第四百三十七話
マドカ、と名前を呼ばれた気がして目を開けた。
生徒会長がいる。私を見下ろしている。
「山吹マドカ、ようやく起きたようね」
「――……なんですか?」
尋ねながら視界に入る情報を整理する。
暗闇。土塊の上。岩が剥き出し。ぼんやり照らす明かりは松明。広々とした空間にいて、そばには水がたまっていた。相当の深さがあるらしく、帆船が浮かんでいる。潮風の匂いがした。海に続いているのか。
先生方の姿が見える。厳しい顔をして立つ先生は一組から八組までの担任及び副担任たち。勢揃いだ。その手前に刀が積まれている。
遺跡探索だと言って玄関に集められてからの記憶がない。運ばれてきたのは、じゃあ遺跡なのか?
「考え事は後にして。それよりも聞かせてくれるかしら」
厳しい声を聞いて顔が強ばる。
並木コナ。その人の性分を理解しているつもりだ。激しく荒々しく、けれど鋭く尖っている。
けれど情に厚く、愛情深い。しかし年相応に幼い部分もある。そのせいか、時に本来の知恵からは想像もできないくらいの失敗を犯すことがある。それに優柔不断だ。シオリ先輩とラビ先輩に翻弄されているのがいい証拠だと思う。
それはさておいて。この人がこういう声を出すときは要注意だ。
「なにを聞けばいいんでしょうか」
「一年生の戦力分析は?」
端的な問いかけ、それにこわばった周囲の空気。
長話を期待されてはいなさそうだ。どうやらね。
「――……ひとことで言えと?」
「ええ。二年生、三年生と比べてどう?」
「粒が揃っているところはありますが、しかし全体的には私を筆頭にまだまだ未熟です」
「そう……そうなのよね。刀なしに戦える高い能力の持ち主は一握り。正直、誰も彼もが御霊頼りと言える。そこが問題」
「あの……御霊頼りというのなら、私は筆頭格なんですが」
「でもね? あなたに関しては――……かなり危険だけれど、手立てはあるのよ」
流された。まあいいけれども。
「というよりは……資質を確かめて、あなた自身の伸ばし方を見極めたいのだけれど。ちょっと困った命令を受けていてね」
話している間に見渡してみて気づいた。
刀鍛冶が多い。それだけじゃない。楠ミツハ先輩や響ジロウ先輩をはじめとする三年生の刀鍛冶までいる。
「命令――……その手段、どうやらよほど危険なんですね」
頭の中で警鐘が鳴っていた。
特別授業の一環で、これほど大がかりな仕掛けをしたにも関わらずほとんどの先生方が集まり、しかも三年生の刀鍛冶が集まって私を見守っているその意味を考えるとね。
どうしても警戒してしまう。
「それゆえのVIP待遇ですか」
「理解が早くて助かるわ」
「――……つまり、一年生の強い子たちに課していた戦闘面への課題が私になかったことは、今日の、この瞬間のため?」
「……理解がよすぎるのも問題ね」
厳しい顔、声。眉間の皺。
そして不満げに周囲を睨む様子を見ればわかる。
この人はいやなんだ。これからすることが。納得いかないけど、せざるを得なくて苛々しているのだ。
思わず問いかける。
「納得いかないんですか?」
「聞けばあなたも怒るんじゃないかしら」
「……でも聞かなきゃ先に進めない、かあ。やだなあ」
苦笑いしながら、身体を起こそうとしたけれど……できなかった。
代わりに身体が浮き上がる。見えない何か――……恐らくは霊子なんだろうけど、それが私の身体を浮き上がらせるのだ。
「それで? いったい何をしようというんですか?」
「あなたの修練を具現化する力……誰かの刀を理解した分だけ、具現化した力に重ねるその可能性――……それは途方もないもの。愛する後輩にこんなことは言いたくないけれど……あなたの可能性は末恐ろしい」
並木先輩が刀の山を見た。
ふっと考えが浮かぶけれど、否定したくて。けれど言葉が出なかった。
「天使キラリも青澄春灯も、従来の侍にない可能性を示しているという意味ではあなたと同じ。けれど、あなたのそれは――……危険なの。自覚しているでしょうけど」
それが何かは明白だった。
相手の刀に似せた一振りを取り出したり、ないはずの刀を取り出す私だけの力のことだ。
「――……たんなるコピーですよ。それも劣化型」
表面上の体裁ではね。
「昨日の様子を見たわよ。いろんな生徒に特訓をつけて――……あなたは既に他の生徒と一線を画している。わかっているんでしょう?」
否定したい。けど無理だ。
「知覚したものを取り込む。あなた次第で――……多くの刀、ううん。大勢の侍の心をさび付かせ、曇らせる結果になるでしょう。だからこそ、確かめたい。あなた自身の資質を」
浮いていた足下に土塊が集まってくる。地面だ。拘束が解かれた。
けれど一人分しかいられない地面はまるで監獄そのもので。逃げようと飛び降りれば済むだろうけれど、周囲に集まる人々の視線がそれを許してくれそうにない。
「どうしろと?」
「あなたの掴んだ刀を出して、それぞれの刀とぶつけてみて。本物に勝るのか、それとも劣るのか。或いは同等なのかをまず確かめさせて」
「――……つまりは、私の脅威度判定?」
「話が早くて助かるわ」
刀の山を見た。盗まれた刀が集められている。ハルの金色の刀は特に目立つからすぐに気づいた。けれどここにハルはいない。
「――……刀に必要な侍がいないようですが?」
「刀鍛冶ではあるけれど……あなたに飛ばすくらい、わけないわ」
「なるほど」
つまり、あれか。私を貫くために、私が出せる刀を飛ばしてくるわけか。
そして防がせて、真価を問う、と。
気づいてもう一度、刀の山を確かめる。
幸いにして、沢城くんの村正はなかった。あれだけは……防げる気がしない。佳村さんの愛情と沢城くんの、人を斬る直前の危うい均衡を保つ執念の一振りとも言うべき村正だけは、理想通りに重ねられる気がしない。
あれは私の思い出の中でも素晴らしい絆の結晶だ。そもそも出そうという気になれないあの一振りだけは、無理だ。それっぽくはできても。正しく本質を捉えられる気がしない。
まあ、村正がないからといって問題ないわけじゃないけどね。
「なるほど。私を傷つけかねない試練だから、生徒会長は気に入らないわけですか」
手を抜いたら資質を正しく計測できないからこそ、これだけの――……先輩がたや先生がたという舞台装置を使っての、窮地を演出している。
彼女は恐らく私を貫くつもりでやるはずだ。手を抜くタイプには見えないから。
「一歩間違えれば傷つくだけでは済まないもの。あなたの資質そのものを曇らせかねない。そんなの本意じゃないわ。こんな手段はこの場にいる誰もが取りたくないんだけど……」
この場にいる誰も望まないなら、じゃあ誰が望む?
その言葉に気づいて見下ろした集団を確認した。
学校関係者しかいない。なら? ……そこまで本気で確かめたがる集団って、なんだ?
――……ああ、いやだ。そうか。士道誠心は警察や住良木と繋がりがある。今回で言えばどちらの勢力かは明白だろう。
警察に資質を確かめるよう求められるほど……そこまで警戒されているわけか。私は。
ほんと、困るなあ。嫌な意味で目を付けられているみたいだ。ちっとも嬉しくない。
ハルは日向の道を歩いている。キラリもやがてはその道をいくだろう。あの子は過去の失敗を抱え込んでいるけれど、ハルの言葉も態度にも、もうとうに許しは過ぎて久しい段階にある。だからきっと、すぐにでも……キラリも強い日向の道を歩き出すに違いない。
けれどテレビの仕事も含めて、どうやら私は私の道をいくしかなさそうだ。
参ったな。ちょっと本気でめげそうだぞ。
でも、堪える。
なに、結果的に一緒に歩ければいいんだ。実際、そうやって私はここまで頑張ってきたんだから。
めげないぞ。絶対に! 私は私をお助けする道を、迷わず選ぶ! ハルたちに助けられて、やっとそう決める自分を見つけ出せたんだから!
胸を張って言ってやるんだ。私だって、ハルがいて、キラリがいる……大事で素敵な一年生の、なによりお助け部の一員なのだから。
「それしかないなら、早く済ませましょう」
「……いいの? あなたが拒めば、私たちは」
「いいんです。私もそろそろ答えを出したかったんですよね……この力がどういうものなのか」
ハルに優しく導いてもらったことがある。けれど、それでもまだ……日が経つほど、使うほど不思議に思う。
私が望むように力を使える、これは一体なんなのか。
キラリの星、ハルの金色はまだわかりやすい。二人のトラウマを軸に生み出された、二人だけの力。
なら、私のこれは……なんなのか。
トラウマを軸にしているのは、もう……わかる。
光との日々の何かが私にこの力を与えたに違いない。
なら、それはどうあるべきもの? 定義するべき形はなに?
私にぴたり当てはまる――……形容詞は、なに?
求めていた。決断を下す瞬間を。
「先輩、お願いします。私にも必要なんです」
「――……そう、わかったわ。ラビが戻っていたら彼にお願いする予定だったんだけどね。実に腹立たしいことに、どこかで油を売っているみたいだし……そもそもこれは、私がやるべきだった」
意思の強い瞳が私を見つめてきた。
「いくわよ? まずはあの子の金色から」
刀の山から浮かび上がってくる。ハルの金色の刀。玉藻の前の御霊の依り代。
手をかざす。念じるだけで取り出せる。ハルと積み重ねた日々――……金色の刀。
姿は似せられる。力も真似られる。私の理解した形でだけ。
なら、本質は?
わからない。答えを出すのは、今この時だ。
それにしても、ハルの刀を迷わず選んでくるあたり笑っちゃう。
私にとってはハルの金色は特別そのものだ。
だから、それを選ばれたら――……本気で挑まざるを得ない。
「本気なんですね。ハルの金色を迷わず選ぶなんて。ただの一度で終わりにする気ですか?」
考えてくれていたんだ。なるべく私を傷つけないようにするための手段を。
だって、特別な……私が嘘をつけない一振りで確かめればもう、後は蛇足でしかないから。
たった一度で済んでしまう。間違いなく。
この人はなるほど確かに、私たちの生徒会長に違いない。
彼女はすぐに答えを伝えてくれた。
「あなたがあの子をいかに好きかは……寮でよく見ているからね。この一本でわかると思うの。手早く済ませましょう」
並木先輩が手を振るう。
弾丸のように放たれる刀を睨む。
私も思いきり振るった。
彼女が好意と心配を注いでくれたからこそ――……私の答えは迷わず理想へ至ったのだ。
「「「 ――……っ! 」」」
大勢が息を呑んだ。
私の金色は――……砕け散った。
対してハルの刀は私の胸の谷間に当たり、止まっていた。皮一枚さえ貫かず、留まっていた。
並木先輩が止めてくれたんだ。
或いは――……こうなると、わかっていた?
だとしても不思議はない。
私たちが選んだ生徒の代表なのだから。
「――……そう。それがあなたの決断であり、定義なのね?」
「はい」
「お助け部なのね……あなたも」
「当然です。ルルコ先輩に選んでもらって……ハルとキラリと一緒に活動する。自分を助け、みんなを助けるために、私の心はあるんです。私に対するあなたのようにね」
並木先輩の問いかけに頷き、微笑む。
砕け散る金色が溶けて消えていくけれど――……私の胸に悲しみはない。ただ理解だけがある。
「私のこれは――……あくまで私がみんなに見た夢であり、思い出でしかないんです。私の好きな人たちの心を壊したり砕くためにあるんじゃない」
壊されても出せるよ。これしきで私の中にあるハルへの夢や思い出がなくなるわけじゃない。どんなに壊されたって、私の心は砕けない。
逆に言えば……私の思い出も、夢も、誰かの心を壊したり砕くためにあるものじゃない。
「胸を張って伝えていただけますか。侍が心強くある限り、決して脅威にはならぬ、と」
「――……確かに伝えるわ。ありがとう……あなたを誇りに思う」
並木先輩は頷いてくれた。
先生がたもほっとした顔で解散していく。
あるべき姿に戻っていくのだろう。ここから、やっと。
「ふう! あー! すっきりした! 演技もこれでおしまい! さあ、気分を変えましょうか!」
よく見る素敵な笑みを浮かべて我らの生徒会長は宣言した。
「というわけで、山吹マドカ! あなたがどこまでやれるか見せてもらうわね? 気の重たい命令もこなして方向性が少しだけ見えたから」
「えっ」
「あなたの戦闘技術っていろいろ未知数すぎるのよね。それじゃあ、きりきりいくわよ。ミツハ先輩、お願いできます?」
「わかった」
楠先輩が地面を蹴ると、瞬時に一日目に見た人型マシンロボより精巧なものが山ほど土塊から生えてきた。
「ちょっ、え!? 本気で!? 私の刀は!?」
「他のほとんどの生徒と一緒で、まだ返してあげない。悔しかったら、なんとかしてごらんなさい」
「そんなあ!?」
思わずハルみたいな悲鳴をあげてしまった。
刀の山を先生がたが宙に浮かべて、小舟にのって帆船へ向かっていく。
あの中に私の光があるに違いないのに。飛ぼうとした時には地面が崩れてなくなり、私は容赦なく落ちた。
「うわあ!? ――……いっ、つつつ……ひえ!?」
地べたに尻餅をついて痛がる私にマシンロボの群れが迫ってくる。
「それじゃあ山吹マドカ、あなたの特別授業を本格的に始めるわよ!」
「だとしてもこれは無茶ですよ!」
「あなたの潜在能力の高さは認めているから。これは信頼と期待の証拠!」
「嬉しいけど嬉しくない! ひゃあ!?」
悲鳴をあげながら、あわてて身体を起こした。
一瞬だけ背中に覚えのある熱を感じてふり返る。
道はない。崖があって、どんどん上に向かっているだけ。
ふり返るマシンロボの群れが土塊からライフルを取り出して向けてきた。
やる気だ。
こっちも刀を出して貫くことはできる。けれど、それで向こうが満足するとは思えないし、並木先輩や楠先輩がいる時点で果てはない。
こちらが消耗するだけなのは目に見えている。
最適解が導き出せない現状で抗っても、時間と体力を無駄に消耗するだけ。
なら、どうする? 決まっている。
ここは振り返り、明日へ向かって全力ダッシュだ!
「逃げた! 追え!」
ずだだだだだ、という激しい音の正体なんて知りたくない。
視界に映る火線の意味なんて考えたくもない。
必死に転がりながら、熱を感じる方向へ賢明に走った。
香ってくる。一度嗅いだら忘れられない先輩の匂い。私を選んでくれた……あの人の匂いを辿るのなんて、楽勝すぎる。
これが何かの導きなら、迷わず従う!
崖を飛んで、駆け上って、必死に飛び移って。ただひたすら、匂いの誘う方へ。
光りが伸びている。差し伸べられた手が見えた。迷わず掴む。
引き上げられて目にしたのは、雲の近い島の光景。そして、
「マドカ、急いで逃げるよ!」
ハルだった。ルルコ先輩の匂いがする。どうして――……。
「考えている場合じゃないよ、走れ!」
ぐっと手を引っ張られて、切り立った山肌をかけ出す。
この逃避行が示す道はなに? わからない。
ただ――……手に馴染みすぎる熱を感じながら、必死に走る。
どきどきしていたの。
この気持ちの正体を――……私は知りたくて、たまらないのだ。
◆
崖と崖の隙間に引っ張られて隠れる。
小さな祠があった。犬の見守る像があって、キラリが腰掛けて待っていた。
二人とも合流していた……?
疑問に感じながらも、ついついほっとしてしまう。
「待って――……よし、通り過ぎた」
ハルが呟いてから、私をぎゅっと抱き締めてきた。
「は、ハル?」
「よくがんばったね。見てたの……あんな無茶ぶり、心がくじけて投げ出したくなってもおかしくなかったのに……マドカはやりきった」
「う、うん……」
ハルはわりと無邪気に素直に言葉をくれる方だけど。
でも違和感が急速に膨らんでくる。
こんな風に脈絡なく抱きついてくる子じゃない。
なんで? どうして? ――……その答えは、明白じゃない?
ルルコ先輩の香りと言い方の符号に迷う。
言うべきかどうするべきか。
「あ、の……もしかして、その……」
「なぁんて……やっぱり、マドカちゃんはごまかせないか」
ハルがそう囁いた瞬間、岩の隙間が氷に塞がれた。一瞬で山の合間にある洞穴が雪の化粧にまみれていく。ルルコ先輩の香りに満ちていく。
寒い。凍てつきそうな雪と氷に包まれていく中で、ハルの姿をした彼女はキラリを見つめた。
「じゃあ――……お先にどうぞ」
「御言葉に甘えて」
「え――……」
キラリの姿をした――……日向の匂いのする人が近づいてきて、刀を抜いた。
そして私の胸に当てるの。並木先輩に金色を突きつけられた場所と寸分違わず――……重なる切っ先から流れ込んでくる。
途方もない熱――……じゃあ、これは。
キラリの刀に見える、この一振りは?
「覚えていて。あなたの御霊があなたに捧げる感情の正体を――……あなたが御霊に捧げる感情の正体を」
「めい、先輩……」
「あなたがみんなの思い出を形にできるのは――……みんなを愛してやまないからなんだよ」
一瞬で溶かされてしまった。
寒さに包まれるからこそ、その熱が圧倒的すぎて。
「迷い、惑いながら……探し続けてきたあなたのさっき出した答えの先にはね? あなたが毎日を愛してやまない――……たった一つの優しい答えがあるだけなんだ」
「っ」
溢れてきた。とめどなく、涙が。
まるでお別れの挨拶みたいで。その前に贈られた大切なプレゼントのようで。
「あなたの愛は誰の心も砕かない。だからもう――……だいじょうぶ。あなたの御霊はとっくの昔にあなたに寄り添い、共にあるのだから」
「せんぱい……せんぱいっ」
刀を下ろしたキラリの姿をした、メイ先輩に抱きつかずにはいられなかった。
「胸を張れ、山吹マドカ。光り輝く未来へ、愛するみんなと一緒に進んでいって。あなたはもう――……とっくに、あなたが思うよりずっと愛されているんだから。ね?」
「――……っ」
はいって答えたつもりだった。でも涙と鼻水でぐちゃぐちゃで、声がしわがれて、もうめちゃめちゃで。
だって、こんなの――……別れの餞別だもん。
とびきりの愛情を太陽に変えた人のくれた許しなんて、もう圧倒的で、絶対的すぎて……だからこそ、はじめてやっと、許された気になったの。
「よし。じゃあ――……委ねよう。あなたを選んだあの子に」
先輩が指を鳴らした瞬間、キラリの姿も刀も眩く煌めいて消えた。
たたらを踏んで倒れそうになる私を抱き締めてくれたのは、ハルの姿をした――……ルルコ先輩だ。
泣いて縋る私の顔をそっとハンカチで拭って、先輩は微笑んだ。
「一歩間違えていたら、シオリや私のように……あなたも氷の世界にいたと思う。けどね? 孤独な絶対零度の世界に来なかった理由ならもう、私には見えているの。わかる? マドカちゃん」
必死に頭を左右に振った。
わからない。わからないの。先輩が私を選んでくれた理由。ハルのそばにいられる道をくれた理由――……実は、ちっとも。
「あなたの心はいつも常に思い人と一緒にあるの。ひとりぼっちじゃないんだよ? ずっと誰かを想いながら、罪を抱えながら生きていたあなたは誰より真摯に一途に思い続けていた」
「私、そんな……綺麗じゃ、先輩みたいに、素敵じゃ、ない……」
「ううん。あなたは……あなたが思うよりずっと綺麗で素敵で、あなたが思うよりずっと一途だよ。御霊が応えてくれたのが、その証拠だし……愛する毎日を形にできるあなたの力がその証拠」
やだ。この人が――……来月にはいなくなるなんて、そんな未来がいやでたまらない。
「せん、ぱい……」
「ハルちゃんはあまりに無邪気に輝いて綺麗過ぎるし……キラリちゃんも、それは同じ。でもね? 私は――……抗いながら手を伸ばし続けるあなたの尊さを、愛さずにはいられないの」
魔法をかけてあげる、と耳元で囁かれた。
頬に触れた柔らかい感触。流れ込んでくる――……人を惹きつけてやまない特別なフレグランスと霊子。
「胸を張って。沢城くんに挑んだ気高さをどうか取り戻して。あなたの心はもう、掴んでいる。あなたの愛情の鍵はもう、とっくの昔にあなたの心が掴んでいるの」
必死に涙を堪えて、流れ込んでくる冷たくて心地のいい――……ルルコ先輩の気持ちを飲み込んでいく。メイ先輩のくれた気持ちと混ざり合って、私の心を溶かしていくの。
『――ドカ! マドカ!』
堪えたのに、だめだ。溢れてくるよ、どうしても。
『だいじょうぶ? さっきのあれ、かなりきつかったよね。あ、でも……聞こえないかな、もう……いつも一方通行で、いやになるな』
頭を振った。必死に。
聞こえてるよ。聞こえてる。あなたの声が――……聞こえてる。
鍵を開いてくれた。私の大好きな先輩二人が、あなたへの道を――……照らしてくれた。
光。ひかり……私の大好きな、ひかり。
『――……マドカ? いつもみたいな偶然じゃない? これは――……ほんとに、伝わっているの?』
聞こえてるよ――……。
必死に耳を澄ませる。ハルの姿をしたルルコ先輩の刀からは何も聞こえない。
けれど……私の胸の内からは、確かに声が聞こえているの。
「先輩……私、わたし」
「よしよし。その顔を見たらもう、だいじょうぶそうだね。じゃあ……がんばれ。私たちからの贈り物を、どうか大事にね?」
「――……はいっ!」
頷いた瞬間、熱が離れた。吹雪が一瞬でひどくなって、舞い散る雪の激しさに思わず目を伏せる。風がやんで、目を開けた時にはもう――……先輩たちはいなくなっていた。
『ま、マドカ……何があったの?』
……ちょっと、お節介でとびきり素敵な先輩二人が最高のプレゼントを届けに来てくれたの。
『……なんか、それっていいね。青春みたいで』
そうでしょ? あなたとの繋がりを取り戻してくれたんだ。
胸を張って言う。
最高の先輩たちと出会ったの!
そして――……まだまだ続くよ? 周囲を見渡してみた。
祠を守るイヌたち。そして祠に飾られた鏡の台座。中心にくぼみがあるけれど、それに嵌められるものはない。遺跡攻略というのなら、これはいかにも怪しいけれど、手持ちに道具はなかった。
『……なんだろうね』
肩を竦めた。さっぱりわからない――……わからないといえば。
「ねえ、光。崇徳さんとは話せない?」
『私には声、きこえてるけど。マドカはまだ……無理?』
「……光だけっぽいな。開運招福、勝負事の神さま的なところもあるみたいだから、できれば頼りたかったけど」
『え、えっと……気むずかしいみたいだから、今は無理かも……』
どうやら今、よほどのことを言われたみたいだな。
まあ、それならいいや。
『いいの?』
自力でやれってメッセージだと思うし。つくづく思ったんだ。ハルの御霊の声を聞くあの力は才能で、私のこれは……あなたとの絆がなせる奇跡なんだって。
だからいい。あなたの声が聞こえるなら、十分すぎる。
『……そうだね。私も同じ気持ち』
知ってる!
『もう! ……それで、どうするの?』
「そうだなー。そうだなあ……」
瀬を早み岩にせかるる滝川の……われても末にあはむとぞ思ふ。
『それって――……』
「そ。かの人の歌。なんかちょっと読んでおきたくて。ありがとうの気持ちを込めてね」
『~~っ!? す、すごく怒鳴られたよ?』
「あはは」
素敵な歌を歌える人だから、まあ……要するにツン期ならそっとしておこうか。
『もう。そんなこといって。もっと怒ってるよ?』
いいからいいから。情が深くて激しい人だと思うし。私も激しさなら負けないつもりだ。
もっとも、今は落ち着いているよ。
光の声が聞こえるようになっただけで満たされてる。
先輩たちがくれた贈り物は、来世に近しい高校生活であなたとまた再び一つになれた事実を知らせてくれた。
これ以上は、今は望みすぎだ。
ひとまず今日の授業を乗り越えないとね! 先輩たちに見せたいんだ。贈り物を受け取った私や――……きっと同じように愛され、導かれているみんなの勇姿を。
『え? ……それがわかっているのなら、呪いを解いてやる? ま、マドカ!』
足下から風が吹き上げてきたの。
思わず目元を両腕で庇う。
「――……っ!?」
次の瞬間、胸の内から何かが溢れてきたの。
メイ先輩とルルコ先輩が注いでくれた霊子だ。
熱くて冷たくて、どちらも愛情の固まり――……二つの霊子が弾けて身体中を破裂させた――……そんな錯覚を抱く。
腰に重さを感じてよろめいた。情けなく尻餅をついちゃった。
ふり返って目にしたのは――……嘘でしょ。
「し、尻尾が生えてる……露骨にイヌ科の尻尾が生えてるんだけどっ」
『あ、あはは……お前には狼がお似合いだって。一応、女の子だから……かの人が当てられた天狗とか醜い鬼にはしないでくれたみたい?』
「……微妙な配慮」
尻尾を振ってみたらぱたぱたと素直に動いてくれた。
鼻を使う。ルルコ先輩の残り香を微かに感じた。身体を起こしてみる。満ちる力の強さはかなりのものだ。
なるほどなあ。
私の身体を激しく動かせるようにしてくれた曖昧な力を、こうして定義づけしてくれたわけか。それなら、まあ、悪くないかな。
神さまがくれた狼の形。神狼を気取るのも悪くない。
『待って……そこ、雪の溶けた水面、覗いてみろ。神狼を気取るなら、まだ足りないって』
「え――……」
言われるまま従ってみて、言葉が出なかった。
「うそ……」
『私の大好きなマドカになったね』
嬉しそうに蕩け声で言う光に返事ができなかった。
くすんで曇った私の印象が、光を放つようにぱっと華やいだものになっていた。
華やかで愛らしいハル、派手で美しすぎるキラリ。あの二人とも違う……。
中学時代のあの一件からどんどん惑い、迷い、陰って曇っていった私の顔はもうそこにはなかった。元々ある面影を、理想的に育てたらこうなるだろうという……そのさらに何段も上を行くような、変化。
ルルコ先輩に近づいたと思ったの。
こんなの、過ぎたご褒美だ。
なんなの? 私を喜ばせて殺す気? なら成功だ。心臓がやばいくらい高鳴っている。
『そんなことない。私の見るマドカは……ずっと、綺麗だった』
「光の方が……綺麗だったよ」
『ううん、マドカの方が――……ふふっ』
「もう、なに?」
『こんな言い合いを……昔みたいにできるのが、嬉しくて。ちょっと泣けてきちゃった』
「――……もう」
呟いて、目尻を拭う。そして笑ってみせた。
「獣耳なんて、生えていなかったと思うけど?」
『チャームポイントが増えたね?』
「そもそも私にそんなかわいげあったっけ?」
『マドカも知らないチャームポイント、私はたくさん言えるよ? それになるほど確かに、マドカはどっちかっていえばイヌタイプ。悪戯好きのってつくけどね』
「――……はいはい」
そうだった。昔はよく……こうして手玉に取られていたっけ。
照れくさくてくすぐったくて、嬉しい。
ほんと……途方もない愛情に溢れすぎた贈り物だ。
感謝してもしたりないからこそ――……そろそろ行かないと。
『補足されないように行く?』
「ううん、むしろ……挑んでいく」
『意外。さっきは逃げたのに』
「逃げたんじゃないの! あれは前向きな後退なの!」
『えー。それを逃げるっていうんじゃないの?』
「違うから! 見ててよ? 今の状態を活かすための時間稼ぎだったって、証明してやるんだから」
『はいはい。それじゃあ、いってみよっか』
「おうとも!」
すう、と息を吸いこんだ。
狼というのなら――……景気づけの一発は決まっている。
「ゥルォオオオオオオ――……!」
吠えていこう。ワイルドに! 前のめりに! 勝利と活躍を求めて――……ううん。違う! 私の愛する道を全力でいくために!
つづく!




