよね。それとも前からそうなりたかったっていう、それだけの話?」
「――……ちが、い、ます」
踏み込む。いつだって……そうしてきたから。
「ちがいます……」
「ふうん……そっか」
目が細められた。
「ああ、やばい……人生で初めてだ。それも、一回りも年下の子に……こんなに揺さぶられるなんて。言葉は返ってくるなあ……」
「……あ、の」
ナチュさんの気持ちがどこに向かっているか不安でたまらない。
そんなボクに聞こえるように深呼吸して、ナチュさんは聞いてきた。
「きみの口から聞かせて。なんで……そうなったの?」
「――……ナチュさんが、女の子になって……出直せって、いったから」
「それって……つまり?」
「ナチュさんが……好き、だから……」
「……」
伝えた。一世一代の告白なんて、ボクにとっては日常茶飯事。
だってずっと迷子の姿で生きてきたんだから。お前は男か女か、なんで女装してるんだとか。どっちが好きなのか、とか。聞かれてばかりきた。これくらい、なんてことない!
――……嘘。かなりめげそう。こわい。拒絶されたらどうしよう。
ナチュさんはテーブルに肘をついて、両手をくんで顔を隠している。
ぶるぶる肩が震えていた。
「ナチュさん?」
「――……ごめん」
心が砕けた。
「いやちがう。待って。そんな顔――……もっと見たいけど、そうじゃない。ただ、やばい。きみほど捨て身の告白する子ははじめてで……正直、生まれて初めてレベルで嬉しい」
じゃ、じゃあ?
「きみさ……僕が断ったらどうするの? 文字通り女の子になってまでして、それで? だめなら戻れるわけ?」
頭を左右に振る。
「だよね……子供ができたって言われるよりえげつない一撃だ。ああ、でもはっきり言っておくと……繰り返す。まじで、嬉しい」
……なら、じゃあ?
「いいよ。ただ……断っておくと、僕って最高にろくでなしだよ? 後悔しない?」
「――……はい」
「きみが未成年でいるうちは手をださない。春灯ちゃんが彼氏と恋愛するのとはわけがちがう。僕がきみに手を出したら、恋愛関係にあるって証明するまでの間は淫行扱いだからね。すっぱぬかれようもんなら、春灯ちゃんにとっても僕にとっても致命的だし……なにより、きみの人生が歪む。それは避けたい」
「わかって、ます……」
「ツバキ、きみの誕生日は二月だったね?」
頷く。
「一年間つきあってみよう。きみが十六歳になって、それでもきみが僕との未来を考えてくれるっていうなら……ご家族に挨拶する。僕もいい年齢だから、真剣に付き合う。それくらいの変化だってわかってる?」
なんとか、頷く。
「仕事ではこれまで通り、一切手は抜かない。ガチでやる……けど、きみが両思いを実感できるように、僕はきみをエスコートする……さしあたって、こんなところだ」
「――……それが、契約ですか?」
「ああ、契約だ。あとは、そうだな……法的にきみが女の子になるように、ご家族は動いてくれる気はあるのかな?」
「それは……その、はい。でも、二十歳以上じゃないと、変えられないって」
「だね。婚姻関係があってもだめ。それまでの期間をきみは繊細な神経で乗り切らないといけない。それでもいい?」
力一杯うなずく。
「なら……契約成立だ」
微笑むナチュさんにやっと歓喜が広がる。でも信じられない気持ちも強い。
一気に世界が変わっていく。ボクのすべてが変わっていく――……。
歩みよってきたナチュさんが、手を差し伸べてくれた。その手を取って、立ち上がろうとしたけど無理だった。めまいがして……気がついたら倒れていたの。
ふっと気づくと自宅のベッド。パパやママは絶対に安静にしていろっていうけど、お兄ちゃんは気合い入ってんなら好きにしろって背中を押してくれた。
だからエンジェぅの二枚目のCD販売ツアーに参加したよ。
見ていたい。そばで。ボクの作った歌詞が、どんな形で受け止められるか……生の反応を見たかったから。
喜んでくれるといいな。ぴんとこなかったらどうしよう。のってくれなかったら……。
不安と期待。ない交ぜになった気持ちの結末を見届けないと気が済まない。
ただ――……ただ、身体の変化に心も体力もついていかなくて。移動の最中は寝ちゃうんだ。どうしても。
ふっと気がついたら、もう渋谷についていた。
夜。三月の冷たい空気に包まれて――……多くの大型車両が定位置に停車する。
中にトシさんたちはもういない。大型車両に移動しちゃっているんだ。
そう気づいて、身体を起こそうとした。でも力が入らなくて無理だった。
幸せのただ中にいる。けれどそれは永遠の安寧を約束してはくれない。
明日の幸福につながるかわからない挑戦をする。仕事って怖い。とても怖い。同じように人生も。
かじかんだ指先で思わず首元に触れて気づいた。マフラーを巻いてもらっている。
甘い花の香り――……ナチュさんの匂い。
身体に熱が灯る。それだけですっごい元気がでる。
立ち上がって、マイクロバスから下りた。腕組みをしている高城さんがいる。
「……あ、の」
「ああ、どうしたの? 疲れたなら寝ていていいんだよ」
「……見てたい、から」
「そっか……じゃあもう少しだから、待っていて」
頷いて、隣に立つ。
渋谷の喧噪はいつもと変わらず。けれど会社が手配した車両にざわつきが広がっている。
駆け寄ってきたの。平野さんが時計を見てから、声を掛けてきた。
「高城さん、いきますよ」
「カウント、お願いします」
「10からいきます」
無線を手に、平野さんが自信に満ちた顔で巨大スクリーンを見上げた。
カウントダウンが始まる。あともうすぐで……運命が決する。
どうなるだろう。わからない。ただ……ボクは世界を変える決断をした。ううん、エンジェぅに会ってから選択し続けてきた。
いつだって最高の結末を期待している。いつも最上の結果に至るわけじゃない。
だけど――……なんでだろう。
今日は見れる気がしたの。初めてエンジェぅの呟きを見つけた時と同じ昂揚が、ボクの心をたしかに揺さぶっていたから――……。
「3、2、1――……ゼロ!」
ぱっと映し出された。
ボクの愛する人。ボクにすべてをくれた人。そして――……ボクだけのものになるには惜しい、誰かに輝きを注げる人が歌う。
あの人に詩を捧げるためにボクは生きている。
恋を知った。愛を知った。満たされる喜びも。失う悲しみも。だけど変わらず捧げたい気持ちも。すべてをくれたあの人が輝くなら、きっと――……いま、このときに違いない。
つづく!




