第三百七十三話
胸の内にいるエンジェぅは離れたまま。
現世でツバキちゃんに翻訳してもらったり手伝ってもらいながら、私の伝えたいことをかつての自分のノリに変換していく。
その作業を順調にこなせたかっていうと、そんなことはない。
ツバキちゃんはトシさんが持っていったノートの中身についてちゃんと把握していたし、私がトシさんと二人で戻った時点で顔を真っ赤にしていたから。
愛の告白は受け取った。お互いにそれがわかってしまった。
でも遊びに来ているわけじゃないことは、ツバキちゃんも私もちゃんとわかっていたよ。
韻の踏み方からなにから、バンドメンバーの三人に指導されながらお勉強。
明言しちゃう。
私への指導は明らかに難易度が下がった。言いたいこと、伝えたいこと、想っているすべてを素直に書き出すっていう……そういうハードルに下がったの。
私が書いて、ツバキちゃんが直す。それをみんなが指導する。
ツバキちゃんへの指導は本格的だ。っていうか私が最初に受けていた頃よりも厳しい。なのにツバキちゃんは笑顔で挑戦していく。
わかっちゃった。ツバキちゃんの方が向いていて、三人ともそれがわかって熱が入っているんだって。
なによりツバキちゃんのガッツがすごい。
トシさんの激しい反応もナチュさんの笑顔の責め苦にもめげたりしない。
――……そんなツバキちゃんを見ていたら、考えずにはいられない。
私の心はツバキちゃんに受け継がれているんだ。ツバキちゃんの中に宿っているんだなって。
そっと離れたらカックンさんがペットボトルをくれた。水みたいな果物の清涼飲料水だ。
「あげるよ」
「……ども」
蓋を開けてちびちび飲む。
それからカックンさんを見た。何も持たずに何とも言えない顔でツバキちゃんを見てるの。
「……カックンさんは、ツバキちゃんスルーです?」
「そういうわけじゃないんだけど。まだあの子のこと、よくわかんないからさ」
「どう接していけばいいか、わからないとか」
「アイドルにあるまじき状態ですよ……マジで。見た目は百パー女子だよ。胸もちょっとあるよ? なのに、性別は俺と同じってなに。俺はどうすればいいの? デラックスとかマングローブなノリじゃないよ、あれは。どう見ても違うよ?」
「あ、あはは」
笑ってみせたけど、から笑いでしかない。
「まあ、でも……必死だし、一生懸命だし。どんなにきつく言われても折れない。強くてすげえいい子なのは、わかるよ」
「――……うん」
折れない。そんなのまるで、私の信条そのものだ。
「俺、人は褒めた方が伸びると思ってる。けど……褒めるのもタイミングがあって、ただ甘やかすだけじゃ意味ない時があって。叱るべき瞬間がきっとあるんだろうなって思うんだけどさ」
ポケットに手を入れたカックンさんは、長いため息を吐いた。
「俺はそういうの苦手だわ。トシさんのは傍から見て怒ってる感じだし、ナチュさんのは」
「責めてる」
「それそれ。だから二人が疲れたら行こうと思ってる」
「ふうん……役割分担、できてるんですね」
「春灯ちゃんもサポートしてあげてよ?」
「もちろんです」
頷いた。頷かない理由なんて、一つもない。
「がんばりを認めるのって大事だし、それ以上に能力に気づいてすごいって言える力は大事だ」
しみじみと言っているの、ほんとうにどうかしたのかな。
「カックンさん、凹みターンです?」
「あの二人に比べたら、マネージャーにおだてられて調子に乗って気づいたらどん底になってた俺ってまだまだだなあって」
やっぱり凹みターンなんだ。なら、
「だいじょうぶですよ」
笑い飛ばしてやるんだ。
「私に力を貸してくれてるし、状況を見て自分がどうするべきか考えているし。カックンさん、ちゃんと素敵ですよ?」
「……染みるなあ。春灯ちゃんに彼氏がいるのが、たまに憎らしいよ」
「またまたあ。男性アイドルやれる容姿が素敵に見える内面。引く手あまたなんじゃないですか?」
「そういうのに手を出したらすっぱぬかれて酷い目にあうんだから。世知辛いよ」
「とかいってー。抜け目なく彼女いたりして」
「いても絶対いわないからね」
笑いながら二の腕べしべし叩いて笑う。
「正直に言えば……いまんところ、縁がないんだけどさ」
おどけて肩を竦めると、カックンさんはツバキちゃんたちを見た。
トシさんがソファに身体を沈めて、ナチュさんが席を離れたの。
「頃合いだ。行ってくるから帰りは任せた」
私の背中をぽんと叩いて、カックンさんがツバキちゃんの元へ歩いていく。
いまの私たちはチーム。前に進むためにまとまっていく。できることはなんでもしないとね。
◆
あまり遅くならないうちに事務所から高城さんの車で学校へ戻る。
ツバキちゃんは中等部だから敷地内の寮じゃない。とはいえ帰りに中学生をぽっと送り出すわけにもいかないからね。高城さんの車で帰ることになったの。
わがままを言って後部座席で二人で座った。
ツバキちゃんは私の楽曲データの入ったスマホに、一心不乱に文字を打ち込んでいた。
こうして見ると、集中力が物凄い高い子なんだってわかる。
最初は何度か声を掛けようと試みたけど、夢中なの。
そして――……不意に電池が切れたみたいに頭がかくんと揺れた。
あわてて抱き留めると、目を回していたの。頭がすごくあつい。放っておけなくて、私の膝で申し訳ないけど枕にして寝てもらう。
「だいじょうぶ?」
すぐに返事はこなかった。遠慮して身体を起こそうとしたけれど、耐えきれずに膝に頭を預けてくる。
「ごめんなさい……」
「なんで? いいよ……気を遣わなくていいからね」
これがクラスの男の子とか、ラビ先輩たち大好きな先輩たちでもきっとしないけど。
ツバキちゃんは特別だからいい。
「……ボク、力になりたい」
私の心配が不安に繋がっちゃうのか、だからここで見捨てるなんて言わないでって訴えるような声で言われちゃった。
「うん。なってくれてるし、これから先もずっとそうだよ。ツバキちゃんがそれでいいなら」
「……うん」
縋るように腰に腕を回されて、抱きつかれる。
いやじゃない。ちっとも。だってツバキちゃんだもん。
――……昔の、私だもん。
いやなわけがないよ。
背中を撫でて、落ち着くのを待つ。
「ずっと不安にさせちゃって、ごめんね」
頭を振られた。
「特別だからさ。だけど強いから、甘えちゃってた」
「……その方が、ボク……嬉しいよ」
やっぱり声は必死なまま。
高城さんがどうする? って聞くように、ミラー越しに私を見つめてくる。
だから伝わるように微笑んでみせた。
「ツバキちゃんには、誰かを照らせる力があるの。それはきっと……すごく素敵な、天からの授かり物だと思うんだ。私はその力に、何度も何度も助けてもらってきたよ」
背中を撫でる。ちっちゃなちっちゃな迷子の背中を。
「でもね。つらいとき、つかれたときは休んでいいし、もういやだって言っていいんだからね?」
「……エンジェぅのためなら、がんばる」
「そうだね――」
さあ、難物だぞ! って思った。
次いで、なんでそう思ったか考えてみて気づく。
がんばるがんばるって張り詰めて、自分の限界を超えたら折れちゃうんだ。
去年の五月のシュウさんがいい例。カナタだって同じ。私だって何度もそういう瞬間に心がくたびれてきた。
だけど、がんばらなくていいんだよっていうだけじゃ伝わらない気がする。
相手に届けるために言葉を選ぶ。それってなんてむつかしいんだろうね。
「じゃあ、約束して? ……ツバキちゃんと私だけの、約束。いい?」
「……なあに?」
何を言われるのかわからないのが怖くて身構える心が、ツバキちゃんの揺れる瞳の奥に見える。縋るように見上げる子供の顔を見つめながら、言うの。
「もうがんばれないぞって時になったら、折れちゃいそうになったら……がんばらないで、私と一緒に休もう」
「……休む時間、ないのに?」
「だからこそ休むの。つらいときは休んでいいし、甘えていいの。元気がでたら、お仕事しようよ。私は……ツバキちゃんが私のためにつらくなるのは、いやだな」
「……ん」
「約束できる? 破ったらほっぺたむにむにするよ?」
こんな感じに、と笑ってツバキちゃんのほっぺたを撫でる。
くすぐったそうにはにかんで笑って、ツバキちゃんは頷いてくれた。
「……ボク、約束する」
「うん。いいこ!」
トウヤにするように、ツバキちゃんを抱き締める。
私への愛情へ向かう手前に恋があるのなら、それは残酷に過ぎるけれど。
もっと純粋で切実なものだと感じたから、甘やかさずにはいられなかった。
――……もし。
もし、中学時代の私が自分と同じ世界観で自分より立派に優しく生きている人を見つけていたのなら。きっと求めずにはいられなかったはずだ。
その気持ちは容易に名前をつけられないに違いない。
まだまだ……ちっとも、頑丈じゃない。私も、きっとツバキちゃんも。
だから抱き締めずにはいられなかった。
胸に抱かれてツバキちゃんがぎゅっとしがみついてくる。
思っていたよりずっと華奢な身体だった。なのにその力は私を心の底から求める衝動に満ちていた。覚えがあるの。その衝動の正体を――……私はきっと、知っている。
顔に熱が灯る。けれど私が戸惑うよりもずっと早くツバキちゃんの肩が揺れて、嗚咽が聞こえてきた。
泣いた理由を最後までツバキちゃんは言わなかったけれど。
言葉にはできなかっただろうなあ。
運命は動いた。未来へ。どんなに理想に近づこうとも、変化は痛みも伴うもの。
へこたれそうなら……私はいくらでも泣いていいと思う。弱くていいと思う。明日がんばれるなら、生きるためなら……人は情けないくらいが、ちょうどいいよ。
◆
ツバキちゃんを送り届けて、助手席に移動する。
制服のカーディガン、胸元がぐっしょりで。ツバキちゃんはしきりに恐縮して、ご家族もそろって洗濯しますって言ってくれたんだけどね。辞退した。
洗濯くらい自分でできるし、私はちゃんと胸元を濡らした涙の意味を思い知りたかったから。
学園都市周辺を目指して高速道路を走りながら、高城さんが言うの。
「さすがに中学生を夜遅くまで拘束することはできないからね。今後はデジタル上でのやりとりが増えそうだけど……ナチュさんが足を運んで会いに行くって今日言っていたよ」
「……ツバキちゃんに期待しているんだ」
「見つけたのはナチュさんだからね。かなり気に入ってる……男の子だっていうことも含めて」
その言葉の含みに気づいて、長いため息を吐いた。
「私、ひどいですよね」
それだけで、高城さんは受け止めてくれた。
「移動中の話なら……必要だったし、これからも変わらないと思うよ。あの子にとって、春灯は救いなんだ」
「でも……私への気持ちの中には恋心もあるのかもしれない」
「そう思って抱き締めたの?」
「ううん……もっと、切実なものだと思ったの。信じた人の熱とか感触じゃないと救われないような、心が欠けたさみしさみたいなの」
「なら、やっぱり必要だったんだよ」
高城さんの横顔を見た。
「きっと、あの子はひとりで立ち上がろうとしている。春灯のために。なにより自分のために」
ちょっとだけ、嫉妬した。
「私よりツバキちゃんのこと、わかるんだ」
「ああいう背伸びには覚えがあるからね」
笑ってから、道路の先を見つめる目つきが遠くなった。
「だけどつらいし、それを誰より……春灯がわかってくれると、甘えちゃうんだよ」
「……私、だめだったかな」
「いいよ。あの子が折れる方が困るし……結果的にひとりで立てるようになるのなら、過程はどんな形でもいい。まあ、騒動になるようじゃ困るけどさ」
快活に笑う高城さんは頼もしい。
「過程、どうでもいいの?」
「大事なのは結果だって言い切ると、少し語弊があるけどね」
確かにそんな風に言われちゃうと、苦しい。
「どんなに情けなくてみっともなくても、しかるべき人にしかるべき頼り方をして達成すればいいし、失敗を積み重ねてもいい。結果を手にしてみんなで笑えるよう、積み重ね続けさえすればね」
大人の意見だなあ、と思いながら聞く。
「……失敗しても、いいんだ」
「むしろ人生は失敗の連続だ。挑戦する人生には失敗がつきものだよ」
「言い切っちゃうんだ?」
「ああ。でも……春灯のお父さんが言っていたんだろう? 一つでも大当たりするまで頑張るって」
「……うん。酔っ払うとよく言うの」
「それは真理だよ。だめだったって諦めたりしない限り、その失敗は成功に繋がるんだ。失敗を失敗で終わらせない限り、それは成功に変えられるんだよ」
「――……名言っぽくいって」
ふくれ面を見せずにはいられなかった。
そうしないと、いまさらさっき私の胸元でツバキちゃんがこぼしていた嗚咽にもらい泣きしそうで。
「まあ……ドームで大失敗やらかさないように、山ほど準備がいるわけで。それはテレビも他の仕事も一緒なんだけどね」
「わかってます。がんばるよ――……ううん、ちがうね」
頭を振って、胸元に残る濡れた感触に触れながら呟く。
「やりきるよ」
折れたりしないし、逃げたりしない。
私の心はもう――……ドーム公演に向かっている。
それでも、さっき感じた身体の輪郭を思いながら私は思わずにはいられなかった。
ツバキちゃんだったから、よかったけれど。
ううん、違うな。
特別すぎるツバキちゃんと抱き合った。もしその瞬間に特別な何かを感じていたら?
疑問系にしてごまかすのは、やめよう。
――……知っている。
許しを求める熱の強さを、抱き締める腕が求める答えを私はもう……知っている。
硝子に映りこむ私の顔は不安に曇っていた。
士道誠心に入らなかったら、きっとわからなかった。
ルルコ先輩がメイ先輩に向けた気持ち。シオリ先輩のコナちゃん先輩への気持ち。マドカが私に向けてくれる気持ち――……。
自分を認め、救ってくれる存在への剥き出しの感情。
求められていた。存在を。すべてを。
メイ先輩はルルコ先輩に応えたよ。シオリ先輩については何も教えてもらっていないけど。マドカは気持ちを一端、答えが出るまで胸に秘めることにしたみたい。
私は知らずにいる。
その感情への答えの出し方を。
誰より最初に、誰より一途に近づいてきた子が……私にとってのはじめてになるんだ。
ツバキちゃん。
己を貫く己の邪の刃のように、受け入れたいと思った。
私を愛して、一途に思ってくれた子。かつての私そのもの。
愛さずにはいられない。
中学生時代の自分と違うのは、ツバキちゃんにとっての私は……私にとってのエンジェぅで。存在の有無であり、自分か他人か。それに尽きた。
触れられてしまうのだ。
自分じゃなく、はっきりと存在する他人なのだから。
ツバキちゃんに抱きつかれた時に自覚した顔の熱は、実はちっとも引いてくれない。
戸惑う。
思い返せばそんな歴史の積み重ねだったのかもしれない。
ギンと一緒に寝たあの時から、自分を救う存在を心から求める人の熱情を知って、私は今日までやってきた。
恋でないのなら。
けれど触れずにはいられず、求めずにはいられないのなら。
その感情に、私はいったいどんな名前をつければいいんだろう。
「――……はあ」
わかりそうにないんだ。ちっとも。
縋るように首元のチョーカーに左手で触れる。
硝子に反射して、左手の薬指に嵌めた契約の印が煌めいた――……。
◆
コートを脱ぎながら部屋に戻って、カナタと見つめ合う。
私の顔を見ただけで何かがあったんだと察しちゃうから、つくづく思う。
昨日はカナタ、今日は私。お互いに隠し事ができない。
勉強をしていた手を止めて、ソファに座り直すカナタの隣に腰掛けた。
今日起きたできごとを話したの。私の名前で書いた詩、車でのこと……ぜんぶ。
カナタはずうっと黙って聞いていた。
怒らないし、嘆いたりしないし、不機嫌になったりもしない。
寄りかかる。嫌がられたりしないで、受け止めてくれる。
実感する。本当に……何が起きても味方でいてくれようとするんだ。そのありがたさを実感せずにはいられない。
ずうっと身体を預けていたら、カナタが呟いた。
「……少しだけ、妬けるな」
「え……?」
「春灯の歌詞の役目は他の誰でもなく、ツバキが適任だと思うから」
「……エンジェぅもいるよ?」
「かつてのお前自身がやるよりも、それに憧れて……救われたツバキがやることに、俺は意義があると考えるよ」
そっかなあ、と呟いて……そうだね、って納得しちゃう。
抱き寄せられて、二人で時間を過ごす。
誰より心身ともにそばにいるのはカナタだけど、誰より私の夢の近くにいるのはツバキちゃんだ。
間違いないの。それだけは。
「したいようにしていいからな。きっとそれが……俺たちにとって、一番いい答えになると思う」
「……ん」
頷いた。けど喉がちくちくと痛む。
「いろんなことが起きるね。仕事をはじめると」
「まだまだ序の口なんじゃないか? テレビの仕事もまだまだ本格化してないだろう?」
「……そうなんだよね。ネット配信の番組もまだまだ収録はいってくるからなあ」
呟いて、そっと立ち上がる。
カーディガンを脱いで、ブラウスのボタンに指を当てた。
視線を向けたのは箪笥。白い胴着が入っているところ。
「なんだか、身体を動かしたい気分。邪討伐も控えているのに、体育以外で動いてないの落ち着かないや」
「一戦まじえるか?」
戦いになると途端に前向き。あまあまには腰が引けるのに。まったくもう、侍なんだから。
壁にそっと立てかけられている二振りの刀を手にとって、流し目を送る。
「カナタ強いからなあ……」
「手心は加えないぞ」
「むっ」
ちっとも反応なし。まだまだタマちゃんスキルの獲得たりてない。
「じゃあねー。鬼ごっこがいいかな」
「うちの学校の恒例行事じみてきたな」
「カナタのうちでもやってるもんね。私がにげるから、カナタが捕まえて? 制限時間は十分」
「……すぐに勝負がつくと思うが」
自信家っていうんじゃない。実際、勝率で言えば私の方が断然低い。
そんなのわかりきっているけど、それでも敢えて私は仕掛けることにした。
「勝ったら……心を繋いで、相手にお願いごとするの。相手は言うことを聞く。どう?」
切り出すの。
嘘がばれるどころか、ごまかしようのない状況にしてからの……おねだり。
味方でいてくれようとするカナタがもし無理をしていたら、いやだから。そんなわがまま。
どう答えてくれてもいい。
ただのど元のちくちくをどうにかするためには、行動しかないと思ったの。
カナタの答えは――……
つづく!




