第三百九十六話
胸元のくすぐったさに目を開くと、シオリが顔を胸に埋めていた。
ぼうっとした頭でスマホを手に取る。
ラビやユリアから警察にいる緋迎シュウとのやりとりがメッセージで飛んできていた。
『星蘭、牡丹谷タカオをはじめとする戦力でなるべく進路を妨害している』
『ただし緋迎シュウをはじめとする零番隊も加わっての作戦は、人があまりいない経路に誘導するのが限界』
『タイムリミットは明後日。予定通り、ライブの日になる見込み』
胸一杯に息を吸いこむと、シオリが幸せそうな寝息を立てた。
しがみつかれている。
長く息を吐き出しながらスマホを置いて、シオリの頭を抱き締めた。
シオリの部屋に滞在する時間が増えた。ラビか、シオリ。どちらも最近はあまり文句を言わない。
その代わりに……貪欲に求められるようになって久しい。
二人そろって、最初はぎこちなかったけど回を重ねるごとに腕を磨いてきている。いやに上達の速度が速いと素人目に感じるのだ。
いけない。
ただの爛れた生活になっているような気がする。このままじゃよくないと思うんだけど……相談できそうな人と言えば、たった一人しかいない。
真中メイ。ルルコ先輩の肌つやを見ればわかる。メイ先輩も一線を越えたはず。それも一回や二回じゃきかない。何せルルコ先輩の肌つやはあまりにも素直だから。
シオリもそうだ。分厚い眼鏡と野暮ったい髪型で隠しているけれど、シオリはルルコ先輩が可愛がる後輩の一人。
ルルコ先輩、迷う余地も疑う余地もなく、面食いだからな。シオリは当然、素材は輝いている。けどそれを表に出すことを嫌うから、ルルコ先輩も無理して磨こうとしない。
よってルルコ先輩に弄られるのはもっぱら一年生の三人組だ。特にあの子や天使の見ていないところで、山吹はそうとう弄られているようだ。ご愁傷様である。
「こなあ」
「はいはい」
囁いて、頭を撫でた。
素肌の感触にもずいぶん慣れてきた。
思春期だから……経験値が少ないから? 私にはまだ答えがわからない。
ここまで踏み込むべきなのかどうか。
けれどシオリの刀はルルコ先輩のように煌めきを日ごとに増している。
現世で玉鋼などを集めて打つ刀と違って、隔離世に関わる侍たちの刀は心でできている。
持ち主の心模様が露骨にあらわれる。
たとえば隔離世で私たち刀鍛冶が、それこそフィクションの素材なんかを集めて打った刀では……彼女たちの心に敵わない。所詮、絵空事の塊は地に足を付けて生きる人間の心には敵わず、現世で魂を込めて打たれた刀と違って現世で何かを斬ることもできない。
どこまでいっても、心。
甘えも妄想も入る余地のない塊。
だから……私たちは侍候補生の心を鍛え、守り抜く義務がある。
とはいえ……。
「えへへ……」
胸の谷間に頬ずりをするシオリを見ていると、半目になる。
もう一度スマホを出して確認する。ラビから変なメッセージはなし。
どうも……怪しい。シオリはラビを敵視していたし、ラビもシオリを構う私に拗ねていたはずなのに。
ここ最近の二人といったら、それぞれの部屋で甘い言葉を囁いて、で……なんだかんだで甘えてくるだけ。あの手この手を使って私を口説いて、でもって二人ともやることは最終的には一緒。
爛れてる。やっぱり爛れてる。
大一番を前に懸念事項はなるべく取り去っておこう。
「よし」
メイ先輩にメッセージを送ろう。まずはそこからだ。
◆
スマホが振動して、メイがうなり声をあげながら身じろぎする。
素肌が擦れて心地いい。それを求めてメイに抱きついたら、頬に口づけられた。
「あとで」
「やだあ」
「だあめ」
囁かれて押しとどめられた。
むすっと頬を膨らませてメイの手元を見ると、スマホをにらめっこしているの。
メイの顔の横に近づいて覗き込む。
『ラビとシオリが最近すこし変なんです。っていうか……二人と関係をもつ現状に戸惑っていて……メイ先輩ならどうしますか?』
「……うわ」
特大級の地雷だよ。メイにとってはどうかわからないけど、私にとっては超特大だよ。
羽村くんは笑顔で許してくれる反面、
「メイ先輩以外だったら俺……さすがに許しませんよ」
なんて言うの。はあ……まあもちろん、私にとってメイと羽村くん以外はあり得ないんだけど。メイはどうなんだろう。暁先輩と話し合っての結論なんだろうか。
考えてみると会社の討伐任務でたまに会っているし、休みは二人でデートしているみたいだし。あの先輩、妙に勘が鋭いところがあるうえにメイは隠し事とても下手だから見抜かれていないはずもなく。
「め、メイは……暁先輩と、どう話してるの?」
「むしろルルコとできてない方が不安だって」
待って。歓迎されてるのはぎりぎり嬉しいけれども。
「……どういう意味なの?」
「ま。うちの学年の連中も、下の子たちも特に疑問を感じてない時点でお察しだ」
「ルルコたち、ベストカップル?」
「前向きか」
頭をこつんとぶつけられた。
「まあでも……ミツハも相変わらずだしなあ。爛れてるっちゃあ、爛れてるのかも」
「――……ん?」
「ああ、いや、なんでもない。こっちの話」
流そうとしたメイの顎を取って、くいっとこちらに向けさせる。
「ミツハがなんて? 何かあるの?」
「目。目が怖い」
「メ~イ~?」
「いやあほら。あいつ、中身がオヤジだからさ。乳が好きじゃない? よくチャージするとかいって抱きついたりするでしょ?」
「――……ああ」
メイもやられてるのか。ちなみに私は最近になってよく背中から鷲掴みにされることがある。
聞いたことはないけど、この流れならサユも被害にあっているはずだ。
一言も聞いたことないけど。
「メイのちっちゃくて可愛いのはルルコが大きく育てるもん」
「おいこらケンカ売ってるのか」
「だってまだ暁先輩とキスより先にはいってないんでしょー?」
「……まあ」
「別に変に時間かけなきゃいけない云々って考えてるわけでもないでしょ?」
「そうなんだけど! ……タイミングって、あるじゃない?」
「チャンスと一緒で、待つものじゃなくて作るものだよ」
「……そういうルルコは羽村くんとどうなわけ?」
「まあ……まあまあ?」
「なにそれ」
むすっとするメイの腕を抱き寄せる。
「羽村くんはゆるやかペースなの。あと……ルルコとそういう関係になったら、自制できる自信がないとかいうの」
でれでれしながら言うと、メイは呆れた顔をする。
「まあ……確かに気持ちいい身体してるよ、ルルコは」
「身体だけ?」
「なんのアピール? ……そういうのは後。コナちゃんの相談に乗ってあげないと」
振られちゃった。
仰向けになってスマホをいじるメイの身体に抱きついて、心臓の上に手を置く。
鼓動を確かめる。生きているんだって実感する、その音に触れている瞬間が好き。
耳を重ねて深呼吸してから囁く。
「なんて送るの?」
「本人同士がどう納得するか。私たちはそれで成り立ってる。外野の声なんて関係ないし、余計なお世話なだけ。大事なのは……コナちゃんがどう納得するかじゃない? って送る」
「世間のみなさまを敵に回しそうです」
「じゃあ、やめる?」
「……やだ」
「それが答えでいいんじゃないってこと」
よし、と囁いてメイがスマホを置いた。私の背中に腕を回して引き寄せてきた。
腰上に跨がって、顔を寄せる。
見つめ合い、触れ合う。
メイの太陽に溶かされて潤う私の心を、さらに熱く焦がす――……その指を求めて、囁く。
「まだまだ……時間はいっぱいあるよね」
「朝までぶっ通しとかいわないでよ? 少しくらいは寝たいんだから」
「はあい」
残念だけど、でもいい。
いまは浸っていたい――……。
◆
返事に深呼吸をして、寝返りを打ったシオリに布団を掛けて離れる。
下着を身につけて、見苦しくないよう体操服に着替える。
髪をさっと直して、顔のチェックをしてから大浴場へ向かった。
入り口に入ろうというまさにそのタイミングで、男子の入り口からラビが出てきたの。
いつもすべての事件は手のひらの上、という顔をするラビにしては、すごく珍しく本気で驚いた顔をして私を見ていた。
「奇遇だね」
「……そうね」
思わず睨む。私のように体操服姿で、垂れ下がる兎の耳は妙に可愛らしくて。
なんだか無性に腹が立って、耳を摘まんだ。
「いたたたたた! ど、どうしたんだい?」
「……ねえ、ラビ。最近、シオリが大人しいんだけど。あなた、何か変なことしてない?」
「え、と……なんのことかな」
視線が泳いだ。
確信する。間違いなく、隠し事をしている。
「二人ともケンカが露骨に減ったし……違和感があるのよ」
「さあ。そう言われてもね」
「……私に隠れて何かしているんなら、これくらいじゃ済まさないわよ?」
「いたたたた! こ、コナちゃん、暴力はよくないよ! 暴力は!」
「白状しなさい」
「ええ? いや……だから、ほんと、なんでもないって。少なくとも、コナちゃんに迷惑を掛けるようなことはしていない」
「化けの皮が剥がれてきたわね。私には迷惑を掛けないって、どういうことかしら?」
「耳が! 耳がもげる!」
「らーびー? 別に私は、あなたの部屋に行くのを一ヵ月我慢するくらいわけないのよ?」
「卑怯だよ!」
「わかったら隠し事しない! ほら、白状しなさいよ」
耳を離すと、ラビは摘ままれた箇所を指先で撫でながら周囲を見渡した。
「誰もいないから、じゃあ……まあ、話すけど。シオリと共有することにしたんだ」
「……共有? なにを」
「コナちゃんのこと。たとえば好みとか、なにをしたらどういう風に喜んでもらえるかとか……部屋のフレグランスはどういうのがお気に入りか、とか」
いちいち視線を逸らすラビを見て……嫌な予感がした。
「……ねえ、ラビ? もしかして……もしかしたらと思うんだけど」
顔を強ばらせるラビの首根っこを迷わず掴む。
「夜のことはプライベートの極致じゃない? まさか……たとえ繋がりがそれぞれに伝わっているからって……話してないわよね?」
「あ、あはは……あははは……」
「なるほどねえ……風呂は取りやめ。きなさい」
「ちょ、待って!」
「問答無用!」
ぐいぐい引きずってシオリの部屋に戻る。
すやすや寝ているシオリをたたき起こして、服を着させてからラビに部屋に入らせて、私はハリセンを出した。
「正座」
「え」「……はい」
「正座!」
「う、うん。朝から、なに?」
シオリがぽやっとした顔で正座をする横で、ラビが青ざめた顔で正座をしている。
「ねえシオリ。教えてくれる? なんで最近、ラビと仲いいの?」
「なんでって……あ」
ラビの顔色の悪さに気づいて、シオリがやばいという顔をした。
「べ、べつに後ろ暗いことはしてないよ。ただお互いコナが好きなら、コナの話をよくして和解しただけで」
「その話にはいったいどんな内容が含まれるのかしら?」
「――……えっとう」
シオリが俯いて、ぶるぶる震える。
「た、ただお互いに好きな人が同じだから、その話題で盛り上がったというか」
ラビが慌ててフォローに入る。それにつられて、
「そ、そうそう! どっちがどう喜ばせられるか、いろいろ話しているうちに」
「シオリ!」
「あっ、えっ、あっ」
あわてるシオリを見て、だいたい想像がついてしまった。
「……つまり、売り言葉に買い言葉で……私のそういう話を山ほどした、と?」
「……ボクがしないこと、ラビはしてるし」
「その逆もまた然りで……新鮮だったというか」
目元を手で覆う。
「どうせならコナに喜んで欲しくて……勉強になるなって気づいちゃうと」
「……お互いにいろいろ意見を出し合ったり、調べて頑張っちゃっていた、というか」
「もういい。わかった。わかったから、これ以上頭痛がするような情報を並べないで」
顔から火が出る思いだった。
そりゃあ、まあ。二人揃って、すごくいいなあとは思っていました。
そういうことにももちろん技術や心構えが必要で、私はその点まったくの素人だという実感がありました。
だからって、こんな……恥ずかしすぎる情報を熱心に意見交換されて研究されていると知ってしまうと、どうすればいいんだ。いや、ほんと。どうすればいいんだ。
まだお風呂場でたまにきく猥談くらいで留まっていてくれたらいいのに。下手に真面目で研究熱心な二人が、二人して好きな者を相手に真剣になると……ろくでもない結果に繋がっている。
まあ。そりゃあ。いいけど。いいけども。そういうことじゃない。
「一つだけ言わせて」
ハリセンを握りしめる私に二人が恐れおののく。
まあね。何度だって恥ずかしさに任せて頭を叩いてやりたい気持ちでいっぱいだけれども。
「あなたたち、本当はびっくりするほど仲がいいでしょ」
自分たちの行いだってすごくプライベートな内容に違いないのに、惜しげもなく話せるくらいには仲がいいのだ。
……まったく。一時期は衝突ばかりしていたから不安でならなかったけど。その心配はいらないみたいだ。それはいいのだが。
「シオリ。彼氏つくるんじゃないの?」
「んー……そういう可能性もいいなって思う時はあるけどさ。コナもいざっていう時はラビをまず選ぶってわかっているし……」
ざっくばらんに微妙な話題を話せるくらいには、もうお互いに落ち着いているのだ。
いい傾向だとは思う。シオリはどうしてもどこか私に依存していたところがあるから。
でもそれがなくなって、自立しようとしているのなら……願ってもない。
むしろ爛れた今の関係をどうするべきか悩むタイミングが来たと言える。
「でも、それはそれとして、やっとコナと好きにいちゃつける今は特別で、やめる気ないかなー。ラビもラビで、ボクの技術は捨てがたいって思ってるみたいだし」
ラビを睨んだら、白ウサギは迷わず両手を掲げた。
「いや、あの……痛感するよね。男には限界があるって」
「ほんと……私たちは私たちしか行かない道を進んでいるわね。それにしたって……ラビ、ちょっと情けないんじゃない?」
「面目次第もございません」
はあ、とため息を吐く。
恥ずかしさのやり場に困る。
ハリセンを振り下ろしたいけど、その先が見つからない。
なんだかもう、キャパオーバーだ。
ベッドに腰掛けて尋ねる。
「……ちなみに、なんて話してたの?」
二人は顔を見合わせて言った。
「電気を消してという時の顔がいいよね、とか」
「キスは最初は触れる程度で、だけど徐々に長めが割とお気に入りだよね、とか」
「いい、ごめん。私が悪かった。もうやめて」
人は失敗を重ねながら成長していくという。
今回の失敗を前にどう私は成長すればいいのだろうか。
「ちょっと……考えたいから、しばらくユリアの部屋に泊まる」
「「 えええ!? 」」
「つべこべいわないの!」
「コナちゃんが気持ちよくて、僕らも納得しているんだからよくない?」「そもそもコナのことをそこまで知っていて、お許しもらっているのはボクら二人なわけで」
手で目元を覆った。
どうすればいいんだ。倫理やありがちな関係を越えた時、人は参考にするべき形態を見失う。
三角関係のようで、そうじゃない。
シオリは理解している。私がまず誰を選ぶのか。当の本人はぱっと見の完璧さが霞むほど、いろいろと情けないところが目立つ残念な男だけど。私はラビを選んでいる。
でもシオリのことを理解して、いまは必要だからと思って関係を結んだ。
急に終わらせても、一度許した時に求めた理想はまだ叶っていないから……無駄になる。
私がどうしたいか、どう納得したいのか……か。メイ先輩に聞いておいてよかった。
「……そりゃあ。夜のことだって誰かに相談したいでしょうし、考えるだけじゃなく話したりすることもあるでしょうし」
大浴場で猥談を聞かされることのある身として、それ自体は否定しない。
おそらくは経験が早く中学、高校でしようと、それ以降でしようとも、誰かと話す人は話すだろう。話さない人は話さないだけで。どっちがどうとかいう話じゃないし、是非も問わない。
「二人にとってはそうじゃないけど、私にとって悲劇だったのは二人にとっての対象が私一人、同じ人間だったということで」
おかげで恥ずかしい話、駄々流しである。
悔しいのは、まあ……気づいていない頃の私は満たされていたという事実だけど。
絶対教えてやらない。少なくとも今は無理。
「だから、まあ怒らない」
ぱああ、と露骨に顔が輝く二人にすかさずハリセンを突きつける。
「でも。普通、めちゃめちゃ恥ずかしいから! そういう、あれな、反応とかいろいろ言われるの! それについては平等に怒ってます!」
天国から地獄へ突き落とされたような顔をするな!
「シオリ!」
「は、はい!」
「一生いまのままで生活したいの? そりゃあ学生寮にいる内は今日みたいに泊まりに来たりできるけど。ルームシェアする予定も、その後の人生設計も、無邪気にこのままずっと、とはいかないのよ?」
「う……」
「ラビも」
「僕もかい?」
「シオリとの関係、気づいているなら自分の付き合い方に活かしちゃえって発想、どうかと思うわよ」
「そ、それは……シオリだからであって」
「……わかっているけど。これじゃあ私たち、それこそ三人で付き合っているみたいなノリじゃない」
ラビとシオリが顔を見合わせた。
「いや。なるほど、みたいな反応しないでよ。青年漫画のただれた恋愛物じゃあるまいし、私は嫌だからね。私の真意としては、シオリが元気になるために必要だと思って続けているのであって、割と清水の舞台から飛び降りるような思いで行動していて。ラビに嫌われたらああもうしょうがないなあと思いながら、それでもシオリは放っておけないし、とはいえラビも大事にしたくてしょうがなくて――」
「まあまあ」「そういわずに」
立ち上がった二人が私の両脇に腰掛けてきた。
「ちょ、な、なにをする気?」
「コナって耳が弱いよねって話していて」「結構甘い台詞が好きだったりするよねっていうのが共通見解で」
耳元に二人の唇が寄る。逃げようとしても腕をしっかり取られて、おまけに足の間に二人が割り入れてきた。
「まあボクも……今のまま永遠に続けられるとは思っていないけど」
「シオリに何かしらの運命が訪れるまでは……もう少しだけ浸っていようよ」
唇が二人分、耳元に寄せられる。
「ち、ちがう、こういうのは、こういうのは――!」
絶対に屈しない、と二人を睨んだけれど。
私の決意が一瞬で屈服したのは、或いは約束された結末に違いない。
結局、シオリと離れる決断を自分からできず、二人を求めているのは――……私なのだから。
怒れないな。情けない。結局は……納得しちゃっているのかもしれない。
メイ先輩やルルコ先輩、ことによってはラビとシオリに対して、私に足りないのは開き直りなのかも。
でも。だからといって。
二人に本気で攻められたら、太刀打ちできない現状は……やっぱり、ちょっと問題だ。
◆
神楽坂に借りて一ヵ月になるマンションに帰る。
出迎えてくれた女性にコートを渡した。
「シュウさん、お疲れ様です」
「すみません。部屋の掃除を御願いして、なのに急に出動してしまって」
「夜は読書以外にやることがないので、ちょうどいいです」
微笑みながらコートの皺を伸ばして掛けてくれる女性の後ろ姿を見る。
カグヤ。華奢な背中を見て、周囲を見渡した。
ダンボールは既に姿を消していた。台所を覗けば母がカグヤさんと選んだ調理器具が並んでいる。家具も同様だ。
結納は済ませた。彼女は京都の出身で、ご両親にも挨拶をさせてもらった。品のいい和食料理屋の次女のカグヤさんは、とてもしっかりしていて……同棲するくらいならば、いっそ、と私を押しても来た。
あとは籍を入れて式を挙げるだけ。まとまる時は案外すんなりいくのだな、と実感した。
「何かお召し上がりになりますか?」
「ああ……その。自分でやりますから。カグヤさんこそ、ご飯は?」
「まだなので……じゃあ、一緒に作りましょうか」
はにかんで微笑む彼女に頷いて、台所に立つ。
母からはきつく言われている。求めるな。与えろ。しかし干渉しすぎるな。褒めるのが大事。
憂鬱になる。二十代も前半を過ぎて、仕事に勤しんで……他人と家族になる訓練をする。
壁を乗り越えるのは自分だけじゃなく、そばにいる人も同じ。
だが、二人から家族になるまえに恋人という段階があって、夫婦という段階も忘れてはならず。落ち着かない。
包丁を手に、カグヤさんが買ってきたという魚をさばいていたら、視線を感じた。
「……なにか?」
「いえ、頼もしいなあと思いまして。野菜やお肉はできるのですが、魚はどうも苦手です」
「まあ……生物の授業の解剖めいたところがありますね」
「肉もそういう過程を加工の段階でやっていらっしゃるんですよねえ……」
「命をいただく、ということを実感しますね」
「頼ってもいいですか?」
「それは……いい気持ちになります」
「じゃあどんどん頼っちゃいます」
微笑むカグヤさんはといえば、ピーラーで野菜の皮を手際よく剥いていた。
広めのシンクで包丁を手に、軽快に千切りにしていく。
あら汁、白身のあんかけ野菜。豆腐の白合えにひじき煮。味噌汁はジャガイモとネギだった。七味が振ってある。
二人で向かい合って手を合わせた。いただきます、と言って食事にうつる。
どれも美味しい。彼女の料理の腕は高い。私も実家を出る前に母に厳しく料理を叩き込まれたおかげで、母がいなかった頃の料理の積み重ねもありそこそこできるのだが、それでも彼女には及ばない。
しかしカグヤさんも抜け目なく、私が料理をやる流れを率先して作っているし、
「やっぱりさばく技術が高いと魚もおいしく感じますね」
幸せそうに微笑みながら褒めている。
母の言葉を実感するな。褒められると、いい気持ちになって頑張ろうという気にもなる。
「あなたの調理の腕が素晴らしいからですよ。まだまだ精進しないといけなそうだ」
「包丁さばきはシュウさんに敵いませんよ?」
「それはどうも」
笑い合う。
今夜は酒がない。出ているときは彼女からのお誘いの印であり、そうでなければ今夜はゆっくり眠ろうという合図でもある。
構わない。わかりやすい記号があるのは助かる。
「今日は特にお疲れですよね。お酒をお出ししたら、潰れてしまいそう……侍の仕事が厳しいのですか?」
思わず苦笑いが出た。
「ええ、まあ……見込んだ愛弟子が、三日三晩徹夜で災害をおさえてくれたのでね。年少者に無理を強いたのに大人が何もしないわけにはいかない」
「むしろ……お飲みになりますか?」
慈悲の籠もる瞳に頭が下がる。
「いえ。若い世代が乗り越える準備をしている。どうやら今回、災害の打倒においては大人の出番はそうはなさそうなのでね。せめて災害の通り道に住む人々を守るためにも、今日はゆっくり休みたい」
「そう……」
「あなたのそばにいられたら、それだけで気持ちも安らぐ」
「まあ、お上手ですね」
彼女はそっと立ち上がった。冷蔵庫に向かう背中を見つめていると、ワインボトルを取り出した彼女は笑った。
「やっぱり、お飲みになった方がいいですよ。気ばかり張り詰めていては、大事なところで足下をすくわれるもの」
「……手厳しい」
「なら、手厳しい現状に任せてもう一つ。もっと……もっと、おそばにいたいです」
「せめて夜を共に、と?」
「はしたない女はお嫌いですか?」
「……お互いに、もういい年だ」
「なら」
「一杯で済めばいいが」
「お強いところを見せてください」
微笑む彼女に頷いて、ワイングラスを取り出す。
これも或いは戦いの前の準備に他ならない。
巡り合わせに感謝をしながら、彼女にグラスを差し出した――……。
◆
翌日、局の会議室に通されて、城戸さんに名前を呼ばれた。
「青澄さん? どうかしましたか?」
「あ、いえ、えっと……」
田所局長さんとか、他にも局の偉い人が目の前に勢揃い。
マドカが提案した企画書と一緒に、城戸さんが提案した企画について説明を受けていたの。
だけど頭に入ってこない。手元にある城戸さん作成の企画書にはこうある。
『士道誠心学生生活、青春恋愛ドラマ企画。主演、青澄春灯』
まばたきして、目をぎゅっと閉じてから見直して、だけど何度見直しても変わらない。
主演、青澄春灯。
企画書をめくってみると、誰からどう漏れたのかな。
私の四月からの学生生活について簡単にまとめられていた。このご時世に長期クールで……そんな無茶な挑戦だからこそ、お偉いさんが集まって私を見つめているのかもしれない。
だからって、こんな。いきなり無茶ぶりされて、乗り越えられるとは思えないよ!
『おいしい話じゃのう。まさに勢いじゃ。一気呵成に攻めるのじゃなあ!』
だからって、歌手でもまだまだなのに、ドラマの主演とか!
『誰にだって初めてはあるものじゃし』
……そ、そうだけど。
『初めて出演する連中がすべからく最高とも限らん。むしろ目を覆いたくなるような人間も山ほどおったじゃろ』
……それについては黙秘します。
「青澄春灯さん」
名前を呼ばれて顔をあげた。局長さんが私を見つめている。
「山吹マドカさんのご提案の企画も、うちの城戸の提案にしても……前向きに検討するべきか迷っています。ですからあなたの意見を聞きたい」
「は、はい」
そばに控えている高城さんの鼓動が揺れる音がようく聞こえる。
狐耳はしっかり周囲の音を捉えている。
城戸さんは高城さんと同じでどきどきしている。対して……局長さんは穏やかそのもの。
横にいるおじさんたちと違って、まるでソウイチさんのように落ち着いている。
気持ちは固まっているのかもしれない。何かを既に決断していて、これは確認のターンなんだ。
深呼吸をした。
「テレビの仕事が本格化して……より脚光を浴びることになって。歌手活動でも十分すぎるほど生活は変わったでしょうが、これからはそれ以上の変化が起きるかもしれない」
試すよりもずっと。
「あなたは……それでもやりたいですか?」
知りたがっていた。私の気持ちを。
手元にある企画書に視線を下ろした。
士道誠心について……その学校生活について知らせるドラマ。
楽しんでもらうためにあれこれ脚色されるだろうし、私の歩みを選択されるかどうかもわからない。
けど……考えてみた。
私が伝えられることがもっとあるかもしれなくて、それは……私の歌手活動を応援してくれている子のように、誰かに届けられるかもしれない。なら。
「やります。やりたいです。アンチは既についてますし、それでも……ファンになってくれる子も確かにいました。私は……士道誠心を、私にできる可能性を広げていきたい」
私の答えに満足したのか、局長さんは立ち上がった。
「わかりました……城戸ちゃん。進めていいよ」
あわてて城戸さんが立ち上がり、頭を下げる。
局長さんは私に目礼して、部屋を出て行く。
ぽかんと見ていたら、城戸さんがガッツポーズを取った。
大人の本気のガッツポーズなんてそうそう見れるものじゃない。
あわてて高城さんを見たら、笑っていた。
「どうやら、でかい仕事が決まりそうだ」
「……じゃあ?」
「今週はまさにお祭り騒ぎになるぞ?」
その言葉に昂揚しないわけがなかったのです――……。
つづく!




