第四百四話
まさかね。リナさんがお作りになる料理が和食だとは予想できなかったわ。
金ごまを振りかけたきんぴらゴボウ、揚げ出し豆腐に大根おろし少々。
うちの冷蔵庫にある唐辛子と豆板醤とお味噌を活用して、白だしを使った鍋は地獄鍋。ようは真っ赤に煮えたぎるあれだ。豆腐と卵、にんにくとニラもたっぷり。
今夜は元気が出そうな料理内容。
予想しているよりもずっと地上の食材に馴染んでいるし、手際もいい。
それこそ、いいとこのお嬢さんにしか見えないわりに、てきぱきと料理をされている。
日頃からやっていらっしゃるに違いないし、それだけとも思えない。
「地上の料理、慣れていらっしゃいます?」
「料理はよくするんです。息が詰まっちゃう時がありますからね……天界や霊界はもちろん、地上の食材や調理品はよく使うんですよ」
「はあ……」
「白だしは便利ですね。大好きなんです」
「私もです……」
あれ。思ったより地獄って、親近感わいても大丈夫なところっぽい?
「冬音は、よく……春灯さんが食べていらっしゃるものを頼んできます」
「……ほう」
なんとか頷く。
なんで地獄で暮らす冬音が知っているんだ?
もしかして、あれか?
「そ、それってあれですか? 地上の映像が見れちゃう的な鏡があったり?」
「鏡ではありませんが、テレビがあります」
……近代的だな、地獄。
「あの子は私たちに隠れて、よく春灯さんのことを見ていたようです」
「なるほど……あ、ちなみに家族になるっていうんだから、春灯でいいですよ」
心情的に複雑だからこそ、敢えて境界線を飛び越えていく。
気にしていたら負けだ。そういうのはご近所付き合いだけでお腹いっぱい。
なので。
「それじゃあ……リナさん、運んじゃいましょうか」
ぬかに漬けておいたキュウリとナスとニンジンを切ったもの、あとは一緒に漬けた長いもと豆腐を出す。今日たっぷり作ったポテサラがあったから、クリームチーズとたくあんを切って混ぜた。私がやったのはそれくらいだ。
リナさんと二人で運んだ時には、旦那が閻魔大王と酒を飲み交わしていた。
日本酒なのにペースが早い。よそっては呑んで、注いでもらって呑んだらお返しを。
うちの旦那だけじゃなく、大王さまも忙しない。
緊張しているのかもしれない。なにやっているんだか。このままじゃ二人とも酔いつぶれてしまいかねない。
「「 ちょっと、ペースを落として! 」」
思わぬところでハモってしまった。
リナさんと目を合わせて笑っちゃった。
お互いにとって、なにが日常なのかわかってしまったから……ほっとする。
「あなた、自己紹介はちゃんとしたの?」
「ん? お、そ、そうだった。すみませんね、どうも」
へこへこ頭を下げてから、うちの旦那がやっと真面目な表情を作る。
「青澄シンタロウです」
「これは、どうも……閻魔大王です。地上ではトシロウと名乗っております」
「……それは、あれですか? もしや、あの時代劇の?」
当て推量にも程がある。まあ……妙に迫力のある顔立ちは似ているかもしれないが。
「用心棒の大ファンでしてな」
旦那と大王が初めて大きな声をあげて笑った。
やっと本当の意味で打ち解けたようだ。
やれやれ。
「さあさ、冷めないうちに食べちゃってください」
促すと二人そろって箸を進め始めた。
旦那に至っては晩ご飯を食べた後にもかかわらず、食が進んでいる。
そんなんだから中年太りが進むのよ、とは言わない。今日くらいは多めにみよう。
お酒を勧められて、受け取る。
四人で談笑しながら、地獄からの来訪者の地上に対する知識をいろいろと伺ったり、地獄について教えてもらいながら時間を過ごす。
鍋の中身がだいたいなくなった頃になって、リナさんが私を見つめて言うの。
「あまり……食が進んでいらっしゃらないようですが」
「ああ、せっかく作っていただいたのにすみません。二人の食べっぷりがいいし、最近はなんだか調子が変なのよね。食が細くていやになっちゃう。娘が鉄火場に挑んだせいかしら」
「普段は私より食べるんですがね。どうもここ一、二週間はだめだよな?」
「言い方」
「……おっと」
「やだわ、ほんと。あははははは」
のんきに笑って答えてからすぐに切り返す。
「それで……今日、いらっしゃった理由についてそろそろお話を聞けますか?」
私の問いかけにトシロウさんは腕を組んで黙り込む。
代わりにリナさんが口を開いた。
「冬音はいろいろと難しいところがあるんです……年相応のこともあまりしたことがなく、少し……身勝手なところがあります」
顎に手をあてる。
私に挨拶をしに来たあの子は気配りのできる素敵な女の子だったけれど。
どうやら一筋縄ではいかない理由がありそうだ。
「何か問題でも?」
「己より弱い者への配慮に欠ける瞬間がありますし、自分の願いのままに暴走するところもあります」
「年相応のようにも聞こえますが」
実際、うちの子は好き放題やっているに違いない。
「ですが……いずれは閻魔になる者。厳しさと同時に寛容さも身に付けてもらいたいのです。そのためには、世俗にもっと触れる必要があると考えます」
旦那と思わず目を合わせた。
「姫を育てるために」
「敢えて民のもとへ修行に出す」
あるある。特に少女マンガで見かける。まあ、その場合、姫は自分の身分を知らないパターンが多いように思うが、まあいい。
ちょっと、いやかなり萌えちゃうシチュエーションだ。
こういう時、下手にオタク同士で結婚しちゃったもんだから、だめだ。
夫婦二人そろってすっかりその気になってしまった。
「本来ならば士道誠心に入学する四月に地上へ出すつもりだったのですが……」
言いよどむリナさんの代わりにトシロウさんは渋い顔でため息を吐いた。
「許しを出して隔離世に送り出してみたその後、部下を労うことを忘れ、配下の者にいさめられてもなお、春灯さんたちの行く末を注視していましてね」
「戦いが終わっても労う気配なく。不満の顔を見せる鬼を、彼らの意図さえ気づかず怒鳴りつける始末……」
ふむ。
「要するに、あれですか? わんぱくなわがままお姫さまに育っちゃった、と?」
私の問いかけに二人は顔を見合わせて、項垂れた。
「面目ない」
「……職務には忠実で、励むので……どうも、叱るに叱れず」
「……夫婦そろって職務がないのは今日くらいでして。しかし、こればかりは……配下の鬼に任せるわけにもいかない」
「私たちの都合で押しかけてしまって申し訳ない」
頭を下げるご夫婦に私たちは全力で「いやいやいや、お気になさらず。家族になるならむしろ、頼ってください」とフォローした。
しかし、なるほどな。
大人に対してきちんと話ができて、仕事もできる。
冬音は真面目だったろうし、職務に対して真剣だったろう。
だからこそ、閻魔の仕事ができるようになったのだろう。
けれど、大人としてリーダーシップを発揮し、部下を携えて働けるほど、身分に応じた仕事ができるわけではない……なにせ、彼女はまだ子供なのだから。
「恥を承知でお頼みする。春灯さんは……健やかに育っている。どうか、入学するまでの一ヶ月半の間に、冬音を導いてやってはくれますまいか」
普通のご家族ならばつっぱねるか、或いは顔をしかめてもおかしくない申し出かもしれない。
けれど冬音はリナさんの娘であると同時に私の娘でもあり、それはリナさんも認めてくれたところだ。
生死は誰の意図が介在する余地なく分かれ、運命は決した。
けれど分かれた線が繋がったのならば……私にやれることをやるだけだ。
「もちろんいいですよ。ね、あなた」
「どんとこいですよ!」
胸を叩く旦那を見ながら思う。
アニメを見せようとしたら止めよう。いきなり昔のアニメをえんえん見せかねない。
春灯はそれでよくても、トウヤは半ばあきらめの境地に達していることを母は見抜いている。布教の仕方が下手なんだから。まったく……。
「大船に乗ったつもりで、とは申しませんが。任せていただけますか?」
そっと提案すると、お二人は立ち上がって頭を下げるの。
「「 よろしく御願いいたします! 」」
「いえいえ、どうか頭をあげてください。何度も言いますが、家族になるんだから、腹を割って……もっと身近にいきましょう。困っているなら助ける。当然のことでしょ?」
私の声に頭を上げた二人は感じ入っているようだった。
「本当に……あなたはいい方だ」
「春灯さんのお母さまであること、実感いたします」
笑っちゃった。
地獄にもうちの娘の勇名が届いているなんてね。
考えれば考えるほど、おかしい。
私の娘、二人ともすごいじゃないか。トウヤにもいい巡り合わせがありますように。さて。
「ご飯も残っていますし、お酒もまだあるので食べちゃいましょう」
「そうそう! さ、母さんものんで」
ふう、と安心しておちょこを差し出した。
ぷんと香ってくるぬか漬けや部屋の匂いに気づいたその瞬間だった。
「――……っ、」
せりあがってきた奇妙な吐き気にあわてて口をおさえて離れる。
あわてて台所に駆け込んで、必死に深呼吸をした。
追いかけてきたリナさんに介抱されて、やっと気持ちが穏やかになって……ぴんときた。
「あ、あの。もしかして」
リナさんの問いかけに、苦笑いしか出なかった。
思い返してみる。
前に来たのは……で、予定日は……過ぎてる。そっか。
「いやあ……タイミングって、重なりますね」
確かに励んでいたけれど。
本当にできるとはおもわなんだ。
既視感しかないから、確信しかない。
「まあ! じゃ、じゃあ、え、えっと、どうしようかしら」
「ああ、いえ。三人目なんで、だいじょうぶです。冬音のこともお預かりしますから」
「で、でも、じゃあ、え?」
本当に焦っているリナさんを見ていると、笑っちゃった。
地獄で、かつては姫で、今は大王の嫁で。
そんなすごい人でも、こういうことには戸惑うのか。
だとしたら、リナさんだけじゃなくトシロウさんもきっと、その精神は私たちとそう変わらないし、冬音にとっても同じに違いない。
「ちょっと……お任せしていいですか? 一応、検査薬は買ってあるので、確かめてきます」
「まあまあまあ! まあ!」
はしゃぐリナさんに頭を下げる。
頭の中で思い描く。冬音を巻き込んじゃおう。
あとは、もし可能ならば春灯もなるべく帰らせよう。
天からの授かり物……それを抱えた瞬間に接するだけで、学ぶことは多いに違いない。
奇しくも来月は三月。休みに入るから帰ってこれるはずだ。
とはいえ……。
「おめでとうございます!」
本当に我がことのように喜んでくれるリナさんには気が早いと言いつつ、思い描く。
サクラさんあたり、弄ってくるんだろうなあ。仲がいいのね、このこの、とか。うちもがんばっちゃおっかなーなんて。
ダシにされるくらいは覚悟しておこう。
ご近所さんにも知られていくんだろうし。
全部予想したうえで、励んでこの結果なのだが。
台所から旦那を見て思う。
暢気に酒なんて飲めなくなるぞ、ばーか。
◆
呼び出したリョータに早めにバレンタインチョコを渡した。
さんざん話して、チョコ味のリップを塗った唇でキスをして送り出す。
真っ赤な顔をして、小さくガッツポーズを取るもじゃもじゃ頭の背中を見送って微笑む。
唇に指を当てて思いを巡らせた。
リョータと遊びに行くことが増えた。土日は二人で散歩デートをする。
私みたいに歩くのが趣味のリョータは嫌な顔をするどころか、街のささやかないいポイントを探しては楽しそうに報告してくれる。
老後のおじいさんかな? と思わなくもないけど、私はこういうペースが好きだ。
なんて話は前にしたっけ? したのなら……今も相変わらずのんびり進んでいるよ、私たちは。
リョータはあんまりがっつかない。まあ、私はその方がいいし、私の願いをリョータは把握しているから、その気があるって言っておいて尚、手を出してこない。
ホワイトデーまでお預け? むしろ……誕生日までお預けかも。
扉をそっと閉めて、ベッドに仰向けに倒れ込む。
「――……はあ」
リップに困る。
我ながら……アリスが持ち込んでユニスとコマチが回し読みしていた少女マンガにあやかってやってみた案なのだが、これは恥ずかしすぎたんじゃないか。
……リョータはすごく喜んでくれたけど。
キスした後はどうしろと?
いや、わかる。私にだって、それくらい、わかる。
チョコがなくなるくらいキスすればいいし、その流れで……っていうくらい、経験のない私にもわかるってば。本当だって。
でもなあ。そこまで前のめりになれない臆病者同士はどうしたらいい?
がんばりました。盛り上がりました。一瞬だけ。その後の対処法を知らない二人は離れました、というオチの後はどうしたらいい。
「リョータのばか。後始末までしていけ、ばーか」
八つ当たりなんて百も承知だ。
戸惑う。
キスしたあとの唇についたチョコを舌で舐め取るのもそれはそれでやらしすぎる気がして。だからってウェットティッシュで拭くのも違う。
もやもやしながら天井を見上げる。
春灯を追いかけて士道誠心に入って、いろんなことに巻き込まれたし、巻き込まれにいった。
その結果は、どうだ。
「あたしという奴は……」
状況が状況だったからって、マドカの激しいコミュニケーションに付き合って、挙げ句……自分からキスまでした。
「あいつが……いざって瞬間にまごつくのが悪いんだ」
むすっとする。
そう、そのせい。全部そのせい。
大事な瞬間に立ち止まるとか、ないだろ。
お前の覚悟はなんだったんだ、と思うじゃないか。
私に踏み込んだ、その決意はなんだったんだって……思うじゃないか。
勢いだけで、ちょっとした好奇心で……そんなの、悔しいじゃんか。
「いやいやいや!」
なに悔しがっているんだ、あたし。
別にいいだろ。あたしには彼氏がいて、心底っていうと……まだ正直照れまくるから無理だけど、でもリョータが好きなんだ。その気持ちにかわりは無い。
キスして実感した。こいつがいいなあって。
なのに……なのに。
彼氏がいながらくっついたルルコ先輩とメイ先輩みたいに、こんな。あたしが。
『キラリと私の星なんだね』
なぜか、春灯の蕩けるような笑顔が頭に浮かんできた。
まるで、あいつをそういう風に意識しているみたいに。
『そんな顔したら、だめだよ。奪われちゃうよ……』
次いでマドカのぞっとするような色気に満ちた瞳が浮かんでくる。
否応なく身体の熱があがったの。
「ちがうちがうちがうちがう! ちがうったら! くそ……こんなのないだろ。ああああああ、もおおおおお! いった!?」
ごろごろ転がっていたら壁に思い切り頭をぶつけた。
「うう……」
目に涙を浮かべて震える。ばかか。春灯みたいなことやって。
はあ……お風呂いこ。大浴場で、湯船に流してしまおう。
そうすれば――……
「いやいやいや!」
マドカがいたらどうする。いま、あいつと会うのはまずい。
どうもまずすぎる。今日は、まずい。そう思っていたのに。
呼び鈴が鳴ってすぐ、
「キラリー、十組の子とまだいってないなら、お風呂いこー」
のほほんとした声で当のマドカが声を掛けてきたのは、なんの罰なんだ。
どうする。居留守を使うか?
「ちょっとー。居留守とかやめてよー。聞こえてるよ-? なにがしたいのか、私には筒抜けなんだから」
「くっそ! 便利な能力もちやがって!」
枕に尻尾を何発も叩き込んでから、しぶしぶ着替えをバスタオルでくるんで、お風呂セットと一緒に持参して出る。
マドカがいた。一人でにやにやと私を見つめてきた。
「……おや? おやおやあ? 盛りの気配がしますね」
「やめろ。にやにやするな」
「チョコのリップ-。ふううううん? なるほどなあ?」
「にじりよるな!」
「そうかそうか。そろそろバレンタインだね。手作りあげたのー?」
「顔を近づけるな!」
「はいはい。詳しくはお風呂で聞くから。いこ」
「腕を掴むな、引っ張るな-!」
ぐいぐい連行されながら、つい考えた。そしてすかさずマドカが言う。
「安心してよ。ばっちり洗ってあげるから!」
「期待してないー!」
「うそばっかり。私に嘘は通じないのだー!」
「くっ、だ、だれか早くこいつをなんとかしてくれ!」
悲鳴をあげる私を連れていくマドカを、すれ違う生徒が不思議そうに見てくるけど。
誰も助けてくれない。
「そりゃあそうだよー。私とキラリ仲良しだもん。見るからに!」
「くっ」
突っ込んだら負けな発言しやがって!
違うとも言えないし、そうだと率先して認めてもいけないよ!
「今日はキラリとめいっぱいお風呂入るぞ-!」
わくわくしてる……!
内心で震え上がる私に対処する術はないのだった――……。
◆
警察に運ばれていく御珠をよそに、緋迎シュウに話しかけられてグループメンバーについて「スタッフや私、それに士道誠心の静とと一緒で、隔離世に来れるほど夢に一途なんです」とごまかし抜いて、打ち上げも済ませてヒルズに戻った。
全身に満ちた疲労は色濃く、けれど心地いいものだった。
だからこそ、眠りはせずに誘われるように隔離世へ――……士道誠心の特別体育館にある神社へと降り立った。
御珠からふわりと浮かび上がってくる――……愛しい少女の霊魂に手を伸ばす。
繋げる限り――……ううん、伸ばせる意思と手がある限り、私たちはひとりぼっちじゃない。
けれど触れる勇気が出ない。
「――……もう、こっちに戻ってくる気はないの?」
囁いた。輪廻転生――……生まれ変わりを選ぶのなら、彼女はいつでも現世に戻ってこれる。
彼女は微笑んだ。何も語りはしない。
死人に口なし――……死者の中でもその精神を貫く者は多い。誰もが蘇ることを希望するわけではない。一度の生に満足する者もまた存在する。
「……まさか、あなたはただの私の願望で、青澄春灯があなたの生まれ変わりだったり?」
彼女の笑顔は変わらない。頷かないし、否定もしない。
深呼吸をして、頭を振った。
それでも込み上がってきた気持ちのまま、あと僅かな距離だけ手を伸ばして重ねた。
その瞬間、光の粒に溶けて消えていく。私の夢が、消えていく――……。
「……そうよね」
もう彼女の姿はそこにはなかった。
今見た姿は、ただの夢でしかないのかも。
けれど彼女が残した御珠は確かにそこにある。
彼女の残滓は大勢に夢に繋がる可能性を与え、御霊を与え続けている。
士道誠心に御珠は二つあるという。
青澄春灯はどちらの御珠から刀を手に入れたのだろう?
神社の御珠からならいいのに、と意味もなく思った。
笑う。
「ぼくは心にきみを抱くの。そのとききっと、はじめてひとり……」
そうか。私はひとりぼっちなんだ。もう……とっくの昔に。
たまらなくなった。心が砕けて張り裂けそうだった。
涙が浮かんで止まらなかった。
そう――……私はもう、とっくにひとりぼっちだった。
背中がざわついて、私の影を通って心結が出てきた。
「お姉さま、帰りが遅いので――……お姉さま?」
ふり返る私を見て、心結が迷わず私を抱き締めた。
垂れ下がる手を繋いで、力一杯。
「……私がいます。あなたのそばに……いつまでもおりますから」
聡い子だ。私のことばかり見つめているから、私のことならなんでもわかってしまうに違いない。
「きみがいる。てをつなげる。きみが笑っている姿を見られる」
歌ってみると、実感する。
「きみを見つめる限り、手を繋げる限り、ボクはもうひとりじゃない」
これは……私の歌だ。間違いなく、私たちの歌だった。
――……私にはもう、手を繋げる人がいる。
だからもう、ひとりぼっちじゃない。
「心結……」
囁いて、空いている手を頬に添えた。
口づけた。影に沈んで――……住処へ戻る。
夢中で脱がせる。それだけじゃ足りない。
抱かずにはいられない。心結も同じように私を求める。
ベッドで乱れる。
いつまでも、いつまでも。
「好き」
それがきっと……笑顔に繋がる魔法であり。
「ひどいひと……でも、あなたを思い続けます」
囁く彼女が捧げてくれる気持ちこそ、孤独な吸血鬼を癒やす薬に違いない――……。
◆
寒気を感じて目を開けた。
コナちゃん先輩に寝かせてもらって、目覚めたら私は掛け布団と毛布を豪快に蹴っていた。
「へ、へ、へくち!」
くしゃみをして身震いをする。
自分の身体を抱けるくらいには体力が戻っていたの。
部屋は真っ暗。コナちゃん先輩もラビ先輩もいない。
カナタの寝息が聞こえる。
重たいけれど動かせる身体で、ベッドにもぐりこんだ。
カナタの腕を動かして、ひっつく。
胸一杯に息を吸いこんだ。すごくすごく……落ち着く。嗅ぎ慣れた匂い。カナタの匂い。
横顔を見た。疲れ切っているんだと思う。珍しく口を開けて寝ていたの。
指を伸ばしてそっと閉じてみる。
息苦しくて開けたりするんだろうか。
どきどきしながら見ていたら、普通に鼻呼吸に移行したの。
思い返してみても、カナタがいびきを掻いているところを目撃したことがない。
カップルとか新婚さんの悩みにはありそうじゃない? 連れのいびき。
徹夜で頑張ったのに、静か。
むしろ心配になるレベル。すかーすかー、じゃなくて、ぐがーぐがーいってもいいのよ。まあ私、人一倍どころか何倍も耳がいいですけど。耳栓をして寝るくらいの器用さはあるよ。
……いや。本気のいびきはそれくらいじゃ防げないんだった。お酒に酔っ払ったお父さんのいびきはそうとうひどいので、身に染みてるよ。なのに一緒に眠れているお母さんはタフすぎる。
でも、まあ……カナタのいびきならいいけど。
私の王子さまはまだ、いびきをかかないようですよ。
「――……」
気持ちよさそうに寝ているなあ。
今夜はわりと期待していたけど、さすがに我慢するしかないようです。
あまあまはお預け。
まあ……これはこれであまあまなのかもしれないね。
「ん……」
むずがるように鼻を動かして、それから寝返りを打って私を抱き締めた。
寝ているから力加減はいつもより強めに、ぎゅっと。
カナタの口元が嬉しそうに緩む。
内心で身構えた。
あれだ。こういう時、別の女の子の名前とかが出るんだ。お母さんが見るドラマだと。
でも、
「はる……」
さすがにカナタは違うね。高校生だし。さすがにないね。それは。
ぎゅうぎゅう抱いて、手が動く。珍しく大胆。寝ているからこそ大胆?
「……もち」
お尻に手が当たってからの、その発言に頭の中に単語が浮かんだ。
審議!
私のお尻、そんなにもちもちしてる?
鍛えてるんだよ?
そりゃあ人よりおっきめだけど、少しは締まったはず。
そのはずなのですが。
さわさわ。さわさわ。
「……もち」
まだいうか。
いやまて。考え方を変えるんだ。
揉んでいないのにもちって言うなら、これは勘違いなのでは?
そ、そうだよ。そうだとも。もちもちしてないよ。私のお尻。
「……もち?」
あ、疑問系になった。
起きているカナタなら絶対にしないであろう手つき。ぎゅ、ぎゅ、と掴まれる。
……落ち着かないね。めちゃめちゃ落ち着かないね。
「……もち」
悲しそうに呟かれた。
私はいったいどうしたら。これはもう、葉っぱを鏡餅とかに変えて持たせるしかない?
悩んでいたら、不意にカナタが咳き込んで目を開けた。
「……あれ」
ぽやっとした顔で周囲をきょろきょろ見渡して、片手で目元をごしごし擦ってから私に視線を向けてくる。
「おはよう……」
「ん、おはよう」
まだ夜だけど、言うまい。
「……月の上でラビがお前の姿をしたモチをたくさん持ってくる夢を見たんだ」
「ほう」
「あーんっていうんだ……」
「……ほう」
ひどいことする人がいたもんだ。
いや、あの人の場合は兎か。
餅つき兎がわさわざ私の姿のモチをつくのか。
じゃあお尻モチ発言はラビ先輩のせいだな。
ひどい責任転嫁の無茶ぶりだけど、そう思っておこう……なんて。ごめんなさい。
「うまかった」
「食べたの?」
「……おなかすいてた」
ぽやっとしているカナタがいつになく子供っぽいので笑っちゃった。
何か言おうと思ったら、私とカナタのお腹がぐうって鳴ったの。
「……まだ、すいてる」
「みたいだね」
笑って頷いたの。
「起きれる?」
「……ちょっと……まて」
ぽやっとした顔で呟いて、額に手を当てた。
深呼吸をしてすぐに、いつものきりっとした顔になった。目元にはクマが見えるけど。
「少しだけ、しゃきっとした……身体は重いが、何か腹にいれないときつい」
「ん」
身体を苦労して起こすカナタを手伝って、二人で起き出す。
パジャマ姿で手を繋いで、寮内の売店に行ったの。
学食は閉まっていたから、おにぎりとカップ麺を買って、お湯を注いでお部屋に戻った。
カナタはたぬきそば。私はきつねうどん。緑と赤だ。
二人でテーブルを挟んでもそもそ食べる。
不思議と会話がなかった。ちっとも苦じゃないけど、浮かんでくるのは……コナタのこと。
食べ終わって一息吐いてから、まずカナタが言ったよ。
「……今回の事件、いろいろと考えさせられたな。邪との付き合い方は、特に」
「倒すだけが邪討伐じゃないかもね」
「そうだな。斬らねば危うい邪が多いのは事実だと思う。けど……すべて斬らなきゃならないわけじゃないのかもしれない」
テーブルに置いてあるペットボトルを口に運んで、一気に飲み干してから長い息を吐いた。
カナタの視線は遠い。
「もし、邪を……あるべき願いに導けたら、なんて。それは人の傲慢なのかもしれないが」
首を傾げた。
「誰かの欲望を導くなんて……おこがましい?」
「基本的には。近しい仲でも、やるべきかどうか」
「……ん」
違うなんて言えない。
……私色に染めるんじゃない。そんなこと、するべきじゃない。
だって、私が誰かを染めたら、その誰かは……その人自身でいる必然性が、どんどん薄れていく。私の望むように染めるほど、その人自身の個性や願いが私に変わっちゃう。
そうじゃない。
あくまで……照らすだけ。私にできるのは、そこまで。
そういう意味でいくと。
「それでも立ち向かってくるなら、その分だけ何かできるかもしれないよ? カナタみたいに」
「――……俺はコナタに、何ができたんだろうな」
俯くカナタの悩みを聞いて納得した。
そっか。わからないからもやもやしているんだ。
「できたよ、きっと。コナタが祭りを楽しめるようになったのは、カナタがいたからだと思う」
「……あいつがそう望んだからだ。俺はそばにいることしかできなかった」
じぃんときちゃった。
「そばにいてくれた……それでいいんだよ」
言ってみて、実感した。
「歌っていて、ずっと見ていた。コナタ、何度もカナタに話しかけて……幸せそうだった」
あの子の笑顔を忘れない。
「だから……カナタはきっと、すごくたくさんのものを……渡せたと思うの」
「……だといいな」
呟いて、カナタはそれっきり黙り込んじゃった。
私も私で言葉が出てこない。
どんなに満たされても、結末に思いを馳せても……あの子は今はもう、いない。
どこかにいるお母さんの中に宿る新しい命になったとキラリは言った。
だから……もう、ここにはいない。
沈黙の中を泳ぐ私の耳に、スマホの着信音が鳴り響いた。
手を伸ばして取る。お母さんから電話だって。なんだろうね?
「もしもし?」
『ああ、春灯。えっと……いろいろ言うことがあるんだけど』
なんだろう、改まって。お父さんとケンカしたとか?
『……できたみたい』
「へ?」
『検査薬でね。結果が出て。産婦人科いって調べてからにしようって言ったんだけど、お父さんが言わなきゃだめだって言うのよね。酔っていてうるさいから、もう根負けしちゃった』
固まった。
「……え。待って。え? できたって、何が」
『あんたの下の子』
「……はあ!?」
思わず立ち上がった。
「ちょ、まって。え? 確かに励むって聞いたけど! え、ほんとに!?」
『そりゃね。生でやってりゃ、問題ない限りはいずれできるわよ』
「――……わお」
呟いて、眩暈がした。
まさか、とは……思うのですが。
もし、運命の巡り合わせがあるのなら。
「そ、それって……じゃあ。本当に? 赤ん坊、くる?」
『順調にいけばね……喜ぶ?』
照れくさそうな声に息を吸いこんだ。
泣きそうだった。ああ、ああ! そっか!
「当然だよ!」
『じゃあ、休みはなるべく帰ってきて。うちの手助けしてくれない?』
「あっ、えっと、仕事のない日なら!」
『そうだった……それがあった……』
いきなりテンションダウン! 待って!
「なっ、なんとか家に行くようにするから! ぜったい! うわ、うわ、すごい! お母さん凄い! もってる! 閻魔姫と妖狐とできすぎる弟を産む母、さすが! よっ、日本一!」
『なんの話よ』
「な、なんでもないから! む、無理しないで寝て!? お腹の子になんかあったらやだし!」
『急に心配までして……なんか気持ち悪いわね』
「いいから!」
『はいはい。じゃあ……明日、検査してもらうから。結果が出たら知らせるね……うちに帰ったら、他にもサプライズあるから。すっごいのが』
「他にもサプライズ? なんだろ……トウヤがコバトちゃんと付き合ってるとか?」
『そっちはまだまだかな。中学は二人とも士道誠心に行こうって約束してるみたいだけど』
おー。二人とも将来に向けて前のめり!
『まあ、そういうわけだ。じゃあね……今日はお疲れ様』
ぷち、と切れた。
じっと見つめてくるカナタに視線を向けた。
「あの、あのね?」
「……ああ」
身構えているの。
ようし。彼氏に報告しようかな。
きっと――……あの子にまた会えるに違いないよって。
笑顔で! 魔法のような奇跡を伝えるんだ!
つづく!




