第四百五十七話
現場の撮影は完全に止まっていた。
並木コナと緋迎カナタのキスシーンはミステイク連発。たまらず他のシーンの撮影に切りかえて進行中。
現場で変えられることには限界があるし、そもそも原作サイドからの要望で本来あるべき方向に戻すというのが、緋迎カナタが可能性を示してからの変更方針だった。
にも関わらず、並木さんを抱き締めてキスをする、という……ただそれだけの行為はとてもハードルが高い。
何度挑戦してもだめ。ならいっそ一度、並木さんからしてみてはという提案で、並木さんからキスされた。
なんの気持ちも入っていないキスなら? なにも感じないキスなら、或いは――……。
そう思いはした。けれど役柄だからなのか、それとも今日のシーンのためなのか。気持ちを作って本気でなされた彼女からのキスに俺は情けないかな、大層動揺した。
それからはもう、なにをやってもだめだった。台詞をとちる、何度もミステイクを重ねる。はまってしまったのだ。
「よう、青年。どうした? 世界のすべてが敵に回ったような顔をして」
項垂れていたら声を掛けられた。
春灯がお世話になっているというお笑い芸人の橋本さんに肩を叩かれた。
今日の撮影分を終えたのか、涼しげな顔をしている。
「悩んでいるね~。事情は聞いているけど、そんなに以前、自分を好きになってくれた女の子とキスをするのは難しいかい? 難しいか! フレンチキスおっけーなんて、俺なら喜んじゃうけどね……きみはほら、真面目そうだから」
苦い顔をする。橋本さんにも見抜かれているなんて、俺はつくづく士道誠心の突きぬけた爆発力に欠けているな。
「仕事だっていうことはわかっているんです。でも……彼女には恋人がいて、それは親友で。俺にだって彼女がいて……」
「めんどくさい関係だねえ。それに、草食ここに極まれりだ。あんな美人の子とキスできるんだから、役得だって思っておけばいいんじゃない? ……だめそうだな。きみ、そういうタイプじゃないもんね」
「……ええ、まあ」
気やすく話しかけてもらって、いつだってフォローしてくれるこの人にはかなりお世話になっている。
ラビも俺に対して同じように接してくれているし、なんなら「ばしっと決めろ」と促してくれるんだが。心中を思えば気にしていないはずがないわけで……わかっているんだ。俺が迷い、うまくやれないばかりに悪いサイクルにはまっているって。
「どんな気持ちでキスすればいいんですかね」
「役の気持ち、シーンに求められる絵を成立させる芝居……かな。受け売りだけどさ」
壁際に背中を預けて、橋本さんはカメラを前に全力投球している並木さんを見つめる。
「あの子がヒロインだ。そして、あの子は少なくとも……幼なじみの恋心に気づいて、キスを受け入れるという役柄をやりきっているだけじゃない。全力投球している。彼女が主役だから……この現場はまわっている」
「――……でも」
「例えばの話、かつて抱いた思いを活用しているかもしれないし、或いは今の恋人に対する思いを活用しているかもしれない。でもそれは、映画をいいものにしたいからだ。それくらいはさ、きみだってわかっているんじゃない?」
「……そりゃあ、それくらいは。それに、俺だって……同じ気持ちです」
項垂れそうになった瞬間に、腰を強めに叩かれた。思わず顔を上げると、橋本さんは気さくに笑っていた。
「ならさ。やっちゃえよ、青年。それ以外の気持ちなんていうのはさ、それこそ個人的な領域だ。きみと彼女がそこに踏み入るというのなら、いくらでも悩めばいい。でも、それは今やるべきことかい?」
「――……いえ」
「なら……気持ちを作ってやろうよ。それが今日のきみのお仕事だ。きついことを言えばさ。きみがこじらせるほど、今日のために日にちを押さえている役者さんやスタッフの日程が奪われるし、原作を委ねてくれた人たち、ひいてはそれを支えたファンのみなさんに迷惑をかける。そういうの、きみってきらいそうに見えるよ?」
「……だから、なんとかしたいんですけど。こういうことを乗りこえるやり方を、俺は……知らないんです」
「それも無理はないけど……そうだな。じゃあさ! そのための準備とか……そうだなあ。春灯ちゃんみたいなさ、そういう不思議な力を使ってやってみるっていう手もあるんじゃないのかい?」
「そう、ですね」
手はないでもない……か。そうだな。
「ありがとうございます、橋本さん」
「いいのいいの。きみがいい仕事をしてくれればさ。俺の仕事も増えるし……なにより、気持ちいいじゃん」
俺の背中を軽く叩いて、シーンの撮影を終えてひと息ついている並木さんに押す。
素直に歩いていく。もしかしたらずっと、話すべきだったかもしれない女の子の元へ。
タオルを差し出してくれたメイクさんにお礼を言う並木さんが俺に気づいた。
髪を後ろで結わえて着物姿。映像で綺麗に見えるよう化粧された顔を見て、心が揺れる。
瞳の奥に揺れる迷いや不安を見た。
「……なに?」
撮影の後だからなのか、気持ちが残っているのか……まるで役柄の少女のように不安げで。思えばそんな彼女を、一年の頃はよく見ていたと思いだした。
「すこし、いいかな」
「――……えと」
惑う彼女を見るのも、本当に久しぶりだった。強い彼女ばかり見てきたと気づく。生徒会長になってからは、特にそうだった。ラビの性格を思えば、あいつも並木さんに強さを求めがちだとも思う。俺だって、ユリアだって……シオリでさえ、そうだろう。
だからこんな彼女は不意打ちに違いなくて、それに動揺するけど――……でも、知っている。俺は彼女のそういう一面を、ちゃんと知っている。
一緒に仕事をするのなら……友達であったなら、一度は近づいた縁なら、むしろ俺がしゃんとしなきゃだめじゃないのか。リードするべきは、彼女じゃなくて俺だろ、と……素直にそう思った。
「メイク直します!」
メイクさんが気を利かせて並木さんを引っぱり、俺に目配せしてきた。
一緒に撮影所の中を歩く。部屋に通されて、メイクさんは手早く並木さんを仕上げると出ていった。
ふたりきりになる。ここには――……ラビもいなければ、春灯もいない。
向かい合う。ずっと避けていたと気づいたし、手元を不安げに弄る彼女がそれにどれほど惑わされていたのかにも気づかされる。
どう声を掛けるべきか惑う俺に彼女は呟いた。
「……そんなに、私とキスをするのはいや?」
いつだって仕掛けるのは彼女から。
我ながら情けない。慌てるのも、否定するのも違う。
それに……彼女から言わせるくらい、俺は未熟なんだと痛感した。
告白してもらったあの頃から? いいや……彼女が思いを寄せてくれていた頃から、ずっと変わらない。成長していなかった。
実感した。春灯が素直に伝えてくれるから、俺はそれに救われていたんだ。
けど、誰かに踏み込む強さを俺はまだまだ持てていなかった。なら、ここから、今だからこそ、ここから始めるべきじゃないか……?
深呼吸をする。
「――……並木さんとキスをするの、怖いと思った。もしかしたら、何かを壊してしまうんじゃないかって……思って。けど、俺が惑うほど、きみを傷つけるんだってわかった」
「……遅すぎるくらい」
呟いて、囁いて――……彼女はそっと立ち上がった。
近づいてくる。
並木さんと俺の距離はいつだって繊細で、危うげで、何かを掛け違えている。
はっきり言えば、俺にはずっと彼女を惑わせる問題がずっとあって、それを乗りこえたのは並木さんでなく、春灯で。ほんの少しだけ運命が違っていたら、今はずっと何かが違っていたはずで。そう思ってしまうからだ。
きっと迷うのは、彼女の良いところを好ましく思わずにはいられないから。
抱き合ったらきっと、俺たちは止まらなくなる。そして同じくらい、痛感している。俺たちはとっくにもう――……望む絆を手にしている。
ぎこちないのはもう、いま面と向かい合ってふたりきりでいる相手との距離感だけ。
すぐ眼前で立ち止まった彼女と同じタイミングで、手を差し出した。
繋ぐ。流れ込んでくる霊子に己の霊子を搦めて伸ばす。お互いの心の奥底へ。流れ込んでくる思いと記憶――……心のすべて。
好意、その熱の高さ。ラビと霊子を繋がない事実。吹っ切れているけれど、でも変わらず俺を認めるだけでなく、素敵だと思ってくれる気持ち。この映画にかける思い。そして人生でもし一度でも俺のヒロインになれるなら味わってみたいという素直な好奇心。あとは、
「俺のキスは下手か」
俺への抱えきれないほどの不満の中に眠る、俺への期待。
「ためらいながらするキスなんて、そんなものじゃない?」
「――……なのに、反芻してくれてもいる、と」
「一度は……ううん、前はずっと夢に見ていたからね」
「だからこそ……きっとこの映画が最初で最後になるからこそ……もっとよくしたい、か」
「だって、その方が……お互いにすっきりするでしょ? 最高の決着を。より……未来に強く進むために」
やはり彼女はどこまでいっても、彼女のままだった。
その気持ちにこたえるために笑う。
「そしてラビも春灯も、今夜は燃える、と」
「上書きするんだーとか。自分の本気の方がすごいんだぞ、満足させられるんだぞって……いかにも言いそう」
「たしかに」
ふたりで笑いあう。
繊細なこの距離感は、何も知らない子供のままじゃ理解できない。とても難しい。
今だからこそとお互いに決めて向きあうのは、だってもう……以前のお互いに結んだ過去をどう乗りこえるかにかかっている。
それぞれに、それぞれの選択を。
俺は――……春灯に求めている。潔癖さを。もちろん春灯も、同じだろう。あれで嫉妬深い。だからこそ不思議でもあった。なぜ並木さんとのキスシーンを許したのか。
或いは、もしかしたら――……並木さんの言葉通り、決着を望んでいるのかもしれない。気持ちの区切りがつくことを期待しているのかもしれない。不確かで繊細な距離感の解決を。
本当に、惑っている場合じゃないな。
決意する俺の心に答えるように、彼女は笑った。
「あの」
「待って……言わせて」
「いや、俺に」
「だめ、譲ってあげない。どうしてもっていうなら、キスシーンの練習をしてでも塞ぐ」
「――……それは」
「その顔は私だけの秘密にしておく。さて、それじゃあ……お願いがあるの」
俺に告白をした時と変わらない顔をして、
「あなたに恋をしてよかったって思えるようなシーンにしたいの」
それは清々しくて気高くて、
「だって、ほら。一人の恋心が報われる瞬間なんだよ? なのに、これじゃあ……今はとてもつらい。悲しくなるばかりなの……だから、お願い」
とても彼女らしい、
「これまでのすべてが報われるように――……あなたの本気を一度でいい。私にください」
願い事に違いなかった。
「あなたがキスをしてくれた瞬間の役ならもう見えているのに。これじゃ、私ばかり舞い上がっているみたいではずかしいし……ずっと待っているの」
「並木さん……」
「魔法をかけてくれる瞬間を。それにね? ……いい加減、そろそろいつものみんなのように、名前で呼んでくれてもいいんじゃない? カナタくん」
一度決めたら、動き出したらどこまでも全力で。
惚れ惚れするくらい、彼女はどこまでいっても……頼もしくて、強くて、だけど実はとても繊細な女の子だった。
「――……そうだな。わかったよ、コナ」
「よろしい! それじゃ、お願いね」
にっこり笑って離した手で、胸をぽんと叩いて彼女は去っていく。
頬を上気させて、艶やかに笑って。その顔にどきっとしなかったといったら、嘘になる。
この気持ちを軸にしよう。
報いたいと思った。今ならきっと、できる――……。
◆
現場で見ていて若さが羨ましくなった。まあ、そんな瞬間はやまほどあるよ。
でも自分より輝いた奴がたまたま若いだけで、若さを理由にするのはフェアじゃない。
緋迎カナタはヤマを越えた。並木コナはやりきった。
そうとう過激なラブシーンになった。キスだけなのに、いや、そのキスもかなり濃厚な奴だったけれど、思わず見ている全員が息を呑んだ。揃ってプロなのに。いや、プロだからこそか。
なんとなくで見ていい観客と違って、こっちはプロだからこそ読み取る能力を高める必要性がある。理解してなきゃ演出できない。だからこそ、ひしひしと伝わった。
ふたりは本気だ。久々に――……それこそ思春期以来、はじめてキスだけでその気になった。
高ぶるなあ。いい仕事してくれたよ、まったく。
「橋本ちゃん、お疲れ」
不意に声を掛けてきたベテラン役者さんにあわてて頭を下げる。
「あ、お疲れさまです。どうです? さっきのシーンを肴に一杯」
それじゃ足りないから、誘いも添えて。
「それな! 残念ながら今日は京都に行って、ちょっと無理だわ。俺は今日であがりだから、明日はどう? 俺もさっきのは久々に話したいわ」
困ったような顔をして笑って、代わりの誘いを言ってくれるんだからいい。
「じゃあ明日で。それより夕方前に東京から京都とはお安くないなあ。あんまり遊びすぎないでくださいよー?」
「ばか。うちのかみさんがあっちで仕事してんの! 女遊びは懲りたよ、もう……それより、久々にかみさんとよろしくやるよ。さっきのは……本当によかった」
しみじみと述懐してから、じゃあねと言って立ち去る背中を見送る。
すこし離れたところにいた若人三人が楽しそうに話しながら去っていく。ヒロインを演じきった並木コナは上気した頬をそのままに、弾むように歩いていた。幸せそうだ。彼氏のラビくん、今夜はいろいろとがんばるんだろうなあ。
ダブルヒーロー物。
おおまかなラインとしてはラビくんの役どころに軍配があがるが、原作サイドからもファンからも緋迎くんの役どころが報われる瞬間を求めている向きがある。
それゆえの脚本だった。
監督もスタッフも、出資している企業もなにもかも。いい加減ひどい風評が事前につきすぎる原作物には敏感だし、だからこそ何かを変える手を打てないかと模索して――……今回の仕事に文字通り魂をこめてやっている。
それでも最後の判断はお客さまがするというところが、この仕事の難しいところ。報われるかどうかは、俺たちが決めるんじゃない。だからこそ燃えるし、気合いが入る。
さてさて、現場の空気はいいからあとはよくなるばかりかな。
そう思っていたら、後頭部を押された。ふり返ると監督がいた。
「橋本ちゃん、今日はありがとね」
「なに、どうかしました?」
「見てたよ、緋迎との会話。いやあ、橋本ちゃんがいてくれると現場がまわるわ。あの大根はほんと、最初どうかと思うくらい使えなかったけど。それをすくい取れるってのは、みんなにできるこっちゃない」
監督直々に、そんなことを気遣っちゃうなんてまあ、ないなあ。飲み友達になっといてよかったと思いながら笑って答える。
「いやなに。最初は誰でも使えないですからね。誰にでもある、そういう時期をいかに乗りこえるかって、わりと誰もが向きあう問題でしかないから。監督だってがんばってたじゃないですか。どうしたらうまくおろせるかって」
「あの手この手で試したけどね。まあとにかく、いい味になってくれてよかったよ……いろんな連中が褒めてくるだろうけど、俺も言っとくわ。これからもよろしく頼む。期待してるよ! 橋本ちゃんたちの立ち位置がどれほど仕事してくれるかにかかってるんだから」
腕をばしっと叩いて行っちゃった。誘いそびれたな。いつだって飲むのが趣味な人なのに、失敗しっぱい。まあいいか。気が重いけど、鹿取ちゃんにアタックしてみよう。
そう思ってスマホを出したら、着信があった。すぐに掛け直す。すぐにつながった。
『頭領! なんで出ないんすか!』
「ばか、仕事だよ。それより日高、暴れてないだろうね?」
『そ、それは……むしろ士道誠心に一発かまされました』
「……お前さあ」
思わず額をおさえる。
「なにやってんの」
『う、うるさいっすね。それより小耳に入れておきたいことが』
「……面倒ごとの予感がするなあ」
『いいから! 前から追っていたんですけど、去年暮れの東京異変。あれの影響で刀を抜いた野郎に接触しました』
「へえ?」
笑いながらひと目のないところへ移動する。
「何号?」
『七号です。七原って呼ばれてました。少年刑務所にいただけじゃないっぽいですよ? 今日一緒だった女が妙なことを言ったら、教師全員の顔色が変わってましたよ?』
意外な報告だな。
「まずはその妙なことっていう、発言内容を教えて」
『たしか……彼、なにもやってないんですか? だったかな』
俄然、興味が湧いてきた。
「どんな女?」
『悪魔みたいな……まあ時雨よりずっと可愛かったっすけど。女子中学生っす』
日高のその言葉に目を見開く。時雨の容姿は並みじゃない。そんな時雨と共同生活をしている日高の目は肥えている。ちょっと将来が心配になるくらいに。
その日高が時雨よりも、というならよほどなんだろうな。でも問題はそこじゃない。
「頭は?」
『やばいっすね。かなりきれるっていうか、あれ何か憑いてる気がします』
「憑いてる、ねえ。穏やかじゃないなあ」
苦笑いをしながら目を細めた。
「それで? 日高、お前の見立ては」
『侍連中が好き勝手しているツケは回り始めてます。七号の刀はこれまで“処理”してきた連中と同じで錆びてボロボロでした。それに当然のように邪を纏ってましたよ。見たことのない巨大な龍種が出てきたんです。黒い御珠はむしろ、邪と縁が深いから当然っちゃ当然ですけどね。むかつくったらないっすよ!』
面倒なことになっていたわけか。
「ふむ……不満そうだね」
『だって! 警察はいつだって後手後手! そんなのは昔っからずっとそうで。予防よりもむしろ速やかな解決が本分っていうなら。そもそも、俺らに働かせるなって思いません?』
「だからこそ士道誠心に入って、体制をより理解してどうにかできないか探ろうっていうんだろ? 励め、励め」
『ひとごとみたいに言いやがって……電車そろそろ来るんで切ります』
「お疲れ」
電話を切ってスマホを顎に当てた。
緋迎シュウが切り開こうとした壁は、けれど先人たちのように分厚く険しく彼を苛み……去年の五月に巨大な災害をもたらした。
けれど彼は引きよせた。類い希なる可能性を。
その可能性とは、誰のことなのか……敢えて言うまでもない。
青澄春灯。彼女はそのありようを素直に示して、切り開いていく。戦うばかりが能だった俺たち隔離世に関わる誰もが思いつきそうでやらなかった、戦う以外の道で。
柳生十兵衞の御霊をも宿しているという。にも関わらず、違う道を選んだというのは……この世において誰にも選べる選択肢じゃない。
考えてみれば泰平の世に生まれた柳生家の嫡男も、戦いに明け暮れたというわけではないのだから、捉え方の違いかもしれない。
なるほどね。
切った張ったがこの世の華、なんてのは……たしかにとうの昔に終わっているな。
「あけぬれば……くるるものとはしりながら。なほうらめしき、あさぼらけかな」
呟いてメッセージを送った。
『今宵影、烏鳴く』
既読がつながるメンバー分だけ増えた。さて、と。
「今夜は仕事で無理そうだな」
こういうの、柄じゃないんだけど。
◆
タクシーから下りて、駅のロッカーを開けて置いてある鞄を出す。
着替えて制服をロッカーに入れて、お店へ移動。
若い店員さんに行ったら、素直に個室に案内されちゃった。いいのかなー? まああとで結果がでるか。まあいいや。
合流するなり、精力に満ちたおじさんが顔をほころばせた。
「やあ、理華ちゃん。今日も綺麗だね」
「どーもー。鮫塚さんは今日もエネルギッシュですね。スーツも私の知る中で誰より上品だし、時計も変えたんですか? 趣味がいいなー」
にっこり笑顔で言ってから、
「なんていうのは嫌いなんですよね?」
「そういうのはほら。どうでもいいから……それよりご飯食べないか?」
「そうですね」
頷いたところでお付きの店員さんがメニューを出してくれた。
目を通すけど、わかってる。
「鮫塚さん、今日もお店のチョイスのように?」
「いつものように」
「ですよね。じゃあ……すみません。ミシュランにのったメニュー、いただけますか?」
お店の指定もメニューも、鮫塚さんとの場所は決まっている。
だから笑顔で店員さんに言うと、顔が強ばった。
星を落としたレストラン。シェフの心痛はいかばかりか。
繊細なワードなのだろう。
「あ、の……申し訳ございません、お客さま。そちらのメニューは、その」
戸惑う店員さんの後ろから革靴の足音が聞こえてきた。やってきたのは支配人さんだ。顔見知り。でもさっきは店頭にいなくて、私の来訪に気づけなかった。
その結果が、これ。
「たいへん失礼をいたしました、鮫塚さま。すぐにご用意いたします」
「楽しみにしているよ」
「は――……」
店員さんに目配せをして、支配人さんが連れていく。険しい顔は見せない。ただ空気でわかる。店員さん、あとでめっちゃ叱られる。
罪はないけどね。いかにも子供が来たら、そりゃあ気にしないだろうし。だからってVIPの席だってわかったらもっと振る舞い方があったはずで。
ご愁傷様としか思わない。
それはさておいて。
「それにしても今日はどうしたんです? 鮫塚さんからお呼び出しなんて、珍しいなあ。カードをもっと使えっていう話?」
「育てるのも悪くないかと思うようになるんだ。俺もいい年だからね」
「またまたあ。まだお若いでしょ?」
「四十過ぎるよ。あと……」
「はいはい、ごめんなさい」
笑って答える。変に立てるな、というところがこの人の要求。
カードをくれてる時点で、ちょっと踏み越えてるけどね。そのへんを自分に都合のいいように解釈しているところを、年齢の弊害と呼ぶか、あるいは人生がわかりやすく固まっていて付き合いやすいと見るかは付き合う人次第。
私は後者かな。
「それじゃあいつものようにご飯を食べたらブティックまわったり?」
「中学校を卒業するんだろう? 贈り物をさせてくれ」
「ついでにドレスを着せてパーティに連れて行く?」
楽しそうに笑う鮫塚さんを見ながら思う。
要はアレだ。プリティ・ウーマンごっこがしたいんだ。年上と絡むことが多いから、昔の……付き合いのある人たちが好きな作品はおさえておく。
けどね。
「でも……上流階級にいって、お金周りのいい循環に入って、特権を味わうつもりは今のところないかなあ……それよりは」
相手の目を見て、
「鮫塚さんの人生の方に、私はずっと興味がある。知りたいのは、ただただそこだけ」
語るのは私の欲望の形。
「ドレスを着なきゃわからないなら着るし、カードを使いまくらなきゃ教えてくれないなら一瞬で溶かしてみせる。着せたい下着を着なきゃだめっていうなら、つけるよ? でも見せなきゃだめとか、それ以上を求めるなら――」
「わかっている。ルールを逸脱するからそこで終わり。きみのわかりやすいところが好きだ」
大声で笑う鮫塚さん。
「初めて出会ったのは、どんな流れだったかな」
「知りあった人が私に酒を飲ませてその筋の人に渡して、私は危うく撮影の材料に使われそうに。それだけでもぶっ飛んでるのに、私が頼った人はなんと鷲頭組の人。若頭の鮫塚さんが乗り込んできてくれて――……」
会うたびに話を求められるから、語る。できれば上機嫌に。相手が恋をしたくなるような顔をして。難しいことはしない。ただただ喜びと幸せを語るだけ。
それで済ませちゃう私はきっとまだまだ子供に違いないけど、そういう部分を求められているからよしとしよう。
「それで、助けてくれた鮫塚さんに私は思いきり吐いたの!」
「そうだったな。高いスーツが台無しになった俺にしがみついて離れなかった。起きてパニックを起こして面倒になりそうなガキの相手なんて、と思ったら」
「目覚めた私はケジメをつけられそうになった人と、私を陥れた人を呼び出して背後の関係を洗いざらい吐かせた」
「いやあ……末恐ろしいガキだと思ったけど。付き合ってみれば……いい女――……」
「お?」
「――……に、なりそうだ」
「そこはまだまだか」
「いろんな連中からいろんな教えを受けているだろうが……理華ちゃんが何を選び、どう育つかは、どこまでいっても理華ちゃん次第だからな。俺はそれを見たい」
「そのうえで……自分の遺伝子をどこまで注げるか、かな? いやあ、鮫塚さん……男だね」
「そこで拒絶反応を見せない理華ちゃんだからこそ、だな」
破顔する鮫塚さんに笑顔を返す。
「それじゃあ着飾らせるよりもっとずっと、シノギを見せてくれた方が嬉しいんだけどなあ」
「いつも言ってるだろ? 一般人は巻き込まないの」
「今時なかなかないよねー。でも私を姪扱いして連れ回して、着飾らせて。いったい何人の女の子を育ててきたんです? 知ってるんですよー? キャバだなんだ、いろいろがんばってるの」
「そっちは趣味。こっちは……こっちも趣味か」
楽しそうに笑っちゃって、まあ。
「……えっちしたいとかじゃないんです?」
「違うよ」
第二ボタンを外して、鮫塚さんは椅子にゆったり身体を預ける。
「女の子はさ。どんな体型、どんな性格、どんな人生を送っていようが……胸を張れるくらい、生きる姿勢が綺麗でなきゃだめだ。だって、それは強さの象徴なんだよ」
凄味のある顔で言われるその台詞が……実は好きでたまらない。
だからカードを受けとったし、付きあい続けてる。
「見た目から気持ちをいくらでもあげられる。だからさ。俺はもっと理華ちゃんに強くなってほしいんだ」
「――……ナンバーワンキャバ嬢とか?」
「あほ」
「政治家にしたいとか?」
「興味ないなあ。別にさあ。理華ちゃんがそこいらにいるつまらない顔した男と結婚しても、俺は一向に構わないんだ。なんでかわかるかい?」
「……いえ」
悔しいくらい、わからなかった。
むしろ投資に見あった存在になれ、と思う方がよほど自然だ。
なのに違う方向性を提示されて、戸惑う。そんな私に教えてくれる。
「強さを手にした奴が最後に何を選ぶのか。そいつはさ、きっと普遍的なテーマだ。いいんだよ、簡単だ。結果的に選択肢は少ないんだよ。幸せになるか、ならないか。その幸せはどんな形か。俺は知りたいだけなんだ」
求められるのは。
「男にだまされて死にものぐるいになって働く女を見た。みんなが過ごせる社会に馴染めなくてはみ出して暴れてバカやって組の世話になった、今時いるのかよって思うくらい残念な阿呆もいた。最初はさ、くだらないと思ったよ」
鮫塚さんが私に真に求めているのは。
「けどなあ、うちの若がさ。放っておけないだろ? って笑いながらどんな奴の面倒も見るんだよなあ。必死になって親身になって育てて……あがいていた連中がしゃんとした背中を見せられるようになるたびに、俺に言うんだ。どうだ、鮫塚。痺れるだろ? って」
夢なのかもしれない。
「男のけつをもつのは、正直趣味じゃねえ。だから俺は女に関わりたい。ガキだろうが老衰間近のばあさんだろうが、俺は……女に関わっていたい」
格好いいなあと思ったからこそ、伝えておく。
「それで? 毎回くるたびにこの店で同じメニューを頼みたがるのは、なんでなんですか?」
「若との約束だよ。潰した組織から薬を受けとってた奴がどこまでしゃんとしてるのか見るためだ」
「……ふうん」
頷いて、しみじみ感じた。こういう人と触れ合うのが楽しいから……だから、私は続けちゃうんだなあって。
「その若って人、会ってみたいかも」
「士道誠心に行くんだろう? ならたぶん、会えるよ」
「……ほほお」
「だからって縁を切られちゃあさみしいけどな?」
「しませんよー。それは絶対ない。ルールを作ったのは、縁を切るためじゃない。長く続けたいから」
それに、と伝える時は本気をこめて。
「鮫塚さんが今のようなことをするようになったのって、若さんがいてくれたからでしょ? その人に興味があるのはね? 鮫塚さんを知れるからだし、若さんの人となりを知れるから。どっちも大事……私は人を知って、世界に触れたいんです」
気持ちはまっすぐ。
「鮫塚さんはもう、とっくに私の触れた世界の一部なんだから。無理をせず、ジジイになるくらい長生きしてくださいよ?」
「筋もんに言うことかね」
「だからこそですよ……それにしても、料理まだですかね」
「のんびり待つとしようじゃねえか。ところで理華ちゃん、俺が教えた店に行ってくれるのは嬉しいけど……下着までは変えてないな? 手を抜くなって言ってんだろ」
「ま、まあそうですけど」
思わず身構えちゃうよね。
「服の上から下着がわかる鮫塚さん、やばい」
「真面目な話をしてるんだ、ばか。いいか? 下着ってのは大事なもんだ。武器のひとつなんだよ」
「……えろ目的じゃなく?」
「ちげえよ。ましてや営みに励む男のためでもねえ。下着ってのはな? お前自身のために着るんだ」
どういうことだろう。きょとんとする私に鮫塚さんは語る。
「嗜みのひとつだし、いいものをつけると心がしゃんとする。彫り物をするわけにもいかねえからな。だからその代わりに……世界中の下着屋をまわってみろ」
真摯に見つめられる。
「身体に歴史を刻むように、引き出しに歴史を刻んでみろ。その分だけ、めげない強さになる。胸を張る理由になる……それが理華ちゃんの強さになる。わからねえつまらない男なんかほっときゃいい」
ただただ。
「見せてくれよ。理華ちゃんがどんな風に育っていくのか、俺は見たくて仕方ねえんだ」
夢を見てくれている。その熱を浴びて、私はどんどん活力をもらっていく。
けどね。
「そんなに口説いても、下着姿はめったなことじゃ見せませんよ?」
「ばか。ガキの下着姿みてその気になるか。ただ綺麗なところが見たいだけだ」
「結局みたいんじゃん……でもたたないとか、ED?」
「ルールを破っていいなら、いくらでも証明してやるんですがねえ」
あ、やばい。ちょっと弄りすぎた。
「うそうそ。脱がずに見せずにその気になっちゃうくらい、成長してみせますよ」
「そいつは楽しみだ」
にこにこ見つめあう。次の約束もあるけど――……いつも通りなら問題なし。
でも後回しにしちゃうのは、鮫塚さんよりちょっと身構えちゃうところがあるから。
さーて。どーしよっかなー?
「どうした?」
おっと、やばいやばい。誰かに会っているときに他の人のことを考えているって気づかれるのは下策。気をつけよう。んー、そうだなあ。
「鮫塚さんをその気にさせる女の子ってどんなかなーとか。鮫塚さんがした恋ってどんなのかなーとか。初体験ってどんなかなーとか。あとはねー。鮫塚さんの悩みってなにかなー? って」
「なんだ前半の話題は。でも、そういや本題がまだだったか。ちょっと面倒なヤマがあってな、お前の知りあいにいいのがいないか知りたくて」
「さっきは一般人って言ったくせに」
「お前が並みじゃない一般人ってのは、とっくにわかってるからな。ひとまず状況を伝えるぞ」
「はあい」
笑って耳を傾ける。
念のため、中座した時に手は打っておこうと決めて、終わり。
ああ、人生って楽しい! もめ事の中に飛び込むほど実感する。
醜ささえ愛する。
だから――……殺意を否定しきれないけれど、それでも。
立沢理華は人類を愛している……なんて、悪魔が言っても説得力がない?
あは! 私もそう思う。
「ねえ、鮫塚さん。人間って好き?」
「あほ。話題のくくりや主語の大きい話は疑え。細分化しろ。政治家や宗教家じゃないんだ、自意識の大きさや世界の見方をそんなに露骨に表明するな。その目が細かい奴を、初めて人は信用できるんだ。だから聞き方がちげえよ。なってない。やり直せ」
「じゃあ――……そうだなあ。私のこと、好き?」
「好きだよ……そんな嬉しそうな顔をするな。面倒みたいガキとしてだよ」
「そういうところが好き」
「話を戻して良いか?」
「どうぞー」
上機嫌ですよ。とてもね!
だからこそ、不安にもなる。次のアポはどんな形になるのかな?
つづく!




